練馬区 23 (18/10/23) 上石神井村 (4) 立野町

上石神井村 立野町 (たてのちょう)

  • 井口家屋敷林
  • 立野公園


立野町は飛び地でほとんど全域が農地で民家は千川上水に二ヶ所しか小さな集落がなかった事からか、史跡は紹介されていない。関町南のすぐ南にあり、関町南を巡っている途中で訪れた。


上石神井村 立野町 (たてのちょう)

練馬区の最南部に位置し、東部は杉並区上井草に、南部は杉並区善福寺、練馬区立野町、武蔵野市吉祥寺北町/市緑町に接する。西部は西東京市東伏見に、北部は練馬区関町北、関町東、上石神井、上石神井南町に、それぞれ接している。北部は千川上水が東西に横断している。吉祥寺通り沿いに商店が見られるが、主に住宅地として利用されている。

江戸時代は現在の練馬区上石神井一丁目・四丁目にあった本村の飛び地で開墾地だった。本村と同様に立野と呼ばれていたが、現在の飛地の方だけが立野町として残った。江戸時代の上石神井村の小名立野の飛地と、武蔵国豊島郡関村の小名関原 (せきっぱら) に相当する。1889年 (明治22年) に町村制施行により関村と上石神井村は東京府北豊島郡石神井村大字関甲と上石神井となっている。立野町はその中の大字関甲字須崎および大字上石神井立野飛地にほぼ相当する。1932年 (昭和7年) に東京府東京市板橋区石神井立野町となっている。1949年 (昭和24年) に石神井立野町が東京都練馬区立野町となる。1984年 (昭和59年) の住居表示の実施され、関町四丁目の一部が編入されている。

昔は「タチノ」または「タツノ」と呼ばれていた。後撰集藤原忠房の歌「秋霧の立野の駒を引く時は 心にのりて君ぞ恋しき」と詠われた武蔵国立野の馬牧 (うままき) にちなむ地名という。1984年 (昭和59年) の住居表示が実施されている。千川上水緑道のはずれに、かつては千川上水に立野橋があり、かつての本村がこの付近にあったという。立野の地名の起こりはこの辺りと思われる。
江戸時代から戦前まではほぼ全地域が畑地帯で、民家は立野町北側を流れる千川上水沿いに二つの集落があるだけだった。戦後、住宅地が立野町の南部に開発された次第に北に広がっていった。現在ではほぼ全地域が住宅地となっている。
立野町の人口が増加するには戦後で、高度成長期には高い人口増加率を示している。その後も継続的に緩やかに人口は増加している。現在でも世帯数は増加傾向は続いているが、少子化で人口は横ばい傾向となっている。
この立野町は小さな地域という事もあり、練馬区の中では5番目に人口に少ない地区になる。


練馬区史 歴史編には立野町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は記載がない。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: なし
  • 庚申塔: なし  馬頭観音: なし


まちづくり情報誌「こもれび」- 立野



井口家屋敷林

関町を訪れた際に、昔は井口家が名主として勢力を持っており、井口家ゆかりの史跡があった。ここにも井口家屋敷跡がある。名主だった井口家と関わりがあるのかは不明だが、関町や大泉南地域には井口姓が練馬区の中でダントツに多い。この辺りがかつての関村関原 (せきっぱら) にあたるのだろう。明治時代の地図ではこの辺りに集落が見られる。練馬区内でも貴重な武蔵野の屋敷林として当時の特徴を保っており、落葉樹のケヤキ、千川上水沿いの土留めの竹林や防風林のシラカシのほか、ヒイラギなどの生け垣が災害や魔除けとして屋敷を取り囲んでいる。 2009年 (平成21年) に区の登録文化財に指定されている。

立野公園

井口家屋敷林の南には立野公園がある。元々は中央大学吉祥寺野球グラウンドだったのだが、中央大学の八王子市移転に伴い、その跡地を利用し開園した公園になる。

1992年 (平成4年) に中国北京市海淀区と「友好・協力交流に関する合意書」に調印した縁で碧桃樹の苗木が贈られ、それを記念して桃花源という中国式の庭園も造られている。

参考文献

  • 練馬を往く (1983 練馬区教育委員会)
  • 練馬区史跡散歩 (1993 江幡潤)
  • 練馬区の文化財 指定文化財編 (2016 練馬区地域文化部)
  • 練馬区史 歴史編 (1982 練馬区)
  • 練馬区史 現勢編 (1981 練馬区)

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