Okinawa 沖縄 #2 Day 229 (20/12/22) 旧首里三箇 (1) Shuri Torihori Area 首里鳥堀町

旧首里三箇 (シュイサンカ) 鳥堀町 (とりほり、トゥンジュムイ)

  • 大角座 (ウフカクジャー)
  • 按司龕の前 (アジゴウヌメェー)、鳥堀町公民館
  • 鳥小堀村学校所 (学習館) 跡
  • 新橋 (ミーバシ)
  • 咲元酒造 (サキモトシュゾウ)
  • 水庫裡 (ミジグイ)
  • 国王頌徳碑 (カタヌハナヌヒムン)
  • 鳥小堀瓦屋(トゥンジュムイガラヤー)
  • 瓦屋井戸 (カラヤーガー)
  • 風水毛小 (フンシーモーグヮー)
  • 弁ヶ岳 (嶽)
  • 弁ヌ大嶽 (ビンヌウフタキ)
  • 辨天負百津姫神 木龍字具志久乙姫
  • 王弁之井戸 (ビンヌガー)
  • 弁ヶ岳トーチカ跡
  • 弁ヌ小嶽 (ビンヌコタキ)
  • 斎場御嶽遥拝所 (シェーファウタキウトゥーシ)
  • 沖縄神社
  • 火ヌ神 (ヒヌカン)
  • 弁ヶ岳公園
  • 向氏川平 (カビラ) 家の墓
  • 火立毛 (フィータティモー、狼煙台跡)

今日は12月14日に訪れた棚原集落の残りの文化財を巡るのだが、棚原集落へ向かう途中にある首里鳥堀町に立ち寄った。棚原集落の訪問記は12月14日のレポートに含め、ここでは首里鳥堀町のレポートとする。今回が首里地区の集落巡りの第一回になる。首里にある文化財を紹介した良い資料がほとんどなく、後回しにしていたが、ようやく資料が見つかったので、それに沿ってめぐる。今日は自宅から一番近い首里鳥堀町の散策とする。

旧首里三箇 (シュイサンカ) 鳥堀町 (とりほり、トゥンジュムイ)

首里三箇 (しゅりさんか) は、赤田町、崎山町、鳥堀町の三つの町の事で、琉球王国時代に首里王府の命を受けて、泡盛の製造を許可された地域を指している。首里三個とも書く。首里三箇は首里城の東方になり、北東の弁ノ獄から北西の虎頭山、南東の御茶屋御殿から雨乞台地を経て崎山御嶽まで三方向が高台に囲まれた凹字形で、その中に平地の三箇盆地にある。盆地地形は西に傾斜しており、水は西方向に流れ、この地域は水に恵まれていた。鳥堀町はこの首里三箇では東に位置する地域となっている。
現在の鳥堀町は琉球王統時代は鳥小堀 (トゥンジュムイ) と呼ばれていた。鳥堀と汀良町の境界辺り (首里駅付近) は凹地で、中南部の最高峰165m余りの弁ケ岳を水源とする嶺間川が流れ、大湿泥地で大小の池沼があったそうだ。真和志の魚小堀、当蔵の蓮小堀、この 鳥小堀と西から東へと「クムイ (池沼)」 名称が残っている。トゥンジュムイとは、泥地の「トンダ」と沼地の「コモリ」の合成語が訛った「トゥンダダムイ」からの変化したと考えられている。伝承では、鳥小堀は三箇田圃の北よりに青く たたえた堀があり絶えず水鳥が浮いていたのでその名になったともいう。第一尚氏が首里に都した時に、この三箇を美田に開拓し、発展していった。


首里鳥堀町の人口は1880年 (明治13年) では、3,156人で首里の中では最も人口の多い地区だった。2020年末現在は4011人で石嶺町に次いで2位となっている。沖縄戦で他の地域と同様に人口は激減しており、戦後、明治時代の人口に戻ったのは本土復帰直前の1971年だったそれ以降順調に人口は増加し、1986年には県営鳥堀市街地住宅が五丁目に建設され、更に人口は増えていった。近年は世帯数は増加傾向にあるが、人口は微減傾向になっている。

2020年末の首里区内での人口は以下の通りで、首里鳥越町人口は石嶺町に次いで2番目で首里区全体の8.1%となっている。とはいっても、首里区では首里石嶺町が総人口の38%も占めており、他のどの地域も人口は少ないといってよいだろう。

首里鳥堀町の民家の分布変遷を見ると、戦前までは地域の西側で現在の一丁目と二丁目に集中し、本土復帰以降に北東の現在の四丁目に広がり始めている。本土復帰以降は現在の五丁目に住宅地が開発され、かつての中心地だった一丁目と二丁目は人口が減少し、四丁目が最も人口が密集している。

首里鳥堀町訪問ログ


一日橋がある上間交差点から、県道82号線 (那覇糸満線) を登って行き、赤田交差点に着く。


大角座 (ウフカクジャー)

赤田交差点に史跡案内板が置かれていた。ここは道が何本も交差していたので、沢山の角のある所とか、道が大きくカーブしている形状を大きく張った顎 (カクジ) にみたてて大顎 (ウフカクジャー) と呼ばれ、その当て字の大角座となった。現在でも六本の道路が交差し交通の要所となっている。琉球王統時代、この大角座は、首里から与那原、南風原、弁ヶ嶽方面に向かう道が分かれる三叉路で、大角座からわずかな所に「赤田御待所 (アカタウマチドゥクル)」があり、東御廻りなど遠方に出かけた際の坂迎 (サカンケー、迎接) の場所だった。1879年(明治12年) の沖縄県設置 (琉球処分) 以降に、与那原方面の里道 (現市道鳥堀南線) が開かれ、1930年 (昭和8年) 代に首里~与那原県道延長で四本交差となり、1933年に首里2号線 (現市道鳥堀石嶺線) 開設で五本交差となった。沖縄戦後、米軍戦略道路 (現在の那覇糸満線) が汀良町から伸びて六つ辻になった変遷がある場所。

按司龕の前 (アジゴウヌメェー)、鳥堀町公民館

大角座 (ウフカクジャー) から鳥堀石嶺線を汀良交差点方向に少し進んだ所に鳥堀公民館がある。この鳥堀町公民館の敷地は按司龕の前 (アジゴウヌメェー) と呼ばれていた場所で、18世紀以降と思われるが、かつては、葬送の際、棺を納めて幕へ運ぶ龕 (ガン、ゴー) などの王府の葬具収納庫があった。

鳥小堀村学校所 (学習館) 跡

大角座から県道82号線 (那覇糸満線)を鳥堀交差点に進み、バス停前の花屋店舗の裏手一帯には、首里王府時代に鳥小堀村学校所 (学習館) が置かれていた。1835年 (尚育1年) に西平筑登之親雲上守信がこの村学校に為、屋敷地を寄贈し、学習館として学校所が開校した。明治6年には生徒数は137名在学していた。明治19年の首里小学校の新設で廃校となっている。

新橋 (ミーバシ)

更に道を進み鳥堀交差点に出る。ここから龍潭通りへ向かう場所には、1680年 (尚真12年)  に石造りのアーチ橋が架けられた。 昔からこの辺り一帯は、大雨のたびに川が氾濫し、往来に困ったため、尚貞王の命で 今帰仁按司らが架橋を建造した。 球陽に「石を築きて橋を為らしむ。之を名づけて新橋という」 と記述されている。

咲元酒造 (サキモトシュゾウ)

鳥堀は赤田、崎山とともに、王府に泡盛製造が許可された所で、 首里三箇と呼ばれていた。この辺りは天然の水に恵まれ、水田稲作が盛んだった。三箇には人が集まってきて稲田が減少し、首里の穀倉としての三箇の農業形態が崩れていった。この頃に、三箇の住民が米を材料にした泡盛の製法をタイ国産ラオロンに習い、生計の道を立てるべく、活路を見出した。三箇の水は石灰分に富み、泡盛麹黴の発育に適していた。王府時代を経て明治以降も多くの酒造所がこの地に作られていた。 日清日露の両戦役を契機に泡盛の需要要が爆発的に上昇し、昔の水田の黄金の穂波は林立煙突と化し、琉球松はことごとく枯れてしまった。各家庭の洗濯物も煙突から出る煤で汚される事態をまねいていたが、民衆はこれによく耐えて不平をいう者はほとんどいなかったという。鳥堀交差点から住宅街に入ったこの場所にあった咲元酒造も、明治34年に創業された鳥堀の泡盛老舗で、赤田の識名酒造、 崎山の瑞泉酒造などとともに首里三箇の伝統を継承している。現在ではこの咲元酒造も含めて、殆どの泡盛蔵元は移転している。跡地にはその記念碑と門、看板が残されている。

水庫裡 (ミジグイ)

咲元酒造の通りの道沿いには井戸跡が保存されている。水庫裡 (ミジグイ) と呼ばれ、王府時代、この近くにあった首里大あむしられの神殿の首里殿内 (現在の赤田クラブ) 用の井戸だったと考えられている。この辺りが琉球王統時代から戦前まで集落が形成されていた地域になる。

国王頌徳碑 (カタヌハナヌヒムン)

鳥堀交差点から龍潭通りを進み首里城への上ヌ毛入り口の場所に石碑が復元されている。この場所はカタヌハナ入口、農協前のカンジャービラ向かいの俗称で呼ばれ、1543年 (尚清17年) に建立され、碑の表はひらがなの琉球文、裏はその漢訳で尚清王代 (1543年) に弁ノ獄への石畳道を完成し、松並木を仕立てたという記録が刻まれている。当時は、国王が拝する聖地だった弁ヶ嶽への参詣道は雨天泥土だった。それを往来しやすいように石敷道に改修し、道沿いに松並木で暑い夏場でも涼しく通行できるよう整備したという。

ここから国王頌徳碑にある弁ノ獄に向かう。残念ながら石畳道は現在では残っておらず、その雰囲気は消滅してしまっている。


鳥小堀瓦屋(トゥンジュムイガラヤー)

県道82号線の東側には瓦屋 (ガラヤー) と呼ばれた瓦を焼く窯があった場所になる。第一尚氏時代の首里城跡から出土される古い大和風一枚造り灰色瓦はこの鳥小堀瓦屋の古窯で焼 かれたものでないかと推測されている。察度王による浦添から首里への遷都後 (1360年前後)、瓦の多くはこの鳥小堀古窯で焼かれたものとも言われている。その後、材料の粘土の枯渇により、この鳥小堀瓦屋はその役目を終え、第二尚氏初期に山川瓦屋にその役目を引き継いだとされている。現在は住宅地となっているが、古い地図では戦前までは民家は見当たらず、瓦屋がに山川に移った後は衰退したのだろう。

瓦屋井戸 (カラヤーガー)

鳥小堀瓦屋 (ガラヤー) の古窯の働き手たちが使用した井泉が民家の庭に残っており、現在でも水は豊富に湧いているそうだ。この井戸は民家敷地内にあり、非公開で井戸自体は見ることができないのだが、資料に写真 (写真右) が掲載されている。この道は弁ヶ岳へ向う道でかつては石畳道として整備されていた。

風水毛小 (フンシーモーグヮー)

弁ケ岳に登る参道の右手に丘があり、風水毛小 (フンシーモーグヮー) と呼ばれている。風水と関係しているところから、このように呼ばれているのだが、どこに対しての風水の位相なのかも、その縁起についても不明だそうだ。弁ヶ嶽は首里グスクを中心にした風水によると玄武の位置に当たり、首里城の宗教的な東の守りを司っていた。更に冬至の日に弁ヶ嶽と斉場御嶽、久高島が一直線になると言われている事に関係しているのかも知れない。この小丘には幽霊話があるので、以前は葬列を止め、死者に最後のシマミー (高見=住 処の見収め) をさせた場所ではなかったかと推測されている。この場所は沖縄戦の激戦地で多くの兵士が戦死している。沖縄では有名な心霊スポットだそうだが、特にその様なものは感じられなかった。
風水毛小 (フンシーモーグヮー) の手前には県営鳥堀市街地住宅が、1986年 (昭和61年) 一棟 126戸、翌年には2棟 42戸が建てられ、5丁目の人口が急増している。

弁ヶ岳 (嶽)

道を登り切った所が弁ヶ岳 (嶽) で、本島中南部一帯の高峰で標高 165.7mになる。一般に「ビンヌウタキ」と呼ばれ、この峰全体が神体とされいた。戦前まで琉球松の大木が高く聳え立ち、王府時代から那覇へ入港する船の目標となっていた。かつては大嶽の背後の丘を登ると、那覇市や中南部一帯の町々、東 シナ海、 太平洋まで360度の全方位が眺望できたのだが、今は草木が生い茂り、視界を遮り当時の眺望は見れなかった。この岳の中には、弁ノ獄は沖縄五獄の一つに数えられる、大嶽、久高島遥拝の小嶽、斎場御嶽遥拝所の王国古来の三つの祭祀場が置かれた聖地だった。弁ヶ岳は沖縄方言ではビンヌタキと呼ばれ、琉球国由来記は中国語で「冠」の意味の「冕 (ビン)」 を当てて冕嶽と書かれていたという。ただ、この説には疑問もあり、アイヌ地名語の「川上」を意味するペヌからビンヌタキに変化したとの説もある。「川上の岳」を意味し、弁ヶ岳 (嶽) は金城川、安里川、 儀保川、真嘉比川、国場川の源流である事からもこちらの説が有力だそうだ。ただ、このアイヌ語を語源とした説についても、アイヌ語と沖縄方言は共通点があまり無く、この説も決定打では無い様に思える。

弁ヌ大嶽 (ビンヌウフタキ)

鳥小堀 (トゥンジュムイ) の最も重要なスポットが、弁ヌ大嶽 (ビンヌウフタキ) で、琉球王統時代には、尚清王が首里城から、弁ヌ大嶽までの参詣道を1543年に石畳で整備し、国王みずから、1月、5月、9月に御願に足を運んでいた。この大嶽は世界遺産となっている首里城の園比屋武御嶽石門を1519年 (尚真43年) に建造した八重山出身の石工の西塘により、同じ年に建立されている。弁ヌ大嶽では神名: 玉ノミウヂスデルカワノ御イベヅカサの威部を祀っている。「由緒正しい御氏の孵る泉」という意味だそうだ。琉球国由来記には「・・神来りて、降り遊ばるの霊地なり。 上は尚清王、大臣、公卿、大夫より、下は道俗、尊卑、男女、貴賎に至り、泰山や北斗の如く、これを仰ぎみる」 と記述している。また、この聖地は首里大阿武志良礼の拝所でもあり、1730年 (尚敬18年) に王府百官、国王のために祈福することを定めた聖地となっている。 この石門は1938年 (昭和13年) に国宝に指定されたが、沖縄戦で御嶽は破壊され、現在の大嶽は戦後、1954年 (昭和29年) に、ハワイの県人会や地元鳥堀の有志によってコンクリート造りで建てられたもの。
戦前の石積みの門の写真が残っている。18世紀初頭に作成されて平等 (ヒラ) で使用されていた首里の地図 (右上) には石門の前に拝殿と呼ばれる建物が描かれている。(左下)あったそうだ。右下はこの後見学する小嶽になる。
弁ヌ大嶽の門に横には拝所がある。
その上の方にも拝所があった。

辨天負百津姫神 木龍字具志久乙姫

弁ヌ大嶽の御願は再建さた門の前の香炉の場所で行われているが、元々はこの門の中に御嶽があった。門は鍵が架かっており中には入れない。と思っていたら、御願に来ていた地元のおじいが上に行く道がある事を教えてくれた。地元住民が持ち回りで掃除をしているそうだ。道は二つある。門の中から上に行く石畳の道を行くと、大きな祭壇があり、碑には「辨天負百津姫神 木龍字具志久乙姫王 天軸のろ神 辰のみふし」と書かれている。
辨天負百津姫神は龍神伝説の三代の十二支の辰にあたる。
辨天負百津姫神の拝所から道は上方に続き、そこにも拝所がある。更に上がって行くと道は途切れ、樹々で覆われて、それ以上先には進めなかった。
もう一つの道は、歩きやすい道になっている。大嶽の前は広場になっており、そこにも拝所があるが、詳細は不明。
道を登って行くと頂上に出る。草が生い茂っている中に二つの拝所が置かれている。一つには御先 (ウサチ) と刻まれている。何を祀っているのかは不明。

弁之井戸 (ビンヌガー)

弁ヌ大嶽に向かって左に弁之井戸 (ビンヌガー) がある。 弁ヌ大嶽の神名の「玉ノミウヂスデルカワノ御イベツカサ」を解いていくと、玉は美称辞で、ミウヂは「御氏」、スデルは「孵る」、カワは「井戸や側」を意味しており、「由緒正 しい御氏の孵る泉 (側)」となり、この弁之井戸との関連が分かる。

琉球王統時代には、国家の繁栄と五穀豊穣を願って執り行っていた儀式のお水取りに使用する水はここから汲んでいた。

この弁之井戸から少し上、弁ヌ大嶽への小径沿いにも小さな井戸跡がある。資料などでは触れられておらず、詳細は不明。

弁ヶ岳トーチカ跡

弁ヶ岳には沖縄戦の際、陸軍司令部が置かれた首里城の防御ラインの一翼を担うため、第32軍通信隊の監視基地として、弁之井戸のすぐ側にトーチカが設けられた。頂上には無線施設が置かれ、そこで受信した電信文を一中健児隊の少年兵が首里 城地下の司令部まで走り届けたという。このトーチカは戦争遺構として保存され、トーチカの壁には銃弾の痕が残っている。弁ヶ岳にあった日本軍陣地は米軍からは “Tom” と呼ばれ、米軍の攻撃標的となり激戦地だった。

弁ヌ小嶽 (ビンヌコタキ)

弁ヌ大嶽の前の道を渡った所にも拝所が幾つかある。広場を少し上がった所には弁ヌ小嶽 (ビンヌコタキ) が置かれている。羽地朝秀の王国政治改革で造られた首里王府の久高島クボー御嶽への遥拝所で、それ以前は久高島への直参していたのが、ここから遥拝で済むようになった。ここで祀られている神の名は「アマミコ天子 (テダコ) 」といい、ニライカナイ神を祭祀する御嶽と推察されている。王府時代は大嶽同様、首里大阿武志良礼が管掌しており、正月、5月、9月には国王自ら大嶽と共に参詣。この御嶽も破壊消滅していたが、2013年に復元されている。

斎場御嶽遥拝所 (シェーファウタキウトゥーシ)

小嶽のから少し上がった所には斎場御嶽遥拝所 (シェーファウタキウトゥーシ) がある。琉球国由来記には「冕嶽小嶽有前 聖上御行幸之有祭礼也」 (冕獄の小嶽前にあり、聖 上御行幸の時、祭礼有るなり) と記述されている。

沖縄神社

小嶽のさらに上方にある沖縄神社は、舜天、英祖、察度、第一尚氏(尚思詔)、第二尚氏 (尚円) の各王統始祖を祀っている。元々は、戦前、第一尚氏を除く各王統の始祖を祀った神社を創設し、首里城正殿を拝殿としていた。戦後、首里城に琉球大学が建設されることになり、鳥堀町の協力で、神社はここに移設された経緯がある。

火ヌ神 (ヒヌカン)

沖縄神社の左奥には南部大里方面の「火の神」を祀った祠もある。

弁ヶ岳公園

弁ヶ岳一帯は弁ヶ岳公園として整備されて、石畳で遊歩道が設置されている。

向氏川平 (カビラ) 家の墓

弁ヶ岳から北に坂を降り進むと先にこれから訪れる火立毛がある丘が見えてきた。
この丘は墓地になっている。その中に向氏川平家の墓がある。向氏川平 (カビラ) 家は首里王府に通訳や音楽で仕え、三司官でもあった上級士族の家系になる。川平家は沖縄では有名な家で、川平親雲上朝彬は欽定工工四を編 纂、その孫の川平朝清は、戦後、民放第1号アナウンサーになった川平朝清はRBC開設に参画、沖縄放送協会会長に就任している。朝清の兄は川平朝申は戦後沖縄の復興に尽力し、民政府文化部芸術課長としてアーニーパイル劇場等の開設に関わっている。テレビでお馴染みのジョン・カビラや川平慈英もこの川平家の子孫で、沖縄で芸能関係に貢献した一家になる。

火立毛 (フィータティモー、狼煙台跡)

今日最後の訪問地の火立毛に到着。球陽には1644年 (尚賢4年) に首里と各地の連絡のため、狼煙を上げる場所として整備したとある。 昔は狼煙確認に不都合のため樹木は一本もなく一面カヤ原だった。 船が二隻ならば狼煙を二度あげ、一 隻の際は一度、異国船の来航の際は三度と規定されていた。琉球王統通信網の最初の規定で、それは石碑にも刻まれていたようだが、碑文は磨滅して殆ど読めなくなっている。ここも沖縄戦では日本軍陣地が置かれ、米軍からは Oboe と呼ばれていた。
ここは首里と西原の境で、360度見渡せ、西原 (左中)、中城 (左上)、中城湾 (右上)、与那原 (左中)、知念半島等 (左中) を一 望できる。
訪問途中に久々にオオゴマダラにあった。大きな蝶でゆっくりつ大きく羽ばたき優雅に飛ぶ。人を警戒しないので至近距離で撮影できる。もう一つも、本土では見かけないアカホシカメムシで、沖縄ではポピュラーな虫だが初めて見た。角度によっては人の顔に見える。

参考文献

  • 那覇市史 資料篇 第2巻中の7 那覇の民俗 (1979 那覇市企画部市史編集室)
  • 沖縄風土記全集 那覇の今昔 (1969 沖縄風土記刊行会)
  • 沖縄アルマナック 5 (1980 喜久川宏)
  • 王都首里見て歩き (2016 古都首里探訪会)

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