Okinawa 沖縄 #2 Day 199 (02/08/22) 旧宜野湾間切 (17) Nakahara Hamlet 中原集落

旧宜野湾間切 中原集落 (なかはら、ナカバル)

  • 中原公民館
  • 旧中原集落跡
  • シキルガー跡

前回の集落巡り (7月23日) から、少し日にちが経ってしまった。前回訪問で、軽い熱中症の症状があり、それ以降数日体調を崩してしまい、恢復した時には台風接近でとうとう今日になってしまった。そのせいで、下調べは入念にでき、調べていると早く集発したい気持ちになり、ようやくといったところだ。
今日まず予定しているのは中原集落なのだが、この中原は前回訪問した愛知集落の隣にあった集落だったのだが、現在、旧中原集落のほとんどは普天間基地内で、戦後も中原集落としては再出発しておらず、訪問できるスポットは皆無で、旧集落があった場所を基地の外側から見るだけとなった。



旧宜野湾間切 中原集落 (なかはら、ナカバル)

現在の中原は、集落のすべてを普天間飛行場に接収されている。 普天間飛行場のフェンスの近くに中原区公民館があり、旧中原の人々は公民館付近の赤道地番に多く居住している。 1964年に旧赤道・旧上原とともに中原区を形成し、行政区名に名前を残すのみとなっている。
中原は喜友名、神山、新城に囲まれた石灰岩台地の上にあった旧喜友名と旧神山にまたがる旧士族が移り住んだ屋取 (ヤードゥイ) 集落になる。1780年代に、屋号 新喜屋武先祖や、屋良小の先祖が、この地に入植して来て定着し、1810年代にはタマターの先祖が入植して来た。1840代に森山の先祖が首里から移住して来て神山村の山番人をして、そのまま定住するようになった。1850年代には前川の先祖が、首里から浦添、中城間切袖、離屋取 (現登又) を経て移住してきて定住した。 1880年代には、田里・野国・上江洲・次良タマターなどの先祖が入植してきて屋取を築いたという。ほとんどの屋敷に芭蕉が植えられ、バサージン (芭蕉布の着物) をつくる家が多かったことで芭蕉迫屋取 (バサーサクヤードゥイ) と呼ばれていた。芭蕉迫屋取は集落を南北に走る有銘小の前の道 (アルミグワーヌメーヌミチ) を挟んで神山地番の前屋取 (メーヤードゥイ) と喜友名地番の後屋取 (クシヤードゥイ) で構成されていた。戦前は、中原 (ナカバル) といっても通じなかったという。学校や青年会、集落の集まりなどもそれぞれ喜友名神山に所属していた。1939年 (昭和14年) に、喜友名の中原 (ナカバル) と神山の大安部原 (ウフアブーバル) が分離独立し字中原となった。現在でも旧集落全域は普天間飛行場に接収されたままになっている。
中原集落は石灰岩の台地上に位置し、地形は比較的平坦で山林などは少ない。ガマ (洞穴) が多いという特徴があった。中原は比較的水に恵まれ、ほとんどの家に井戸があり、井戸のない家は近隣の家庭の井戸を利用した。 シキルガーは水浴びや洗濯に利用されていた。水田はほとんどなく、畑が主で、サトウキビを主に生産し、サーターヤー(製糖小屋) で自家製糖をする人々と、サトウキビをトロッコで大山駅まで運び、軽便鉄道で北谷村の嘉手納製工場に搬入する人々がいた。 農業以外にも、バサムチャー (引き) 帽子仲買、石大工などを生業とする人がいた。
戦前の集落中心は、普天間街道 (ナンマチ) 沿いに長く伸びていた。また北には屋取民家が散在していた。沖縄戦後、殆どの土地が米軍に接収され、普天間飛行場となったので、赤道の地域の北側、旧中原集落に一番近い場所に住んでいた。この時点で以前の中原は行政区として消滅している。
中原集落の人口統計は1944年から1953年までしか見つからなかった。それによれば、後に合併する上原集落や赤道集落に比べて、人口は400人程で、4倍から5倍程度とおおきかった。1964年に、旧中原、赤道、上原と合併し新しい中原区が誕生してからは、旧集落個別の人口データはなく、新しい中原区全体のデータになる。下のグラフでは、便宜上、赤道に数字を入れている。戦後はここ10年ほど前まではコンスタントに人口は増加していたが、それ以降は、世帯数は増加傾向が続いているが、人口は横ばいとなっている。
屋取集落であったので、戦前は宜野湾村 (市)  の中でも、中原、赤道、上原ともに、人口は少ない地域だった。この三つの村が合併して、ようやく宜野湾市では人口は真ん中ほどの区となっている。

屋取集落なので、村としての祭祀はほとんどない。戦前までは中原集落住民はシキルガーやアブガーなどの泉を拝んでいたそうだ。 年中行事は、首里那覇などの本家を拝むウマチー を門中一族ごとに行っていた。 集落全体としての行事は、腰憩い (クスッキー) が唯一だった。

シキルガーは旧集落の東側にあり、山羊 (ヒージャー) の女性器 (ホーミー) を模したという樋から水が出ていたそうで、住民は飲料水や生活用水に利用していたが、水量は少なかった。 

アブガーは旧集落の東側にあり、かなり大きなガマ (洞穴) の中のあった。45軒の家庭で生活用水に利用しており、若水 (ワカミジ) もここから汲んでいた。 のちに各家庭に井戸ができても、アブガーの水が美味しいと汲みに来る人もいた。ガマの中には拝所もあり拝まれていた。米軍上陸前に、日本軍はケンドー沿いに保管していた食糧をアブガーへと移したが、米軍が上陸すると食糧に火をつけて燃やして南部に撤退していった。

集落の井戸はもう一つあり。アンガーがアブガーの少し南にあった。

琉球王統時代、中原は神山と喜友名にまたがる屋取集落だったので宜野湾ノロの管轄地域ではあったが、御嶽や殿はなく、宜野湾ノロによる祭祀行事はなかった。

中原には、戦時中、日本軍の石部隊がケンドー (県道) 沿いのカーラヤーの大きな家や村屋 (ムラヤー) に駐屯していたおり、食糧を炊き出しする家もあった。 住民は日本軍に徴用され、集落中央に巨大なセンシャゴー (戦車) を掘らされたたりしていた。ケンドーのナンマチ (並松) には、戦車を偽装して隠していた。 また、ケンドーにテントを張り、大量の食糧を保管していた。日本軍は横暴な行動が目立ち、家や避難壕を追い出された人もいたそうだ。米軍が上陸すると、日本軍はガマに保管していた食糧に火を放ち南部に撤退した。 住民に食料を残すことは無く、ただ米軍に接収されない事しか頭になかった様だ。住民は集落内の避難壕に隠れたり、南部へ逃げたりした。 捕虜となり野嵩収容所に送られたが、日本軍の攻撃で住民が殺されたため、危険だということで、金武村のクチャ(現在の宜野座村古知屋)の収容所に移動させられた人もいたという。南部に逃げた住民は戦火に巻き込まれて、多くの人が犠牲になっている。1944(昭和19)年10月1日現在の中原の人としては431人、死者行方不明者は132人とされ、集落の30%にあたる。(沖縄県平和の礎調査では、防衛隊、県外での死者を含めると犠牲者は171人とされる。)
米軍の捕虜となった人々は、県内各地の収容所から野収容所へと集められたが、元の居住地には戻れず収容所生活が続いた。数年で移動許可のおりた集落もあったが、中原は許可がおりず、 1948年 (昭和23年) 2月29日に赤道の一部へ居住することとなった。 その後も移動許可はおりず、かつての家屋、水源、生活の糧などのすべてを奪われる形となった。 中原の住民は、現在の中原区公民館あたりに多く居住している。集落をすべて奪われた中原は、1964年 (昭和39年) の行政区再編で上原、赤道と合併し、行政区中原となって現在に至る。

中原集落訪問ログ


中原公民館

戦前に中原集落に住んでいた人達は、戦後、帰還する場所が基地に接収されたままだったので、この中原公民館付近に住み始め、この場所に村屋が置かれていた。その後、中原集落、赤道集落、上原集落が合併し中原区となった際に、中原区公民館となった。公民館は建て替え準備中で、今は仮事務所を使っており、この隣の空き地に来週から建設が始まるそうだ。すぐ向こうには普天間飛行場のフェンスが見えている。

旧中原集落

公民館からすぐの所、基地内にかつての中原集落があった。いつか帰れる希望はあったのだろう。元集落に最も近い場所に住み、返還されるのを待っていたと想像できる。日々、自分達のかつての村が変わって行くのを見ていた。どの様な思いで、眺めていたのだろう。その願いは今でも実現していない。基地のフェンス外から集落があった場所を見る。

シキルガー

旧中原集落の東にあったシキルガーは多分この辺りにあったのだろう。基地内で水路が設けられている。

中原集落自体が消滅しているので、殆ど素通りとなった。多くの旧中原住民は赤道に住んでいる。続いてその赤道集落を見て行く。




参考文献

  • 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
  • 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
  • ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
  • 宜野湾 戦後のはじまり (2009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
  • 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
  • ぎのわんの地名 (2012 宜野湾市教育委員会文化課)

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