Okinawa 沖縄 #2 Day 180 (10/05/22) 旧宜野湾間切 (2) Ojana Hamlet 大謝名集落
旧宜野湾間切 大謝名集落 (おおじゃな)
- 黄金宮 (クガンナー)
- 上之山 (イーヌヤマ)
- 又吉 (マテーシ)、御釜 (ウカマ)
- 金満墓 (カニマンバカ)
- クチグヮーアブ
- 前之泉 (メーヌカー)
- 地頭火ヌ神
- 土帝君 (トゥーティークン)
- 謝魂之塔
- 大謝名公民館、大謝名の獅子舞
- 大謝名鍛冶屋洞窟 (カンジャーガマ)
- 大和泉 (ヤマトゥガー)
- 後之泉 (クシヌカー)
- クムイ跡
- 牛浴泉 (ウシアミシガー)
- 大謝名市場通り、大謝名特飲街
- 大謝名駅跡
- 龕屋跡
- クンカー跡
- 奥間ノロ墓跡
前回は旧宜野湾間切の集落巡りを嘉数集落から始め、今日は嘉数集落の北にある大謝名集落を訪れる。明日からは一週間雨予報なので、今日は少し無理をして、大謝名集落だけでなくその隣の宇地泊集落も巡った。
旧宜野湾間切 大謝名集落 (おおじゃな)
大謝名の人口は沖縄戦で減少し、元の集落に帰還したのが5年後の1950年になる。人口が激増した時期は二つあり、1960年代と本土復帰後になる。1964年 (昭和39年) に大謝名区となったが、 その後、上大謝名にアメリカ人向け賃貸住宅、港田原に県営大謝名団地や大謝名小学校が建設されたことから、人口が著しく増加ししている。それ以降は微減状態が続いたが、近年増加傾向がみられる。
大謝名は明治時代から現在まで、人口の増減はあるが、宜野湾市の中で中堅の規模の字が続いている。
字全域が住宅地となって、今後は西にある普天間飛行場の返還後の開発が期待されている。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 金宮寄揚森 (コガネミヤヨリアゲムイ、 神名:真次郎御威部、黄金宮)、久場楚三森 (コバブツソサンムイ、神名: 不傳、上ヌ毛)
- 殿: 地頭火ヌ神、又吉、土帝君
- 村井泉 (拝井泉): 前ヌカー、後ヌカー、大和ガー (消滅)、クヮンガー (在 真志喜)、森ヌカー (在 真志喜)
大謝名で行われていた祭祀に関してまとまった資料が見つからなかった。昔から存在数集落なので、沖縄、または宜野湾の行われていた祭祀とほぼ共通するだろう。以前は謝名祝女によって行事が執り行われていた。ただ、現在まで続いている祭祀については集落ごとに大きな違いがある。
黄金宮の場所に大謝名の文化財マップが置かれていた。事前に調べたものとこのマップに従って、集落巡りをする。
大謝名集落訪問ログ
前回訪れた嘉数集落迄登り、そこから大謝名集落に降りていく。まずは大謝名集落の高台から見ていく。大謝名集落には察度王ゆかりの文化財がいくつもある。
黄金宮 (クガンナー)
大謝名集落から南に外れた高台に察度が中山王になる前にに楼閣 (ろうかく) を造営し、屋敷を構えていたと伝わる場所があり、黄金庭 (クガンナー)、 黄金森 (クガニムイ) グスク、 金宮とも呼ばれている。 琉球国由来記にある「コガネミヤ ヨリアゲ森 (神名: 真次良御イベ)」の御嶽にあたる。この周辺一帯か らは、グスク時代の土器や中国製の外来陶磁器などが採取されている。
案内板に黄金庭の由来の説明がある。
- 天女の子と言われる察度は、ある日、勝連按司 (かつれんあじ) の娘が婿選びをしているのを聞き、勝連に行き「娘さんを嫁に下さい」と頼みました。按司とその家来は大笑いし追い返そうとしました。その時、物陰から若者を見ていた娘は「この若者はただ者ではありません。結婚させてください。」と頼みました。娘を信頼していた按司は二人の結婚を許しました。二人は大謝名にある若者の家へと向かいました。その家の垣根は壊れ、雨漏りがしていました。しかし、よごれたカマドをよく見ると黄金で作られていました。不思議に思って尋ねると、察度の畑に沢山有ることが解り、二人は黄金を拾って貯えました。そしてこの地に楼閣を造り、金宮と名付けました。当時、牧港には日本の船も出入りしていたので察度は鉄を買い入れ、それを農民に与えて農具を買い入れました。察度はやがて人々の信望を集め、浦添の按司となり、中山王となりました。琉球王朝と中国明朝との貿易を始めたのも察度です。人々は彼のすばらしさを讃え、この地を聖地とし現在まで篤く信仰してきました。
上之山 (イーヌヤマ)
黄金宮の北側、大謝名集落の西の高田の山を上之山 (イーヌヤマ) と呼び、大謝名集落の守り神の御嶽があった腰当森 (クサティムイ) にあたる。沖縄の集落は通常村立ての際に、最も高い場所に腰当森 (クサティムイ) を配置し、そこから下る斜面に有力者から屋敷を構えていった。
上ヌ山は戦後の米軍向け貸住宅建設工事で消滅してしまった。現在もその米軍兵士家族向けに建てられた住宅が残っている。
1950年 (昭和25年) に琉球住宅会社が設立され、米軍人、軍属の長期滞在に対応するため、基地外にも外人住宅が必要となり、公社は米軍の指示によって次々と外人住宅を建設していった。民間でもその需要にこたえて、那覇、小禄、宜野湾、浦添、北谷などに米人向け貸し住宅を建てていった。 宜野湾では、大謝名・嘉数・大山 などに建てられた。貸住宅の一戸の敷地面積は、平均して330平方メートル (100坪)、建築面積は66~82平方メートル (20~25坪) のコンクリート造りだった。個室が2~3室、応接間、キッチン、バス、トイレの完全な洋式で、家賃は月120ドルから150ドルだった。緑の芝生の庭に囲まれた外人住宅は県民の羨望の的だった。 当時の宜野湾村は、経済の基盤をほとんど基地に依存し、貸住宅は基地の街の新しい産業として発展していった。しかし、復帰後は米軍関係 の需要は激減し、一部は民間向け貸住宅に移行、一部は改造などのあ 中古住宅として分譲された。この付近にも外人向け貸住宅が残っており、米琉住宅(株)の看板が出ていた。この米琉住宅(株)も昭和30年から本土復帰までは米軍家族向けの貸住宅事業を行っており、大謝名では土地40,000坪、住宅127棟建築していた。
上ヌ山の御嶽は住宅地建設時に黄金宮の敷地内に遷座されていた。
又吉 (マテーシ)、御釜 (ウカマ)
上ヌ山を集落中心に向かって西に少し下った所に大謝名集落の村立てに関わった又吉 (マテーシ) の屋敷跡がある。御釜 (ウカマ) とも呼ばれ、集落の草分けの家筋の一つで、最も古いことから根屋 (ニーヤ) とされ、集落祭祀の中心の役割を担っていた。 現在は後継ぎが 絶えたため、屋敷跡にヒヌカン (火の神) を祀る祠が設けられている。旧暦八月十五 夜の獅子舞などの行事の前に拝まれている。
金満墓 (カニマンバカ)
上ヌ山の東側に金満墓 (カニマンバカ) がある。金満 (カニマン) とは察度王の異母弟の泰期 (タイチ) の事で、奥間の鍛冶屋 (カンジャヤー) といい、金満 (カニマン) と呼ばれた人物で、鍛冶屋の始祖だと伝わっている。その泰期がここに葬られいると伝わる。泰期は察度王の命で5回も明に朝貢のために遣わされている。一説では、実際には義母弟ではなく、読谷山宇座の豪族で、察度の命を受け進貢使として明国に渡った際、王に拝謁したり、要人と会うためには、王の弟という肩書の方が都合がいいので、察度王の弟に扮していたとある。
クチグヮーアブ
金満墓 (カニマンバカ) の崖の上にはクチグヮーアブと呼ばれた竪穴の洞窟がかつてあったそうだ。石が転がり落ちると「ドンドン」と音がしたことから、大謝名以外では「ドンドンガマ」と呼ばれていた。大雨のたびに水があふれ出ていましたが、1983年 (昭和58年) に住宅の一部を含む地盤が崩落したので、現在では埋められ消滅している。写真右は埋められる前のもの。
前之泉 (メーヌカー)
大謝名集落の南側、中道付近に大謝名集落の村井泉 (ムラガー) があり、集落の人びとが、 生活用水、若水 (ワカミジ)、産水 (ウブガー)、死水 (シニミジ) として使っていた。大きな井泉で、今でも水が湧いており、水は透き通り、魚が泳いでいる。樋口の上の窪みには、香炉が祀られ、村の拝所となっている。湧き水に通じる立派な石畳で ある坂道は、井泉坂 (カービラ) と呼ばれ集落に通じている。
地頭火ヌ神
前之泉から井泉坂 (カービラ) を登った所は前之毛 (メーヌモー) と呼ばれた広場がある。現在は駐車場になっているが、ここにも文化財がある。大謝名集落の拝所の一つの地頭火ヌ神の祠が置かれている。この地頭火ヌ神についての詳細は不明だそうだが、かつては旧家が集まる上村渠 (ウィーダカリ) にあった屋号 前恩納の屋敷近くにあった。 戦後、パイプライン道路拡幅工事により敷地が削られたので、この場所に遷座されている。
土帝君 (トゥーティークン)
地頭火ヌ神の前にも石の祠がある。中国から伝わった農業神の土帝君が祀られている。この土帝君も元々はここではなく、県営大謝名団地周辺にあった水田地帯に置かれていたそうだ。そこから、この前ヌ毛 (メーヌモー) に遷座され、旧暦2月2日に大謝名獅子舞保存会の役員が拝んでいる。
謝魂之塔
前ヌ毛 (メーヌモー) の地頭火ヌ神の隣に慰霊塔が置かれている。大謝名区が、1968年 (昭和43年) に建立されている。 第二次世界大戦で、 大謝名集落出身の戦没者 (200余柱) が慰霊されている。毎年11月に、この塔の前で大謝名区による慰霊祭が行われている。
沖縄戦では集落住民の26%にあたる152人の犠牲が出ている。この大謝名は激戦区だった嘉数高地へ米軍が侵攻して途中にあたる。その背景もあり、比較的、高い戦没者が出ている。
1945年 (昭和20年) の沖縄戦で、住民の多くは嘉数高地から戦火が南下した時に米軍の捕虜となった。人々は比谷を経て具志川 (うるま市) のトゥールーガマで約1年過ごした後、野嵩収容所に居住した。その後、米軍からの命令で真栄原十字路付近に移住し、5年後の1950年 (昭和25年) に元の集落に戻った。
大謝名公民館、大謝名の獅子舞
集落を横断する村道 (ソンドウ) 沿いに公民館がある。昔から村屋としてあったのかは調べられなかったが、ほぼ村の中心部地域になる。
公民館前にある案内板には大謝名の獅子舞について説明がされていた。大謝名の獅子舞はイキガシーシ (男獅子、普天間に女獅子がある)、 動きが激しくけんかシーシ (喧嘩獅子) と呼ばれている。 大謝名では約200年前から始まったと伝えられ、戦前は旧盆の時期にも行なわれていたが、沖縄戦によって焼失 してしまい、戦後、途絶えていたが、1976年 (昭和51年) に復活し、それ以降、毎年旧暦八月十五夜の豊年祭にこの公民館の広場で、獅子舞の奉納演舞を行い、ムラの厄払い、 健康安全を祈願するシーシケーラシが行われている。
大謝名鍛冶屋洞窟 (カンジャーガマ)
公民館の近くに17世紀の遺跡跡がある。今はコンクリートで塞がれてしまったが、洞窟があったそうで、そこで鉄を加工した場所と考えられ、ニ基の炉と溶かした鉄から出るカス ( 鉄滓) などが見つかっている。 この時代から更に遡った察度の時代 (1321 - 1395年) には、察度が人びとに配った鉄製の農具を作った場所であるという伝承も残っている。写真左下は塞がれる前の写真。
大和泉 (ヤマトゥガー)
大謝名小学校の敷地内に大和泉 (ヤマトゥガー) と呼ばれた井戸跡がある。大和泉 (ヤマトゥガー) と呼ばれたという事で、日本と何らかの関わりがあったのではと興味が湧く。察度の時代にはこの辺りまで海の入江が入り込み、港田原と呼ばれ、中国や大和 (日本) と交易を行う船着場があったそうだ。この大和泉 (ヤマトゥガー) は寄港した大和船が水を汲んだ井戸という事で、こう呼ばれる様になった。察度は黄金宮にあった屋敷の畑から出た黄金をこの港で鉄を交換して農具を作り、地域の人々に分け与え農業を促進し、住民から信頼を得ていたと伝わっている。
後之泉 (クシヌカー)
中道 (ナカミチ) と後道 (クシミチ) が交差するあたりには、前ヌ泉 (メーヌカー) と共に、昔から集落で使われてきた湧き水のひとつの後之泉 (クシヌカー) がある。ミーガーとも呼ば れていた。地下の洞穴の天井が崩落したすり鉢型の陥没ドリーネという地形だったそうだ。 現在は、駐車場になっており、井泉は消滅し、奥に祠が置かれ、毎年旧暦八月十五夜の獅子舞の前に祭祀が行われている。
クムイ跡
後之泉 (クシヌカー) のすぐ側には溜池 (クムイ) があったが、これも消滅している。多分、石垣で囲まれた広場になっているこの場所だと思われる。
牛浴泉 (ウシアミシガー)
後之泉 (クシヌカー) の近くにもう一つ井泉があった。昔から使われてきた湧き水のひとつで、牛を水浴びさせたことに由来し、牛浴泉 (ウシアミシガー) と呼ばれている。かつては、一段下がった水場に、牛を連れて降りることができる地形になっていたそうだ。
大謝名駅跡
龕屋跡
クンカー跡
龕屋跡の近くにあった井泉跡で、隣の宇地泊集落の産井 (ウブガー) だった。
奥間ノロ墓跡
次は国道58号を渡り東シナ海に面した宇地泊集落訪問に移る。訪問記については別途。
参考文献
- 宜野湾市史 第5巻 資料編4 民俗 (1985 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 第8巻 資料編7 戦後資料編 (2008 宜野湾市史編集委員会)
- 宜野湾市史 別冊 写真集「ぎのわん」 (1991 宜野湾市教育委員会)
- ぎのわん市の戦跡 (1998 宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾 戦後のはじまり (1009 沖縄県宜野湾市教育委員会文化課)
- 宜野湾市 地理学実習現地調査報告書 2019年度 (2020 京都府立大学文学部歴史学科文化遺産学コース)
- 沖縄風土記全集 第5巻 宜野湾市・浦添村編 (1968 沖縄風土記社)
- はくぶつかんネット第53号 (2015 宜野湾市立博物館)
- はくぶつかんネット第54号 (2015 宜野湾市立博物館)
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