Okinawa 沖縄 #2 Day 136 (21/09/21) 旧小禄村 (4) New Hamlet 新部落

旧小禄村 新部落

  • 新部落建設顕彰碑
  • フチミンガー
  • 大嶺地区 (おおみね、ウフンミ)
    • 大嶺自治会館
    • 大嶺御嶽
      • 神屋
      • サバニベンチ
      • 仲添のティラ、七つの井戸拝所 (川ヌ端ノ井戸、浜ヌ端ノ井戸、チンジャー井戸、樋川、フカマヌ井戸、ジンサラシ井戸、南ヌ井戸)
      • 三稲田の神、按司御井戸、後山大城世之神井戸
      • 土帝君
      • 大嶺御嶽原の神 (神名: マヂラタイヌ御威部)、竜宮神、火の神、前城前
      • 祖先墓の拝所
      • 火の神 (ヒヌカン) 
      • 遥拝所 (お通し ウトゥーシ)
  • 当間地区 (とうま)
    • 当間自治会館 (当間共同利用施設)
    • 當間之嶽 (トウマヌタキ)
      • 當間之嶽 (神名: ススカミノ御イベ)
      • 地頭火ヌ神
      • 泉水井、産御井、後ヌ御井、東ヌ御井
      • 墓碑等
      • 御嶽ヌ御井、火ヌ神、上ヌ御嶽 (當間色立始岳、金城前原御嶽跡)
      • 金満御嶽、川王神、御天受久、仲間之殿、仲間御井
  • 安次嶺地区 (あしみね、アシンミ)
    • 安次嶺自治会館
    • 井戸跡
  • 鏡水地区 (かがみず、カガンジ)
    • 鏡水自治会館
    • 鏡水多目的広場 (旧自治会館跡)
    • 長田ガー
    • 御嶽公園 (鏡水拝所)
  • 金城地区 (カネ グスク)
  • さつき橋跡
  • 仲門門中


旧小禄村 新部落

旧小禄村内に造られた新部落とは、沖縄戦後米軍基地として接収された土地に帰還がかなわなかった5つの村の住民が、組合を作り新しい居住地を作り出した地域の事で、現在も続いている。これには長い歴史がある。事の発端は戦前の昭和10年までさかのぼる。日本軍が火往生建設のために強制的に土地を収用したことに始まり、その後も、何回かに分けて収用地域が広がっていった。元から住んでいた住民の畑が主要な収用地域だった。生産地を奪われた住民の苦労が始まる。大きな影響を受けたのは大嶺、鏡水、當間地域だった。

戦後は、日本軍に替わり、米軍が更に広範囲の地域を基地として収用し、旧小禄村の83%にも及んだ。5つの字の住民は疎開地、捕虜収容地から帰還する村が無くなってしまった。影響を受けたのは大嶺、鏡水、當間、安次嶺、金城の5つの字で、住民は米軍が指定した場所に住み始めるが、諸問題で、5つの字の住民が新部落建設期成会を結成し、1958年 (昭和33年) に新部落が完成し、移住して始まる。

新部落参加世帯数が掲載されていたが、戦後どれだけの世帯が残っていたのかが分からず、1935年 (昭和10年) の総世帯数と比較してみた。戦争で全滅した世帯、親戚を頼り移動していった世帯もあるので比較対象となる総世帯数はもっと少ないと思える。この参加率の背景は色々あると思うが、調べ切れなかった。もう一つのグラフは、米軍基地に摂取され、その後那覇空港、自衛隊きちとなってはいるが、行政区域は昔のままだ。その行政区での人口を戦前と比較したもので、字大嶺には住民登録はゼロで、村が完全に焼失した形だ。字鏡水と字当間には住民登録が2020年ではそれぞれ523人と1183人となっており、帰還がかなったかの如く見えるが、データをよく見ると世帯数も523戸と1183戸となっている。推測では自衛隊の単身者住居と思われるので、鏡水と当間も完全に村を失った形だ。字安次嶺ほんの少しだけ返還がされ、民家がある。新部落に参加した5字の中で、字金城のみが昔の村の地域が戻ってきた。ほとんどかつての村の形は残っていなかったが、それゆえにスクラッチからの再建計画を立て、商業施設、教育施設、住宅街を造り復興がかなっている。

沖縄戦での旧小禄村の戦没者は以下の通りで、旧小禄村全体では32%の住民が犠牲になった。一家全滅や家を存続できない状態の世帯も多くあったと推測される。


今回、新部落訪問時に参考にした地図 (歴史散歩マップ 新部落まーい)


新部落訪問ログ


新部落建設顕彰碑

字田原内に新部落建設顕彰碑が建てられている。1948年 (昭和23年) 当時、旧小禄村の総面積の83%が米軍用地として接収。部落全部を接収された大嶺、鏡水、安次嶺、金城、当間の各集落住民は住む場所がなく、米国駐留軍の指示で、捕虜収容所から高良と宇栄原の下之御嶽があった津真田に住み始めた。

米軍からは土地の借地料の支払いもなく、次第に高良と宇栄原の土地所有者 (借地人) から借地料を請求される様になり、追い出される住民も出て来て、地元字民からは「よそもの」として扱われ、多くのトラブルが起こっていた。これだけを聞くと地元住民が冷淡との印象を持つが、実態は、高良の住民が収容所や疎開地から帰郷すると、元の住居跡には、既に米軍により割り与えられた住民が住んでおり、別の場所に住まいを求めるしかなかった。双方が被害者であった。

村議会では村民全体の融和と民生安定をはかる立場から真剣に打開策を検討し、1951年 (昭和26年) 米軍には接収した土地の借地料の借地契約を求めたが、翌年に提示された額は一坪あたり10ヶ月の賃貸料でタバコ一箱が買えるだけという法外な低廉な額で、期間は20年と長期であった。この提示に住民は失望し、提案を拒否して琉球政府立法府に解決を要請するが、米軍は1953年に「1950年7月1日から1952年4月27日に至るまで米国政府によって使用された琉球人私有地の賃貸契約の締結及び借地料の支払い履行権限(布令105号)」を発布し、1950年7月1日現在の地料評価額の6%にて算定した地代を支払うことになる。ただ、これはスズメの涙の額だ。この動きに失望した関係5字は、1953年 (昭和28年) に452世帯の住民により新部落建設期成会が結成された。米軍から開放された山岳地の畑地と原野の小禄長田原、不知嶺原の土地3万5千坪を住民から資金を集め買収し、人力で整地し始めるが、人力だけでは難しく進展がなかった。政府等に援助を交渉を行い、最終的には米軍のブルドーザーを3台出動させ、米軍将兵達を3ヶ月の演習という名目で無料奉仕により、1958年 (昭和33年)、宅地造成、区画整理が完成し、宅地は抽選で字別に区分され、各人に分け与えられた。これが新部落だ。民間主導の自分達で生活の確保を実現させた。逞しさが感じられる。この苦労を忘れない為、尽力をした住民への感謝を表した顕彰碑がここに1994年 (平成6年) に造られている。沖縄本土復帰後は、米軍基地は国有地となり、住民と国の間で補償が争われるのだが、まだ解決には至っていない。詳細についてはまだ調べ切れていない。この5つの集落を巡る際に、おいおい明らかになっていくだろう。この後に出会った女性からは、この地域ではまだ戦争は終わっていないと言っていた事が印象的だった。色々と話しを聞くと、僅かな補助金 (借地料) は税金で無くなってしまう (多分固定資産税のことかと思う) とも言っていた。戦争時はまずは日本軍に土地を接収され、米軍には村全てが接収、補償も無い。沖縄本土復帰後は日本政府に国有地に取られ、補償もごくわずか。日本政府への不信感が表れていた。
新部落建設顕彰碑の場所には尽力した当時小禄村の村長を務めた長嶺秋夫氏の銅像と各字の代表者の名前か記されたプレートがある。

顕彰碑の周りには5つの石柱が建っており、それぞれが各字の失われた故郷を謡った和歌が架かれている。それを1つづつ読むと故郷への想いが伝わってくる。

  • 大嶺:白浜前なす大嶺や 男女 嘉利吉 (かりゆし) 肝合す 海山豊かに栄えゆく
  • 当間:巡り廻や当間村 手墨学問 道広く 花ん遊びん 程々に
  • 安次嶺:遊び美らしゃぬ 安次嶺や 神に奉献る真心に 子孫牛馬ん道広く
  • 鏡水:大根豊作す鏡水や 日々の励みたゆみなく 行く末広く頼もしや
  • 金城:言葉甘さや 金城 老も若衆も 打ち揃りて 譲り結びぬ 肝美らしや


フチミンガー

新部落建設顕彰碑の中に不知嶺原にあるカーで、もとは田原の村ガーであった井戸のフチンミガーも残されていた。


大嶺地区 (おおみね、ウフンミ)

旧大嶺村は現在の那覇空港と海上保安庁がある海岸に面した土地にあり、半農半漁で生計を立てていた。1931年 (昭和6年) にその畑が日本軍に飛行場建設用地として突然接収され、その後も何回の用地接収が行われて、1943年 (昭和18年) までに宅地まで含め大嶺村の大部分が接収されてしまった。戦後は沖縄を占領した米軍基地となり、帰還する村が無くなってしまう。
紆余曲折の末、同じ境遇の他の四つの字と共に新部落を造り、移住した。本土復帰後は国有地となり、村は戻らず現在でも、新部落での生活が続いている。

大嶺自治会館

新部落建設時に部落の側に用地を購入し公民館を建てた。現在は建て替え工事中だった。写真右は建て替え前の公民館。この後に訪れた大嶺御嶽で自治会長と会い、大嶺地区の自治会について話を聞く事ができた。地区には大きく二つの地区運営組織がある。大嶺自治会と向上会だ。向上会は1914年 (大正3年) に字民の生活向上を目的として始まり、1958年 (昭和33年) に自治会が発足している。自治会には、この地区の住民は誰でも加入する事ができるのだが、向上会には旧大嶺村の門中一族しか加入は出来ない。これを聞くと、沖縄の門中制度の閉鎖性を感じるのだが、よくよく話を聞くと、昔は村には門中一族しか住んでおらず、門中と自治会を区別する必要は無かったが、時代とともに、門中外の住民が増えると、門中制度が地区運営の難しさの要因となる。そこで向上会とは別に自治会を作り、自治会はこの地区に住む住民の生活向上をメインに活動をする。那覇市からの要請の伝達や要請をあげる事、地区内の設備の管理などだ。向上会は旧大嶺村の伝統文化の保存維持をメインとして運用をする。この文化伝統は門中文化と一体であるので門中のみで行う。運用はそうだが、行事への参加はその限りでは無い。文化はその地域や家に紐付き発展しているので、これを閉鎖的と一概に否定する事は間違っている。この地区では郷友会型自治会の欠点をできる限り減らす工夫として、文化継承の向上会と開かれた自治会の二本立てとしている。自治会の加入率は70%ぐらいあるのではと言っていた。沖縄では20 ~ 40%なので、かなり高い率で運営が上手くいっている様に思えた。地区内には二世帯住宅が多いのも特徴と話してくれた。核家族は避けられないが、繋がりを保つために二世帯住宅は一つの方法、最も限られた地区敷地では新しい住宅は建てられ無いことも要因のひとつ。これで全てが解決しているわけでは無く、大嶺御嶽で出会った女性の方からは、やはり域外から嫁に来た人は今でも馴染むには苦労していると言っていた。これは伝統的な集落だけで無く、都市部でも同じだそうだ。住む地域が別であっても、門中という枠組みはどうしてもつきまとうという。この女性も、別の村から嫁いできた人で、家、村の伝統習慣文化を守り継承には熱心だが、その裏にある閉鎖性も感じていると話してくれた。

大嶺御嶽

大嶺住民の心の拠り所の各拝所は米軍基地に村全体が接収された地域にあった。当初は帰郷の期待もありそのままであったが、1953年 (昭和28年) に新部落に定住を決めた際に各拝所を移設する事となった。現在田原地区の鏡水自治会館の側の土地を購入して建設。
当時の御嶽内に移設された拝所の写真が「大嶺の今昔」に掲載されていた。元あった場所から祠や霊石をここに移した。
田原の大嶺御嶽は2010年 (平成22年) に那覇市の区画整理で譲渡要請があり、老朽化もあり、現在地の新部落大嶺地区の側に再度移設となった。大嶺区の建設デザイナー設計で完成したのが今日訪れている大嶺御嶽だ。

神屋

御嶽の入口には神屋が設けられている。今日は旧暦8月15日の十五夜だ。神屋の中で、今日行う十五夜の御願の準備が進んでいた。神屋の祭壇には向かって左側に祖先を祀った香炉、右側には村の守り神の香炉が置かれている。
小豆がいっぱいついた「フチャギ」を取り分けていた女性の方に話しかけた。(フチャギの小豆は子孫繁栄を表しており、小豆が多い程子孫が増えるという) 女性から大嶺について色々と話しを伺った。夕方から始まるそうだ。コロナ禍で規模を縮小し、いつもなら獅子舞 (シーシケーシ) もあるのだが、今日は断念したそうだ。この大嶺の獅子頭は戦争で行方不明になり、1961年 (昭和36年) に復元されたもの。

サバニベンチ

神屋の横にはサバニ (小さな漁船) を模したベンチが二つ設置してあった。
かつての大嶺集落は半農半漁の集落で、今でも地バーリーという地上で船を漕ぐ仕草をする他地域で見られない行事がある。元々は那覇ハーリーに大嶺集落として参加していたが、明治時代に疫病が流行り参加出来ず、集落内でハーリーを開催したのが大嶺ハーリーの始まり、海で行われたハーリーを見れなかった集落住民のため浜でハーリーを漕いで見せたのが地ハーリーの始まり。今では大嶺ハーリーは途絶えてしまったが、地ハーリーが受け継がれている。

仲添のティラ、七つの井戸拝所 (川ヌ端ノ井戸、浜ヌ端ノ井戸、チンジャー井戸、樋川、フカマヌ井戸、ジンサラシ井戸、南ヌ井戸)

御嶽の門を入ると、右側に中はティラヤの拝所がある。仲添の祖先が漁をしていた際に網にビジュル (霊石) がかかり、このビジュルを祀り、豊作、豊漁、安全祈願を旧暦9月9日に行っている。左側には集落内になった7つの井戸を祀り御願している。右から川ヌ端ノ井戸、浜ヌ端ノ井戸、チンジャー井戸、樋川、フカマヌ井戸、ジンサラシ井戸、南ヌ井戸で九月カーウガミで祈願されている。

三稲田の神、按司御井戸、後山大城世之神井戸

7つの井戸拝所の隣には、更に3つの井戸の拝所がある。左側には三稲田 (ミフーダ) の神が置かれている。戦前の仲門原入口に祭られていた稲の発生の神。真中にある按司御井戸 (アジウカー) は大城に祭られていた神井戸 (カミガー) 。右には後山大城世之神井戸 (クシヌヤマウフグスクユーヌカミガー) も按司御井戸同様に大城に祭られていた神井戸。

土帝君

更に奥には土帝君 (トゥティークン) がある。
他の集落でもよく見かける土帝君は沖縄では農耕の神様とされている。土帝君は1689年に大嶺親方弘良 (うふんみうぇーかたこうりょう) が清から自領の大嶺村に持ち帰ったのが始まりとされているそうなので、この土帝君が沖縄で最初のものかも知れない。戦前には祠の中には4-5体の像があったのだが、戦争で失われてしまった。

大嶺御嶽原の神 (神名: マヂラタイヌ御威部)、竜宮神、火の神、前城前

正面にはお宮が建てられ、大嶺御嶽原の神 (神名: マヂラタイヌ御威部) を祀り、その向かって左側にはサトーモーターとチーシヌ浜の竜宮神。右側には具志川、古波鮫の二つの火の神、西ヌ森にあった前城の神を祀っている。

祖先墓の拝所

お宮の隣には先祖を祀る拝所が二つある。一つには西ヌ具志川御墓 (イリヌグシチャーシンジュ)、御嶽世 (ウタキガユ)、大里村大城世 (ウサトウフグシクユ)、玉城村大城世 (タマグシクウフグシクユ)、玉城村三殿玉城世 (タマグシクミントンタマグシクユ)、知念村安座間世 (チニンアザマユ)、野呂神 (ノロガン)、根神御墓 (ニーガンシンジュ)、南ヌ具志川御墓 (へーヌグシチャーシンジュ)、具志川世御墓 (グシチャーユシンジュ)。もう一つには居神 (イーガン)、野呂 (ノロ)、根神 (ニーガン)、根人 (ニーチュ)、根ブ取 (ニブトイ) が祀られている。

火の神 (ヒヌカン) 

祖先墓の拝所の前、崖の上には火の神 (ヒヌカン) の祠が二つ、その間に香炉がひとつ置かれている。

遥拝所 (お通し ウトゥーシ)

火の神の前には遥拝所があり、そこには唐、龍宮乃神、前城、今帰仁へのお通しとなっている。龍宮乃神と前城は大嶺村にあった拝所のことだろう。唐は中国の事で、当時は明、清にあたる。
ここで女性の方と自治会長との話が終わり、次の訪問地に向かう際に、大嶺集落の字誌を頂いた。これはかなり詳しく大嶺村について書かれている。数年かけて編纂をしたもの。村が無くなってしまった分だけ、村があった事を後世に残した一心だったという。この大嶺の訪問記には話した事やこの字誌を参考にして書いている。



当間地区 (とうま)

大嶺地区の南側には当間集落住民の新部落がある。この地区は行政区では字小禄にあたる。当間も村全体が軍用地に取られ、終戦当時は宇栄原や高良方面に散在したが、新部落推進期成会の結成で宅地が造成され、殆どの元当間住民が新部落に移り住んだ。戦後は公務員、会社員、商業、土木業に従事した人が多かった。


当間自治会館 (当間共同利用施設)

當間之嶽のある丘の崖下に当間自治会館が置かれている。民家はこの東側にある。当間地区では、新部落の背割り区画の間に路地を設けて従来の各民家の前と後ろが路地になる様に手を加えている。

當間之嶽 (トウマヌタキ)

新部落当間では新部落建設用地内で丘陵状で宅地に適さない用地を買い取って、米軍基地に接収された村内にあった各拝所を移動して1955年 (昭和30年) に御嶽を造っている。

當間之嶽 (神名: ススカミノ御イベ)

當間之嶽は元々は旧金城村前原にあり、その後、旧當間村當間原に移されていた。沖縄戦の後、新部落のこの地に移設された。「琉球国来記」(1713年) には當間邑立始嶽上ヌ御嶽 (トウマムラタチクチタキイーヌウタキ) 神名:ススカミノ御イベとあり、赤嶺ノロにより祭祀が行われていた。アシャゲの中には向かって左から嶽火ヌ神、居神 根神 祝女グサイ、クニデーグサイの香炉が三つ置かれている。

地頭火ヌ神

當間之嶽を取り囲む様にかつて村にあった拝所を配置している。當間之嶽の隣には地頭火ヌ神の拝所が置かれている。

泉水井、産御井、後ヌ御井、東ヌ御井

當間之嶽の裏側には井戸の拝所が並んでいる。先に訪れた大嶺御嶽と同じように、一つ一つの井戸拝所が独立した形式保存となっており、住民がかつてと同じように一つ一つを御願出来る様になっている。


墓碑等

井戸拝所の横には村にあった墓を御願出るようにそれぞれの墓の祠が置かれている。(国軸、上金城、高屋、澤岻賓頭慮、根神、五イチフス ニタフス、根屋立口母神)

御嶽ヌ御井、火ヌ神、上ヌ御嶽 (當間色立始岳、金城前原御嶽跡)

當間之嶽の隣に、この御嶽に関わる拝所がある。こちらの方がメインの様にも思えるのだが…

金満御嶽、川王神、御天受久、仲間之殿、仲間御井

その隣には殿、神屋などの拝所が置かれている。


安次嶺地区 (あしみね、アシンミ)

安次嶺も戦後は宇栄原を中心として芋を作り生活をしていたが、新部落が出来るようになって殆どの人がそこへ移り住んだ。僅かであるが、宇栄原方面に住んでいる人達もいる。安次嶺も土地の殆どが軍用地になり、現在も米軍基地跡はそのまま自衛隊基地となり、村が戻る事はなかった。安次嶺の拝所は新部落には移されず、ちょうど赤嶺との境界線にある赤嶺緑地 (安次嶺緑地) に残っている。(後日訪問予定)

安次嶺自治会館

安次嶺地区は当間地区の西隣に位置し、安次嶺自治会館は当間自治会館のすぐ近くにある。

井戸跡

安次嶺自治会館の裏に井戸跡があった。空き地になっている。ここにあった民家内にあった井戸だろう。


鏡水地区 (かがみず、カガンジ)

かつての鏡水は旧小禄村の最北端にあり、この村も全域が米軍基地として接収され、沖縄返還後も、那覇空港、自衛隊基地となり、住民の帰還はかなわなかった。旧鏡水村の125世帯が新部落設立に参加し、この地で生活を始めた。その後、鏡水字民は昭和33年に鏡原町の漫湖埋立工事、昭和38年頃には小禄中学校北側に700余坪の宅地造成事業を行い、 鏡水字民の宅地難を解消した。

鏡水自治会館

現在の多目的広場にあった鏡水倶楽部の老朽化により、旧地主への総合補償としての特定地域特別振興事業により2012年 (平成24年) にこの場所に鏡水ふれあい会館が建設され、自治会館としての機能を引き継いでいる。

鏡水多目的広場 (旧自治会館跡)

新部落がスタートして、1956年 (昭和31年) に新部落建設期成会鏡水支部から寄贈されたこの場所に木造瓦葺きの鏡水事務所が新築され、 1961年 (昭和36年) にはコンクリート平屋造りの鏡水倶楽部に建て替えられ、更に1975年 (昭和50年) にコンクリート3階建の鏡水自治会館を建築された。その後、年月を経て建物は老朽化し、2015年 (平成24年) に鏡水ふれあい会館が建設され、自治会機能はそちらに移り、この場所は平成27年に憩いの場所やイベント広場などとして利用できる多目的広場となった。広場の片隅に小さな祠が残り拝所になっていた。

長田ガー

新部落安次嶺地区に中に井戸跡が残り拝所となっていた。

御嶽公園 (鏡水拝所)

鏡水は新部落建設用地内の丘陵状になった場所に旧鏡水村にあった拝所をまとめ、拝所公園が造られていた。その後、御嶽公園として造り替えられ現在に至っている。芝生は綺麗に刈り込まれて、小さいながら気持ちの良い公園だ。公園内の一画が拝所エリアになって、そこには井戸ヌ神 (村にあった幾つかの井戸をまとめたのだろう)、西ヌ本神 (フシン)、東ヌ本神 (フシン)、人ヌ神の拝所が置かれている。


金城地区 (カネ グスク)

字金城も旧村の殆どが米軍基地に接収され、他の字と同様に新部落に参加していた。

その後、昭和55年に旧金城村に造られていた旧那覇空軍海軍補助施設地が返還された。これは新部落に参加した他の4字とは異なり、幸運だった。昭和56年に基本計画が策定され造成工事が着手され完成。金城村にあった御嶽など拝所があった場所も返還され、御嶽は元あった場所に再建されている。(後日訪問予定)



さつき橋跡

さつき小学校の前に案内板があった。「さつき橋の由来」とあった。かつてはこの付近は田んぼが広がり、ハゲーラ川が流れるのどかな地域だった。 ハゲーラ橋は大嶺、安次嶺、当間住民の新部落宅地建設の物資輸送や生活道路として重要性が高まり、鉄橋に架け替えられた。それ以前、1930年代の昭和恐慌の不景気の中、景気対策として、田んぼを収入の良いサトウキビ畑に変え、水はけ改善の為にハゲーラ川は拡張排水工事が行われ、ハゲーラ橋が架けられた。 橋のたもとにガマグムヤと呼ばれた水溜まりができ、子ども達は川遊びをしていたそうだ。
鉄橋に架け替えられたハゲーラ橋も1961年にはコンクリート橋に変わり、五月橋と呼ばれた。ハゲーラ川は暗渠道路と変わり道幅も拡張されている。現在は五月橋も無くなり、交差点になっている。その名前だけが地名として残っている。

仲門門中

五月橋跡の交差点の近くに今日訪れた大嶺地区の有力門中の仲門門中の施設があった。門中の行事や会合で使われているのだろうかなり立派な建物となっている。

これで新部落巡りは終了。大嶺地区では詳しい字誌を頂いたので、大嶺についてはかなり詳しく書くことが出来たが、その他の地区については、資料が無いので簡単になった。図書館が再開した後に、更に調べ追記する事にする。未だに接収されている旧字地区も巡る予定。

参考文献

  • 小禄村誌 (1992 小禄村誌発刊委員会)
  • 歴史散歩マップ 新部落まーい (1991 那覇市教育委員会文化課)
  • 沖縄県那覇市の住民組織について-自治会 研究ノート その 1 (1994 総合都市研究第53号) 
  • 大嶺の今昔 (2008  字大嶺向上会)
  • 鏡水八十周年記念誌 (1983 鏡水自治会)
  • 字鏡水創立百周年記念誌 (2005 鏡水郷友会)
  • 戦後の沖縄集落の住民によっ て継承された民俗空間及び集落空間秩序の研究 (2007 日本建築学会計画系論文集 第618号)

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