Okinawa 沖縄 #2 Day 52 (5/11/20) 旧具志頭 (2) Aragusuku Hamlet 新城集落

新城集落 (あらぐすく)

  • 新城古島
  • 新城 (あらぐすく) グスク
  • 新城神宮
  • 山城 (やまグスク)
  • 門中墓群
  • 新城の石獅子
  • 南の石獅子
  • 北の石獅子
  • 新城公民館
  • 恩井 (ウーガ-)
  • 真嘉戸井 (マカトゥガ-)
  • 上の井 (ウィーヌカー)
  • 滝井 (タキガ-、御廃寮井 グヘーローガ-) 
  • グムイ
  • 石畳の路
  • ユーリー原
  • 新里洞穴遺跡
  • ガンデ原貝塚跡
  • 龕屋 (ガンヤー)
  • ヌヌマチガマ (第32軍の第24師団 (山部隊) 第一野戦病院 新城分院)
  • 八重瀬町戦争遺跡公園
  • 壕口
  • 監視廠跡
  • ガラビ壕


この新城集落の散策は10月3日と今日の2日間にわたった。今日は台風の影響で昼過ぎから雨予報だが、それほど強い雨ではなさそうなので、思い切って来ることにした。ここまでは約10㎞で1時間もかからない。途中雨になったら引っ返えせばいい。


新城集落(あらぐすく)

新城集落(あらぐすく) の始まりは、伝承では九州から島伝いに沖縄に渡来し、知念そして玉城から字具志頭のユッタチジョウに定住したアマミキヨ族が集落を形成し、この集落をよりたち村と称した。これは11世紀から12世紀と推定されている。

  • 次第に人口が増えたアマミキヨ族が13世紀から14世紀にこの新城に移住し、先住民と合流して新城集落を造ったと考えられている。(新城古島) 
  • 集落は標高90mの丘陵にある新城グスクの場所に上江洲ヒラ嶽を設け、村の宗教的中心とし、丘陵の斜面に住居を構えていた。(新城グスク、初期集落)
  • 17世紀後半頃から、丘陵の麓 (現在公民館がある付近) に琉球王朝首里王府の管理下で、区画を造り、集落を広げていった。(拡張集落)
  • 琉球王朝時代は、この集落は東風平間切に属していた。第十代尚質王 (1648-1668) の時代に摂政であったは羽地朝秀 (向象賢) の農村政策で各間切の知行高の調整の際に、東風平間切から 具志頭間切へと変更された。これが旧具志頭村の地域と一致する。

新城集落の人口推移についてだが、資料にあるデータでは1861年 (文久元年) には521人、1879年 (明治12年) は1,051人 (218戸) とある。下のグラフでもわかるように、沖縄戦の開始時の1945年と沖縄の本土復帰の1972年の人口よりも多かった。1972年頃までは、集落の人口増減は元々住んでいた門中の分家や自然増減に限られていたが、それ以降、他の行政区からの流入によって人口が増えていった。資料では人口の30%は他市町村からの移住によるとされている。これはこの地域が比較的住宅用地を手に入れやすい環境であったことに起因する。

沖縄戦当時や沖縄本土返還時から30%の増加は他の地域と比較すると、それほど大きな増加率ではない。

 具志頭村史に掲載されている新城の拝所

  • 御嶽: 上江洲ヒラ嶽、ハチャノ嶽、オケノハナ嶽、火之神御嶽、トドミ之御嶽 (現存せず)
  • 殿: 安里之殿、山城之殿、城間小之殿、蔵庫裡之殿、仲村渠之殿、シュマ之殿、外間之殿、新城之殿、仲之殿、セル川之殿、仲外間之殿
  • 泉井: 真嘉戸井 (マカトゥが-)恩井 (ウーガ-)上之井 (ウィーヌカー)滝井 (タキガ- 御廃寮井 グヘーローガ-)、下之新井 (シチャヌミ-ガ-)、上之新井 (ウィーヌミ-ガ- 現存せず)、ヌチヌビ井 (現存せず)


新城古島

新城グスクの近くに新城古島であったと考えられる場所がある。アマミキヨ族が13世紀から14世紀にこの新城に移住し、先住民と合流して新城集落を造った場所だ。民家はほとんどなく、一面畑となっている。


新城 (あらぐすく) グスク

新城 (あらぐすく) グスクは新城集落の北西の丘陵地の標高約90mのところに位置していた。このグスクがいつの時代に構築されたのは不明だが、この地を調査した際の出土品から14世紀頃初頭と推測されている。

このグスクについては幾つかの伝承があるのだが、いずれも確かなものではない。一説では、南山国 第二代 (?) 汪英紫 (おうえいじ) が初代 (?) の承察度を1380年に島尻大里城から追い払い、南山国国王に即位する前、まだ八重瀬按司であった時代に島添大里按司や玉城按司を倒す為、八重瀬グスクから攻略目標の島添大里城との中間点にこのグスクを築き、息子の汪応祖をいれた。築城後三年で島添大里城と五年後 (1385年) には大グスク城を攻め落とし、汪応祖を大グスク城に移し大グスク按司とし、戦略的価値が終わった新グスクは長男の達勃期に任せた。別の説では築城途中に首里(王府)から破壊を命じられ、未完のまま放置されたと伝わる。ただこの説には少し疑問がある。新城グスクのすぐ近くに出城としての山グスクがあり、この出城は糸数グスクや玉城グスクの攻撃に備えたとされている。築城途中の城に出城を築くことは不自然と思われる。また、発掘調査から推測されているのは、この新城グスクには何代かにわたって城主がいたとされているので、築城放棄ではなく、第二尚氏三代尚真王が全国の按司を首里に住居を移させたことが築城中止とされているとする研究者もある。この見解の方がすっきりとする。汪英紫の南山王としては1388年 - 1402年 で八重瀬按司の時代はその前20年程と考えると、14世紀半ばにこの新城グスクを築城したと考えられる。遺跡調査では14世紀初めとなっているので、汪英紫がここに島添大里城攻略の為に拠点を置く前から、何かがあったのではないだろうか? この新城グスクのすぐ近くには、アマミキヨ族が13世紀から14世紀に移住し、先住民と合流して新城集落を造ったとされている場所がある。この時代に御嶽などを造っていたと考えられる。その場所を汪英紫がグスクとして要塞化したのではないだろうか? また、尚真王の時代は1669年 - 1709年であるから、汪英紫の時代からは約300年後になる。この間に、南山国のグスクとして何代かの按司がいたであろうし、南山が尚巴志に滅ぼされてからは尚巴志一族が按司としてこのグスクに入城したであろう。グスクの構成は本丸と二の丸からなっており、新城神宮の裏の高台が本丸であろう。二の丸は新城農村公園となっている。本丸があったであろう場所には野面積みの石垣が残っていた。

二の丸と推測される所にある農村公園には沖縄県や鹿児島県奄美群島に伝わる悪霊のマジムンだろうすべり台や龍の水飲み場、いつ行ってもロープで立ち入り禁止になっている展望台がある。ここに来るのは二回目だが、この公園に人がいるのは見たことがない。この新城ではマジムンと相撲を取ったという民話がいくつか残っている。いずれも怖い話ではなく、ここの民もそれほどマジムンを恐れていないように思える。


新城神宮

グスク内に鳥居が立つ新城神宮がある。小さいが立派な祠がある。この新城神宮は明治時代末からの国家神道政策の産物と考えられる。もともと新城には上江洲ヒラ嶽、ハチャノ嶽、オケノハナ嶽、火之神御嶽、トドミ之御嶽 (現存せず) の五つの御嶽と安里之殿、山城之殿、城間小之殿、蔵庫裡之殿、仲村渠之殿、シュマ之殿、外間之殿、新城之殿、仲之殿、セル川之殿、仲外間之殿の11の殿があった。国家神道政策で、各村で点在している御嶽と殿を神道の神と合祀し一か所にまとめて神社を置くというものであった。これは合計16もの御嶽と殿出の祭祀の経費が村民にとって大きな負担になっていたこともあり、この村では拒否する理由もなかった。そして、グスクの跡地に1936年 (昭和11年) に五つのお嶽の神体と神道の神を合祀する新城神社を上江洲ヒラ嶽があった場所に建立した。この神社な沖縄戦で焼失した後、1956年 (昭和31年) に再建し、新城神宮とした。

新城神宮の裏側にある岩場には拝所がある。名前が書かれてはいるのだが、何の拝所かはわからなかった。(資料にもこの拝所は出ていない)


山城 (やまグスク)

新城グスクの近くに山城 (やまグスク) があり、山城は新城グスクの出城と伝えられ、糸数グスクや玉城グスクの攻撃に備えたとされている。現在は採石などでグスクの大部分は削り取られている。先に訪れた後原集落から見た写真が左で、右がこの新城グスクの近くで撮った写真だが、どちらにも採石場があった。まだ採石は続いているようで、ますます山グスクは小さくなっていくのだろう。


門中墓群

グスクのある丘陵にはいくつかの丘がある。このような丘は、墓が集まっていることが多い。この丘も多分そうだろうと思い入ってみると、やはりあった。この新城集落の門中の墓だ。


新城の石獅子

新城には部落の4隅に東西南北を守る石獅子が4体あったそうだ。一つは沖縄戦で破壊されて現存しておらず、どこにあったかを覚えている人もいないという。残りの3体のうち一つは30年年ほど前に誰かに持ち去られてしまい、現在集落に残っている石獅子は2体のみとなってしまった。


南の石獅子

新城グスクの中に南の石獅子がある。この近くには火返し池 (ヒケーシグムイ) と呼ばれる池があり、この石獅子と対で火の精がいると伝わる火山 (ヒーサン) と考えられた八重瀬岳の方向を向いている。先に訪れた富盛の大獅子が造られて、同じような理由でこの新城にも石獅子が造られたのだろう。富盛の大獅子が造られたのが第二尚氏王朝の11代尚貞王 (1669年 - 1709年) の1689年とされているので、この石獅子はそれ以降に造られたことになる。


北の石獅子

残っているもう一つの石獅子は公民館の近くの住宅街にあった。この石獅子は北東の糸数グスクの方向へ向いている。


新城公民館

新城グスクのある丘陵を降りると、17世紀後半頃から集落が拡張された、区画整備された地区にはいる。そこに公民館がある。公民館の前は長く広い馬場 (ウマィー) がある。このウマィーは御拝領馬場 (グへーローウマィー) とも呼ばれ、琉球王朝の首里王府から拝領したもの。

この馬場で (ウマィー) でかつては、旧暦4月の畔払い (アブシバレー) や旧暦5月15日のウマチーに沖縄競馬の馬勝負 (ウィマスーブ) が行われた。競馬は宮古産の小型の馬が使われ、馬勝負 (ウィマスーブ) は全力疾走 (マルガケ) ではなく、跳び足 (トントンバイ) で競う、馬の装備や飾りも審査対象となるため、馬主はかなりの費用をかけて準備をしていたそうだ。現在は沖縄の他の地域でも沖縄競馬が行われているところはほとんどなく、ここに掲載した馬勝負の様子は、数年前から再開の試みをしている地域のもので、この新城ではもう行われていない。

公民館の前にこの地の伝統舞踊であるシーヤーマーの記念碑が立っている。このシーヤーマーは村の女性が椎の実を拾う様子を踊りにしたもので、第二尚氏王朝第18代尚育王 (1835年 - 1847年) の冊封に首里に訪れた冊封使一行の前で披露された。この際に褒美として馬場 (ウマィー) を拝領している。


恩井 (ウーガ-)

恩恵という語は、琉球方言ではウンジと言い、元来はウンジ井と称していたが、ウンジが転訛してウとなり、ウンジ井はウー井と呼ばれるようになった。ゥー井とは、恩恵を受ける井の意味。恩井についの由来がかかれていた。「近世琉球時代から、明治の終り頃まで、新城村に地人寄合 (ジーンチュユレー) と称する組織があった。地人寄合は村落行政の最高議決機関で、十五歳以上、五十歳以下の男性のみで組織されていた。地人寄合の会議のことを村揃い (ムラズリー) または村吟味 (ムラジンミ) と言った。村揃いで協議されることは、村の共有する百姓地の個人への割当て、貢租の個人への割振り、村費の個人への割振り等であった。村揃いは村屋の庭で行なわれた。村屋が出来る以前は、新城城跡の下の広場で行なわれた。個人の利害に関する協議が多かったので、人々は、気が高まり喉がかわき、協議はよけいに白熱化し、まとまらなかった。気が高まり喉がかわくと、人々は申し合わせたかのように、近くの井に行き喉うるおし気を鎮めた。おかげで、協議は順調に進み良い結果が得られた。そこで、新城村の人達は、この井を、恩恵を受けた井、つまり恩井と称するようになった。」


真嘉戸井 (マカトゥガ-)

丘陵の麓の住宅街には、四坪ほどの広さで、水汲場・物洗い場の施設が設けられ、水量豊富な村井であった真嘉戸井 (マカトゥが-) が形式保存されている。この井戸には伝承が残っている。「昔、具志頭間切の新城村に、清らかな水の湧き出る泉があった。稲大祭の度毎にその三日前から、村人はこの井の水を汲んで来て神酒を造り、それを五穀神に供えた。ところで、新城村に真嘉戸という人がいた。真嘉戸は神酒を造るのが上手だった。そこで、その主人は真嘉戸に神酒造りを命じた。真嘉戸は早朝からタ方まで何度も何度も真嘉戸井よりかめでもって水を運んだ。そして、くたくたに疲れたのでかめを井のほとりに放り出し、天を仰いでひざまずき、嘆きの涙を雨のように流した。すると、どこからか白髪の老人が現われてそのわけを間うた。真嘉戸はこれに対して沖縄中どこの間切でも穂祭や稲大祭がある。そして、その度毎に神酒を造り、祭祀の時に五穀神に供えている。今は稲大祭の前である。そして神酒をつくるために何度も何度も骨折り苦しんで水を運んだので、体は疲れ果ててしまったので、このように嘆き悲しんで泣いているのです。と言った。老人はその姓名を間うた。新城村の真嘉戸であると答えた、そこで老人は、君はこれから間切の長の所に行き、今後具志頭間切においては、穂祭 (ウマチー) は稲穂祭だけでよいと告げよ、また、この井は真嘉戸井と呼び君に与える。これから君が門を出る時には必ず「真戸井の水は舞うように愑き出て来る」という文句を唱えなさい。そういうようにして門を出たならば、君は禍や災難に遭うこともなく、多幸で一生を終わるであろうと言って雲に乗って天に昇って行った。」


上の井 (ウィーヌカー)

麓の集落からグスクへ至る場所は上江洲山 (ウィーズ山) と呼ばれ、この井戸へは上の井坂 (ウィーヌカービラ) をとっていく。井戸は別名上江洲井 (ウィーズ井) とも言われ、琉球石灰岩の基底より水量豊富な地下水の湧き出ていた。面積は18坪、琉球石灰岩を加した石材で、水汲場・物洗い場が設置されていた。この井戸は、水量が豊富で早魃の時でも水の渇れることはなく、古来、新城村落住民や後原屋取マージ地域民の飲料水・生活用水の水源で、特に、新城村落では、村の水がめと言われた。部落の女性たちがが水桶を頭に載せて、上の井坂を下り上りして水を運んでいたそうだ。この写真の井戸が上の井 (ウィーヌカー) なのかは分からないが、これ以外に井戸跡は見当たらなかった。


滝井 (タキガ-、御廃寮井 グヘーローガ-) 

新城グスクから南西に丘陵を下った村道の脇にあると書かれていた井戸を探す。最近は文化財探しに慣れてきたのか、何とか見つかった。かつては石版岩を加工した石材を用いて、水汲場・物洗い場が設置されていたそうだが、今は井戸はもうなくなっており、水場だったのだろう場所に香炉が置かれている。滝井のすぐ側を通る現在の具志頭村道後原新城線は東風平と 具志頭を結ぶ道路で、昔はここを往来する人々にも大いに利用されていた。


グムイ

戦前は集落の生活で重要だったのが井戸だが、それと同じぐらい溜池のグムイの各所に造られていた。公民館の北、集落の端にこのグムイがある。池の周りは石垣が詰まれ、水場に降りる道も残っている。この池で、農作業を終え鋤や鍬、馬を洗い、子供たちは水浴びをしていたことだろう。これほどそのままで残っているグムイは初めてだ。


その他の井戸

集落の路をくまなく回ったのだが、上の三つ意義の井戸はみあたらなかった。 具志頭村史では以下の井戸が記載されている。各井戸にはその場所の住所が記載されているのだが、その住所で検索できる地図が見当たらない。ゼンリンの地図は番地まで指定して検索できるのだが、検索できる番地は住居がある場合だけで、番地はあるが住居がないところは検索ができない。沖縄での番地は規則的に並んでおらず、非常に不規則な番地となっている。畑などは検索できず。下記井戸跡を見つけるのは、現地の人に聞く以外方法は無いようだ。

  • 下之新井 (シチャヌミ-ガ-) ー 昭和40年代初期には利用者がなくなり、井戸は埋められて、現在は畑になってしまっている。明治時代は玉城間切前川村に玉頭尋常小学校が置かれた時代、具志頭間切の多くの生徒は、この井の側を通って玉頭尋小学校へ通った。その登校下校の際、この井は、生徒達にとって喉のかわきを潤し、休息の場所として広く利用されたそうだ。
  • 上之新井 (ウィーヌミ-ガ-) - 昭和40年代に埋上され現存しない。
  • ヌチヌビ井 - 昭和40年代に埋上され現存しない。



石畳の路

集落の坂に石畳の路が残っている。いつの時代なのかは分からないが、沖縄の昔の風情を残していた。


ユーリー原

察度王統の最後の王の第二代武寧王が尚巴志に滅ぼされた際に、察度の義弟の泰期 (タイチ) の三男の新城按司は、一族を連れて、このユーリー原に逃れ、小集落をつくったが、この地は立地条件が悪く、三代を経た後、新城集落に移っていった。新城集落の外間門中の祖と言われている。現在は民家などはなく、一面畑になっている。

新城にはいくつか養牛場があるので、その匂いが集落の丘陵側は常に漂っている。沖縄では放牧ではなく牛舎で育てているようだ。北海道を周った時は放牧が主で、牛も自由そうに見えたので、少しかわいそうだ。養牛場の一角に講師だけを集めた牛舎があった。まだ、大型犬ぐらいの大きさで、写真を撮っていると寄ってきた。何ともかわいい連中だった。


新里洞穴遺跡

新城集落の南にはカルスト地形が広がり、多くの洞窟跡がある。その一つが新里洞穴遺跡で、調査結果では、沖縄貝塚時代後期 (11 - 12世紀頃?) 先住民やアマミキヨ族がこの洞窟の住んでいたと推測されている。沖縄戦当時は歩兵89連隊第二大隊第七中隊が使用していた。

この新里洞穴遺跡を探すのだが、入り口が見つからない。地図上での位置はわかっているのだが、そこへの道が分からず。道らしきところがあると入っていくのだが、なかなか見つからない。その一つの行き止まりにやはり洞窟があり、墓地となっていた。一つの墓は崩れ、遺骨を納めている甕が壊れ、遺骨がむき出しになっていた。これはよくある光景で、今は驚かない。風葬で遺骨を綺麗に洗い、遺骨をそろえて甕に納めている。この遺骨もきれいに骨が揃えられている。合掌。沖縄の根強い祖先崇拝を再認識させられた。

10月3日には新里洞穴遺跡は見つけられなかったので、今日は反対側からこの洞窟への道をそがすことにした。(後で調べると、10月3日の場所から奥に行ったところにも入り口があるとなっていたので、道は間違っていなかったのだが、ジャングルのようになっていて、それ以上は奥には行けなかった)集落南のはずれを走っていると、古そうな建物があったのでそこに行くと、奥に崖を下る道がある。もしかしてと思い、降りていくと大きな洞窟だった。洞窟はかなり下まで続き、急な岩場を降りていくことになる。底には水が溜まっており、岩場を伝って落ちる水滴の音が洞窟内で反響している。下は真っ暗で、懐中電灯を自転車に置いてきてしまい、足場の滑りやすいので、下まで降りるのを断念した。地下の大きな暗い空間に一人でいると、だんだん心細くなってくる。ここで足を滑らせ転落したら、下がどうなっているのか真っ暗でわからない。誰も助けに来てくれないだろうなどと考えていると、ここまでで十分と言い聞かせて、注意しながら。崖を登り洞窟を出ることにした。

洞窟の下から上を撮った写真。ここに住んでいたアマミキヨ族や沖縄戦で戦った兵隊もこの光景を見ていたのだ。


ガンデ原貝塚跡

洞窟を上がると、そこは原っぱが広がっている。ここには貝塚が発見されている。沖縄貝塚時代に先住民やアマミキヨ族がいたと推測され、ガンデ原貝塚人と呼ばれている。ここにある洞窟に住んでいたのだろう。そのガンデ原貝塚人のゴミ捨て場だった。現在は採石で貝塚は残っていない。


龕屋 (ガンヤー)

たまたま見つけた建物がこれだ。これを見つけなければ、洞窟も見つからなかった。ここが龕屋 (ガンヤー) であるとの情報はないのだが、他の集落で見た龕屋の形と酷似しているので明らかにそうだろう。


ヌヌマチガマ (第32軍の第24師団 (山部隊) 第一野戦病院 新城分院)

同じカルスト地域に沖縄戦の遺構の洞穴がある。後世に沖縄戦を語り継ぐために、保存公開されている。沖縄戦当時、第32軍の第24師団 (山部隊) 第一野戦病院 (八重瀬岳訪問時に見学をした) の分院の一つが設置され、新城分院と呼ばれていた。沖縄県立第二高等女学校 (白梅学徒隊) の4年生56人が、第32軍司令部の要請を受けて1945年3月24日から第24師団第一野戦病院に緊急配置され、6月4日までの73日間、八重瀬岳の本部壕、手術場壕、新城分院、東風平分院でそれぞれ補助看護として負傷兵の看護に当たった。このガマには4月下旬に5人の学徒が派遣され、軍医・衛生兵・看護婦・地元の女子青年・朝鮮出身女性の方々と共に1000人を超す傷病兵がひしめくガマの中で昼夜を徹して過酷な任務に就いた。学徒たちの役目は主に、負傷兵の救急処置や手術・包帯交換時のろうそく持ち、傷病兵の搬入が増え続け、ガラビガマ側にも病室が広がっていった。6月4日に第24師団第一野戦病院は解散となり、最後まで勤務した46人の学徒は、鉄の暴風が吹き荒れた地上戦に巻き込まれて22人が戦没した。

このヌヌマチガマは地下で新里洞穴とガラビガマともつながっており、ヌヌマチガマとガラビガマで300mもの長さになり、総延長は500m。

このガマの見学には事前予約が必要で、その予約にはガイドをアレンジしたうえとなっているので、少々面倒だ。時間も指定となるので、今回は中に入ることはあきらめた。いつか余裕があるときに来ることにしよう。インターネットに掲載されたガマ内部の様子を拝借。本当は内部の見学よりも、ガイドさんの話が聞きたいのだが....

YouTubeに沖縄県 沖縄戦継承事業チャンネルがあり、そこには沖縄戦での出来事や戦争体験が語られている。それぞれの動画は2分ぐらいなのだが、テーマや出来事ごとに分けられているので、興味あるものを選んでみることができる。よくできている。多くは胸が詰まってしまうが、それが現実に起こっていたと思うと、洞窟だけ見てすごいだけではなく、そこで何が起きていたのかをちゃんと理解しなければという思いになった。

https://www.youtube.com/playlist?list=PLfpVhy9KhFSjd6sGc72cPvqJSdl9kd5-J


八重瀬町戦争遺跡公園

ヌヌマチガマの前は八重瀬町戦争遺跡公園。公園はがじゅまるの森があり、幾つかガジュマルの巨木がある。森の中は遊歩道となっており、綺麗に草も刈られて整備されている。遊歩道は高台の展望台まで続いている。

壕口

遊歩道の脇には壕がある。ここからもヌヌマチガマやガラビガマに繋がっていたのだろうか?

監視廠跡

展望台の場所は沖縄戦当時は対空監視哨が置かれていた。

ここからは360°の視界が開け、東シナ海や首里までも見渡せる。


ガラビ壕

ヌヌマチガマと洞窟内部で東側のガラビガマとつながっている。出土品から、ここにも、先住民やアマミキヨ族が住んでいたと考えられている。沖縄戦当時は、⼋重瀬岳にあった本院が戦線の悪化により収容しきれなくなり、1945年4月下旬にガラビ壕に分院が設置された。(さらに 5 月下旬には⼋重瀬町東風平に分院が設置されている。) ヌヌマチガマと合わせて、第二十四師団第一野戦病院壕分室として使われ、収容人員は1000人に上った。戦況の悪化などにともない、前線の後方に位置するこの壕が主に使われるようになったが、6月3日、米軍の侵攻に伴い他の病院壕と同じように撤退命令が下り、その役割を終えることになる。解散命令で歩ける患者や白梅学徒は壕から退出したが、壕には500名の重傷兵達が残っていた。彼らには青酸カリが配られ、自決を促された。500名分の青酸カリは致死量には十分に確保できず、死にきれない患者が多くいたという、それを衛生兵達が日本刀や銃剣でさし殺していく状況が白梅学徒の一人に目撃されて、後に証言として残っている。

ヌヌマチガマはガイドが付きの平和学習の場で、入り口は施錠されていたのだが、このガラビガマは自由に見学ができるようになっている。県道から森に入っていくと、前方に崖が見えてくる。そこがガラビガマの入り口だ。

壕は、上下二重構造になっており上側は砲兵陣地、下側の壕の入り口には銃座や風葬墓が残っている。写真の石済みは軍が造ったトーチカ。

上部の壕内は暗く、奥までは見えない。ここでも懐中電灯を持ってくるのを忘れた。洞窟の天井には穴が開いてはいるが、洞内を照らすには十分な大きさではない。

洞内にはつらら石の鍾乳石が至る所に見られる。


肉眼では見えないので、フラッシュで撮影した奥の様子。奥への入り口のようなものが写っていた。洞窟にはまだ遺骨が残っているそうで、土を掘ると骨が出てくるそうだ。

ガラビ壕を出たところで、雨が降り出した。近くにある野球場のベンチで雨宿りをするが、一向に病む気配はない。新城集落で見学を予定していたものはほとんど見終えたので、今日はここで終わりとして、帰途につくことにする。雨に濡れての帰路だが、10キロ足らずの距離なので、一時間はかからない。


参考文献

  • 具志頭村の文化財 具志頭村文化財要覧 第1集 (1997 具志頭村文化財保護委員会)
  • 具志頭村史 第2巻 歴史編・教育編・沖縄戦編 (1991 具志頭村史編集委員会)
  • 具志頭村史 第4巻 村落編 (1995 具志頭村史編集委員会)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)

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