Tokaido 東海道 16 (14/11/19) Fuchu Shuku 府中宿

(19) Fuchu Shuku 府中宿

  • 府中宿東見附跡
  • 下横田町
  • 清水寺
  • 徳川家康下馬の松
  • 鋳物師町
  • 華陽院門前町
  • 華陽院
  • 下伝馬本陣/脇本陣跡
  • 上伝馬本陣/脇本陣跡
  • 伝馬町
  • 西郷隆盛/山岡鉄舟会見の碑
  • 新谷町
  • 江川町
  • 呉服町
  • 札之辻町 (東木戸)
  • 駿府銀座発祥地
  • 十返舎一九生家跡
  • 徳川慶喜屋敷跡
  • 徳川家康/竹千代像

駿府城跡

  • 三ノ丸大手門 (大手御門)
  • 城代橋
  • 静岡御用邸跡
  • 駿府町奉行所跡
  • 教導石
  • 四足御門 (よつあしごもん)
  • 横内御門
  • 在番組頭屋敷跡
  • 草深御門
  • 二ノ丸大手門 (二ノ丸御門)
  • 東御門と巽櫓
  • 東喰違御門
  • 御水櫓御門 (御水門) と二ノ丸の水路
  • 北門 (北御門)
  • 清水御門
  • 本丸
  • 内堀跡
  • 天守下御門
  • 台所御門
  • 玄関前御門
  • 天守閣跡
昨夜は雨が降った。まだ小雨が降っている。10時以降は晴れと天気予報はなっている。今日はすぐそこの府中宿で泊まりか、更に進んで藤枝宿まで行くか?天気と体調次第。


(19) Fuchu Shuku 府中宿

府中宿は東海道19番の宿場で江尻宿から2里25町 (10.6km) の距離。本陣2軒、脇本陣2軒、旅籠43軒、戸数3,673戸、人口14,071人。


府中宿東見附跡

ここから府中宿が始まる。西見附まで3.6kmと表示されている。大きな宿だ。徳川氏所縁の地でもあるし、徳川家康が大御所となってからは住居をここに移したので、おおいに栄えたのだろう。


下横田町

駿府九十六ケ町の一つで、府中宿内にはこのようにその地域を説明したものがいくつかある。


清水寺/徳川家康下馬の松

やはり駿府だ。早速、徳川家康所縁の史跡に出くわす。清水寺は家康が幾度となく訪れたという。
徳川家康が建立した観音堂 (左上)


徳川家康下馬の松

寺の前には徳川家康下馬の松なるものがある。寺の前だから、馬からは降りるだろうが、そのような所は数え切れない程あるだろうに、この松に関わる逸話でも書いていれば良いのだが、何も無い。


鋳物師町

徳川家の御用鋳物師が居住していた地域で、一部に細工場があった。


華陽院門前町

これから訪れる華陽院の門前町でこの東海道は久能山への宮道でもあった。


華陽院

家康が今川氏の人質時代にこの近くに祖母の源応尼と住んでおり、この寺を頻繁に訪ねて住職の知短から教育を受けたという。境内には家康自ら植えたと伝わるみかんや松の木がある。
ここは祖母の源応尼 (左) の菩提寺で家康の五女の市姫 (中) と側室お久の方の墓 (右) がある。


下伝馬本陣/脇本陣跡

この通りは下伝馬町と呼ばれ、街道の右側に本陣、左側に脇本陣が置かれていた。


上伝馬本陣/脇本陣跡

もう一つの本陣/脇本陣が上伝馬町に置かれていた。ここには問屋場と荷物の検査を行った貫目改所があった。


伝馬町

江戸城無血開城の交渉が、西郷隆盛と山岡鉄舟の間で行われた場所。


西郷隆盛/山岡鉄舟会見の碑

ここ松崎屋源兵衛宅で西郷隆盛と山岡鉄舟が江戸城無血開城につき話し合いを行い条件が合意され、数日後に勝海舟と西郷隆盛で最終合意に至った。


新谷町 (しんがいちょう)

梳 (おぐし) 神社の神官、新谷右近の屋敷があった事から町名がつけられた。小田原を訪れた際に、江戸時代の町名の由縁を書いた石柱があり、地元の歴史を大切にしていると感心したが、ここ府中でも各町に同じ様な石碑が建ち、道路に説明板が敷いてある。これは徳川家康が整備した駿府九十六ヶ町の案内板の一つ。


江川町

新谷町の隣にあり、今川時代からあったそうだ。


呉服町

今川氏の時代から呉服町は駿府の本町といわれ、 当時から城下の主要地域であった。


札之辻町 (東木戸)

駿府町奉行所が掲示した高札が掲げられていた場所。駿府城御用達のお菓子屋をはじめ、古いのれんのある店が多くあった


駿府銀座発祥地

ここは両替町と呼ばれていた地区で、現在は静岡では最大規模の歓楽街となっている。東京銀座は慶長17年 (1612) に、ここから移された。東京の銀座も当初は両替町と呼ばれていた。


十返舎一九生家跡

明和2年 (1765年) 、十返舎一九はこの地で町奉行の同心の子として生まれる。江戸に出て武家奉公をし、19歳の時に大坂へ移り、大坂町奉行に勤仕したが、ほどなく浪人となり、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者となった。30歳で江戸に戻り、享和2年 (1802年) 37歳で、東海道中膝栗毛を発表し、大ヒット、一躍流行作家となる。


徳川慶喜屋敷跡

徳川慶喜が大政奉還の後、水戸の弘道館至善堂で謹慎。そして、静岡の宝台院に入り謹慎を続けていたが、戊辰戦争が終結後、謹慎が解け、駿府代官屋敷であったこの屋敷で20年を過ごした。現在は浮月楼という懐石料亭となっている。


徳川家康/竹千代像

静岡駅の前の広場に徳川家康の像がある。徳川家康駿府城入城四百年を記念事業の「大御所四百年祭」の一環で平成21 年に北口駅前広場に徳川家康像と幼少期の竹千代像を設置。


駿府城跡

ここ静岡市で一番見てみたいのがこの駿府城。かつて今川義元の館があり、徳川家康が幼少期を人質として過ごし、江戸時代初期は家康の大御所としてここから幕府を仕切っていた場所。日本の歴史で一時期は中心になっていた場所だ。現在は建物は現存していないのだが、インターネットで駿府城の復元図が掲載されていた。
14世紀に室町幕府の駿河守護であった今川氏によって、この地に今川館が築かれたのが始まり。今川氏が武田氏に滅ぼされ、更に武田氏が織田徳川連合軍に滅ぼされ、徳川家康が駿府を領有となり、駿府城を本格的な城郭として整備した。小田原北条氏征伐で家康の関東移封後は、中村一氏が入封。江戸時代初期に家康が徳川秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居。この時代に城の大がかりな改築が行われ、現在残っている縄張りの形が完成。家康の後、十男の徳川頼宣が駿府藩主として入封するが、10年後に紀伊国和歌山55万5千石に転封された後は幕府の直轄地となった。(幕末に駿府藩が復活するも、すぐに廃藩置県で廃藩となっている。)

駿府城をいつも通りに、城の縄張りをチェックしながら見学をする。城内に解り易い縄張り図が掲載されていた。これを見ると、当時の縄張りの輪郭は現在までも保たれている。城構えの構造は平城特有の輪郭式で、本丸を二の丸が囲み、更に三の丸が囲む様になっている。それぞれは堀で防御を強化しているのだが、駿府城は本丸を囲む内堀は全く残っておらず、中堀で囲まれている二の丸内が公園となっている。三の丸跡は公共機関に占められて、外堀は60%ぐらいが残っている。下の図の左側が実際に歩き回った軌道で右の図の縄張り図とほぼ一致している。時代とともにずいぶんと変わってしまってはいるが、城の輪郭がよくわかる様に残っている。更に三の丸の外側は総構えになっていた。先に訪れた小田原城の総構えの影響がここに出ているのだろう。午前中に回った静岡市内が総構えにあたる。

まずは三の丸から巡る、三の丸への入り口は4つあった。大手門、四足御門、草深御門、横内御門。


三ノ丸大手門 (大手御門)

城の玄関にあたる大手門から見学を始める。大手門は三の丸堀 (外堀) を橋で渡った所にあり、三ノ丸への入り口であった。他の城門と同じく枡形となっている。この門は身分の高い人 (徳川一門、御三家、譜代、高級武士、天皇の勅使、大名、僧侶、公卿、側室) などが出入りを許されており、その他の人は横内御門、草深御門、四つ足御門から三の丸に入ったそうだ。

三の丸大手御門を入ると三の丸があったのだが、現在は静岡県庁が立っている。三の丸のはこの他に病院、学校、警察署など公共機関の建物が多くある。他の城跡と同じく三の丸は公共施設に使われていることが多い。


城代橋

当時の三の丸への四つの門以外に、三の丸への橋があった。城代橋と書かれている。この橋は明治30年に架けられたもので、近くに城代屋敷があったことより、この名がつけられた。


静岡御用邸跡

現在の市役所の場所には静岡御用邸があった。明治33年 (1900年) に作られ、明治天皇はこの御用邸に17回も宿泊した記録が残っている。明治天皇以前は天皇は皇居から出ることはほとんどなかったことを考えると、薩長政府の政治的な意図もあったのだろうが、明治天皇は活発に外に出て行っていることには感心する。昭和天皇は昭和5年に一回のみ。これを最後に昭和7年に静岡県に払い下げとなった。

年に一度しか使われない御用邸にしてはかなり広い敷地に建っていた。


駿府町奉行所跡

この橋の外側には駿府町奉行所があった。現在は葵区役所になっており、駿府町奉行所跡記念碑が建っている。駿府町奉行所は大手組と横内組 (元禄15年 [1702] に廃止) の二ヶ所あった。現在の静岡市役所・葵区役所のある場所が、幕末まであった大手組。駿府町奉行の役人は、やがて大坂町奉行や京都町奉行に抜擢される旗本のエリートの登竜門だったそうだ。  駿府町奉行所の役人は、与力 (六騎)の下に同心が60人 、清水港を取り仕切る水主 (かこ)が50人が配置されていた。両替町に住んでいた十返舎一九はこの同心の家で育った。葵区役所玄関には明治維新以降に設置されたガス燈が残されている。

駿府城下町には安倍川を水を引いて来た用水路 (町方用水) と鯨ケ池から引いて来て堀に流れ込む御用水が整備され、浄化用水や防火用水、それに悪水 (中水) の処理、農業用水として使われていた。


教導石

県庁前の端の袂に1886(明治19)年7に山岡鉄舟の筆の石柱が建っている。これは教導石と呼ばれ「富や知識の有無。身分の垣根を越えて互いに助け合う社会を目指す」との趣旨で造られて、石の右側面の「尋ル方」に、住民が何か分か らないことや相談事などを紙に書いて右側面に貼り付け、左側面の「教ル方」にその回答を貼るというものだった。その他、広告や案内なども貼り付けられていたそうだ。明治という新しい時代に啓発活動の一端が垣間見える。


四足御門 (よつあしごもん)

大手御門がある南側の外堀にはもう一つ入り口があった。文字通り4つも門柱があった事でこう呼ばれている。この門は主に軍用に使われ、駿府定番を筆頭に武士団の出入口であった。


横内御門

三の丸堀 (外堀) の東側には横内御門があった。横内御門の前には町奉行所の横内組が置かれていた。大手御門からこの横内御門に至る三の丸には武家屋敷があったそうだ、現在は、静岡大学附属中学校/小学校、城内中学校が建てられている。


在番組頭屋敷跡

横内御門を入った三の丸は、現在、市民会館になっている。そこには在番組頭屋敷があった。徳川家康の没後、元和5 (1619) 年以降、駿府城は幕府直轄となり城代が置かれ、城内には幾つかの組に分けられた番衆が警護を行っていた。ここは、その組頭の屋敷があった場所であった。


草深御門

外堀に沿って北側にあった草深御門に行く。

草深御門の近辺の三の丸の地域には武家屋敷があり、武士たちが駿府城へ登城する場合の通用門で、この門から二ノ丸に通じる北門から入城した。 現在は体育館と葵小学校になっている。

三の丸の西側は外堀を渡る橋は存在しなかったのだが、今は橋がかけられている。三の丸の西側も公共施設として利用されている。幼稚園、高校、地方裁判所がたつ。西側の外堀は埋められずに残っている。

これで外堀に囲まれた三の丸を一周したことになる。次は二の丸に向かう。二の丸への道は資料によってまちまちだ。5つのものもあれば4つ、そして3つのものもある。よく調べてみると、橋で繋がった入り口は3つ、船で入る水門が2つ。(清水御門については水門かどうかははっきりとはわからなかった)


二ノ丸大手門 (二ノ丸御門)

三ノ丸大手門から次の二ノ丸に出入りしていた門だが、現存していない。現在は県庁裏から二ノ丸に出入りする橋があるが、これは後に明治以降に作られた橋で、江戸時代のものではない。

二ノ丸御門は石垣で塞がれてしまっている。下の写真の場所がもともとの端があった場所。

ここから橋をわたりまずは高麗門をくぐり二の丸にはいるのだが、この高麗門跡は石垣が塞がれて、確認はできなかった。この門は枡形になっていたそうで、ここからもう一つの門である渡櫓門がある。写真にあるのはこの渡櫓門。ここを通ると、二の丸御門広場に出る。この先が先ほど触れた県庁裏に作られた新しい端のところに出る。ただ、かつてはこの二の丸御門広場の先は西側は行き止まりになっており、東側に本丸堀 (内堀) を迂回しないと本丸にはたどり着けない様になっていた。この駿府城は非常に複雑な城構えになっている。さすが大御所の居城だけある。

ここから本丸への道の途中、二の丸の南西の角に櫓が再現されている。南西は未 (ひつじ) と申 (さる)の間であるため、坤 (ひつじさる) 櫓と呼ばれている。二層三階構造となっており、当時は武器庫として使用されていた。

堀の外側の三の丸敷地には静岡地方法務局が建っているのだが、かつてはここに静岡学問所が置かれていた。

この櫓がある場所は二の丸の中で西の丸であった。そこから見た坤櫓。

西の丸からは富士山が綺麗に見える。このところ毎日富士山が見える。所々でその見え方は違うので、旅の楽しみの一つだ。自転車旅ならでは...


東御門と巽櫓

中堀の東側にあった東御門と巽櫓は寛永12年 (1635) に焼失したのだが、その後に再建された建物が幕末まであった。現在の建物は、再建された当時の設計図により再建されており、その時の構造そのままのものである。

東御門が架かる中堀に十遍舎一九が書いた東海道膝栗毛の弥次喜多像があった。

門の内側は枡形になっており、入り右側にさらにもう一つの門があり、二の丸に入る。

巽櫓を二の丸から見たところ。


東喰違御門

巽櫓から本丸へは、東喰違御門を通るのだが、この門は二つの石垣が互い違いに建てられて。一種の枡形を形成していた。今はその石垣の片方しか残っていない。


御水櫓御門 (御水門) と二ノ丸の水路

城の古地図の中堀東側あるこの門には橋は無いのだが、他の地図では橋が架かっているものがあるが、橋はなかった。ここは船で入る水門になっていたのだ。清水港から巴川を登り、城下の横内御門から三ノ丸に通じる水路を通り、御水櫓御門にまで来れる様になっていた。二ノ丸堀から本丸に通じる水路の入口には、船をチェックする船櫓門がある。家康がこの門を作らせたのだが、この様な船で城に入る門が残っているのは非常に珍しい。

更に本丸堀の堀に通ずる水路が発見され、復元されている。水路は細く、90度に曲がっている。外敵が城内に一気に攻め込めない工夫がされている。

この水路の横には、小堀遠州の作庭による本丸御殿にあった紅葉山庭園をこの二の丸に復元しているが、当時のものとは全く異なる。名前だけ継承している。


北門 (北御門)

中堀の北側を見てみる。

北側の草深御門から三ノ丸に入り、三ノ丸から二ノ丸に入る門がこの北御門、これが5つの入り口の一つ。門の両脇の石垣に登ると武者走りがある。そこから北御門の橋がよく見える。ここからこの橋を渡る敵を攻撃できる様な作りになっている。橋を渡ったところには高麗門があり、そこをくぐると石垣が斜交いに作られていたと案内板にはある。斜交いの石垣で枡形を形成していたのだ。ここを入ると、先ほど見学した二ノ丸の水路の北にある紅葉山庭園の場所。

二番目の門は馬場崎御門と呼ばれており、その名のごとくここには馬場があった。今は門があったとはわからない。表示板でそれがあったことが分かるのみだ。


清水御門

二の丸への5つ目の門のところに来た。清水御門と呼ばれている。中堀の西側に設けられた入口で、二の丸御門とほぼ同じ様な作りで、まず高麗門を通り石垣で囲まれた枡形内を経て渡櫓門から二ノ丸へ入ったのだ。この門の北側には西喰違御門があり、やはり複雑な構造になっていた。インターネットにあった城の縄張り図ではこの清水門には橋が架かっているものと、いないものがあり、調べたがはっきりとはわからなかった。石垣の上には武者走りがあったのだろう、今は遊歩道になっている。


本丸

三の丸、二の丸を廻り終わったので、次は本丸跡を散策する。かつては本丸は内堀に囲まれて、二の丸からは三つの門から入ることができた。現在はほとんどの内堀が埋められてしまい、公園内で本丸と二の丸の間にあった内堀の場所を特定するのは難しい。


内堀跡

本丸跡の東側に内堀跡が残っている、先に見た水路がこの内堀につながっている。


本丸への三つの入り口は天守下御門、玄関前御門、そして台所御門だが、いずれも現在では消滅してしまっている。


天守下御門

城の北側の北御門から二の丸にはいり、馬場崎御門をへて、内堀にかかる天守下御門から本丸に入る。本丸の西北の隅にあった天守閣のすぐ横に通じていた。今はその面影もないのだが、発掘調査をしている天守閣は架設の板塀があるので、このへいが天守と本丸の境に近いので、この辺りに門があったと思われる。


台所御門

台所御門も場所が特定できるものは無くなってしまっているのだが、水路のすぐ北にあったと縄張り図にあるので、この辺りだろう。


玄関前御門

ここが将軍や大名の正式の途上口となる。大手門で三の丸にはいり、東御門で二の丸に、そしてこの門から本丸へのルート。現在は内堀もなく、石垣やもんも残っていない。後から作ったのだろう、低い階段横に案内板があり、ここが玄関前御門と認識できるのみ。


本丸には御殿があったのだが、今はそれもなくただ広い空間が広がる。

本丸跡には徳川家康の像と家康が植えたと言われる蜜柑の木があった。言い伝えでは、駿府城にいた大御所の時代に、紀州藩主は浅野氏より献上された鉢植えのみかんを、この辺りに自ら植えたそうだ。


天守閣跡

本丸の西北の隅に天守閣があった。現在は発掘調査を行なっている。なかなか発掘の様子を直接みることは稀なので、貴重な訪問だ。天守閣を囲んでいる塀には幾つかの説明板があった。その案内板を見ながら天守閣の場所に行くと、ビジターセンターの道標があった。

まずは発掘されている現場を隅々まで回ってみた。石垣も所々積み直されている。これは大変な作業だ。崩れて埋没している石を見つけて、元あった場所を探しながら積んで行っているのだろう。発掘の結果、徳川家康が江戸に移封された後、中村一氏による天守閣石垣と、家康が江戸時代に大御所となってここに戻って来た後に築いた天守閣石垣が見つかっている。

発掘現場にはプレハブ小屋がありそこがビジターセンターになっている。資料が少しあり、係員の女性から長い間説明をいただいた。他にビジターがおらず。世間話にまで及び、藤堂高虎のファンということで、彼が築いた城を訪れたときの感想を話すと喜んでくれ、それからも高虎の話で盛り上がり、結局閉館時間まで話が続くこととなった。2時間ぐらいだっただろうか、楽しい時間だった。

係員さんの悩みは、静岡県、静岡市が文化財保護に対しての意識が高くないと感じているそうだ。この城内では駿府城に関わる、または今川氏、徳川氏に関わる資料館がなく、このビジターセンターのみであった。

静岡市の様に地方の県庁所在地は得てして観光に力を入れていないところが多い様な気がする。(もちろん全てではなく、力を入れているところもある) 観光資源が多くあり、何もしないでも観光地になり、民間が観光を盛り上げているところはそれでも進むのだが、観光資源が少ない、またはないところは、企業からの税金で潤っているところは特に観光を起爆剤とは考えていないので、特に力を入れていない。文化財を観光だけでみることには、異論がある。文化財はその地のアイデンティティーであり、地元の子供達がその地に、その歴史に誇りをもち、故郷を身近に感じるためのもので、観光資源とは別に大切な「文化財」と考え、県民、市民の生活の一部、子供の教育の大切な要素として考えるべきだと思う。その様に考えて文化財を整備しているまちは、民間でその文化財をてこに観光にも利用していこうとの運動が起こっている。県知事、市長、市議会の理解度によって、町によって大きく変わっている。

あとで、静岡市を調べてみたところ、博物館の建設計画があるそうだ。2021年オープンを目指していたが、施設建設予定場所で戦国期の道と武家屋敷の石垣が見つかり、調査の必要が出て、2022年以降へ延期になっている。

この施設ができた際には是非とももう一度駿府城を訪れてみたい。この計画が頓挫しないことを願う。






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