Ride in Setouchi & San-in Day 90 (13/6/19) Okishio Castle Ruins 置塩城跡

Nagoyama Cemetery 名古山霊園
Okishio Castle Ruins 置塩城跡
今日は赤松氏の居城であった置塩城に行く。市内ではこの城の観光案内はそれほど見当たらなかった。黒田官兵衛ゆかりの地の案内には載っているのだが、この案内書も置いているところが限られているようだ。見つけたのは一ヶ所のみ。
通り道に水尾川沿いに遊歩道があり、そこを通って行く。
前方に塔が見える。昨日から気になっていた。通り道ならば寄ってみよう。
近くまで来て墓地である事がわかった。道路標示がある。観光地なのか?

Nagoyama Cemetery 名古山霊園

名古山の山上一帯に葬儀会場、斎場、寺院、各種慰霊碑などを併設する墓地で、公園の設備もあった。一番の目玉は1960年(昭和35年)に完成した仏舎利塔で、1954年(昭和29年)にインドのネール首相より贈られた仏舎利が収めてある。
戦死者慰霊塔
仏舎利塔
仏舎利塔を囲む5つの納骨堂
東塔

Okishio Castle Ruins 置塩城跡

姫路市から北10kmのところにある置塩山 (標高370m) の山頂に赤松政則により築城された山城。以後、赤松氏(宗家)の居城となる。天正5年 (1577年)、赤松則房の時、播磨国に侵攻してきた羽柴秀吉に戦わず降伏。天正8年 (1580年)、秀吉の城割令によって廃城、建物や石垣は解体して姫路城に移された。現存する姫路城の「との一門」は、この時移築。
築城から秀吉に屈服するまで100年に渡り、赤松氏5代が城主であった。この5代を見ると赤松宗家の変遷がわかる。
  • 一代目 赤松政則 - 管領細川勝元の力添えで、播磨国・備前国・美作国の三国の守護に返り咲く。当時の国衆の力が強く、三国を完全に統一することはなかった。
  • 二代目 赤松義村 - 七条家から養子の赤松義村が継ぐ。後見に守護代の浦上村宗が就いた。村宗は実権を握り、反発した義村を幽閉し、暗殺。
  • 三代目 赤松晴政 - 反浦上村宗派は、義村の子赤松晴政を密かに三代目城主に据えた。晴政は村宗を倒すが、村宗の子の浦上政宗を服従させることはできなかった。天文7年(1538年) 11月には出雲の尼子晴久が播磨に侵攻し、晴政は摂津国に逃亡。2年後に晴久の播磨国撤退で、晴政は帰国。晩年には浦上政宗のため置塩から退去し、龍野城の赤松政秀の庇護を受けた。
  • 四代目 赤松義祐 - 備前国は宇喜多氏、美作国は浦上氏でおさえられ、赤松の所領はわずか飾東、飾西、神東の三郡だけとなっていた。
  • 五代目 赤松則房 - 最後の城主。羽柴秀吉の中国攻めで、則房を含めた播磨国の国衆達はほとんど戦うことなく降伏し、軍門に下った。秀吉により「城割」を実施され、「置塩城」が筆頭で廃城にされた。則房は阿波国の住吉城に1万石で移封する。
城へは夢前川のほとりから登山口がある。ここは標高50m、山頂が370mなので300m強登ることになる。
南曲輪群 曲輪が何段にも続いている
茶室跡
南西曲輪群
大石垣
ここからの風景
二の丸
三の丸
西曲輪群
ここでまむしに遭遇した。かなりの至近距離だった。早く気が付いてそれ以上近づかず難はなかった。気がつかずに近寄れば危なかった。
台所跡  湿地で水たまりが多くある。そのせいか、木の高いところに蛙の卵がぶら下がって、水たまりには黒山のオタマジャクシ。こんな山中で生存している。たくましい!
二の丸北曲輪群
本丸
瀬戸内海の島々が見える
赤松宗家支城
本丸南曲輪群
北曲輪群があるのだが表示が見つからない。案内図では北曲輪群から下山道があるはず。それらしき所を通って北曲輪群を探すも遂に見つからず。道に迷ってしまった。とにかく下に降りる。杉林の中を下る。少々不安だが、なんとかなるだろう。
麓に到着。策に沿って出口を探し無事に下山。登り口とは随分離れてしまった。
思っていた城の規模より大きく、かつ、下山に手間取ってしまい、夕方になってしまった。5時間の滞在であった。

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