中野区 06 (19/11/25) 旧野方村 下沼袋村 (2) 本村 / 大下
下沼袋村
小字 本村
- 珠光山清谷寺地蔵院 (新義真言宗豊山派) (9月2日訪問)
- 十三仏種子板碑
- 六地蔵 (39番)、庚申塔 (29番)、地蔵菩薩 (37番)
- 庚申塔 (37番) (9月2日訪問)
- 如意山実相院世尊寺 (新義真言宗豊山派)
- 山門
- 石仏群、如意輪観音(32番)、馬頭観音、聖観音、大日如来 (36-37番)、地蔵菩薩像 (33番)
- 本堂
- 庚申塔 (31~34番)、勢至菩薩 (33番)
- 六地蔵 (32番)、不動明王、庚申塔 (28番)
小字 大下
- 大岡稲荷大明神
- 新浮陀山世尊院明治寺 (真言宗東寺派)
- 百観音公園
- 明治寺稲荷大明神
- 勝軍山密蔵院蓮花寺 (真言宗)
- 面打師 大野出目家の墓
- 絵師 鍬形恵斎の墓
- 法光山久成寺 (日蓮宗)
- 瑠璃山薬王寺禅定院 (新義真言宗豊山派)
- 六地蔵
- 石仏群、庚申塔
- 本堂
- 永代供養霊廟、弘法大師修行像
- 牡丹庭園
- 弁天堂
- 墓地
- 永康山東照院貞源寺 (浄土宗)
- 伊庭八郎の墓
- 住心山周清院正法寺 (浄土宗)
- 沼袋共同墓地、地蔵菩薩 (30番)
- 沼袋氷川神社
- 表参道大鳥居 (一の鳥居、二の鳥居)、裏参道大鳥居
- 中野七福神
- 子育て狛犬、燈籠
- 手水舎
- 神楽殿
- 力石
- 道灌杉
- 日露戦役紀念碑
- 社殿境内末社 (天王社、御嶽神社、稲荷神社)
- 三本願い松
(石仏番号は東京都中野区内の石仏 中野区史料館資料叢書 第4号1968 中野区教育委員会による)
昨日、東京に着いた。今回は病院での定期健診で上京。11月27日まで滞在し、その期間で名管区の史跡を巡る。9月に東京を訪れた際に、中野区の旧野方村 (町) の史跡巡りを始め、その中の下沼袋村の一部を見た時点でタイムアップとなった。今日はその続きの下沼袋村内の小字 本村と大下の史跡巡りを再開する。
小字 本村
小字 新橋の北隣が小字 本村で、下沼袋村の中心地だった。1932年 (昭和7年) に中野区が誕生した際に小字の大下と共に沼袋北一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 本村に相当する地域は沼袋三丁目と沼袋四丁目となっている。
珠光山清谷寺地蔵院 (新義真言宗豊山派) (9月2日訪問)
この清谷寺には今年9月に訪れている。清谷寺は鎌倉時代に覚宥が本村内出に小堂の地蔵堂屋敷を建て開山したといわれ、恵深の代になって、地蔵堂屋敷に安置していた木像の延命地蔵菩薩像を本尊とし、この地に移り、寺院として整備し興したという。この中興開山の恵深がいつの時代の僧かは不詳だが、1399年 (応永6年) の銘が入った板碑があり、室町時代前期には既に存在していたものと推測される。当時は、村中の鎮守、氷川神社、八幡神社、第六天など往古より在あったお宮を支配して来たと伝わっている。明治時代の一時期には野方村役場が置かれていたそうだ。
十三仏種子板碑
本堂の前には板碑が三基置かれている。中央のものが室町時代前期の1399年 (応永六年) 銘の緑泥片岩の十三仏種子板碑で、十三仏の梵字種字が刻まれている。十三仏は、死者の追善供養のために其々の忌日法要と年忌法要に割り当てられたもので、初七日 (हां カーン 不動明王)、二七日 (भः バク 釈迦如来)、三七日 (मं マン 文殊菩薩)、四七日 (अं アン 普賢菩薩)、五七日 (ह カ 地蔵菩薩)、六七日 (यु ユ 弥勒菩薩)、七七日 (भै バイ 薬師如来)、百ヶ日 (स サ 観音菩薩)、一周忌 (सः サク 勢至菩薩)、三回忌(ह्रीः キリーク 阿弥陀如来)、七回忌 (आः アーク 胎蔵界大日如来 阿閦)、十三回忌 (आंः アーンク 胎蔵界大日如来 五点具足)、三十三回忌 (वं バン 金剛界大日如来 五点具足 虚空蔵)となっている。板碑には十三仏の種字の梵字が刻まれている。
六地蔵 (39番)、庚申塔 (29番)、地蔵菩薩 (37番)
墓地に入った所には石仏、石塔が並べられている。六地蔵、地蔵菩薩、庚申塔、無縁佛之墓 (写真右上)、有縁無縁一切精霊之墓 (写真右上) などが見られる。
- 六地蔵 (39番 写真中の左と中): 慶應2年造立の六地蔵が置かれている。願大賀地蔵、 金剛宝地蔵、金剛憧地蔵、金剛悲地蔵、金剛願地蔵、放光王地蔵の六体で 1749年 (寛延2年) に講中30人により造立されたもの。
- 庚申塔 (29 番 写真下左から2番目): 1687年 (貞享4年) に造立された笠付角柱で、上部に日月が刻まれ、中央には 「奉供養庚申待二世安楽所 武州多麻郡沼袋村」と刻まれ、下部には三猿が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩 (37番 写真下右から2番目): 1704年 (元禄14年) に丸彫りで造立され、延命草分け地蔵菩薩と呼ばれている。
庚申塔 (37番) (9月2日訪問)
静谷寺の北、西部池袋線を渡った先の道端に庚申塔が置かれている。1740年 (元文5年) に造立された笠付角柱に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛、その下に三猿が浮き彫りされている。地元ではくろんぼ川の地蔵、お化け地蔵とも呼ばれていたという。かつてはこの周辺にくろんぼ川と呼ばれる川が流れており、お化けが出没したという事から、お化けの霊を鎮める為に供養塔として建てたと伝わっている。資料によれば、ここの道は昔からの古道で本村と中道の境にあたり、この庚申塔は道標も兼ねており、摩耗して読めないのだが、「右中村みち 左中野道」 と刻まれていたそうだ。
ここからが今日 (11月19日) 訪れた史跡
如意山実相院世尊寺 (新義真言宗豊山派)
庚申塔の前の古道中野道を東に進むと十一面観世音を本尊とする実相院がある。豊島八十八ヶ所霊場74番札所にもなっている。南北朝時代の1352年 (正平7年、文和元年) に南朝側として新田一族と共に矢島内匠、同図書(現在の群馬県太田市西矢島付近に居住していた新田六郎左衛門慰政義の三男、三郎信氏の子孫) が信濃宮宗良親王を奉じて武蔵に足利軍と戦った。新田軍は武蔵野各地を転戦し、小手指原 (埼玉県所沢市) での決戦で敗れ、矢島内匠、同図書などが結城氏一族とともに沼袋村に落ち延びてこの地に定住し、実相院を建立したと伝わっている。
山門
1981年 (昭和56年) に再建された山門を入ると参道両側に石仏が並んでいる。
石仏群、如意輪観音(32番)、馬頭観音、聖観音、大日如来 (36-37番)、地蔵菩薩像 (33番)
山門を入った参道左側には仏像が並べられている。この仏像のほとんどは個人の供養塔で、この近辺にあったものを無縁塔となったことからこのものを実相院に移されたものだろう。手前から見ていくと
- 如意輪観音菩薩坐像 (32番): 新井3-24の新橋墓地 (現在は柏公園) から戦後に移設された。1691年 (元禄4年) 造立の舟型石塔にあらゆる願いを叶え、苦悩から人々を救済するという二臂の如意輪観音菩薩が浮き彫りされている。石塔上部には梵字種字の ह्रीः (キリーク)、脇には 「奉造立如意輪觀自在尊二世安楽処 願主矢嶋五郎兵衛同行四十三人」 と刻まれている。
- 聖観音菩薩坐像: 1731年 (享保16年) 個人供養塔
- 馬頭観音: 比較的新しく1924年 (大正13年) 造立とある。中野区の資料には掲載されていないが、これも何処からか移設されたのだろう。
- 如意輪観音菩薩坐像: 1782年 (天明2年) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔
- 如意輪観音菩薩坐像: 1684年 (貞享元年) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔
- 如意輪観音菩薩坐像: 1727年 (享保12年) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔
- 胎蔵界大日如来坐像 (37番): 1710年 (宝永7) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔。新井3-24の新橋墓地 (現在は柏公園) から戦後に移設された。石塔上部に梵字種字の अ (ア)と刻まれているのと、法界定印を結んでいるので胎蔵界の大日如来になる。 「為蘭国浄秀信女造之」 と刻まれている。
- 如意輪観音菩薩坐像: 1741年 (寛保元年) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔。
- 金剛界大日如来坐像: 1717年 (享保2年) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔。石塔上部に梵字種字の वं (バン)と刻まれているのと、智拳印を結んでいるので金剛界の大日如来になる。
- 胎蔵界大日如来坐像 (36番): 1702年 (元禄15年)造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔。新井3-24の新橋墓地 (現在は柏公園) から戦後に移設された。法界定印を結んでいるので胎蔵界の大日如来なのだが、石塔上部には金剛界の大日如来梵字種字の वं (バン)と刻まれている。間違ったのだろう。「為芳誉妙薰菩提之 施主 矢嶋八良右門」 と刻まれている。
- 地蔵菩薩像: 1719年 (享保4年) 造立の舟型石塔に合掌地蔵菩薩立像が浮き彫り。個人供養塔。
- その他、燈籠、敷石工事や改築工事に関わった人々や、通行の安全や疫病退散などを願って建立され敷石供養塔、改築供養塔、五輪塔、納骨堂の上には十一面観音、その隣には修行大師なども置かれている。
参道の反対側の脇には
- 如意輪観音菩薩坐像 (上中): 1716年 (享保元年) 造立の舟型石塔に浮き彫り。個人供養塔。
- 地蔵菩薩立像 (33番 左下): 新井3-24の新橋墓地 (現在は柏公園) から移設された。1682年 (天和2年) 造立の舟型石塔に錫杖とあらゆる願を叶える宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、石塔正面左には「奉造立地蔵菩薩為證大菩提也乃至法界平等利益 施主敬白本願矢嶋作兵衛門 八郎右衛門 杏右衛 同行廿八人」 と刻まれている。
- その他、五輪塔が二基、そして燈篭も置かれている。燈籠には地蔵菩薩像が線刻されており、六地蔵の役割も果たしていたのだろうか?
本堂
参道の奥に本堂が建っている。徳川三代家光、四代家綱の時代の寛永慶安年間 (1624年 ~ 1652年) に中興され、中興開山第一世とされる権大僧都専尊が本堂を建立している。本堂は第二次世界大戦で被災して灰燼に帰したが、間もなく再建され、その後の1981年 (昭和56年) に山門、客殿と共に建て替えられ現在に至っている。
庚申塔 (31~34番)、勢至菩薩 (33番)
墓地入口手前には5基の石仏が一列に並べられている。向かって左側から (写真は左から右、上から下の順)
- 庚申塔 (33番): 新井3-24の新橋墓地 (現在は柏公園) から戦後に移設された。1669年 (寛文9年) 造立の唐破風笠付角柱の上部に日月が線刻され、中央には「奉供養庚申石塔二世安楽」と刻み、下部に三猿が浮き彫りされている。裏面には本願 矢嶋作兵衛 鈴木勘左門 謚衆廿二人とある。
- 勢至菩薩 (33番): 元々は沼袋共同墓地にあったが戦後実相院境内へ移されている。1738年 (元文3年) に造立された唐破風笠付角柱に智慧の光で人々の迷いや煩悩を照らし、正しい道へ導くという勢至菩薩立像が浮き彫りされている。角柱右脇に「奉供養得大勢至菩薩二世安楽所」、左脇「奉納西国坂東秩父百ケ所為子孫安全 願主矢嶋権右衛門念仏講中」 とある。
- 庚申塔 (32番): この塔は戦前野方町2丁目1633に在ったが実相院へ移設されている。1713年 (正徳3年) 造立の唐破風笠付角柱の上部に日月が線刻され、中央には邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛、その両脇に二鶏、下部には三猿が浮き彫りされている。脇に「武刕多麻郡沼袋村 奉造立庚申供養二世安樂所 願主矢嶋半兵衛 同行十九人」 と刻まれている。
- 庚申塔 (34番): 新井3-24の新橋墓地 (現在は柏公園) から移設された。1697年 (元禄10年) 造立されたもの。摩耗が激しいのだが、笠付角柱の上部に日月が線刻されている様に見え、中央には合掌六臂の青面金剛、下部に三猿が浮き彫りされている。「奉供養庚申待二世安樂所 武州多麻郡下沼袋村 松原平三郎(他七人)矢嶋重左衛門 (他八人)」 と刻まれている。
- 庚申塔 (31番): この塔は戦前野方町2丁目1633に在ったが実相院へ移設されている。1697年 (元禄10年) 造立されたもの。この庚申塔も摩耗が激しいのだが、駒形石柱中央に合掌六臂の青面金剛、下部に三猿が浮き彫りされている。石塔脇には「奉供養庚申待二世安楽所願主 矢嶋重右工門」と刻まれている。
六地蔵 (32番)、不動明王、庚申塔 (32番)
墓地の入り口を入った所にも定番の六地蔵等が並べられている。
- 六地蔵 (32番):1866年 (慶應2年) に実相院の檀家によって造立されたもので、命日は1838年 (天保9年) から1865年 (元治2年) に亡くなった人の供養塔になっている。
- 不動明王: 六地蔵の向かって右側には造立年不明で摩耗が進んでいる不動明王立像 (江戸時代前期に近くのお堂から移設)
- 庚申塔 (28番): 六地蔵の左側には1715年 (正徳5年) に造立された唐破風笠付角柱の庚申塔が置かれている。元々は沼袋共同墓地にあったが、近年実相院境内へ移されている。正面上部に日月雲、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像が浮き彫りされて、足の両側には二鶏が刻まれ、下部には三猿が浮き彫りされている。「奉造立庚申供養二世安楽所 武州多麻郡沼袋村 願主 矢島六郎衛門 (他10名の氏名)」と刻まれている。
- 金剛界大日如来: 庚申塔 (32番) の隣には1701年 (元禄14 年) 造立の智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像の個人の供養塔が置かれている。
墓地には矢島家の墓で埋め尽くされている。開基が矢島氏で矢島氏の菩提寺でもある事からこの実相院は矢島寺とも呼ばれている。現在でも檀家の半数以上は矢島姓だそうだ。
(庚申塔30番、馬頭観音 31番、地蔵菩薩34-35番、聖観音 34番、大日如来 (34-35, 38番は見つからず。)
小字 大下
小字 本村の東隣が小字 大下で、下沼袋村の北東の端に位置しており、北は江古田村、東は新井村に接している。1932年 (昭和7年) に中野区が誕生した際に小字の本村と共に沼袋北一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 大下に相当する地域は大部分は沼袋一丁目と沼袋二丁目、東側の小域が松ヶ丘二丁目の一部となっている。
大岡稲荷大明神
小字本村から東隣の小字 大下に入った所に朱塗りの大鳥居が建っている。鳥居をくぐり坂道を登ると大岡稲荷大明神が鎮座している。稲荷神社なので祭神として衣食住の租神、農工商の守護神の宇荷御瑰神 (ウカノミタマ 宇迦之御魂神倉稲魂神)を祀っている。
この神社の説明板が置かれている。それによると、
昔、大岡稲荷大神は大和の国の山辺郡にあった石の上神宮の近き郷に鎮座し、後に平安時代始めに紀朝臣良門郷が越後の国に赴任する際に、産業商易の守り神として永く長岡に鎮座し、地域の発展に大きく繋がったと伝わっている。 明治維新後、越後の栃尾の岡に移り、当時植村家に勤務いた開祖 (常吉翁) が古志郡桂谷の岡に本宮を定め奉遷発祀している。開祖の逝去後はその子兄弟が継承。1949年 (昭和24年) に沼袋の現在地に社殿を造営、翌年に宗教法人大岡稲荷教会となっている。
新浮侘落山世尊院・百観音明治寺 (真言宗東寺派)
大岡稲荷大明神の道を東に進むと突き当たりが真言宗東寺派の百観音明治寺で本尊として如意輪観世音菩薩を祀っている。
この寺は開山を松田密信、関基は埼玉県熊谷市玉井村出身の榮照法尼により1912年 (明治45年、大正元年) に開かれて東京三十三観音霊場20番札所になっている。明治天皇が崩御し、明治時代を見送ったという事で明治寺と命名されたという。
本堂は1917年 (大正6年) に建立されたが、第二次世界大戦の戦災で消失し、戦後に再建されている。
百観音明治寺内には、西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十四観音の写し霊場が造られて、その庭園には1916年 (大正5年) 迄に信徒より寄進された100霊場の観音石像が立ち並んでいる。明治寺の正式名は新浮侘落山世尊院明治寺だが、写し霊場に100の石仏がある事から百観音明治寺と呼ばれている。現在では番外も含めて180体ほどの観音石仏が安置されている。
境内には葬式や法事などで使用される百観音沙羅会館、永代供養墓を納めた多宝塔も建てられている。
百観音公園
百観音明治寺境内の一部は中野区に貸与し、百観音公園として開放されている。公園内には太平洋戦争の際に鐘を供出し、台座だけとなっていた鐘楼を、子どもたちのために遊具に改造した石造りの滑り台 (写真右下) がある。
明治寺稲荷大明神
境内隅には開基の榮照法尼が寺の鎮守として生地である埼玉県熊谷の玉井より勧請した豊穣と商売繁盛の稲荷大明神が祀っている。
十善山密蔵院蓮花寺 (真言宗御室派)
明治寺の北には真言宗御室派の十善山密蔵院蓮花寺 (御府内八十八ケ所第41番札所) が建っている。密蔵院は北条氏直の持仏である将軍地蔵を本尊とし小田原城内に創建された後、1611年 (慶長16年) に江戸矢の倉に土地を拝領し移っている。その後、1644年 (正保元年) に浅草寺町に土地を拝領して移転したが、時とともに衰退していった。1903年 (明治36年) に墓地を現在地に移している。関東大震災で堂宇が全焼したが、間もなく壇信徒の協力で復興し、墓地には葬祭場、客殿なども整備され復興して行った。第二次大戦の空襲により、浅草の堂宇、墓地の葬祭場、客殿が全焼し、戦後、1950年 (昭和25年) に現在地に本堂を再建し、現在に至っている。
面打師 大野出目家の墓
密蔵院の山門前は明治時代に移した墓地になっている。
墓地内、山門近くに安土桃山時代から江戸時代に活躍した世襲面打家の大野出目家の墓所がある。文明年間 (1469~87) に越前国の面打家の面打三光坊の弟子から,大野出目家と越前出目家の世襲面打家が生れている。大野出目家の初代是閑吉満は能狂いと言われ豊臣秀吉公から天下一の御朱印を賜わり、多くの大名家に能面を提供していた。越前出目家は江戸時代に相続問題が起こり、幕府の御用からはずれるなど次第に劣勢になっている。
絵師 鍬形恵斎の墓
墓地内には江戸時代中期の浮世絵師の鍬形蕙斎 (北尾政美 1764 - 1824) の墓がある。北尾政美は北尾重政の門人となり、この名を賜っている。当初は挿絵を手がけ、以降、武者絵、浮絵、花鳥画を描いていた。1794年 (寛政6年) 31歳で津山藩の御用絵師となり、鍬形蕙斎と名乗る。1797年には江戸幕府奥絵師の狩野惟信に師事している。代表作は数あるが、鳥瞰図で描いた江戸一目図屏風 (右上)、江戸庶民の生活の近世職人尽絵詞 (右中)、イラストのはしりの鳥獣略画式 (右下) が評価が高い。
法光山久成寺 (日蓮宗)
密蔵院墓地の東側には1911年 (明治44年) にこの地に移転してきた日蓮宗の法光山久成寺 (くじょうじ) で大曼荼羅を本尊としている。久成寺は、大仙院日善上人が開山となり1607年 (慶長12年 二代徳川秀忠) に、幕府より牛込弁天町を拝領し創建され享保年間 (1716 - 1736年) には隆盛をきわめていた。現在地に移転の後、1945年 (昭和20年) の第二次大戦の空襲で寺宝、寺什などが焼失したが、由緒ある船守祖師像 (非公開) は焼失をまぬがれ現存している。船守祖師像は、日蓮聖人が鎌倉幕府の命により伊豆に流された際、日蓮聖人を救いだし、日蓮の教化を受け檀家となった船守弥三郎の請により、日蓮聖人の直門の日実が彫ったと伝えられている。
瑠璃山薬王寺禅定院 (新義真言宗豊山派)
久成寺の南は新義真言宗豊山派の瑠璃山薬王寺禅定院がある。御府内八十八ヵ所霊場第四十八番、豊島八十八ヵ所霊場第四十八番の霊所になっている。大正期に建てられ、第二次世界大戦の戦災から唯一逃れた山門を入った所には枯山水を模した小庭に再建前の瓦が置かれている。
六地蔵
山門から本堂への参道脇には六地蔵が置かれている。
石仏群、庚申塔
その先には石仏群があり、その中に庚申塔 (右下) が混じっている。庚申塔建立時期は1666年 (寛文6年) と古く、唐破風笠付角柱型の庚申塔で石塔下部に三猿が浮き彫りされ、「奉供養庚申石塔二世安樂處」とある。「禅定院」 の銘も刻まれているので、この地か以前の新橋村に寺内に造立された様だ。
本堂
参道は本堂に続いている。禅定院は南北朝時代の中期の1362年 (貞治元年) に法印恵尊を開基として、本村の南の後に枝分かれした新橋村で創建当初は薬師瑠璃光如来を本尊として開創と伝えられている。後に現在地に移り、現在の本尊は鎌倉時代後期の作とされる不動明王立像となり、内陣に祀られている。
永代供養霊廟、弘法大師修行像
本堂の前、向かって右には永代供養霊廟、左には枯山水と弘法大師1150年御遠忌を記念して造立された弘法大師修行像も置かれている。
牡丹庭園
本堂の西側には墓地への道があり、庭園が綺麗に整備されている。牡丹庭園と呼ばれ、4月には庭には牡丹の花が咲き乱れるそうだ。(右下の写真はその時期のもの、インターネットから拝借)
弁天堂
この庭園内には弁天堂が置かれてており、祠内には弁財天、大黒天、毘沙門天が安置祀られている。
墓地
牡丹庭園を抜けると墓地になる。この禅定院は創建当時から深く関わっていた旧上沼袋村の旧家の伊藤氏およびその一族の菩提寺でもあり、地元では伊藤寺でとおっている。伊藤氏は鎌倉幕府北条氏の家臣で、北条氏滅亡の際に当地に落ち延びて来たと伝わっている。
永康山東照院貞源寺 (浄土宗)
久成寺の北東には浄土宗の永康山東照院貞源寺がある。1601年 (慶長6年) に三河国の浄土真宗東正寺の住職だった慶誉春公上人によって開創された。当時は後の徳川家康が帰依し、懇意にしており、家康からは天下を取ったあかつきに寺を建ててやると言っていたという。家康が豊臣大名として江戸城に入り、後に天下人となった際に、春公上人は本尊の阿弥陀如来立像を背負って上京し、人を介して家康を訪ねますが連絡は付かなかった。ある日、家康が鷹狩をするという話を聞き、狩りをしている江戸城曲輪に訪ねたが、家康はにわかには思い出せず、春公上人が委細を話し、ようやく思い出し、その場で、馬の鞭で地面に四角く線を引き、ここに寺を建てて良いとの許可を得て、1601年 (慶長6年) に江戸城曲輪内で東正寺として建立されたと伝わっている。その後、江戸城内の区画整理でお茶の水に移転したが、1657年 (明暦3年) の明暦の大火 (振袖火事) で被災し浅草・松葉町 (現在の台東区松が谷) に移転している。享保年間に近くの東照宮と名が紛らわしいとの理由で東正寺から貞源寺に変えている。浅草の寺町には十分な敷地が確保出来ない事から沼袋移転を計画して墓地の移転を行っている途中で1923年 (大正12年) の関東大震災で被災し、その後、現在地で再建している。1945年 (昭和20年) にも空襲で被災し、それまで山号の榮康山の字の二つの 「火」を嫌い、永康山と山号を変えている。
境内には法悦地蔵尊と刻まれた地蔵菩薩像や聖観音菩薩石仏などが置かれている。
伊庭八郎の墓
墓地には伊庭八郎の墓 (右下) がある。伊庭八郎は徳川幕府の奥詰として勤務しており、戊辰戦争では幕府軍遊撃隊として参戦し、伏見の戦いを経て山崎の激戦で左手を失った。その後、函館戦争に参加し、土方歳三と共に新政府軍と戦い重傷を負い五稜郭で26歳という若さで自決している。墓は心形刀流の宗家の伊庭家の墓所の中にあり、初代伊庭是水軒 (左下) から十代伊庭想太郎 (八郎の弟) の墓石が並んでいる。
住心山周清院正法寺 (浄土宗)
貞源寺のすぐ北には浄土宗の住心山周清院正法寺 (本尊 阿弥陀如来) がある。1614年 (慶長19年 二代徳川秀忠)、円蓮社満誉によって開山され、駿河国府中の宝台院の末寺として、日本橋馬喰町に創建された。1657年 (明暦3年) の明暦の大火で焼失し、浅草新寺町に移転している。1923年 (大正12年) の関東大震災で被災し、1925年 (大正14年) にこの地に移転して来ている。
沼袋共同墓地、地蔵菩薩 (30番)
正法寺から東の朝日通りに出て南に進み、一つ目の信号のある交差点に沼袋共同墓地がある。そこで石仏などがあると資料にはなっていたが、どうも別の場所に移設されている様で、中には地蔵菩薩立像 (30番) と墓が一つがあるだけだった。施錠されており中には入れず、塀の外から撮影。ここにあった庚申塔 (28番) は移設されている。
沼袋氷川神社
朝日通りを南に進み、西武新宿線に交差する手前西側に沼袋氷川神社がある。沼袋氷川神社は後村上天皇の正平年間 (1346 - 1370年) に武蔵国一の宮の氷川神社から分霊された事に始まる。須佐之男命を主祭神として祀っている。
表参道大鳥居 (一の鳥居、二の鳥居)、裏参道大鳥居 ⓰ ❾ ⓭
沼袋氷川神社へは表参道大鳥居 (一の鳥居 写真右上)から、1882年 (明治15年) に寄進された石燈籠のある階段 (写真中) を登り二の鳥居 (写真下) をくぐり境内に入るのが正式ルートだが、もう一つ裏参道大鳥居もあり、そちらからは境内に直接入れる。表参道の大鳥居 (二の鳥居) は1864年 (文久4年) に石造りで建立され、1940年 (昭和15年) に皇紀2600年記念として石大鳥居 (一の鳥居) が建立され、2012年 (平成24年) に再建されている。
裏参道大鳥居は1967年 (昭和42年) に建国記念日制定記念として裏参道に石大鳥居を建立したが、2011年 (平成23年) 3月11日の東日本大震災により裏参道大鳥居が倒壊している。翌年の2012年 (平成24年) に再建立され現在に至っている。
表参道大鳥居を入った所、階段下には1932年 (昭和7年) に建立された東京市域拡張記念松の石碑が置かれている。この年には東京市が周辺の5郡82町村を編入し、大東京市 (35区体制) が成立したことを記念して、各地域や学校などに松の木の植樹や記念碑設置がされていた。
中野七福神 ⓫
表参道の階段を登った右手側二派2009年 (平成21年) に天皇陛下御即位20年並びに天皇皇后両陛下御成婚50年を記念して七福神が奉齋されている。
子育て狛犬、燈籠 ⓯
階段を登り境内に入った所には一対の狛犬が置かれている。江戸時代の名工の平田栄太郎、平田栄次郎により、1864年 (文久4年) に作られたもの。右側の狛犬は子犬を抱いており「子育て狛犬」と呼ばれている。三回撫でるとお産が軽くなり、子育てが順調に進むと言われている。狛犬の先には1882年 (明治15年) に寄進された燈籠も置かれている。
手水舎 ⓬
燈籠の側に手水舎が置かれている。1962年 (昭和37年) に新築された手水舎を2019年 (令和元年) に天皇陛下御大典奉祝記念事業として改修したもの。
神楽殿 ➓
境内の左側には神楽殿が建てられている。神楽殿は1955年 (昭和30年) に改築され、更に、2019年 (令和元年)に天皇陛下御大典奉祝記念事業として改修されている。正月や祭りの際に奉納舞踊や囃子などが披露されている。
力石
神楽殿の側には、昔、祭の際に若者たちが力比べをし、奉納された力石が幾つも置かれている。力には奉納者名や重さが刻まれている。四拾八貫目余と刻まれたものもあり、約180kgと昔はこれを持ち上げる豪傑がいたのだろう。
道灌杉
力石の近くには戦前までは道灌杉と呼ばれた杉の大木が生えていた。1477年 (文明9年) の江古田・沼袋原の戦いでは、太田道灌が豊島氏を攻めるため、この地に陣営を置いたと言われている。その際に道灌が戦勝を祈願して境内に杉の木を植えたと伝わり、道灌杉と呼ばれるようになったという。高さ30m程の大木だったが、1942年に枯死し、現在では切り株だけが残っている。
日露戦役紀念碑
力石の近くに日露戦役紀念碑が建てられている。山縣有朋の揮毫になっている。日露戦争 (1904〜1905年) 日本が外国との本格的な戦争としては初めてのもので、は徴兵制により全国の農村や町村から多くの若者が出征軍人として大陸へ送られた。戦争が勝利に終わった事で、国家意識や愛国心が爆発的に高まり、国のために尽くした郷土の英霊を讃えるという機運が高まり、日本各地で、戦没者慰霊、帰還兵の功績を讃えた日露戦役紀念碑が造られ、多くは神社や寺院、公園などに建てられている。
社殿 ❷❶
参道を進むと社殿に着く。社殿は幾度か建て替えられており、1880年 (明治13年) に修復、1922年 (大正11年) に幣殿を増築された。1988年 (昭和63年) には昭和天皇在位60年を記念して社殿 (昭和社殿) が造られたが、1990年 (平成2年) に中核派過激派によるゲリラにより焼失し、翌1991年 (平成3年) に現在の社殿 (平成社殿) が造営されている。社殿奥の本殿には須佐之男命が祀られている。
境内末社 (天王社、御嶽神社、稲荷神社) ❺❻❼
社殿横には三つの境内末社が置かれている。向かって左側には1982年 (昭和57年) に改築された水の神、田の神、病気平癒の神を祀る天王社が置かれ、八雲神社 (午頭天王 = 須佐之男命)、諏訪神社 (建御名方命)、胡録神社 (面足命・惶根命) 合祀されている。鳥居を入ると参道両脇に1720年 (享保5年) に寄進された石燈籠とその右奥には1860年 (安政7年) の手洗鉢が置かれている。
中央には五穀・食物の守り神、商売繁昌・幸福の神の宇迦之御魂命を祀る稲荷神社で1963年 (昭和38年) に中野区野方に鎮座していた大久保稲荷神社が合祀されている。
右側は明治初期に改築された御嶽神社で火災・盗難除けの神、縁結び・知恵の神の日本武命、櫛真知命、大己貴命、少彦名命を祀っている。
三本願い松 ❽
境内末社の前に一本の松の木が生えている。「三本願い松」と紹介されている。「悪しきことはスギ去れ、願い叶うをマツ」と杉の木に不運や災難から逃れ幸福を願うと叶うと伝わっているという。
残りの二本は、社殿の右と手水舎の裏に生えている。推定で樹齢推定650年で沼袋氷川神社が創建された当時からあったと考えられている。
これで、今回の東京滞在の初日が終了。
旧野方村 下沼袋村 小字 本村/大下 訪問ログ
参考文献
- 中野区史 上巻 (1943 中野区)
- 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
- 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
- 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
- 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
- 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
- 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
- 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
- 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
- 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
- 武蔵野方町史 (1927 中島仁)
- たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 (1996 中野区立歴史民俗資料館)
- 中野の神社をたずねて 南部編 (2010 中野区立中央図書館)
- 中野のお寺散歩 (2005 中野区立中央図書館)
- 中野区の仏教美術 中野の文化財 No. 22 (1996 中野区教育委員会)
- 中野区の石造物 (神社) 中野の文化財 No. 23 (1997 中野区教育委員会・山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)
- 路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1 (1995 中野区教育委員会)
- なかのの地名とその伝承 中野の文化財 No. 5 (1981 中野区立中野文化センター郷土資料室)
- なかのの碑文 中野の文化財 No. 4 (1980 中野区立中野文化センター郷土資料室)
0コメント