Okinawa 沖縄 #2 Day 290 (09/11/25) 読谷村 (5) Hijabashi Hamlet 大木集落

読谷村 大木集落 (ウフギ、おおき)

  • 米軍読谷補助飛行場跡地 (旧日本軍沖縄北飛行場)
  • 旧日本軍高射砲跡
  • 大木公園
  • 慰霊碑
  • 大木徳武佐 (トゥクブサー)
  • 下大木原遺跡
  • 大木公民館
  • 比嘉秀平像
  • 仲本家墓
  • 中道 (ナカミチ)
  • 上屋取砂糖小屋跡 (イーヤードゥイサーターヤー)
  • 上ヌ井戸(イーヌカー)
  • 大木坂(ウフギビラ)
  • 大木(ウフギ) バンタ
  • ミックワーハカジー
  • 米軍兵士住宅地跡
  • 大長浜小(ウフナガハマグヮー)の井戸、カマ長浜小 (カマナガハマグヮー)
  • 下の井戸下ヌ井戸(シチャヌカー)
  • 下屋取砂糖小屋跡、中屋取砂糖小屋跡
  • 龕屋跡
  • 旧日本軍速射砲陣地跡

今日は読谷村集落巡りの4日目で、夕方には那覇に戻る。今回は三泊四日での訪問で、まだ村の22の字の四分の一しか見ていないが、滞在を長くするとその後の訪問記の編集が大変なので、何回かに分けてみていく予定だ。今回の訪問の最終日の今日は、朝に宿を出て、那覇への道の国道58号線を南に進み、2日目に史跡の幾つかを見た字大木の残りを見ていく。本レポートでは字大木の北から南にかけての史跡、スポットを記載しておく。



読谷村 大木集落 (ウフギ、おおき)

大木の集落の成立は、主に廃藩置県前後に首里から移り住んだ士族により形成された屋取集落に端を発し、1935年 (昭和10年) に字比謝にあった大木屋取 (40戸)、伊良皆、楚辺の一部の屋取集落の合計61戸が集まって、字大木として設立された。大木の名称は、楚辺の小字の大木原に由来し、大木原の林には古い大木が生えていたことから名付けられたという。

大木は屋取集落であることから、戦前には各家は耕作地に隣接して家を構えて分散しており、まとまった集落が形成されていたわけではなく、現在の村道大木線を幹線にして、その道からと各家へ細い馬車道で結ばれていた。北側斜面の雑木林を背に南西の方に農地が広がり、畑では主にサトウキビや芋を作付けし、他に大麦、大豆、エンドウ豆などが植えられていた。

大木集落住民は屋取として小作人とした出発したが、その後、ほとんどの家は農地や宅地を所有するに至ったが、農地が少なく農作物の収穫だけでは生活が苦しく、本土への出稼ぎや海外への移民も多く、特にハワイに移住した世帯は多くあった。そうしたことから、沖縄戦前には、出稼ぎ地から直接召集されたり、あるいは一時帰省して応召する者もいたという。本土出稼ぎ者は1942 ~ 1943年 (昭和17 ~ 18年) に多く、主に川崎の化学調味料工場に先に行っていた親戚などの呼び寄せで行った人々であった。この様に出稼ぎ者が多く、村には青年層が居らず老人が多く残り、極めて静かな農村だった。

戦後読谷村村土の多くが米軍基地として接収される中、1946年 (昭和21年) に波平・高志保地区に次いで大木・辺地区に居住許可がおり、大木には元の集落が未開放の比謝、古堅、大湾、牧原、長田、比謝矼の人びとが居住していた。戦前は屋敷がまばらな散村形態の集落だったが、一転して人口密集地となった。そのため、いち早く簡易水道が敷設されたほか、共同売店、酒屋、風呂屋、料亭、写真館、劇場などが立地し、戦後復興地としての賑わいをみせた。現在では他地域からの転入者も増えたことにより、大木は住宅地となっている。

字大木が誕生する前の1921年 (大正10年) の大木集落の人口は96人 (21戸) と小さな村だったがその後、人口は増加し、1935年 (昭和10年) に字比謝、字楚辺から大木屋取集落が分離独立し字大木が創設されている。当時の人口は不明だが戦前1944年 (昭和19年) には428人 (82戸) と4.5倍に増加している。戦後は読谷村の中ではいち早く米軍接収地から解放されたことで、旧大木住民だけでなく、未開放の比謝、古堅、大湾、牧原、長田、比謝矼の人びとが居住し、そのまま定住した人も多くあった。そのことで人口は1980年代までは増加を続けている。近年では世帯数は増加は続いており、人口は少子化もあり横ばい状況にある。2024年 (令和6年) 末では人口2,201人、世帯数951戸となっている。米軍補助飛行場跡地には大規模の住宅団地建設が計画されていることから、人口は更に増えることになるだろう。

大木公民館にはかつての大木集落を紹介しているガイドマップが置かれている。



米軍読谷補助飛行場跡地 (旧日本軍沖縄北飛行場)

字大木の北部は米軍の読谷補助飛行場として戦後接収されていた。米軍読谷補助飛行場は楚辺、座喜味、喜名、伊良皆にまたがっていた。この米軍読谷補助飛行場は戦前までは旧日本軍の沖縄北飛行場だった。1943年 (昭和18年) に旧日本陸軍が南東太平洋方面のへの補給航空路、不時着用として、65戸が所有していた土地を強制接収して、県内中から集めた数百台の荷馬車と1日数千人もの沖縄の住民と学徒の動員により建設し、周囲には弾薬集積所、兵舎、給油施設等が設けられていた。大木集落には日本軍戦闘部隊が駐屯するようになり、駐屯する部隊への供出、陣地構築への徴用など、住民生活への影響は大きかった。 下大木原には高射砲陣地、大湾に接した於須久原には速射砲陣地なども構築されていた。この沖縄北飛行場は1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍が上陸したその日のうちに占領されている。

飛行場は旧日本軍により米軍上陸直前に破壊されていたが、米軍は占領後に整備拡張し、日本本土侵攻のための前進基地の位置付けで読谷飛行場として使用していた。

戦後、1947年 (昭和22年) からは、嘉手納飛行場の補助的役割に変わり、主に離着陸演習、落下傘訓練などを行う読谷補助飛行場となった。1960年からは、日常的パラシュート訓練が行われていた。このパラシュート訓練では前線へ兵器や食糧名などの物資や、車輛の降下などの訓練を行い、たびたび物資が周辺の集落や農耕地に誤って落下する事故が起こっていた。1965年 (昭和40年) に米軍機から投下されたトレーラー (写真左上) の下敷きになり、10歳の少女が死亡した。(隆子ちゃん事件) この事件は県民に大きな衝撃を与え、村民を中心に激しい抗議が行われた。

補助飛行場敷地は1995年 (平成3年) から2006年 (平成18年) にかけて返還された。跡地の字座喜味には読谷村役場や読谷平和の森球場、読谷中学校、農業用地が建設されている。

字大木北部の返還された土地は、北は農地、その南側には赤犬子公園と住宅地となる予定で、現在、開発工事が行われている。

大木公民館の前に高架道路が走る予定で、県道6号線南までは完成 (写真左)、北側の読谷補助飛行場跡地は幹線道路整備事業により建設中 (右) で完成後は、読谷村の新たな玄関口と期待されている。

建設中の道路両側は半円形の住宅地になる予定で、建設中。

道路は丘陵に向かい建設中だが、この丘陵は赤犬子公園が整備される予定。道路は公園の下にトンネルで通され座喜味の公民館に向かって伸びるそうだ。


旧日本軍高射砲跡

米軍読谷補助飛行場は戦前は旧日本軍の北飛行場だった。この北飛行場の南西部の丘には北飛行場の防衛のための高射砲が据えられていたそうだ。


大木公園

県道6号線と国道58号線 (西) が交わる所に大木公園が整備されている。戦後、大木住民は住民収容地区へ強制移動 (石川220人、コザ10人、前原4人、漢那4人、宜野座4人、久志12人の合計255人) となったが、1947年 (昭和22年) 1月に大木の土地の一部が返還され 、1947年 (昭和22年) 5月に大木地区は楚辺地区とともに帰還が始まった。この周辺にはまだ帰還が叶わない牧原、長田、大湾、比謝矼、古堅などの人々が住み着き、一時は300から400世帯、約3,000人が雑居生活をしたが、その後次第に各地に移住許可がおりて故郷に移り住んで行った。隣の字楚辺も1947年 (昭和22年) に帰還したが1952年 (昭和27年) に米軍基地建設のため、土地が強制接収され、土地を追われた多くの楚辺住民はこの辺りに、移り住んでいた。この大木公園は1981年 (昭和56年) に整備されている。


慰霊碑

公園内の階段をあが った所に慰霊碑が建立されている。公園ができた同じ年の1981年 (昭和56年) に作られている。慰霊碑の台座には大木集落の軍関係者と一般住民の戦没者名105柱 (グラフデータでは103名) の名が刻まれ、毎年6月23日の慰霊の日には大木自治会が主催して慰霊祭が行われている。

当時の大木の人口は428人で、この内約25%にあたる103人 (慰霊碑では105人) が死亡、不明者14人となっている。読谷村の中でも高い犠牲者率になっている。

沖縄戦では、大木集落の人々のほとんどは石川以北の恩納村山田や辺土名周辺、金武、石川、二見などに疎開しており、その疎開地近くで投降している。米軍に保護された大木の人々は、時期の前後はあるものの、その多くが石川収容所に集まっていた。 (石川220人、コザ10人、前原4人、漢那4人、宜野座4人、久志12人の合計255人)

戦後後、読谷村の広域にわたって米軍基地として接収されたが、1946年 (昭和21年) 11月に波平・高志保地区が、次いで1947年 (昭和22年) 1月に楚辺地域、大木の土地の一部が返還され 、移住許可がおりている。1月15日に民政府総務部稲嶺事務官外3名が楚辺大木方面の村民移住並びに農耕許可地実地調査に来所し、その後、村では1月28日から楚辺大木方面の建設に着手、5月1日から移動を開始している。現在の公民館一帯の地域に茅葺き屋 (カバヤー) を造り、住民の受入を開始している。大木には、まだ帰還が叶わない牧原、長田、大湾、比謝矼、古堅などの人々が住み着き、一時は300から400世帯、約3000人が雑居生活をしていた。人口密集地となった事で、いち早く簡易水道が敷設され、共同売店、酒屋、風呂屋、料亭、写真館、劇場などが立地し、戦後復興地として賑わっていた。その後次第に各地に移住許可がおりて故郷に移り住んで行った。隣の字楚辺も1947年 (昭和22年) 5月に帰還したが1952年 (昭和27年) に米軍基地建設のため、土地が強制接収され、土地を追われた多くの楚辺住民はこの辺りに、移り住んでいた。

字 大木の中心部は居住地以外も1977年 (昭和52年) に返還され、他地域からの転入者も増え、大木は住宅地として変貌していった。北部地域に置かれていた米軍補助飛行場も2006年 (平成18年) に返還され、跡地にはには読谷村役場や読谷平和の森球場、読谷中学校、農業用地が建設され、現在でも開発が進んでいる。地域南西部には現在でも米軍トリイ通信施設として収容されたままで、現在でも施設整備が行われており、当面は返還は未定となっている。


大木徳武佐 (トゥクブサー)

大木公園内東側に鳥居と小さな祠がある。徳武佐 (トゥクブサー) と呼ばれている。三山時代 (14 ~ 15世紀)、北山今帰仁の若按司が北山での勢力争いに敗れ、大木原の中腹の深林のこの地に隠れ、難をしのぎ、再興を成し遂げたことに由来する拝所と言われている。明治時代までは若按司縁の子孫が毎年9月13日に参拝に訪れていたそうだ。また、これとは違った話もある。薩摩が国頭から首里を目指して進軍し、読谷山迄来た時に住民は大きな木々が立ち並ぶ林に避難し、薩摩軍から守られた。それで大木といい、この場所に住民の無事を感謝して徳武佐という拝所を作ったという。1921年 (大正10年) に大木住民により、この場所に木造瓦葺の御宮を建立した。1964年 (昭和39年) にコンクリート造に建て替え、更に2005年 (平成17年) に現在の御宮が再建立されている。この徳武佐は子宝を授かる斎場としても知られ、次のような伝説がある。

昔、宜野湾市大謝名の比嘉に若い夫婦がいて、十年近くも子宝に恵まれず離婚話まで持ちあがった。ある日徳武佐宮の話を耳にしたその夫婦は、さっそく参拝したところ一年後に男の子を授かったと いう

字大木では旧暦9月13日 (ジュウサンヤ) に徳武佐祭を行い、1年の無事を感謝し、 向こう1年の豊年と健康を祈願している。


下大木原遺跡

大木徳武佐周辺一帯では青磁やグスク土器が出土し、詳細な発掘調査を行い、更に住居跡2基、集石遺構1基などが確認され、宇佐浜式土器、仲原式土器も出土し、縄文時代晩期相当期の遺跡であることが確認された。近くにも同時期の遺跡と想定されている赤犬子遺跡がある。縄文時代からこの地に人が住んでいた事がわかる。


大木公民館

読谷補助飛行場跡地開発中の幹線道路沿いに大木公民館が建てられている。この公民館は2001年3月に建てられ戦後4代目になる。

戦前の村屋 (ムラヤー、字事務所) はすぐ東側にあった。戦後、1947年 (昭和22年) に民間収容所から故郷への帰還した際に、現在地に最初の公民館を建設して復興が始まった。住民で協力して、丸太と米軍の廃材を利用して、茅葺き小屋を建てて公民館としていた。


比嘉秀平像

公民館敷地北側に琉球政府の初代行政主席だった比嘉秀平氏を讃えた銅像が置かれている。比嘉秀平は1901年 (明治34 年) にこの大木で生まれている。小学校時代にサトウキビ圧搾機の事故で右腕を失う。早稲田大学卒後、沖縄で教員となり、戦後は教職から政治の世界へ と転身している。この背景には、教え子を戦場へと送ることになってしまったことへの反省が大きかったと言われている。米国施政権下沖縄の復興に尽力し、沖縄民政府の翻訳課長、官房長を歴任、臨時琉球諮詢委員会委員長、琉球臨時中央政府主席、1952年に琉球政府が設立されると琉球政府初代主席に任命されている。当時の琉球政府は、その自治の権限を米国民政府に大きく制限されており、米国民政府は沖縄での恒久的基地建設をすすめ、民有地の強制接収を行い、その土地への補償や借地条件も民意を顧みないものだった。米国民政府による土地強制収用問題では島ぐるみ闘争などが行われ、秀平は立場上、米国民政府と沖縄住民との板挟みで、その調整に頭を悩ませ、度重なる心労から体の不調となり、狭心症で 1956年 (昭和31年) に急逝した。字大木では比嘉秀平の功績を後世に語り継いでいくために、1981年の国際障害者年に、比嘉秀平の生家のすぐ南側に、この銅像を建てている。


仲本家墓

大木公民館の北、県道6号線沿いに墓地があり、その一画に仲本家の墓がある。大木は屋取集落で、移り住んだ旧士族が開墾したが、それでも農耕地が少なかったので海外移民に出る者も多かった。1900年代初め頃、明治末期から大正年間にかけて、多くの住民がハワイに移民として渡っている。その多くは ハワイに定住し、現在ではその子孫が繁栄している。大木の屋号仲本も1900年代初め頃にハワイへ渡り、戦後は郷里の大木へ一時帰国し、この墓を建立している。


中道 (ナカミチ)

公民館の南、東西に走る道が中道になる。戦前、戦後ともにこの中道を中心に北と南に集落の民家が集中していた。また、戦前にはこの中道にはトロッコ軌道が走っていた。


上屋取砂糖小屋跡 (イーヤードゥイサーターヤー)

旧村屋、中道の南には戦前には上屋取砂糖小屋側があった場所になる。現在は住宅街となっている。

戦前はサトウキビ栽培、製糖が基幹産業、大木集落には共同の製糖場 (サーターヤー) が3か所 にあった。上屋取 (イーヤードゥイ)、中屋取 (ナカヤードゥイ)、 下屋取 (シチャヤードゥイ)のサーターヤーと呼ばれた。そのほか屋号平田のサーターヤー もあった。1910 (明治43)年に嘉手納に製糖工場ができ、トロッコ軌道が漸次、敷設されるようになると、トロッコを利用した工場へのサトウキビ搬出が増え、大木のサーター ヤーは次第に縮小していった。


上ヌ井戸(イーヌカー)

大木集落の北、中道の南側には、かつての集落の人びとに利用された共同井戸だった上ヌ井戸(イーヌカー) が残されている。この井戸は1890年代 (明治20-30年代) に掘られたとされる。1997年に設けられた石碑には「水の神 上之井戸 (イーヌカー) 大正四年」と刻まれている。集落で共同井戸が掘られる以前は、楚辺や伊良皆の井泉まで水を汲みに行かなくてはな らなかったという。旧暦1月20日に字の役員によって井戸御願 (カーウガン) が行われている。


大木坂 (ウフギビラ)

中道を東に進むと南北に伸びるの坂道と交わる交差点に出る。この坂道は北への登り坂になっており、大木坂 (ウフギビラ) と呼ばれている。字大木と字伊良皆との境界線で、比謝から残波岬へと繋がる旧道だった。戦前、嘉手納方面へ行き来に利用され、 戦後も国道58号バイパスが開通する以前は主要道として活用されていた。


大木 (ウフギ) バンタ

大木坂を北に上がると高台がある。この高台は大木バンタと呼ばれ、那覇方面を展望できる絶景の地だったという。読谷北部から嘉手納方面へ行き来する際の休憩場所だった。当時は大木に覆われ、鬱蒼とした場所でフェーレー (追いはぎ) が出るので、長居はせずに家路を急いだという。


ミックワーハカジー

この地から東の伊良皆の読谷高校裏側周辺は墓地になっており、大きな古墓も見られ、ミックワーハカジー、ガラサーシーと呼ばれ地帯だった。薄暗く立ち寄るのが怖い場所だったという。


米軍兵士住宅地跡

県道6号線の北側は返還された米軍読谷補助飛行場だったこともあり、この県道6号線沿いは米軍兵士家族の定型住宅が残り、この地が返還された後に一般民間人に払い下げられている。


大木交差点から大木坂を南に下り、大木集落の南側を見ていく。


大長浜小 (ウフナガハマグヮー) の井戸、カマ長浜小 (カマナガハマグヮー) の井戸

大木坂の道から西に入った住宅地の中に釣瓶井戸 (チンガー) がある。大木集落では共同井戸が掘られた後に各世帯でも井戸が掘られ た。大木にはかつての生活を支えた井戸が 20 か所ほど現存しているそうだ。綺麗に整備されているものとして、大長浜小 (ウフナガハマグヮー) の井戸 (写真上/中) とカマ長浜小 (カマナガハマグヮー) の井戸 (写真下) が資料で紹介されていた。元々は釣瓶井戸 (チンガー) だったが、現在ではポンプで水を汲み上げて使っている。大長浜小の井戸は、戦後読谷高校が設立され、水道が敷設されるまでは生徒が水汲みに来ていたそうだ。この様に個人の井戸も、多くは住民に解放されていた。


下ヌ井戸(シチャヌカー)

字大木の南端、字大湾との境に大木集落の共同井戸だった下ヌ井戸(シチャヌカー) がある。産水 (ウブミジ) として使われた産井戸(ウブガー)でもあった。下ヌ井戸は上井戸とほぼ同時期の1890年代 (明治20-30年代) に掘られたとされる。1997年に設けられた石碑には「水の神 下之井戸 (シチャヌカー) 明治三十五年」とある。上井戸と同様、旧暦1月20日に井戸御願がなされる。



下屋取砂糖小屋跡、中屋取砂糖小屋跡

下ヌ井戸(シチャヌカー) の西側には大木集落にあった三つの砂糖小屋 (サーターヤー) の内の下屋取砂糖小屋が置かれていた場所がある。空き地になっているが周りは住宅地になっており、地図にはないのだが、造成したばかりの新しい道路が何本もある。この辺りも今後住宅地に開発される様だ。

この下屋取砂糖小屋跡と先に訪れた上屋取砂糖小屋跡の中間地点には中屋取砂糖小屋跡がある。こちらの方は既に住宅地となっている。


龕屋跡

下ヌ井戸(シチャヌカー) のすぐ近くには大木集落の龕屋があったそうだ。龕屋は撤去されており、駐車場になっている。


旧日本軍速射砲陣地跡

下ヌ井戸(シチャヌカー) の近く西側には、沖縄戦では旧日本軍の北飛行場を守るため速射砲陣が置かれていた。現在では草が生い茂り、遺構などは残っていない。1944年 (昭和19年) 7月頃から大木集落への日本軍の独立混成第十五連隊速射砲中隊の一部 (山田隊) 25-6名が駐屯し、8月末頃からは、球一二四二五・野戦高射砲第八十一大隊の第一中隊が駐屯し、第二中隊が楚辺、第三中隊が伊良皆に置かれ、本部は伊良皆にあった。当時は供出割当もあまりなく、住民と兵士とのトラブルはほとんどなく、日本軍の駐屯は割にスムーズにいっていたという。


これで大木集落巡りを終え、那覇に向けて帰る。この4日間は夏に戻った様な気候で気温も29度と高い。ただ、真夏程ではなく、比較的快調に集落巡りができた。この他の集落も巡ったが、どの集落も部分的なので、残りは次回訪問で見終わってからまとめる。次回訪問は12月半ばになると思う。



参考資料

  • 読谷村の字ガイドマップ 大木 (2012 読谷村史編集室)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 上 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 地図 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 補遺及び索引 (1998 読谷役場)
  • 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 上巻 (2002 読谷村史編集委員会)
  • 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 下巻 (2004 読谷村史編集委員会)
  • 読谷村民話資料集 15 渡具知、比謝、比謝矼の民話 (2003 読谷村教育委員会)
  • 読谷村 (2023 京都府立大学文学部歴史学科)

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