Okinawa 沖縄 #2 Day 300 (31/03/26) 石垣市 旧宮良間切 (4) Ibaruma Village 伊原間村

旧宮良間切 伊原間村 (イバローマ、いばるま)

小字 キンブ山 (キンブヤマ)

  • キーストーン
  • 大野岳 (フーヌダギ)
  • 金武岳
  • 伊原間水神拝所

小字 大浦山 (ホーラヤマ)

  • 大浦ダム
  • 大浦川の大主 (水神)

小字 池田原 (イキダバル)

  • 船越 (フナクヤー)
  • 船越漁港

小字 船越屋 (フナクヤー)

小字 前原 (マエバル)

  • 伊原間集落
    • 伊原間公民館
    • 半嵩御嶽 (ハンダキオン)
    • 久松五勇士上陸之地
    • 伊原間ビーチ
    • 村番所跡、学校の井戸 (ガッコーヌカー)
    • 西の井戸 (インヌカー)

小字 西原 (ニシィバル)

  • 上ヌ御嶽

小字 カンニン

  • 玻名岳 (ハンナダキ)

小字 赤石 (アカイシ)

  • 明石集落 (アカイシ)
    • 明石公民館、明石開拓之碑
    • 地の利は人の和に如かず
    • 明石ビーチ

天気予報では今週は終日雨の日が多いと出ている。ただ、沖縄の天気予報は外れる場合が多く、今日もそうあればと思い。朝8時にキャンプ場を出発。今日はキャンプ場から北の字 伊原間を巡る。時間が許せば、更に石垣島最北端の字 平久保にも足を伸ばしてみる。


旧宮良間切 伊原間村 (イバローマ、いばるま)

字 伊原間(イバローマ)は南で字 桃里と接し、西方で宇 野底と接し、北は平久保半島 のフタナカ(二中)と呼ばれる地峡で字 平久保と接している。平久保半島は元々、二つの山塊からなる離れ小島で、永年の間に狭い海峡に土砂が堆積し、陸繋島現象によって陸続きとなり、半島を形成したものと考えられる。

伊原間村が村として独立する迄は平久保村の管轄下の一集落だった。集落の始まりは、桴海村住民の一部が18世紀初めに金武岳 (キンブダギ) の北の半嵩 (ハンダキ) に移動して半嵩村がつくられ、後に平久保半島の二中 (フタナカ) の西岸 (明石集落西岸) に移り、内野村 (ウツヌムラ) となった。1734年に内野村 (ウツヌムラ) の近傍に仮住まいしていた石垣、登野城両村の百姓と舟越の居住者も合わせて独立村として伊原間村が誕生したと言われている。

伊原間村は1771年の明和の大津波では村は全壊し、住民720人の86.8%が溺死する惨害を被った。その後、黒島から167人を寄百姓して、高岳 (タカダギ) の南方に続く禿山のバンナ岳山裾の玻武名野 (ハンナヌー) に村を再建している。その後、次第に現在地に移動してきたといわれる。平久保半島はフーキィジィマ (風気島 マラリアの猖獗地を指す) とも呼ばれた程にマラリアの有病地で、再建された村の人口は次第に減少し、村は衰徴して行き、1873年 (明治12年) には舟越村も含めて人口はわずか 38人 (16戸) までに減少し、廃村の危機に直面していた。戦後、宮古島からの自由移民が定着し、大きな課題だったマラリア等の風土病を撲滅し、パインブームやサトウキビ作の好況で次第に人口も増加し、1964年 (昭和39年) には802人になった。交通や通信機関も改善され、石垣島北部地区の経済、交通の中心地となっていた。しかし、それ以降、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1977年 (昭和52年) には373人まで減少している。その後も徐々に人口減少は続き、2023年末では字伊原間人口は281人 (160戸) になっている。今後の予測では人口は減少に向かうとされている。

  • 御嶽 (八重山島由来記): 半嵩御嶽
  • 主要御嶽: 伊原間水神拝所、大浦川の大主 (水神)、上ヌ御嶽
  • 井戸: 西の井戸


小字 キンブ山 (キンブヤマ)

字 桃里と南に隣接しているのが字 伊原間の小字 キンブ山 (キンブヤマ) で金武岳と大野岳(フーヌダギ)を含む一帯の林をキンブ山と称していた事が字名の由来になる。


キーストーン

キャンプ場を出発して国道390号線を北に進むと左手側の山脈の中に岩肌を見せた山がある。キーストーンと呼ばれている。海底火山の噴火による火山灰が、火山活動による熱水で変質を受け、この地の野底層では岩に含まれる鉄化合物が酸化しているため、赤色染みている。



大野岳 (フーヌダギ)

道を更に進むと、山脈は大野岳 (フーヌダギ) に連なっている。


金武岳

大野岳を見ながら、道を進むと金武岳が見えてきた。金武岳は標高201.3kmで於茂登山系の北端に当たる。野底層の凝灰角礫岩からなり、全山広葉樹と針葉樹の混合林になっている。東方海岸部は裾野状をなして玉取崎に続いている。


伊原間水神拝所

金武岳裾野の玉取崎を越える。昔、玉取崎の岬の沖では、海難事故が多く、「魂を取られる」として玉取の名がついたという。金武岳の麓に伊原間水神拝所がある。金武岳の前の平野にはサトウキビ畑と牧草地が広がっている。この農地へ引き込む水なのだろう。その水に対する感謝を捧げる拝所でもある様だ。



小字 大浦山 (ホーラヤマ)

字 伊原間の北西で字 野底に隣接しているのが小字 大浦山 (ホーラヤマ) で、域内に標高 192mの大浦山がある事から小字名が付けられた。付近から南方に続く山林一帯の称。ホーラは大きな浦、大きな湾を意味しており、山の東側には伊原間湾がある。


大浦ダム

伊原間水神拝所の道を金武岳裾野に沿って大浦ダムに向かって走る。一面畑や牧草地になっている。北を見ると伊原間湾とその向こうに平久保半島の玻名岳 (ハンナダキ) が聳えている。

道を進み、大浦ダム近くになると山脈の中に尖った野底岳が見えてきた。

野底岳が見える方向に道を進み、大浦ダムに到着。

石垣島にはダムは5つあり、この大浦ダムはその中で最北端に位置している。県営一般灌漑排水事業として、大浦川上流を堰き止めて1976年 (昭和51年) に着工され、1983年 (昭和58年) に竣工している。


大浦川の大主 (水神)

大浦ダム堰体の南側広場に祠があり、大浦川の大主が祀られている。1792年 (寛政4年) に三年続きの飢饉があり、村の井戸も涸れてしまい、村人は村から遠く離れたこの地で大浦川の滝つぼの水で命をつないだ。その命の水に感謝を込めて、霊石 (イビ) を置き水神を祀っていた。祠は遠方にあり、そこに行くには難儀だったので、1992年 (平成4年) にイビ石を三個に分けて現在の場所に遷座している。更に、2012年 (平成24年) に祠があった南隣に新しい祠に建て替えて大浦川の大主として祀っている。



小字 池田原 (イキダバル)

小字 キンブ山から小字 大浦 (ホーラ) を過ぎ、平久保半島の伊原間湾岸、船越漁港の北方一帯が小字 池田原 (イキダバル) で、域内には、かつてイキダと呼ばれる田地があった事から小字名の池田原となっている。


船越 (フナクヤー)

大浦ダムから国道390号線に戻り、北に進むと国道390号線終点になり、北の平久保半島へは県道206号線 (平野伊原間線) が続いている。この県道206号線を進むと、道沿いに4人の漁師が船を担いだモニュメントが置かれている。船越漁港への入り口になる。

平久保半島は元々、二つの山塊からなる離れ小島で、永年の間に狭い海峡に土砂が堆積し、陸繋島現象によって陸続きとなり、半島を形成したと考えられている。陸続きとなったこの地峡は幅約270mでこの海峡を小舟をかついで越えたことから、舟越 (フナクヤー ) と呼ばれている。

船越には琉球国時代から100人程が住んでいたが、1734年に内野村と合併し、平久保村から独立して伊原間村となっている。その後、1771年の明和の大津波で伊原間村の87%が溺死し、人口は激減している。1951年 (昭和26年) に沖縄本島の勝連からの政府計画移民により、63人 (10戸) が入植し船越集落が創立されたが、入植後まもなく8戸が退団し、残った2戸9人は、その後、伊原間集落内に移転している。(小字 船越屋に移転したのだろう)


船越漁港

伊原間湾に面した小字 池田原には船越漁港があり、旧暦5月4日に航海安全と豊漁を祈願する伝統行事「フナクヤー海神祭(ハーリー)」が行われている。

この海神祭では伝統の舟かつぎ船越 (フナクヤー) が再現されている。



小字 船越屋 (フナクヤー)

池田原 (イキダバル) の東に隣接しているのが小字 船越屋 (フナクヤー) でこの地に船越集落があった。一帯は平久保半島のつけ根の部分にあたる地峡の地で、かつては、東の海から西の海、西の海から東の海へと舟を担いで渡していたところからフナクヤーと呼ばれたといわれ、小字名の舟越屋は、その方音に由来する。


小字 前原 (マエバル)

小字 船越屋 (フナクヤー) の北に隣接しているのが小字 前原 (マエバル) で伊原間集落の中心地になる。


伊原間集落

県道206号線に戻り、北に向かうとすぐに小字 船越屋 (フナクヤー) に入り民家が現れる。小字 船越屋 (フナクヤー) を過ぎると小字 前原 (マエバル) で伊原間集落の中心地になる。

18世紀初めに、桴海村住民の一部が金武岳 (キンブダギ) の北の半嵩 (ハンダキ) に移動して半嵩村を創立し、後に平久保半島の二中 (フタナカ) の西岸 (明石集落西側) に移り、内野村 (ウツヌムラ) となった。当時は平久保村の管轄下の一集落だった。その後、1734年に、内野村 (ウツヌムラ) の近傍に仮住まいしていた石垣、登野城両村の百姓と舟越の居住者も合わせて、平久保村から分離独立して伊原間村が誕生したと言われている。伊原間村は1771年の明和の大津波では村は全壊し、住民720人の86.8%が溺死する惨害を被った。

その後、黒島から167人を寄百姓して、生存者95人と合わせて、高岳 (タカダギ) の南方に続く禿山のバンナ岳山裾の玻武名野 (ハンナヌー) に村を再建したが、マラリアで村は衰退し、40 ~ 50人と再建時の5分の一までに減少している。その後、次第に現在地に移動し、人口は戦前には約100人までに回復した。沖縄戦では桴海に強制疎開させられ、当時の伊原間人口の58%が罹患したが、死亡者は出なかった。

戦後、宮古島からの移住者で村は1964年 (昭和39年) には358人まで増加したが、それ以降、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1973年 (昭和48年) には166人まで半減している。その後の人口は小康状態で、2023年末では伊原間集落の人口は162人 (88戸) になっている。今後の予測では人口は減少に向かうとされている。


伊原間公民館

県道沿いに公民館が建っている。公民館は1957年 (昭和33年) に木造瓦葺の公民館が設置され、その後人口も増えて1966年 (昭和41年) にコンクリート造りに建て替えられている。皇民化には広い広場があり、馬が一頭草を食んでいた。

現在の伊原間集落は前述した様に、桴海村の一部住民が別れ、各地に転々と移住を繰り返しこの地に定住している。


半嵩御嶽 (ハンダキオン)

伊原間公民館の広場奥北側に鳥居にある拝所がある。馬の糞だらけの広場で拝所に向かう。

18世紀初めに桴海村から分かれた人々が金武岳北の半嵩と呼ばれた場所に移住し半嵩村を形成し半嵩御嶽 (ハンダキオン) を桴海村から勧請し建立していた。八重山島由来記 (1648年) には、神名は半嵩 (ハンダキ)、御イベ名はきしのよせ玉のよせ と記されている。二中の内野村に移住した際にはこの半嵩御嶽も移している。現在地に移住して来た際には半嵩御嶽は旧内野村に残していたが、祭祀の際にその地に赴くには不便という事で、1973年 (昭和48年) に、この場所に新たに祠を造り、半嵩御嶽の他に伊原間にあったその子御嶽 (ファーオン、バギオン) 二ケ所、集落北の上ヌ御嶽 (ウイヌオン)、中央の中ヌ御嶽 (ナカヌオン)、南のタキオンの合計六つの御嶽を合祀している。その他に火ヌ神、水神、龍宮神も祀っている。嶽名は由緒あるハンダキオンの名称を継承して信仰を続けている。

伊原間集落では豊年の祭祀として、戦前までは遠来神マユンガナシィ(真世加那志)の神事が行なわれていた。当時使用されていた木製の仮面は、石垣市立八重山博物館 に寄託され展示されている。


久松五勇士上陸之地

公民館入口の脇には石碑が建てられている。久松五勇士上陸之地 とある。1905年 (明治38年) の日露戦争の最中、バルト海を出港し極東のロシア旅順艦隊の支援の為に航海して来たロシヤバルチック艦隊が宮古島沖通過した際に、この事を一刻も早く大本営に通報する必要があったが、宮古島には電信設備がない為、宮古島の五人の青年漁師が刳船 (サバニ) に乗り170km先の石垣島まで荒波の中15時間漕ぎつづけ、この伊原間の浜に上陸、その後、五人の内一人が電信屋にある崎枝の大崎まで約35kmを5時間走り続け、ようやく「敵艦見ゆ」の打電をして大任を果した。ただ、電報が連合艦隊に達したのは、信濃丸の「敵艦見ゆ」の報告よりも1時間遅れとなり、当時はあまり評価されることもなかった。

戦前の伊原間集落は衰退していたが、戦後宮古島から多くの移住者が送り込まれ再建がされていた。苦しい生活の中、同じ宮古島の久松五勇士の話は宮古島出身開拓者を勇気づけたという。この碑は五人の青年の愛国心勇猛心責任感をたたえ永く記念するために1966年 (昭和41年) に建てられた。


伊原間ビーチ

公民館から海岸に出たところが伊原間ビーチ。砂浜の中に渦巻き模様のサンゴ岩のマキ石がある。大津波で運ばれてきたといわれ、触ると子宝に恵まれるとされる。その形がハートに似ていることから「ハート岩」と呼ばれている。


村番所跡、学校の井戸 (ガッコーヌカー)

古地図には、現在の八重山病院伊原間診療所と、その西方を含む敷地に伊原間村番所があったとされ、この東方には鍛冶屋があったという。番所跡は後に分教場となり、その傍らに深さ9 m 程の釣井戸 (チィンナー) があり、学校の井戸 (ガッコーヌカー) と呼ばれていた。児童生徒の飲料水でもあった。古地図には「ヌヒナ井」と記されている。道路拡張にともない、埋められ消滅している。


西の井戸 (インヌカー)

番所跡から脇の道を西に進むと道沿いに西の井戸 (インヌカー) が 残っている。古地図には「チンナア井」と記されている。伊原間では最も古い井戸になる。この一帯はサトウキビ畑になっており、農作業をしていた方からこの井戸の話を聞く。入植以前の昔にはこの辺りには屋敷があったと聞いており、当時は飲料水として使われていたそうだ。水はまだ出ているそうで、農作業で使っているといってもいた。



小字 西原 (ニシィバル)

伊原間集落の北方のはんな岳の南麓一帯は西原 (ニシィバル) と呼ばれていた。その名が小字名となっている。ちなみに「ニシィバル」は北の原との意味で、これは沖縄本島と同じ。


上ヌ御嶽

伊原間集落の北方の畑の中の林の中に上ヌ御嶽があった林がある。上ヌ御嶽は公民館の半嵩御嶽へ合祀されており、ここには石囲とサンゴ石の香炉がおかれているそうだが、木々が生い茂っており、林の中への入口も見当たらず、中に入る事は断念。

この辺り一帯は牧草地になっており、遠くに金武岳が見えている。



小字 カンニン

玻名岳 (ハンナダキ)と、その北方に続く山岳地を含む一帯はカンニンと呼ばれ、小字名となっている。


玻名岳 (ハンナダキ)

伊原間集落から平久保半島の西海岸側の県道206号線を北に進むと右手に標高238mの玻名岳 (ハンナダキ) が見えている。



小字 赤石 (アカイシ)

小字 カンニンの北が小字 赤石 (アカイシ)で字伊原間の最北端に位置している。玻名岳と久学良岳との間にある平地一帯は赤石 (アカイシ) と呼ばれていた事から小字名となっている。明石集落の西方海岸には赤い石がみられたことから名がついたと言われている。また、この一帯はフタナカ(二中: 二つの間との意がある)とも呼ばれる。


明石集落 (アカイシ)

明石集落は戦後の開拓集落で、1955年 (昭和30年) に、主に沖縄本島の大宜味村や読谷村などから政府計画移民 119人 (63戸) が入植し創建された集落で、入植当時は赤石集落と呼んでいたが、入植団によって「赤」を「明」に変え命名されている。人口の推移については集落創立の9年後の1964年 (昭和39年) には444人 (67戸) となっている。戸数はそれ程増えていないので、先行入植者が本島から家族を呼び寄せた結果と思われる。この時期はパインブームもあり順調に発展したが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1975年 (昭和50年) には199人まで半減している。戸数も37戸と入植時の半分以下で、脱落者が多く出ている。その後は少し持ち直したが、1990年以降は人口は減少が続き、2023年末では明石集落の人口は119人 (72戸) になっている。今後の予測では人口は減少に向かうとされている。


明石公民館、明石開拓之碑

明石集落への入口に明石公民館が建っている。公民館は1971年 (昭和46年) に創立され、1973年 (昭和48年) に公民館が建築された。現在の建物は1983年 (昭和58年) に建て替えられたもの。公民館に併設して共同売店 (写真右下) がある。共同売店は1955年 (昭和30年) に入植した際に、住民の共同出資で組織され開店している。


開拓の碑

公民館入り口に開拓の碑が建てられている。この碑は入植30周年を記念して、1985年(昭和60年) に建立されたもので、入植者名が刻まれている。その隣には開拓の詩を刻んだ石碑も置かれている。

一.みどりの資源 海の幸 未開の沃土 地下の富 琉球の宝庫 八重山
二.産声高く 明石に 集う我等は 開拓移民 世紀の波に 今乗らん
三.未開の歴史 返り見て 開ける道を 示さんと 故郷を離れてはるばると
四.逢えば 一つの水心 宝庫を開く 無限の力 欲を忘れて一手一つ
五.若い血潮は みなぎりて 共にひらかん ねむれる資源 真実つくす時ぞ 今
六.スクラムくんで 開発に 地の利を生かす その時に 永遠の楽土は築かれん

なんとも勇ましい詩だ。当時の入植団の希望と決意が伝わってくる。

その隣には開拓団の像も置かれている。この像は入植20周年を記念して制作されたものだそうだ。


地の利は人の和に如かず

公民館の前の広場脇花壇の中に石碑があり、「地の利は人の和に如かず」 と刻まれている。孟子 公孫丑下からのもので、「いかに土地の形勢が有利であっても、一致団結している人々の力には及ばない」という意味で、入植者が団結していればどんな状況でも克服できるという入植団の決意が表れている。


明石ビーチ

明石集落の海岸は砂浜が続く明石ビーチになっている。北には平久保半島の安良岳 (標高365m) が見える。


これで字 伊原間が終わり、まだ体力は残っている様なので、北の字 平久保まで足を伸ばす事にする。平久保訪問記は別途。


参考資料

  • 石垣市史 各論編 民俗 上 (1994 石垣市役所)
  • 石垣市史 各論編 民俗 下 (2007 石垣市役所)
  • 石垣町誌 (1975 喜舎場 永ジュン)
  • 伊原間村誌 (1993 石垣市伊原間公民館)
  • 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
  • 八重山歴史 (1954 喜舎場永珣)
  • 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
  • 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
  • 八重山のお嶽 (1990 牧野清)
  • 村むら探訪 Vol 3 開拓の村むらを歩く (1995 石垣市総務部市史編集室)
  • 村むら探訪 Vol 2 伊原間の歴史 地名 生活 (1994 石垣市総務部市史編集室)
  • 石垣島白保以北の旧村々 (2011 石垣繁)
  • 開拓 (1981 山口忠次郎)

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