Okinawa 沖縄 #2 Day 299 (30/03/26) 石垣市 旧宮良間切 (3) Tozato Village 桃里村

旧宮良間切 桃里村 (トーザトゥ、とうざと)

  • 黄金岡 (クガニムイ)
  • 嘉良岳 (カラダキ)
  • 旧桃里村跡
    • 仲夢御嶽
    • 申の方の御嶽 (サンヌパヌオン)
    • 番所 (オーセ) 跡
    • アチドゥ井
  • 大里集落
    • 開拓之碑
    • ゆがふみつ大里農道
    • 大里公民館
  • 桃里恩田遺跡
  • 通路川 (トゥーリィーカーラ)、通路橋
  • 星野集落
    • 入植記念碑、入植者之碑
    • 人魚像
    • 星野御願所
    • マンゲー山 (小マンゲー山、大マンゲー山、中マンゲー山)
  • 伊野田集落
    • 旧仲与銘村跡
    • 伊野田自治会公民館、入植之碑
    • 愛せよ公民館 育てよ緑の碑
    • 伊野田御願所、入植記念碑
    • 八重山ゼロマラリア達成の碑
    • 不発弾薬莢
    • 伊野田漁港
    • 伊野田海岸、伊野田キャンプ場
  • 大野集落


今日から、二回目の石垣島への旅行を始める。前回と同様に自転車を輪行しての旅で、今回は6泊7日で石垣島の北部を中心に巡る。天気予報では、ほぼ全日雨予報になっているが、沖縄の天気予報は外れる方が多いので、外れる事を期待している。

石垣空港につき、自転車をセットアップして、空港の北側の小字 桃里へ出発。


旧宮良間切 桃里村 (トーザトゥ、とうざと)

字 桃里(トーザトゥ、とうざと) は、石垣島東海岸に沿った南北 に細長い地域で、南は字 白保、西は字 桴海、北は字 野底、伊原間の両字と接している。

桃里村の本村はカラダギ (カラ岳) の北方、現在の大里集落の東一帯の地にあった。琉球国第二尚氏第13代尚敬王 (在位1713年 - 1751年) 時代に農業開拓を主目的とし、その他、異国船監視、難破、漂着船の救助のために石垣、登野城、平得、宮良、白保の住民を移住させて桃里村が創建されている。

1771年の明和の大津波では、桃里村の本村 (人口689人) には津波は到達せず、被害もなく溺死者の出ていないが、仲与銘村は村民全員283人が溺死している。

前述の様に桃里村は明和の大津波では被害はなかったが (当時の人口689人)、その後、風土病に苦しみ、風水思想に基づき村の村敷地も移動したが、人口は次第に減少し村は衰退が続き、衰徴の一途をたどった。1892年 (明治25年) には人口26人 (12戸) までに減少し、1914年 (大正3年) に事実上廃村となった。1930年 (昭和5年) には僅か8人 (3戸) が旧桃里村に残っている状態だった。字桃里の域内には、戦後、沖縄本島からの自由移民や政府計画移民が入植し、大里 (1953年)、星野 (1950年)、伊野田一班・二班・三班 (1951年)、大野 (1955年) などの集落を形成している。大きな問題だったマラリア撲滅し、パイ ンブームやサトウキビ産業の振興開拓事業は進んでいった。1972年の本土復帰前後のドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、人口は減少し、その後も人口減少は続き、2023年末では字桃里人口は326人 (178戸) になっている。ここ数年の人口は横ばいだが、今後の予測では人口は減少に向かうとされている。

石垣島の北部は四箇村とは大きく異なり、入植者により開拓された集落の地域になる。この地域の開拓は、琉球国時代、明治時代から戦前と戦後に行われている。

琉球国時代1609年の薩摩藩侵攻により、対中国貿易利益が薩摩藩に吸収されてしまい琉球王府財政が逼迫し、史上悪税の人頭税を1637年に施行するに至った。国相の具志頭親方蔡温は八重山の未開拓地を開墾し、稲作を奨励して人頭税の飛躍的増収により王府財政の建て直しを目論んだ。この開拓に寄百姓を外国船の監視や遭難船、漂流船の救助等にも便利な良田地帯に離島で人口過剰地域から移住させて新村を建てさせている。寄百姓には三ヵ月分食糧を給与、人頭税を五ヵ年間免除、農具、鋤牛一頭、乗馬一頭を給与していたが、帰村や住居の自由は禁止されていた。蔡温の国相就任後、1730年代から1780年代ま で、およそ60年間にわたって次々と新村を建て、八重山の開拓事業を強硬に推進した。表面的には、地元村からの請願の形をと ったが、実際は王府の政策による命令で強制移住だった。

明治期の入植開墾事業は、旧士族の失業対策の一環として 1891年 (明治24年) にそれまで禁止されていた開墾が解禁され、沖縄県士族らとともに本土からの開墾の為に入植したが、いずれも資金難とマラリアと台風のために失敗し、事業を中止して解散している。

戦後の入植開拓の背景は、焼け野原となった沖縄本島では多数の県民は、長期間にわたって難民同然の立場に放置され、米軍からの配給に頼って細々生活をしており、更に終戦翌年の1946年~50年にかけて海外移民の大量の引揚者が帰村した事で食糧の確保が最重要課題だっ た。当時、沖縄は米軍の統治下で県内での開墾地を求めて、八重山諸島をその対象とした。八重山開発計画が実行されることになった。米軍の都合や、複雑な社会状勢等で実現は遅れたが、民政府から群島政府、更に臨時中央政府へと機構が改編されるごとに計画は具体化し1952年に日米講和条約が発効し、琉球政府が設立されて実現に至っている。

入植者の多くが大宜味村出身者が多い。大宜味村は、土地に恵まれない僻地山村で、農業だけでは生活ができず、多数の村民が出稼ぎ移民となり、こうした人たちの送金によって生活を維持してきた移民経済村だった。海外移民が引揚してきて送金が途切れ、他地域からの避難者も流入し、食料確保は困難を極めていた。この様な背景から大宜味村から新天地を求めて入植者が多く出ている。懸案であったマラリアも克服し、1960年代後半迄はサトウキビ、パイナップルブームで順調に発展したが、1972年の本土復帰前後にはドル高、オイルショック、パイナップルブーム終焉、本土資本による農地買い占めで、政府からの支援打ち切りもあり、入植者の脱落が続出している。

以上のように三つの時期の入植奨励事業は税収増加、失業対策、食料対策など短期的な解決策として進められたもので、長期的な戦略に基づいたものではなかった。殆どの開拓集落は入植当時の半分以上が脱落しており、集落の維持が困難になっているところもある。この状況に対して石垣市は対応していない様に思える。石垣市都市計画マスタープランを見ても、課題はあげているものの、それに対しての対策は記されていない。

  • 御嶽 (八重山島由来記): なし
  • 主要御嶽: 申の方の御嶽、仲夢御嶽 (不明)、星野御願所、伊野田御願所
  • 井戸: アチドゥ井

石垣空港から国道390号線に入り北に向かう。現在では桃里は石垣島東部海岸地帯における南北交通の要衝だが、戦前、道らしき道は白保迄で、それ以北は道らしい道はなかったという。


黄金岡 (クガニムイ)

空港を出発して国道390号線を北に向かう、暫くすると、左手西側に小山が見えてきた。これは地元では黄金岡 (クガニムイ) と呼ばれ、沖縄本島でもよくある黄金伝説が伝わっているそうだ。


嘉良岳 (カラダキ)

黄金岡 (クガニムイ) を過ぎると右手 (東側) に空港の北側にあたる場所にカラ岳 (嘉良嵩、唐岳、空岳) がある。標高136mの山で樹木は少なく、雑草で覆われている。その事から禿山としてカラ岳と呼ばれたともいう。琉球国時代には遠見台 (火番盛) が置かれていたという。尚賢王の時代、1644年に各島々の要所に蜂火台を設け、遠見番をおいて船の入港を首里王城に通報する制度を確立した。石垣島には、平久保、川平 (獅子岡)、桃里 (嘉良岳) の三カ所で、その監視所を火番所、その高台地を火番岡 (ヒバンムイ) と呼んでいた。合図の狼煙は、地元船や唐船の場合は立火二つ、大和船の場合には立火三つ、その他の外国船の場合は立火四つを点火していたという。

白保にはこの嘉良岳 (カラダキ) の逸話が伝わっている。

昔、カラ岳は石垣島の他の山々と同じく木のうっそうと茂った山でありました。島の人々は、カラ岳の南麓をタキ・ヌ・メー (岳の前) と言い、北麓をタキ・ヌ・クチ (岳の背)と呼ん でいました。カラ岳の西北には、そのタキ・ヌ・クチを川上としてアラカチ・カーラ (東から流れる川) という小川が 流れ、マンナー、ソンタパリ、ソージダー、ナーダー、ジンタカと水を満面にたたえた肥沃な水田が広がり、 島の中央部のスクバル (底原)へと連なっていました。その昔、四か村の豪農パンナヤーは、タキ・ヌ・クチで水田を営んでいました。パンナヤーには、 一人のギシ (下僕) がいて五里の道のりを物ともせずに、せっせと田仕事に出かけました。ところが、タキ・ヌ・クチの水田は来る日も来る日も水があふれ、仕事ができずに帰って来ると主人に罵 られてばかりいました。下僕は、あまりの悔しさにティンス (天人) となって傘をさして昇天しました。その下僕がいなくなると、長い日照りが続きカラ岳は赤く焼きつくされ、すっかり禿げ山になってしまいました。岳の麓の水田も干上がってしまい稲を作付けすることが出来なくなりました。そこで、パンナヤーは己の非を認め、下僕が火の神となって昇天した所に、祈願石を立て拝むようになりました。すると、カラ岳の北麓には清水がコンコンと湧き出る泉ができ、水量の豊富な水田地帯になりました。その後、パンナヤーが立てた拝み石を倒すと、その家には必ず火災が起き 、一家を焼きつくすと言われています。 


ゆがふみつ大里農道

道を北に進むと、大里集落の手前に石碑が建っている。この碑は県営一般農道整備事業の一つとして、1980年 (昭和55年) ~ 1997年 (平成9年) にかけて建設されたゆがふみつ大里農道の竣工を記念して、1998年 (平成10年) に建てられたもの。大里農道はここから西に伸びて、約8km先、バンナ公園北側で、県道211号線に合流している。

ゆがふは弥勒世果報(みるくゆがふ)からとって、世果報道 (ゆがふみつ) と名付けたそうだ。



小字 桃里 (トーザトゥ)

琉球国時代に創建された桃里村があった地域で、廃村とはなったが、小字名として残っている。小字 桃里は、トゥザトゥ又は、トントともいわれる。


旧桃里村跡

カラ岳を過ぎると、大里村の場所になり、その東側海岸沿いには、琉球国時代にはこの地域の本村だった桃里村があった。当時、この一帯は白保、石垣、登野城、平得、宮良からの人々が耕作地として使っており、その事から、琉球王府はこの地に村を建設することとして、1732年 (第二尚氏13 代尚敬王) に700 ~ 800人を強制的に移住させ桃里村とした。1771年の明和大津波ではこの桃里村には奇跡的に被害は殆どなかったが (当時の人口は689人)、マラリアにより、罹患死亡者が多く出て、1892年には26人 (12戸) の村となり、1914年 (大正3年) に廃村となってしまった。

現在では村は一面畑になっており、建物は殆ど見当たらない。

旧桃里村は現在では牧場になっており、その中に牛舎があった。


申ヌ方ヌ御嶽 (サンヌパヌオン)

桃里村は1914年 (大正3年) に廃村となったので、当時を忍ぶ史跡は殆どないが、かつての村の西南 (申方 地番123) に申ヌ方ヌ御嶽 (サンヌパヌオン) があったという。牧場の中に林があり、そこだろうと思い行ってみる。林に入る道があり、鳥居が建っている。境内は何本も大木が生えていて、その合間にコンクリート造りの祠が置かれている。世ぬ主の番 天女様と書かれている。沖縄では天女が降臨し、豊穣など幸せをもたらしたという伝承が各地にある。


番所 (オーセ) 跡

この申ヌ方ヌ御嶽 (サンヌパヌオン) の北には桃里村の番所 (オーセ) が置かれていた。番所の東には仲夢御嶽 (ナカイミオン 神名: ふめたう神本、御イベ名: をたうはつふんせはつ) もあったのだが、明和の大津波の後に、風水により、海岸寄りの東南方 (桃里19 小字 恩田) に移動奉遷されたと伝えられている。


アチドゥ井

また、旧桃里村の南地区には村井戸のアチドゥ井 (地番67) があり、井戸の南には鍛冶屋もあったという。井戸は多分、この森の中にあるとおもうのだが、草が生い茂り、中に入るには断念。

資料に掲載されていたアチドゥ井の写真



小字 真武名 (マンナ)

字 桃里の南端、字 白保に隣接しているのが小字 真武名 (マンナ) になる。名の由来は不詳。


大里集落

旧桃里村の西側、国道390号線のすぐ西地域が大里集落になる。大里集落は字 白保に属しているのだが、集落は字 白保と字 桃里の小字 真武名 (マンナ) にまたがり、大里公民館は小字 真武名にある。

戦後、1950年頃、宮古島城辺町から自由移民として4世帯が入植、その後、琉球政府が人口調整を行い、先島諸島各地に農業開拓団を送りこんだ。この地には、1953年 (昭和28年) に、沖縄本島の大宜味村、羽地村、コザ市等から、20戸116名が、かつての桃里村一帯に入植が行われた。初めは大里団と呼んでいたが、その後、廃村となった桃里という名を避けて、大宜味村の「大」と元の桃里村の「里」をとって大里村と命名された。入植後は様々な苦難があったが、それを乗り越え集落は続いている。

大里村創立後1950年代から1960年代前半までは入植者が増加し人口は262人 (1964年) まで二増えたが、1972年の本土復帰前後のドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、人口は減少、その後も人口は減少をつづけ、2023年末現在では98人 (59戸) となっている。今後も人口減少が続くと思われる。


共同売店、開拓之碑

大里集落内にある共同売店の敷地内に入植30周年を記念して、1983年 (昭和58年) に開拓之碑が建てられている。

白保村以北には、店は殆ど見当たらず、集落には共同売店がある。集落住民の為に住民の共同出資で作られた店で、食料品や雑貨など、集落住民が消費するだけの品揃いとなっている。19581年 (昭和33年) に開店し、1978年 (昭和53年) に現在の場所に移転している。大里共同売店は数年前に廃止となっていたが、石川県出身の若い女性の方がセラピーとして石垣島に移住し、今年二月から店を引き継ぎ個人商店として再開している。店の運営とともに、石垣島の民藝品などを制作展示販売もしており、ワークショップも計画しているそうだ。車で真栄里まで買い物に行けない老人にとっては、このような小さな店でも必要なので、今後も頑張って店を続けたいと言っていた。


大里公民館

大里村の北側には大里公民館が建てられている。敷地には広い農村公園となっている。



小字 恩田 (ウンダ)

大里集落の北、小字 桃里と小字 真武名の北に隣接しているのが小字 恩田 (ウンダ) で、かつては、この地域内に恩田田 (ウンダター) と呼ばれる田地があった事が小字名となっている。


桃里恩田遺跡

国道390号線を北に進み、小字 伊野田との境界あたりには、桃里恩田遺跡が発見されている。ペーフ山 (屏風山) と呼ばれる古生期石灰岩の丘頂上中心に形成された15 ~ 16世紀の集落跡と考えられている。1981年 (昭和 56年) のに発掘調査では丘の南側斜面から八重山式土器や貿易陶磁器、石器、古銭、食料残滓の貝殻や炭化米、炭化麦などが発見されている。



小字 伊野田 (イノーダ)

小字 恩田 (ウンダ) の北からは、字 桃里の大半を占める広大な地域の小字 伊野田 (イノーダ) となる、地域内にイノーダと呼ばれる場所 (水田だったのだろう?) があった事が小字名となっている。


通路川 (トゥーリィーカーラ)、通路橋

桃里恩田遺跡から小字 伊野田 (イノーダ) に入り、国道390号線を北に進む。下り坂になり、道の先に海が見えている。

長い坂を下ると通路川 (トゥーリィーカーラ) に出る。通路川には通路橋が架かり、これを渡ると星野集落となる。

通路川はホウラ岳の水源から3.6km流れて星野集落の南で太平洋に注いでいる。通路川と書かれているが、トゥーリィは灯火のことで、昔、夜は灯火をつけて渡った事に因み名付けられたと伝えられている。1771年の明和の大津波以前は石橋で、石垣島東海岸の重要な宿道に架かり、往来も多く夜も安心して渡ることができたという。明和の大津波により破壊されて人馬の往来に窮し1775年に丸木橋が架け渡されたという。1899年 (明治32 年) に木橋が架けられたが、1927年 (昭和2年) 頃に破損し、1932年 (昭和7年)大浜村民の労力提供と、村からのセメント拠出によりコンクリート橋が架けられた。戦後、一時期、石橋が架けられたが、台風で流失し、暫くは橋はなく、干潮時しか川を渡れず、海岸まで遠回りして行き来をしていた。

その後、1948年 (昭和23年) には鉄橋が架設され、1951年 (昭和26年)にはコンクリ ート橋となる。

現在のコンクリート橋は1974年 (昭和49年) に架けられたもの。現在の国道390号線は当時は道幅も狭く不整地の道で、マムラム道路と呼ばれていた。1954年 (昭和29年) にはマムラム道路も整備され、伊原間までのバスが運行を開始している。


星野集落、入植記念碑、入植者之碑

通路川を渡り、国道390号を少し進み星野集落に入る。

戦後、アメリカ軍と民政府共同により、石垣島と西表島に3万人を移住させる八重山開発計画が発表された。マラリヤ撲滅の上、土地、農具、家畜等を供与、当初は食料提供もするという好条件で、戦後生活に困窮していた沖縄本島住民にとっては魅力的なものだった。これに対して100戸余りの応募者があったが、アメリカ側は講和会議締結まで移住計画は実施できないとの事で、政府援助による移住計画は頓挫してしまった。それでも移住を望む本島の玉城村や大宜味村、宮古島の城辺町から 16戸の人達は、自由移民として、1950年 (昭和25年) に着のみ着のままで、マムラム道路 (現在の国道390号線) 沿いの東側のジャングルだったジンギ山を開拓して星野集落が造られた。(ジンギはシマトネリコの事) 当初は壁もない粗末な家を建て、ジャングルの木を伐採し土地を開墾して行った。

その後、1954年 (昭和29年) には琉球政府計画移民に編入され、支援が受ける事ができる様になっている。その効果で、入植者は増えて、1964年には372人 (64世帯) にまで増加した。集落名は当時の大浜町長の星克氏の「星」と、八重山民政府知事の吉野高善氏の「野」を取って、星野と名付けられた。入植当初は、イモ、陸稲、落花生などを栽培し、その後、サトウキビを作ったが、大浜の製糖所への輸送は遠く採算が合わず、パインブームでパイナップル栽培に変わったが、これもうまく行かずパインブームも去り、サトウキビ栽培に戻ったという。この時期、1972年の本土復帰前後はドル高、オイルショック等の不況もあり、村を離れる人が増加し、人口は200人程にまで減少している。その後、2006年までは200人から230人の間で増減をしていたが、2007年に28%もの人口減少があり、160人程になっている。その背景はわからなかった。これ以降は微増微減を繰り返し、2023年末では168人となっている。

1953年 (昭和28年) に住民の共同出資で造られた共同販売店がある。店の方と話しをすると、やはり大宜味村から移民してきた方の息子さんだそうだ。店の前には1975年 (昭和50年) に入植記念碑が建てられ、移住団先遣隊の名が刻まれている。その隣には2020年 (令和2年) に入植70周年を記念して建立された入植者之碑も建てられている。


人魚像

入植記念碑、入植者之碑の後方に人魚像がある。明和の大津波に関連して野原崎 (ヌバレーザキィ) には人魚伝説 が伝えられていることから、この人魚像が置かれている。

1771年の明和大津波が起こったころ、この地域には野原村 (ヌバレームラ) があった。ある日、人魚をとらえた漁師たちが人魚の悲しみに同情して逃がしてやったところ、人魚は「明日の朝、恐ろしいナン(津波)が村を襲います。みんな山へお逃げなさい」と告げた。村人はあわてて身のまわりのものを持って山へ避難した。さらに二人の若者を隣の白保村へ使わせて逃げるように伝えた。しかし、白保村の役人はその話を信じるどころか、人魚を放してしまったことについて激しく怒った。翌朝、巨大な水の壁が押し寄せ、一瞬のうちに村の家々や畑を飲み込んだ。しかしこの村では皆避難していたため犠牲者は出なかった。一方、隣の白保村では1,574名中1,546名が犠牲となってしまった。野原村の人たちに助けられた人魚は、ときどき現れるようになり、子どもの人魚を抱きながら、子守唄を歌っていたという。

星野集落は人魚の里として2004年に、この伝説を生かし「星野人魚の里地域協議会」を立ち上げ、「人付き合いの濃密な農村地域の良さ」を内外に発信する取り組みを続けている。その一環として集落で途絶えていた盆踊りを「夏祭り」という新しい形で復活させている。小さな集落ではあるが、ホームページを開設しており、集落の歴史や人魚伝説などを動画で掲載している。


星野御願所

星野集落の共同売店横、人魚像の後方には御願所が設けられている。この拝所の詳細は見つからなかったが、祠の中には二つの霊石が祀られている。


星野公民館 (多目的集会施設)

星野御願所奥に広場がある。そこに行くと公民館の敷地の広場でステージが作られている。ここでは村の夏祭りが行われている。ここには、1955年 (昭和30年) に移民合宿所が建てられ、公民館の役割をしていた。その後、1969年 (昭和44年) に公民館が建設されている。


マンゲー山 (小マンゲー山、大マンゲー山、中マンゲー山)

共同販売店の前にマンゲー山の紹介パネルが設置されていた。マンゲー山は全山古代三紀前期石灰岩 (宮良層群) で、ペラテスペラの典型的化石、その他の地質学上の貴重な古生物の化石類が豊富に保存されており、天然記念物として石垣市の文化財に指定されている。マンゲー山は、大 (ブー) マンゲー(標高約 103m)、小マンゲー(同 60m)、中マンゲー(キタスクマンゲー 同 90m 伊野田遺跡)からなり、高温多湿の亜熱帯の環境下で石灰岩が風化侵食を受けて形成された岩山で、円錐カルストと呼ばれる。これらの岩山は、今から 5500~6500 万年前に石灰質の殻を持つ生物や石灰分が海底に沈積して出来た地層が、隆起により持ち上げられてできたもの。マンゲー山及び一帯の地層からは、地層の年代を示す化石(示準化石)としてペラティスパイラやアステロサイクリアなどの有孔虫の化石が発見されている。


大マンゲー山: 大マンゲー山の向かって左が小マンゲー山があるが、その裾野が少しだけ写っている。大マンゲー山と小マンゲー山は集落の西方にあり、第三紀宮良層の石灰岩からななっている。両山は溶食作用で形成された円錐カルスト丘をなし、地質構造が特異なため、1982年 (昭和57年) に市天然記念物に指定されている。大マンゲー山の東側すそ野には、マンゲー山遺跡群があり、八重山式土器・青磁・勾玉などが採集されている。大マンゲー山中腹の洞穴は大和墓 (屋島墓) と呼ばれ,壇ノ浦の合戦で敗れた平家の落武者が通路川河口から上陸し、マンゲー山にたどり着いたという伝説がある。


小マンゲー山: うっかりしていたのか小マンゲー山は撮り忘れてしまった。大マンゲー山のすぐ側だっのに。


中マンゲー山: 大マンゲー山 (写真左上の向かって左の山) の右側が中マンゲー山


旧仲与銘村跡 (ナカユミムラ)

道を北に進むと、伊野田小学校がある。この小学校奥辺りには1768年に白保村から寄百姓として200人が強制移住させて、桃里村の属地として村立てされた仲与銘村 (ナカユミムラ) があったという。創設の目的は桃里より伊原間までの距離が遠く、役人の巡視等に不便であるので宿次の便を図るのと、遭難船の救助等だった。

村の場所については定かではないが、低地にあったと思われ、三年後の1771年の明和の大津波で村は全壊流失し、当時の村民283人 (52戸) は全員が溺死するという悲劇に見舞われている。その後、仲与銘村は再建されることはなかった。

その後、1892年 (明治25年) に農業開拓事業で本土から10名が入植したが、マラリアなどの影響で、10年後の1902年 (明治35年) には入植活動が解散となってしまった。

戦後、1951年 (昭和26年) に、旧仲与銘村付近には沖縄本島大宜味村からの自由移民や政府計画移民 176人 (30戸) が入植し、三班に分かれて入植し、この地には伊野田一班に割り当てられた。


伊野田集落 (イノーダ、いのうだ)

伊野田の開拓は、1893年 (明治26年) に鹿児島県から数名が入植し始まり、サトウキビなどを栽培していた。1896年 (明治29年) には高知県、1898年 (明治31年) 以降には東京府から人々が移住して、野崎から大野までを開拓して、サトウキビ、藍、桑などの栽培を行い、収穫された作物は、伝馬船で四箇村 (登野城、大川、石垣、新川) に運搬していた。

伊野田集落が拡大したのは、1951年 (昭和26年) に琉球政府の計画移民として宮古島や竹富町、沖縄本島大宜味村から21世帯が入植してからで、戦前に入植した人々が住んでいた旧仲与銘村 (ナカユミムラ) 跡周辺の一班、そこから北へ二班、三班に分かれて開拓にあたっている。

村が創建された1950年代から、1960年代前半までは入植者が増えていき1964年には589人 (104戸) にまで達したが、1972年の本土復帰前後はドル高、オイルショック等の不況やパイナップルブームが去り、村を離れる人が増加し、人口は300人程にまで減少している。その後、人口は少しずつ増えていったが、1990年以降は減少に転じ、2023年末では147人となっている。


伊野田漁港

伊野田一班の海岸には伊野田漁港がある。この漁港は1991年 (平成3年) に整備されたもので、これ以降、農業とともに漁業も営まれている。


伊野田自治会公民館、入植之碑

国道390号線沿いに伊野田自治会公民館 (集落センター) がある。1959年 (昭和34年)に公民館が建てられ、1983年 (昭和58年) に伊野田集落センターとして建て替えられた。公民館広場への入り口にはパイナップルをイメージしたトイレが造られている。伊野田集落は1960年前後にはパイナップル栽培で成功し、「脱退者を出さない集落」 として注目されて時代があった。パイナップルブームが去った後は、サトウキビや野菜栽培に移行している。

公民館には集落の人々が切り開いた手造りの岩石公園も造られ、園内には遊歩道も整備されている。

公園入口を入ったところに入植25周年の入植記念碑が置かれている。1950年に14世帯、1951年に第一次入植 21世帯、1952年に第二次入植 13世帯、1953年 ~ 1960年に48世帯がこの地に移住している。その側には開拓の詩を刻んだ碑も置かれている。

一. 南野原入江より 北は玉取岬まで 青き海原前にして その名うるわし伊野田村
二. もとはおそれし有病地 今は変わりてこの島も 夜明さしこむ光うけ したいよりくる人もあり
三. 緑したたる原始林 拓き郷土をなさんとて はなうたまじりにくわをふる 励む我れらの楽しさよ
四. 後に連なる山々に 抱かれ育くむ我が郷土 共に手をとり進まなん 永遠に幸あれ我が伊野田


八重山ゼロマラリア達成の碑

伊野田集落センターの西側には2022年8月20日の世界蚊の日に設置された八重山ゼロマラリア達成の碑が置かれている。碑の正面にはマラリヤ撲滅を1962年に達成と刻まれている。碑の脇にはそのマラリヤ撲滅の経緯を表した説明板が置かれている。

八重山地方は400年以上ものあいだ風土病マラリアに苦しみ、ヤキーヌシマ(ヤキー=焼ける、高熱の病気マラリアの島)と呼ばれ、恐れられてきました。八重山では、琉球王国時代の重い人頭税、沖縄戦、戦後の米軍統治という困難な状況下でマラリアとの戦いを強いられました。戦後、官民と米軍当局が連携し、マラリア対策を行った結果、1962年に八重山地方のマラリアは、世界に先駆けて一掃されました。2022年、ゼロマラリア達成から60年を迎えました。八重山の先人たちの努力を讃え、この地域で成し遂げられた偉業を次世代に継承し、世界に発信し、感染症のない平和を願って、ここに「八重山ゼロマラリア達成の碑」を建立しました。
八重山とマラリア
一説によると、1530年に西表島へ漂着したオランダ船から、八重山にマラリアが持ち込まれたと伝えられています。それから20世紀まで、八重山のマラリアは原因不明の風土病でした。1921年に初めてマラリア対策専門の行政組織「八重山島庁マラリア予防班事務所」ができましたが、継続的かつ根本的なマラリア対策は行われず、患者数は減少しませんでした。そのような状況下で、八重山でも沖縄戦をむかえることになります。
戦争マラリア
沖縄戦において、八重山で地上戦はありませんでした。しかし、空襲が激しくなると、住民たちは、日本軍の命令によりマラリアの有病地へと強制避難させられました。食料も薬もない中、住民の約半数にあたる 16,884名がマラリアに罹患し、3,647名の尊い命が奪われました。一方、戦闘行為による死者は 178名でした。この戦時下でのマラリア被害は「戦争マラリア」と呼ばれています。八重山出身の吉野高善博士(寄生虫研究者)は、保健所職員の黒島直規らとともに、戦時中のマラリア患者に関する細かなデータをとりました。これらの科学データは戦後のマラリア対策へとつながります。
戦後、吉野は八重山支庁長に、大濱信賢博士(八重山出身のマラリア研究者)は衛生部長に就任し、「マラリア撲滅に関する取締規則」を作成しました。この規則は罰金を伴う厳しいものでしたが、官民一体の対策が行われたことで、1949年にはマラリア患者数が17名まで減少し、死者数も激減しました。しかし、この時はまだゼロマラリアは達成されませんでした。
移民マラリアとウイラープラン
1950年、住民が選んだ新政権はマラリア対策予算を削り、開拓を推し進めました。他島から多くの「開拓移民」がマラリアの有病地に入植した結果、入植者を中心に「移民マラリア」と呼ばれるマラリアの再流行が起こりました。
1957年、GHQの医動物学者ウイラー博士は、USCAR(琉球列島米国民政府)の依頼により、八重山でマラリア対策計画「ウイラープラン」を作成しました。他国で科学的に効果が証明されていたDDTの屋内残留噴霧を中心としたこの計画に特別予算が付けられ、現場の保健所職員が徹底した噴霧作業を行いました。この効果はすぐにあらわれ、住民も積極的に協力しました。この結果、1961年の西表島での患者を最後に、1962年、八重山でゼロマラリアを達成しました。 
マラリアとは
マラリアは、マラリア原虫という寄生虫による感染症で、高熱と強烈な寒気を特徴とし、治療が遅れると死に至る病気です。マラリア原虫を持っている蚊(ハマダラカ 学名 Anopheles spp.)に刺された時、蚊の唾液の中に潜んでいる原虫が、人の体内に侵入し感染します。エイズ、結核と並び「世界三大感染症」の一つです。
八重山には、死亡率の高い熱帯性マラリア原虫を運ぶヤエヤマコガタハマダラカがジャングルの渓流に発生します。八重山からマラリアは無くなりましたが、アジア、アフリカなど低・中所得国を中心に、世界では年間60万人以上がマラリアで亡くなっています。(2020年)
伊野田と移民マラリア
1950年7月7日、マラリアが蔓延する伊野田地区で、住民手作りの「マラリア撲滅伊野田出張所 (写真右下)」の開所式が執り行われ、伊野田部落が誕生しました。1951年10月、大宜味村から計画移民として21世帯が入植したのを皮切りに、伊野田には多くの入植者が開墾に来ました。しかし、伊野田を含む石垣島北部一帯で、入植者を中心にマラリアが大流行しました。伊野田出張所では治療、対策から教育普及など多岐にわたる業務が行われ、後に、北部地区のウイラープラン実施拠点となりました。その結果、1962年には八重山での年間マラリア患者発生がゼロとなりました。
こうして、八重山の400年以上の長きにわたるマラリアとの苦闘の歴史に、終止符がうたれました。


愛せよ公民館 育てよ緑の碑

入植之碑の背後に伊野田御願所への入り口に鳥居があり、その傍に愛せよ公民館 育てよ緑の碑と刻まれた石柱が建てられている。

1978年 (昭和53年) に伊野田老人クラブによって建てられたもので、石柱側面には 「植えよ育てよ花いっぱい 孫たちに緑と花をおくろう 美しいものを愛する豊かな心」とある


不発弾薬莢

資料には伊野田集落センターの広場西側に公民館でよく見る酸素ボンベの鐘の代わりに沖縄戦で米軍により投下された250kg普通爆弾の不発弾薬莢が吊るされている写真があったのだが、今日見ると無くなっている。戦後、信管や炸薬を撤去して、伊野田第一売店の横で長い間、時報の合図や緊急時の鐘として伊野田住民の生活の一部として使用されてきたそうだ。キャンプ場の管理をされている川満さんによると来年には不発弾薬莢の鐘が復活するそうだ。


伊野田御願所、入植記念碑

鳥居をくぐり階段を上った所は伊野田御願所になっている。鳥居を上った正面には、1951年 (昭和26年) に入植が始まった事を記念して1960年 (昭和36年) に碑が建建てられている。記念碑の下には山の神、龍宮の神、水の神を祀る祠が置かれ、旧暦9月9日に祭祀が行なわれている。


伊野田共同売店

伊野田公民館から少し道を進むと伊野田共同売店がある。1952年 (昭和27年) に住民の共同出資で作られた店。ここで今夜の食料を調達しようと思ったが、生憎、定休日だった。この付近には店は全くなくここだけ、という事で今日の夕食はなし。プチダイエットとなった。


伊野田海岸、伊野田キャンプ場

今日から三日間は石垣市が運営している伊野田キャンプ場に泊まる。キャンプ場は伊野田海岸沿いに位置している。

キャンプ場は伊野田公民館が業務を委託されている。宿を探したのだが、宿泊料金が2万円など高いホテルしかなく、寝るだけなので、キャンプ場とした。公営なので安く1泊400円也。設備も充実していて、温水シャワーもあり、電子レンジや冷蔵庫も使う事ができる。


大野集落

キャンプ場の先にも開拓集落がある。大野集落で、明治期に奄美大島や東京などからこの地に移住してきた人たちが、サトウキビやレモン、ザボンなどの農場や牧場を経営していたが、マラリアや台風などで失敗している。

その後、1955年 (昭和30年) に宮古島や地元八重山から自由移民として入植した人たちと以前からいる人達で大野集落を結成している。集落名は、集落の北方に位置する大野岳の「大野」に因み付けられたそうだ。当初は農作物を栽培していたが、1960年 (昭和35年) 以降は、次第に牧場に変わっている。

1972年の本土復帰前後はドル高、オイルショック等の不況やパイナップルブームが去り、村を離れる人が増加し、人口は半減し40人程にまで減少している。その後、1990年以降も減少し、2023年末では僅か11人 (8戸) となっている。ここ数年は人口世帯数とも変化はないが、いずれ消滅が予想される。


これで長い1日が終了し、疲れもあり、テントの中に潜り込み、即就寝となった。



参考資料

  • 石垣市史 各論編 民俗 上 (1994 石垣市役所)
  • 石垣市史 各論編 民俗 下 (2007 石垣市役所)
  • 石垣町誌 (1975 喜舎場 永ジュン)
  • 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
  • 八重山歴史 (1954 喜舎場永珣)
  • 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
  • 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
  • 八重山のお嶽 (1990 牧野清)
  • 村むら探訪 Vol 3 開拓の村むらを歩く (1995 石垣市総務部市史編集室)
  • 石垣島白保以北の旧村々 (2011 石垣繁)
  • 開拓 (1981 山口忠次郎)

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