Okinawa 沖縄 #2 Day 287 (06/11/25) 読谷村 (2) Makihara Hamlet 牧原集落

読谷村 牧原集落 (マヂバル、まきはら)

  • チチェーンヌ御嶽
  • 坊主井 (ボージガー、御井 ウカー)
  • クイーンズトラップゴルフコース
  • 栄橋
  • 鉄血勤皇農林隊壕跡 (牧原壕)
  • 牧原公民館
  • 牧原公園、慰霊碑


比謝矼集落巡りを終えた後、牧原集落の史跡を訪れる。


牧原集落 (マヂバル、まきはら)

牧原は読谷村の南東部、北は長田川 (後ヌ川)、南は比謝川を挟んで嘉手納町に隣接している。琉球王国時代にはこの地は王家の尚家が馬を飼育していた牧場だった事から牧原と呼ばれるようになったという。

1879年 (明治12年) に廃藩置県で職を失った尚家に仕えていた土族25人が、当時は大湾、比謝、古堅の三ヶ村にまたがっていたこの馬牧 (ウママチ 牧場) へ入植して形成された屋取集落 (ヤードイ) だった。住民は作った作物を東隣の比謝矼集落や嘉手納の芋市小 (ンムマチグワー) などで売買した。字牧原は富名底原、長田原、虎地原、比嘉原、牧原の五つの小字で構成されていた。嘉手納集落訪問のレポートで記載しているが、芋市小 (ンムマチグワー) は夜に開かれた夜市で、これは牧原や久得などの首里などから帰農した士族が零落した身の上を恥じ世間の目をはばかって、夜に作物を売りきたからだったという。また、比謝矼に置かれている 「比謝矼友竹亭顕彰碑」 は歌を発表し新聞文芸欄を賑わせた比謝矼友亭の詠み人のサークルの碑で、比謝矼友亭参加者の多くは牧原の人だった。

1908年 (明治41年) に牧原屋取集落は字大湾から分離して字牧原となった。(牧原は元々は大湾、比謝、古堅にまたがっていたが、比謝部分は大湾の芭蕉敷地と交換している) 大正初期に牧原の土地は尚家から製糖会社に売却され、字全域が小作地となった。それに端を発する問題は後々まで尾を引く事になる。(詳細は後述) 戦前、1928~31年には耕地整備の大事業が行われ、巨大な貯水池の造成をはじめ、栄橋の架橋、嘉手納の製糖工場へサトウキビを運ぶトロッコ道の整備など、農業の先進地として活況を呈した。

戦後は米軍基地として全域が接収され、牧原住民は帰還が叶わず、字大木、字比謝、字伊良皆が交わる場所を購入し、集団移住して生活している。

字牧原は現在でも米軍嘉手納弾薬庫として土地が接収されたまま、1999年にこの軍用地の一部が返還されたが、跡地はゴルフ場となり、字牧原には人は住んでいない。

牧原公民館にはかつての牧原集落を紹介しているガイドマップが置かれている。



チチェーンヌ御嶽

大湾交差点から、嘉手納町の屋良への道を東に進む。この北側は、未だ返還されていない米軍嘉手納弾薬庫となっている。この敷地内に旧牧原集落の心の拠り所となっていた拝所が残っている。

戦前迄は船送りをしていたチチェーングーフと呼ばれる松林の丘があり、その上方にチチェーンヌ御嶽があった。牧原集落形成以前から首里の婦人らが拝していたとも伝わっている。牧原は屋取集落なので、移住してきた帰農士族の拝所はないはずなので、昔からあったこの拝所を集落の拠り所としたのかも知れない。戦後牧原は米軍に全域が接収され、チチェーンヌ御嶽は嘉手納弾薬庫内にある。以前は自由に立入ることができ、拝所で祈願や、広場で牧原の字行事を行ったり、黙認耕作地での農作業も出来た。1980年 (昭和55年) にはチチェーンヌ御嶽は祠が建てられ修復されている。現在は自由に立入ることができず、祈願もフェンス越しに遙拝に限定されている。また、比謝矼にある拝所 (ウガンジュ) からも遥拝している。旧暦9月9日の例祭には村外からも牧原出身者が集まり、フェンス越しに拝んでいる。牧原自治会はフェンスを御嶽の後ろ側に移動するよう、関係機関に要請しているが、未だ実現されていない。


坊主井 (ボージガー、御井 ウカー)

旧牧原集落内には坊主井 (ボージガー) と呼ばれる井戸があった。

琉球国第17代の尚灝王 (1787~1834年) が、一時、この牧原に居住した際に使用していたと伝わる井戸だそうだ。尚灝王は隠居した後は頭を丸めていたので坊主御主 (ぼうずうしゅう) と呼ばれていた。この事からこの井戸は坊主井 (ボージガー) と呼ばれている。(御井 ウカーとも呼ばれる) 尚灝王は、その在位期間で目立つ功績は記録されていないのだが、沖縄ではある意味で有名な王となっている。それは、歴代王の中で最も多くの妻を持ち、最も多くの子女を持っていた。妃、夫人 (側室)、妻 (妾) を10人、子は26人ももうけた。それと、精神疾患で最後は自殺したという。尚灝王は元々は王となる立場では無かった。祖父の14代尚穆王の孫ではあるが、王に即位しなかった尚哲の四男だった。父であった尚哲が尚穆王の在位中に亡くなったので、15代は兄であった尚温が11才で即位したが、7年後の18才で死去、16代は尚温の長男の尚成が2才で即位、在位一年で死去。他に主要な王候補もなく、尚灝が17才で17代王に即位した。この時代は若い尚灝王にとっては難しい時期で、飢饉、台風など天災続きで琉球国財政は苦難の真っ只中、琉球を治めていた薩摩藩は島津斉興が藩主で財政破綻に陥っていたので、琉球国からの搾取も厳しかった。この中で若い尚灝王には打開策などは無く、祖父の14代尚穆王の死去以降は三司官が政治を牛耳っていたので、若い尚灝王の出る幕は無く、政治に興味を失い色欲に走ったとも言われている。退位後、百姓をしながら各地を逗留したと伝わっており、各地に尚瀬王所縁の坊主井と呼ばれる井戸が残っている。この牧原は逗留の一つだった。

終戦当時までは、山林に小さな柄杓井小 (ニーブガーグヮー、柄杓で汲む井泉)が残っていたが、山崩れで埋まってしまった。戦後、その場所を掘り起こし、以前の位置より少し手前に祠と井戸を再建している。現在はクイーンズトラップゴルフコースの敷地内にあり、牧原自治会で整備管理を行なっている。


クイーンズトラップゴルフコース

チチェーンヌウタキがある米軍の嘉手納弾薬庫の南側はクイーンズトラップゴルフコースがある。字牧原の全域の内、北部は嘉手納弾薬庫、南はクイーンズトラップゴルフコースで占有されて、旧牧原住民は一人も住んでいない。ここで疑問がわいた。何故、土地が返還されたにも拘わらず、旧牧原集落があった地をゴルフ会社に売ってしまったのか? 調べると、複雑な事情があった事が分かった。

牧原は琉球王国時代には王家の尚家 (松山御殿) の牧場だった。1879年 (明治12年) に廃藩置県で職を失った土族が、1885(明治18)年頃から将来土地は入植者に譲渡するとの口約で尚家の牧場に入植し、尚家の小作人として農地を開墾を始め、牧原屋取集落 (ヤードイ) を形成した。

1914年 (大正3年) に尚家 (松山御殿) が事業に失敗をして、嘉手納水釜に製糖工場を運営していた沖台拓殖製糖会社に牧原の旧牧場地を売却した。牧原住民はこの売却に反対をし尚家と交渉したが、金に困っていた住民は金銭で譲歩してしまった。土地を買い取った沖台拓殖製糖会社は、この地で砂糖黍農地経営を開始し、牧原の入植者 (64戸) は製糖会社の小作人となった。台南製糖の小作条件は小作面積の6割以上を蔗作とし、嘉手納工場への売約を強制、小作料は甘蔗代から差し引くなど厳しいもので、1926年 (昭和元年) から1929年 (昭和4年) にかけて小作農民らは非売同盟を結成して対抗し、賃上げ、労働時間短縮、休憩所の飲料水庫の設置などの要求の紛争が続いた。牧原争議と呼ばれ、小作農民の全面的勝利となったが、土地所有権については未解決のままだった。

1945年 (昭和20年) の沖縄戦後は字牧原全域は米軍に嘉手納弾薬庫として接収され住民の居住は許可されなかった。その後、旧牧原住民により、借地権の認定を目的として軍用地内の地籍確定作業が行われ、宅地や農地の地籍が確定された。1959年 (昭和34年) に「賃借権の取得について」が公布されたが、旧牧原集落の小作人の土地賃借権は米軍に移り、軍用地借地料の全額は沖縄製糖に支払われた。旧牧原集落の小作人の賃借権は無視され、何の補償も受けられなかった。そこで、旧小作人は組合を結成して補償を求めたが、牧原住民の賃借権は認められなかった。牧原住民による地籍確定作業により、地価は以前の2倍にもなったが、その利益は地主の沖縄製糖側が享受し、牧原住民は地籍確定作業の功績を認めるという事で1961年 (昭和36年) に組合側に1万ドルを 支払った。これは1 世帯あたりに30ドル程度の微々たるものだった。(戦後、日本本土では小作地の8割が小作人側の所有権とされている)

後に旧小作人らは賃借権の確認を求める裁判を起こしたが、「米国が賃借権を得て住民の賃借権は消滅」という旧小作人や旧住民にとっては過酷な判決で結審している。旧小作人の中には黙認耕作地で軍用地内で農耕を営んでいるが、いつ閉鎖されるか分からない不安定な状態が続いている。1999年 (平成11年) に嘉手納弾薬庫南西部分の返還が実現したが、沖縄製糖の子会社でこの地の地主の沖縄土地住宅株式会社がゴルフ場建設の申請を行い、読谷村の許可で、2009年 (平成21年) にクイーンズトラップゴルフコースが営業を開始している。嘉手納弾薬庫は一部は返還の返還されているが、残りの土地の返還予定は未定だが、仮に返還されたとしても、殆どの旧牧原住民は小作人だったため地権者になれず、彼らにとって土地返還は故郷への帰還を意味しない。一部地権者もいるが、場所が悪く利用価値は低く、土地の返還はあまり意味がないという。旧牧原住民にとってはやるせない気持ちだろう。


栄橋

この橋跡には4月9日に嘉手納町屋良集落を訪問いた際に訪れた。大正初期に台南製糖 (後に沖縄製糖株式会社) が尚家から購入した牧原の地で、牧原屋取集落の帰農士族を小作人として耕作していた砂糖黍を嘉手納町水釜にあった台南製糖嘉手納工場に運搬する為に、1930年 (昭和5年) に台南製糖により、二重アーチ式の鉄筋コンクリートの橋梁の栄橋が建設された。この工事は人海戦術を駆使し難航を極め犠牲者も出している。橋のコンクリ ート床板の中央には鉄軌道が敷設され、トロッコを曳いた馬が走っていた。

栄橋は皇居の二重橋に似ているところから二重橋とも呼ばれ、名所として親しまれていた。当時の栄橋写真が残っており、その中には、川に降りて栄橋を背にした記念写真が幾つかあった。

1945年 (昭和20年) 3月末頃、米軍侵攻を阻止するためとして日本軍の手によって爆破され、橋桁の基礎部分の鉄骨のみが残っている。今は雑木で覆われて上手く写真が撮れなかったので、嘉手納町の紹介ページに掲載されている対岸から撮った写真 (右下) も含める。


鉄血勤皇農林隊壕跡 (牧原壕)

栄橋の東、字牧原の東端、比謝川に架かる久得橋から比謝川沿いの農道を西に行くと道の終点で崖にぶつかる。この場所に沖縄戦の戦争遺構が残っている。ここにも4月9日に嘉手納町屋良集落を訪問いた際に訪れている。沖縄戦が間近になってきた頃、嘉手納にあった沖縄県立農林学校の生徒達は勉学どころではなく、座喜味城跡の高射砲陣地の構築、楚辺から波平に至る海岸沿いの戦車壕掘り、ウマカジー(北谷平安山)の海軍砲陣地の構築、防空壕掘り、軍事教練等であけくれていた。米軍上陸直前の1945年 (昭和20年) 3月26日に農林学校の学徒130名が日本軍に動員され、陸軍歩兵二等兵となり、鉄血勤皇隊農林隊 (本隊110名、斬込隊20名) が編成された。本隊は第19航空地区司令部のこの牧原の壕に配置されていた。壕の前には長屋作りの慰安所があったそうだ。コンクリートの基礎があったが、その跡なのだろうか? ここに配属されて三日目の3月29日に空爆を受け、学徒が一人戦死している。農林生の最初の犠牲者だった。この後、鉄血勤皇隊農林隊は沖縄戦の真っ只中に巻き込まれて学徒隊は23人、農林生全体では124人が亡くなっている。


牧原公民館

旧字牧原は米軍の嘉手納弾薬庫として接収されたままで、土地返還も未定。返還された南側の土地は地主の沖縄製糖がゴルフ場を建設して、住民が住む場所はない。仮に嘉手納弾薬庫の土地が返還されたとしても、旧牧原住民は殆どが小作人だったので、現在ではその借地権も消滅し、帰還する場所もない。数少ない地権者も場所が悪く、そこに戻る意向はないそうだ。沖縄の中でも、最も非情な環境下に置かれていたのがこの牧原集落だろう。そこで旧牧原住民は、字大木、字良皆、比謝の境にあたるこの地を購入して、集団移住をして、自分達で新たな地域作りの道を選んでいる。

今日の宿に向かう途中にその場所を訪れた。1965年 (昭和40年) に牧原公民館がこの移住地に建てられている。ここで公民館に来ていた戦前生まれのおじいから戦後の土地問題について話を聞かせてもらった。その話の内容はこの訪問記に含めている。


牧原公園、慰霊碑

公民館の前には牧原公園も整備され、牧原住民の字行事が行われている。公園の中には第二次世界大戦で亡くなった牧原住民の慰霊碑が置かれており、72柱 (その後、78柱) が刻銘されている。

下の戦没者グラフは「読谷村史 戦時記録下 第三章 史料にみる読谷山村と沖縄戦 第四節 読谷村戦没者名簿からみた戦没状況」のデータから作成したが、字牧原の生存者数は誤記と思われる。同じ資料では、収容所に保護された字牧原住民数は383人とある。グラフでは戦没者率は36.3%と読谷村では最も高い率になっているが、生存者数を383人とすると戦没者率は16.9%で読谷村では二番目に低い戦没者率になる。(多分、16.9%が正しい数字に近いと思われる)

1944年 (昭和19年) に入った頃に牧原集落に日本軍兵隊 (山部隊、球部隊) が駐留し、集落内民家に寝泊まりをし、兵隊はたこつぼをの巣のようにに作っていた。球部隊の兵隊の中には民家に入り、勝手に芋や豆腐、魚などを取って行く者がいたが、山部隊は規律が厳しく、悪さをする者はなく、住民とは良い関係だった。米軍上陸の前 、1945年 (昭和20年) 3月末になると、米軍の艦砲射撃が激しくなり、住民は長田川沿いに掘った壕に避難していた。4月1日に米軍が上陸し、牧原はすぐに占領され、壕に避難していた住民は米軍に保護され、収容所 (石川278人、コザ36人、前原19人、中川7人、宜野座32人、田井等11人) に送られている。1946年 (昭和21年) 末には波平と高志保の限られた地域が解放され、住民の帰還が始まっている。牧原住民の268人は波平に移動している。間もなく楚辺・大木地区の居住許可が降り、牧原住民の多くは大木に移り住んだ。戦後の牧原は米軍用地ビシカワ・エリア (比謝川地域)となり、弾薬部隊、下士官クラブ (ロッカークラブ)、軍用犬飼育場となり、旧集落跡に戻ることができず、牧原住民の大部分は伊良皆の西と大木の東側の地に宅地を購入し、集団移住を行い、今日に至っている。



この後、大湾集落の一部分を見学し、宿に向かう。



参考資料

  • 読谷村の字ガイドマップ 牧原 (2018 読谷村史編集室)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 上 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 地図 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 補遺及び索引 (1998 読谷役場)
  • 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 上巻 (2002 読谷村史編集委員会)
  • 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 下巻 (2004 読谷村史編集委員会)
  • 読谷村民話資料集 13 大木、牧原、長田の民話 (1996 読谷村教育委員会)

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