Okinawa 沖縄 #2 Day 285 (08/04/25) 嘉手納町 (3) Mizugama Hamlet 水釡集落
嘉手納町 水釜集落 (ミジガマ、みずがま)
- メーヌトー (クシヌトー)
- 西浜区コミュニティーセンター
- マヤーガマ
- 下ヌ井 (シチャヌガー)
- 奥間ヌ毛 (ウクマヌモー)、水釜ヌ洞(ミジガマヌガマ)
- 簾洞 (シライガマ)
- 水釜海岸
- 小浜 (クバマ)
- 舟浮 (フナウキ)
- ウンムアレー
- アタカージーグヮー
- ブチマー(ブチマーグムイ)
- 七門墓 (ナナチジョーバカ)
- 屋良バンダ
- イユミーバンタ (魚見崖)
- イユミーバンタ通り
- 西 (イリ) タケーサーガマ、仲昔今帰仁按司祖先之墓
- 東 (アガリ) タケーサーガマ
- 越地 (クィージ)
- 越地ヌ上 (クィージヌウィー) のガマ、當銘御墓 (トーミウハカ)、喜納御墓 (チナーウハカ)
- 湧口 (ワクグチ)
- カーブヤーガマ
- 水釜発祥之碑、感応の宮 (土帝君)
- 字水釜戦没者慰霊の碑
- アシビナー (遊び庭)
- サーターヤーモー、共同製糖所(サーターヤー)
- 松ヌ小毛 (マーチングヮーモー)
- 嘉手納漁港
- 沖縄製糖株式会社嘉手納工場跡
- 廻転橋 (比謝川大橋)
- 高嶺 (タカンミ)
- 西区コミュニティーセンター
千原主落から国道58号線を北上して水釜集落に移動する。
嘉手納町 水釜集落 (ミジガマ、みずがま)
水釜の地勢は、北にマーチングワーモー、ヤードゥイモー、ヤラバンダと小高い丘陵地に琉球松の生い繁る林を背に、南は開けた平地、西側に海岸をひかえ、生活の立地条件がそろっていた。水釜の集落名の由来については、舟浮の先の方に水洞という洞穴があり、舟子 (フナンチュ) は、そこから飲み水を得ていた事から、その名をとり水洞 (ミジガマ)と名付けたという。明治の地籍確認の折に、役人が口頭で聞いたミジガマを水釜という漢字を当てて書いたのではと推測されている。
村立てについては、1785年の頃、奥間秉仁 (ウクマスーチェー) が、那覇の久米村から、それまでの王府から久米村への地扶持 (ジーフチ ) の優遇措置が変更され扶持米が支給されなくなった事から、屋良村に移り、暫く行商をしていたが、屋良村所管地域に住居を構える許可許を得て、水釜の屋良バンタの南傾斜地に家を建て農耕に従事した。その後、渡具知村の島袋家の先祖にあたる人が水釜に移り、奥間秉仁と協力し、水釜の村づくりを行なったと伝わっている。琉球王国時代は嘉手納村、屋良村に帰農士族が移住してきて小さな集団が分散した屋取集落だった。
その後次第に人口が増加し、昭和時代初期に字 水釜として分離独立している。
水釜屋取集落は1868年頃には20戸程だったが、次第に人口が増えている。明治時代の地図では小集落が地域全体に散在している。沖縄戦後、字全域が米軍に接収され、1946年末に字嘉手納の一部地域が帰還居住地と会移封されたが、字水釜の土地が返還開放されたのは1961年だった。1970年代には海部された水釡地域全土は民家で埋め尽くされ、同時に海岸の埋め立て工事が行われ、埋め立て地全域が住宅地となり、1990年代にはほぼ字全土が住宅地となっている。
字水釜の1997年以前の人口データは見つからなかったが、戦後の1952年 (昭和27年) には戸籍ベース (この時点ではまだ水釜は返還されていない) では575人 (109戸) で嘉手納村では比較的小さな字だったが、その後は海岸が住宅地としてイメ建てられ、公営団地が建設され人口が激増したと思われる。2011年までは順調に人口が増え、嘉手納町では最も人口が多く密集した地域となっている。2011年をピークとして、世帯数は横ばい状態に変わり、少子化の影響もあり、人口は減少に転じ、その傾向は現在も継続している。嘉手納町はその土地の82%が米軍基地となっており、居住可能地域が限られて、新しく住宅を建設するには限界があり、他地域への人口流出が課題となっている。
水釜は屋取集落なので、御嶽や殿、村火ヌ神は存在しないが、移住後に祀られた拝所は次のとおり。
- 御嶽: なし
- 殿: 殿 なし
- 拝所: 水釜の洞、感応の宮
- 井泉: 下ヌ井、湧口
嘉手納町水釜史 (1996 水釜向上会) によれば、下の表の様に村祭祀が行われていたとある。この祭祀行事は昔からの伝統的な集落で行われていた祭祀行事とほぼ同じで、村としてまとまりのない屋取集落では珍しいケースの様に思える。
字水釜の史跡及び見学スポット
メーヌトー (クシヌトー)
ここには兼久集落巡りで来ている。水釜と兼久の境界にある排水溝で水釡集落ではメーヌトー、兼久集落ではクシヌトーと呼んでいた。雨が降ると、水釜原から流れてきた雨水が集まってきて大水になった。この大水をそのまま下方へ流すと、浜一帯が流されてしまうので、土手を作り池のようにして水の勢いをおさえて周囲に水を逃していた。
この地点は、後に、兼久と水釜の共有の闘牛場になったという。また、メーヌトーの北側には龕屋 (ガンヤー) があったそうだ。
西浜区コミュニティーセンター
戦後、嘉手納村住民は各収容所で生活をしていた。
1946年 (昭和21年) に嘉手納居住地 (字嘉手納村内、現在の中央区の一部) が認可され、嘉手納先遣隊長事務所を設置し先遣隊350名が住宅建設、水道電気敷設など、村民の帰還準備を開始。翌1947年 (昭和22年) 5月に金武中川から十名移動し、11月までに松田、惣慶、宜野座、福山、漢那、石川、胡差から逐次移動している。
嘉手納拝の大部分が軍用地となり、北谷村との交通連絡に支障をきたし、1948年に北谷村から独立して、嘉手納村が誕生した。当初は従来からの字制での行政運営をしていたが、多くの字は全域が軍用地となり、実際の居住地と異なっていた。また寄留民 (転入者) は字に登録していないなど、住民の把握が困難で、納税にも支障をきたしていた。1962年 (昭和27年) 5月に従来の字制から区制に変更したが、住民の反対でも元の字制に戻した。その後、移住者増加していき、字制での行政運営が難しくなり、1957年 (昭和32年) 11月に、再度、区制に変更された。新しい区は標準200世帯単位で、道路を境界線として決められている。それ以降の区制変遷については下記の通り。
メーヌトーから水釜集落に向かって北に進む途中、水釜原 (ミジガマバル) に西浜区の自治会事務所の西浜区コミュニティーセンターが置かれている。事務所隣には水釜街公園も整備されている。戦前までは、この辺りは海岸線だった。
西浜区は1979年 (昭和54年) に西区から分離独立した地域になる。独立当初は373世帯だったが、埋め立て工事で住宅地が造成され、現在では1,469世帯 (3,461人) と嘉手納町では最も人口の多い区 (嘉手納町人口の27%) となっている。
水釜には西浜区自治会のほかに水釜向上会がある。1912年 (大正元年) に設立された組織で、村屋の役割を果たしていた。字制の元では字水釜自治会長が釜向上会長を兼務していたが、区制以降は独立した会長を選出し、有志の親睦団体として継承している。
マヤーガマ
更に北に進み水釜原から浜桁原に入った住宅街の中に小高い丘がある。この丘にはマヤーガマと呼ばれる古い墓がある。その名称の由来はわからないというが、墓内には石棺や人骨が見られたそうだ。
ここでの住宅は米軍兵士家族の定型住宅が残り、この地が返還された後に一般町民には払い下げられている。この後、奥間ヌ毛 (ウクマヌモー) に登って見下ろすと広範囲に米軍定型住宅が残っている。
下ヌ井 (シチャヌガー)
マヤーガマの北に、琉球王国時代に七門墓を築く際に使い水をとるために、七門墓の南側に大勢の人力で一日で掘られた井戸がある。嘉手納町内に現存する最古の井戸で、水釜下ヌ井 (シチャヌカー) と呼ばれている。掘り当てた当時は泉のようで、嘉手納集落周辺の村人にも貴重な飲料水として利用されていた。後に、石を積んで井戸の形にして、産井 (ウブガー) として利用されるようになった。この井戸の側を、不浄な人が通ると井戸水が濁ったといわれ、不浄な人は、一切通行させなかったという。現在でも多数の人々が井戸拝みに来ている。
奥間ヌ毛 (ウクマヌモー)、水釜の洞(ミジガマヌガマ)
比謝川河口の入り口に奥間ヌ毛 (ウクマヌモー) と呼ばれる小高い崖がある。奥間ヌ毛 (ウクマヌモー)は、昔は西ヌ崖 (イリヌハンタ) と呼ばれていたが、その辺一帯が奥間家の松林であったので、いつのころからか奥間ヌ毛 (ウクマヌモー) と呼ばれるようになったそうだ。
奥間ヌ毛 (ウクマヌモー) の麓に「水釜」の地名の由来になった水釜の洞 (ミジガマヌガマ) がある。戦前は洞窟の入り口まで海水に浸かり、漁師達が船を繋ぐ場所として利用されていた。船から縄を投げ打った 打ち縄ことから、ウチナー (沖縄) の由来になったともいう。洞窟内のシージル (岩汁) により岩ひだに溜まった真水は貴重な飲料水として利用されていた。ある時には、唐船が難破して3名生き残り、水釜ヌ洞までたどり着き、そこに溜まっている水を飲んで生命をつないだが、一人は衰弱して死亡、残る二人は、久得を経て具屋に行き、そこに定住して繁栄したという記録が残っている。
水釜の洞 (ミジガマヌガマ) の入口脇には拝所 (写真右上) があった様だが、今日訪れると見当たらなかった。撤去された様だ。入口反対側には漁師との関係も深い事からだろう、龍宮神の祠 (写真下) が置かれ、祠には香炉 (ウコール) が設けられ、海の安全と豊漁を祈る拝所として祀られている。
洞窟の中に入ると、洞窟の上部よりシージル (岩汁) が滴り落ちていた。洞窟内には霊石が祀られて、奥間ヌ毛 (ウクマヌモー) の神水として崇められている。
簾洞 (シライガマ)
奥間ヌ毛 (ウクマヌモー) の東麓断崖下、水釜団地の駐車場の場所には簾洞 (シライガマ) がある。物知らせ洞 (ムヌシラシガマ) が正式名称で、浜下り (ハマウリ) の際に寝泊まりをしていたので、浜下り洞 (ハマウリガマ) とも呼ばれた。山鳥や家畜が家屋に入り込んだりするような物知らせ (ムスンラシ 不吉な兆候) があった場合に、ユタの指示に従って、厄を避けるために浜に下りて寝泊りすることをハマウリといった。ハマウリをする家庭が出ると、宇民をあげて食事を供給したり、一緒に寝泊まりをして慰めた。家を出る時は、戸を開けはなしたままにして、竿やキチ (垂木) で門を閉じ、ヤーヌジョー (家ヌ門) には灰をきれいに敷いて、その上に大釜を伏せてから出て行った。期間は、二泊三日とか六泊七日とか、いろいろあったようだ。ハマウリの期間を終えると、三味線を弾き、太鼓を打ち鳴らし、歌をうたいながら道ズネーイ(行列)をして帰ってきた。門に入る時は、六尺棒で閉門を組んだのを打ち破って入り、そして、伏せた大釜を取りはらって、灰になんの後かたもなければ、厄が晴れたと喜び酒宴を行っていたという。
水釜海岸
水釜の洞 (ミジガマヌガマ) の前は水釜海岸になる。この地域は琉球王国時代には屋良村の一部だった。おもろや屋良クェーナという古い歌謡に、この水釜海岸は屋良のハマサチ、屋良のイフザキと記されている。かつての水釜海岸は水釜の洞から南は埋立られてかつての海岸は消滅しており北側の比謝川河口までが僅かに残っている。
小浜 (クバマ)
水釜海岸の水釜の洞の前はかつては砂浜だった。現在では砂浜は失われてしまったが、小さい砂浜ということでこう呼ばれた。その近くには、ジュリバカ(遊女の墓)があって、ジュリマジムン(遊女の化け物)が出るということで青年も日が暮れてからは近くに寄りつかなかった。
舟浮 (フナウキ)
水釜の洞の南側もかつては海岸で、干潮時でも深みになっている所があったので、舟が浮かべられていた。干上っても、やわらかい泥砂だったので、舟が傷むことがないということで、多くの舟がここに寄せられていた。現在では埋め立てられ、かつての姿は失われている。
ウンムアレー
戦前まで、埋め立てられる前、フナウキの南側には板干類があって、その下は、大潮でも池のようにしおだまりがあった。付近の人々がよく芋を洗いにきた所である。また、豚を解体する場所でもあった。
アタカージーグヮー
クバマの沖合に突き出ている小さな岩をアタカージーグヮーと呼んでいた。岩の上には、よくアタカー (海鳥) が羽を休めていた。魚が泳いでいるのを見ると、飛び込んで捕えて食べた。いかにも、アタカー所有の生活専用の岩のようだったのでアタカージーグヮー (アタカ所有地) と呼ばれていた。
ブチマー(ブチマーグムイ)
水釜海岸の北の方は比謝川河口と東シナ海の接点になっている。この場所はブチマーグムイと呼ばれ、深さが約10m程の池状になっていた。ブチマーグムイの底は海草が繁り、周囲は穴が多く、魚が集まってくるので魚の巣のようになっていたという。
水釜海岸の東の高台の屋良バンタに登る。水釜海岸からと下ヌ井からの二つの道がある。
七門墓 (ナナチジョーバカ)
屋良バンタに向かい道を登って行くと、町営嘉手納団地が建っている。この辺りには戦前まで、伝説の豪勇の嘉手納喜納 (カディナーチナー) が造ったといわれる七門墓 (ナナジョーバカ) があったそうだ。墓 (ジョー) がナナチ(七ツ)あったということで七門墓 (ナナチジョーバカ) と呼ばれるようになった。墓が完成してまもなく首里王府から七門は過分だと、入口の四門は取り壊され、三門になった。七門墓の写真は残っていないが、他の地域にある三門の墓の写真があり、七門墓もこの様だったと思われる。
沖縄戦では、この七門墓も高射砲陣地にするため、墓の中の骨を移すようにという命令が下され、嘉手納集落の人々が総出で越地ヌ上 (クィージヌウィー) のガマに骨を移した。骨壺が18基もあったため、作業は一日中かかったという。戦後、七門墓は米軍によりコーラル採取のために破壊され、今はその跡をとどめていない。
屋良バンタ
町営嘉手納団地の傍から屋良バンタへの登り坂が整備されており、丘陵の上に登っていく。丘陵上は綺麗に芝生が刈り揃えられている。
ここは水釜の北西の端にあたり、崖の上から眼下には比謝川河ロが東シナ海に合流しているのが眺められる。間切制の時代まで、昔から水釜と兼久の北側の一部は、屋良村の管轄地であったためにこの地名が残っている。ここからは読谷村の対岸が見渡せる。比謝川河口部は天然の良港で渡具知港 (とぐちこう) があり、古くから港として利用されてきた。琉球王国時代には造船所があり、1609年の薩摩藩による琉球出兵の上陸地となった。
イユミーバンタ (魚見崖)
屋良バンタを比謝川の河口に向かい進んで所はイユミーバンタと呼ばれる突出した断崖になる。沖縄方言 (シマクトゥバ) で「イユ」は魚、「ミー」は見る、「バンタ」は崖を表しており、昔は漁師が崖っぷちに座って回遊魚の群を探し、魚群を発見すると仲間に伝達し、漁の準備を整えて待ち、そこからの指令によって舟を漕ぎ出したという。
イユミーバンタの先には嘉手納マルチメディアセンターが建っており、その屋上への橋が架かっている。橋を渡ると屋上が展望台となっていた。
イユミーバンタ通り
イユミーバンタから海岸に降りる。水釜の洞から嘉手納漁港へ比謝川沿いに進む道はイユミーバンタ通りと呼ばれている。戦前まで比謝川河口流域は沖縄八景の一つで美しい場所だった。
沖縄戦では、上陸する米軍に備え、旧日本軍は読谷村側の比謝川流域にある天然洞窟に特攻艇の基地を構えていた。今でも幾つかの洞窟が残っている。1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍はこの比謝川河口より沖縄本島に上陸した。特攻艇の基地からは爆薬を載せたベニヤ作りのモーターボートで米軍の船に特攻攻撃で玉砕し、多数の死者が出ている。この時に、水釜集落は戦火にあっている。
西 (イリ) タケーサーガマ、仲昔今帰仁按司祖先之墓
イユミーバンタ通りを進むとイユミーバンタから屋良バンタの崖が続いている。屋良バンタの崖にタケーサーガマと呼ばれる洞窟がある。タケーサーガマは、本来は、タテーサーガマと言い、そこには人骨が無造作にまとめて葬られていたそうだ。タケーサーガマは西 (イリ) タケーサーガマと東(アガリ)タケーサーガマの二つがある。イユミーバンタ通り沿いに仲昔今帰仁按司祖先之墓の案内板をかねている石碑が置かれている所が西タケーサーガマになる。
14世紀頃、今帰仁城第四代城主の仲昔今帰仁按司が家臣の反乱にあい、減ぼされたとき、難を逃れてきた中北山の一族が今帰仁城の一代目から三代目までの城主の遺骨を今帰仁城から逃げのびてきた多数の臣下も含めて、この西タケーサーガマに葬ったと伝わっている。初代屋良大川按司は第三代今帰仁城主の五男にあたり、父祖の墓を大事に守ったという。墓は二つあり、正面の墓に臣下 (写真左) が葬られているそうで、奥が三代に渡る今帰仁城主の墓 (写真右) だそうだ。
また、今帰仁按司の息子、娘が逃げ隠れしているのが、屋良城主の大川按司に見つかって、女はむりやりに妾にされ、その間に生まれた子が、阿麻和利との言い伝えも残っている。
東(アガリ)タケーサーガマ
イユミーバンタ通りを更に東に進むと屋良 (ヤラ) バンタ東部の崖麓に、東(アガリ)タケーサーガマがある。こちらのガマには、身分の高い人が葬られ、黄金の枕 (クガニマックヮ) の副葬品があると伝えられていた。かつては、洞の入口は、シャフンチャーギという堅牢な材質で作られていたが、現在ではコンクリートブロックで閉められている。墓前には、4基の香炉 (ウコール) が置かれ、霊石が供えられている。
越地 (クィージ)
東(アガリ)タケーサーガマからイユミーバンタ通りを進み、ヤラバンタとヤードゥイモーの境にかつての船着き場だった越地 (クィージ) と呼ばれた場所がある。この場所には砂糖倉庫が置かれ、中頭郡の各地から砂糖が集められヤンバル船で那覇に運ばれていた。
越地ヌ上 (クィージヌウィー) のガマ
越地 (クィージ)にある丘陵崖に階段がある。そこを登ったところには越地ヌ上 (クィージヌウィー) のガマと呼ばれる洞窟があり墓として使われている。
沖縄戦の米軍上陸直前、3月末は空襲が激しくなり、村に残っていた住民はこの越地ヌ上 (クィージヌウィー)のガマに避難していたが、艦砲射撃が始まり、村の住民は国頭羽地村を目指し疎開した。
階段を登ると二股に分かれ、右側には嘉手納集落の元祖の根屋 (ニーヤ) だった當銘家 (トーミ) の當銘御墓 (トーミウハカ 写真右下) がある。當銘家は嘉手納に屋敷を構えていたが、明治時代中頃に絶家となり、屋敷跡には1856年 (昭和31年) に拝所が造られている。現在の拝所は2014年 (平成26年) に改築したもの。左側は喜納御墓 (チナーウハカ) で、前述の七門墓を造った嘉手納喜納 (カディナチナー) の子孫の喜納家の墓になる。沖縄戦に備えて七門墓を高射砲陣地にする際に墓の中の18基の骨甕がこの越地ヌ上 (クィージヌウィー) のガマに移されている。
湧口 (ワクグチ)
更にイユミーバンタ通りを進んだ西川小 (イリカーラグヮー)の道沿いに香炉が置かれている。ここには、かつては湧口 (ワクグチ) と呼ばれた大きな泉があり、満潮時になると水深1m程になり、干潮時には水位が下り、泉から水が海へ湧き出て、潮水が次第に真水にかわっていたという。水釜では芋の澱粉を洗い落としたり、主婦が洗濯場として利用していた。昔は正月等で御願されていたが、現在では拝まれていない。
カーブヤーガマ
湧口 (ワクグチ)の崖には、かつては、カーブヤーガマと呼ばれた洞窟があり、子供達の遊び場だった。ガマ入口は子供がようやく入れる程度で、中に入ると広い空間になっていたそうだ。天井一面にカーブヤー (こうもり) がいたのでカーブヤーガマと呼ばれていた。
水釜発祥之碑、感應の宮 (土帝君)
湧口 (ワクグチ) の背後の丘陵の上には感應の宮が置かれている。感應の宮は1917年 (大正6年) に竣工し、地元では宮 (ミヤ) とも呼ばれている。読谷山村喜名の易者から水釜の北の松林に、集落の守り神のお宮を建立するとよりいっそう繁栄するとの助言を得て、水釜で一番標高の高いこの地に拝所を造った。祠の中には五穀豊穣と子孫繁栄の神の土帝君が祀られ、御神体として「感應」と刻んだ霊石を置いている。感應とは、信仰して拝めば必ず願いごとがかなえられるという意味だそうだ。
感應の宮の前には1967年 (昭和42年) に水釜発祥之碑が建立されており、碑文には水釜集落の生い立ちが記されている。
水釜は今から約二百年前久米の人毛氏奥間家の祖先秉仁が始めてこの地に移住し、その後、幸地、古謝、我謝、真栄田、島袋、宇座、照屋、屋比久、渡ヶ次、宜保、比嘉、崎山各家の祖先が移住して水洞屋取を形成したわれわれの祖先や先輩はあらゆる困難と欠乏に耐えながらこの未開の原野に鍬をふるいひたすら家庭の繁栄と屋取の発展に努力してきたその甲斐あって水洞屋取はそれまで字嘉手納に所属していたのを名称も水釜と改めて昭和十三年分字し独立したのである。戦前水釜は殆んど農業にたよって生計を維持し、その主な作物は甘蔗と甘薯であった。しかし第二次世界大戦において水釜海岸は米軍の上陸地点となり彼我の砲撃によって一木一草ことごとく灰燼と帰してしまったが字民はこの無一物のなかから决然として立ち上がり、今日の復興を見るに至った。感應之宮は大正六年旧九月十八日に当時の宇民が水釜の鎮護と豊作繁栄を祈願して建立したものである。われわれはお宮の建立五十周年にあたり、祖先の偉業を讃え記念してこの碑を建立する。
字水釜戦没者慰霊の碑
水釜発祥之碑の横に日露戦争、日中戦争、太平洋戦争で亡くなった水釜出身者45人の慰霊碑が字出身者や向上会の寄付により、2013年 (平成25年) に建立されている。
明治三十七年の日露戦争 昭和十二年から始まった日中戦争 そして昭和十六年から昭和二十年の太平洋戦争で中国や東南アジア地域沖縄地上戦において戦没された 字水釜出身の現役兵防衛隊軍属一般住民四十余柱を「水釜戦没者慰霊の碑」に追悼の誠を捧げ ご具福を祈り銘合祀する。恒久平和と不戦を普いこの陣を建立する
嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会)によれば、第二次世界大戦での水釜住民の戦没者は51人 (字水釜戦没者慰霊の碑の数字とは異なってはいる) となっている。この内、軍属は26人で、それ以外は一般人が犠牲となっている。米軍がこの地に上陸した際にすぐさま水釜は占領されたが、米軍の上陸前に国頭羽地に疎開しており、村内での戦没者はいなかった。嘉手納町での戦没者は他の地域に比べて少ない様に思える。この地は米軍上陸地となったが、日本兵が首里方面に撤退していたことで、激戦がなかったこと、住民の行動を監視強制をしなった事が要因と思える。(嘉手納町としての各字、嘉手納町全体の戦没者率は発表されていないようだが、1945年沖縄戦当時の人口を6500人と推定すると、嘉手納町の戦没者率は17.8%ぐらいだったのではと思う)
戦後、住民は収容所暮らしだったが、1946年 (昭和21年) 12月に嘉手納への移動許可がおり、先発隊が帰還準備を始めている。翌年の4月に字嘉手納の居住許可地域に旧水釜住民も移動した。まだ水釜は軍用地のままで、旧集落に帰還が叶ったのは1961年 (昭和36年) だった。
アシビナー (遊び庭)
感應の宮の前は広場になっており、アシビナーだった。感應の宮が建立された際には、このアシビナーで祝賀行事が催された。それ以降、このアシビナーでは毎年、村芝居が行われていたそうだ。
サーターヤーモー、共同製糖所(サーターヤー)
アビナーの東隣りの野原は、水釜で最初に共同製糖所(サーターヤー)が設置された所で、サーターヤーモーと呼ばれ、上組と下組の二つのサーターヤーがあった。その後、水釜の戸数が増え、甘蔗の作付面積も増加したために、幸地小組 (コーチグヮー) ができ、具志川古謝組 (グシチャークジャー)、前ヌ奥間組 (メーヌウクマ) ができた。
松ヌ小毛 (マーチングヮーモー)
上組と下組の二つのサーターヤーの東側には松林で、その一画に樹齢300年以上の大松が立っていた広場があり、松ヌ小毛 (マーチングヮーモー) と呼ばれたていた。このマーチングヮーモーは水釜集落の集会 (スリー) の場だった。1912年 (大正元年) に水釜向上会が結成された際には、ここで集落民総出で発会式が行われた。その後、大きな瓦葺きの家ができ、向上会はその家屋を借りて催していた。
嘉手納漁港
丘陵から比謝川におり、イユミーバンタ通りを東に進むと嘉手納漁港に着く。南岸はアガリガーラグヮーと呼ばれ、琉球帆船 (ヤンバル船) の船着場だった。ここからは鉄道が敷設されるまでは、砂糖を船で那覇迄運んでいた。
沖縄戦では米軍上陸艇がここに停泊していた。
港には旧暦5月4日前後に行われている嘉手納ハーリーの爬竜船 (サバニ) が保管されている。
沖縄製糖株式会社嘉手納工場跡
嘉手納漁港の東側、水釜の宇地原には嘉手納製糖工場跡がある。沖縄製糖株式会社は1910年 (明治43年) に設立され、1911年 (明治44年) に、嘉手納工場が完成し、翌年、1912年 (大正元年) に操業を開始し、沖縄戦では1945年 (昭和20年) 3月24日の空襲で焼失する迄稼働していた。
嘉手納製糖工場は機械仕掛けの大規模な工場で、近隣の住民からシートゥーバと呼ばれていた。水釜集落の農家は嘉手納製糖工場に原料を搬入する以外にも、工場で職工として働く人もいた。製糖期に入ると、水釜だけでなく、他の地域からも多くの人が工場で働き、日々の生活が潤っていた。出来上がった砂糖は、比謝川の東川小 (アガリカーラグヮー) から船積みされていたが、1922年 (大正11年) に県鉄嘉手納線が敷設、線路が工場まで引き込まれ、鉄道運搬に移っていった。
廻転橋 (比謝川大橋)
嘉手納製糖工場あとの北側には比謝川大橋が架かっている。戦前には廻転橋と呼ばれる橋が架かっていた。嘉手納製糖工場が読谷村からの砂糖きび運搬のためトロッコのを通すために、この場所に牧原から切り出した琉球松で造られた橋が架けられた。比謝川を通る山原船や機械船を通過させるため、中央の橋げたから両側に開く仕組みになっていた。当初は橋の一部が回る仕組みとになっていたが、後に、一方が蝶番になって他方をワイヤーで巻き上げる方式にかわっていたそうだ。この橋も沖縄戦で破壊されている。
その後、橋が架け直される事はなく、橋の残骸が長い間放置されていた。
1991年 (平成3年) にこの場所に比謝川大橋が架橋され、大木–水釜線として整備されている。欄干部分が赤く塗装されており地元では赤橋と呼ばれている。川に降りると川沿いには嘉手納漁港まで遊歩道が整備されており、比謝川大橋の下にある嘉手納町比謝川自然体験センターではカヤックツアー (写真左下) などが催されている。
高嶺 (タカンミ)
水釜を東に進む。字嘉手納との境界には戦前までは小高い丘 (高嶺丘 タカンミグーフ) があったそうだ。丘の東部分は東高嶺 (アガリタカンミ)、西部分は西高嶺 イリタカンミ)と呼ばれていた。東高嶺 (アガリタカンミ)は、マジムン (魔物)の出る所として有名だった。現在では丘はすっかり削り取られて面影は残っていない。
西区コミュニティーセンター
高嶺 (タカンミ) から西方に下った所に西区コミュニティーセンター が建っている。
1970年 (昭和45年) 7月に十一区から西区に変更された地区で、旧水釜集落地域にあたり、住民も同集落出身者が大半を占めている。米軍人やその家族向けの貸し住宅やアパートが最も多い地域。
1970年 (昭和45年) に六区制になった際は、各区の人口が2000 ~ 2500人になる様に区画が決められたが、その後は嘉手納町人口が減少する中、この西区だけが突出して人口が増加し、1979年 (昭和54年) には2倍迫る程になり、西区の西側を西浜区として分離している。それ以降、西区人口は減少している、近年もその傾向は続いている。
水釜集落巡りの後、嘉手納ロータリーにある図書館に行き、那覇の図書館では見つからなかった資料に目を通す。その後、北谷のショッピングモールに移動して夕食を済ませ、近くのアメリカンビレッジ内を夜景を見ながら散歩しながら宿に向かう。アメリカンビレッジは華やかではあるが、少し毒々しく違和感はある。昔から北谷に住んでいる人達は、ここには来ないと言っていたのを思い出した。ここは北谷町として観光地として町の経済に貢献する地域として割り切っているのだろう。
水釜集落訪問ログ
参考資料
- 嘉手納町史 資料編 2 (1990 嘉手納町役場)
- 嘉手納町史 資料編5 戦時資料 (2000 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編6 戦時資料 (2003 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町史 資料編8 戦後資料 (2020 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町の先人たち (1993 嘉手納町教育委員会)
- 嘉手納町分村35周年記念誌 (1983 嘉手納町役場)
- 嘉手納町水釜史 (1996 水釜向上会)
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