杉並区 27 (14/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧永福寺村

旧杉並村 永福寺村

小名 西原

  • 法真山理性寺 (法華宗陣門派)
    • 山門
    • 大震災修繕記念供養塔、糸塚、聖観音菩薩立像
    • 浜田屋弥兵衛墓
    • 大黒堂、火伏せの大黒
    • 浄行菩薩石像、木村検校の墓
    • 本堂
    • 双体道祖神坐像
    • 法界萬霊塔、伊庭可笑墓
    • 大久保忠恒墓、歴代住職墓
    • 林恒齊家代々の墓石
  • 川はの像

小名 向、大町、寺下

  • 何をか眺める?像

下高井戸村 小名 宿、永福町の寺町

  • 永泉寺坂
  • 坂弥勒山和合院本応寺 (浄土宗)
  • 天長山永昌寺 (曹洞宗)
    • 山門、庚申塔 (225~227番)、地蔵菩薩 (224番他)
    • 鐘楼
    • 玉石薬師堂
    • 本堂
    • 墓地、六地蔵 (223番)、庚申塔 (228番)
  • 村高山栖岸院 (浄土宗)
    • 山門
    • 本堂
    • 宝篋印塔
    • 墓地、六地蔵
  • 寂静山潮音閣法照寺 (浄土真宗本願寺派)
    • 本堂
    • 初代市川団蔵の墓
  • 柳水山浄見寺 (浄土真宗本願寺派)
    • 本堂、庫裏
  • 本光山善照寺 (浄土真宗本願寺派)
    • 本堂
  • 光栄山託法寺 (浄土真宗大谷派)
    • 本堂

和泉村 小名 一本松 (小字 御蔵附)

  • 三宝山真教寺 (浄土真宗本願寺派)
  • 玉川上水永泉寺緑地
  • 本願寺和田堀廟所
    • 極楽橋、手水鉢
    • 本堂
    • 墓地

小名 下村

  • 地蔵堂、子育て地蔵 (229番)
  • 萬歳山永福寺 (曹洞宗)
    • 山門
    • 鐘楼堂
    • 本堂、庫裏
    • 彰功碑
    • 子授け地蔵 (230番)
    • 馬頭観音 (231番)
    • 六地蔵
    • 地蔵菩薩 (232番)、五輪庚申塔 (233番)、庚申塔 (234番)
  • 永福寺稲荷神社
    • 一の鳥居
    • 二の鳥居、手水舎
    • 社殿
    • 境内末社 (天王社、白山神社、白鳥神社)
    • 天神社
  • 法印坂

小名 中道

  • 御嶽神社


旧杉並村 永福寺村

旧永福寺村は現在では永福1~4丁目となっている。北は方南通り、南は甲州街道と神田川、東は和泉、西は浜田山に囲まれた台地で、神田川に向かって緩やかに傾斜している。

大正末期迄は全面農村だったが、1933年 (昭和8年) に京王帝都井の頭線の永福町駅と西永福駅が開業し、その後、住宅地として急速に発展している。

戦時中、明治大学和泉校舎が陸軍に接収され基地になっていた事で米空軍機の爆撃目標の一つとなり、1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で、永福町の三分の一が焼失している。

江戸時代から明治時代にかけて、永福寺村には8つの小名があり、1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に永福寺村は和田堀内村大字永福寺に、各小名はそのまま小字となっている。(尾崎道、水久保、西原、中道、下村、寺下、大町、向)

  • 小字 尾崎道は、尾崎へ行く通路があった事からその名がついたという伝承がある。
  • 小字 水久保はは、窪地 (久保) で水がじくじく滲み出るような低湿地だった事からと思われる。
  • 小字 西原は村の西にある原
  • 小字 中道は、村の中程を東西に走っている中通りの地域だった。
  • 小字 下村は中道から神田川へ下に傾斜している地域
  • 小字 寺下は、永福寺の南側 (寺の下) の低地・養魚場があった地域
  • 小字 大町の「町」は、田圃の区切りのことで、水田を意味している。神田川流域の水田からその名が生まれた。
  • 小宇向(むかい)は、神田川の向こう側。

江戸時代から明治時代の永福寺村の民間は小名 中道の西部に集中しており、そこから水久保、尾崎道、西原、下村に少し拡張していた、それ以外の小名は民家はほとんどなく農地か荒れ地だった。昭和時代に入り、戦前までは民家は僅かに増加したけだった。第二次世界大戦ではこの民家があった地域は空襲で大きな被害を受けたが、戦後の復興は目覚ましく、1950年代には永福町の8割程度の地位井に広がっている。1960年代には、永福町のほぼ全土が住宅地となっている。

和田、堀之内、方南、和泉、永福及び高円寺方面は、1945年 (昭和20年) 五月二十三日夜と二十五日夜にB25の空襲をうけ、黒く塗られた地域が焼失している。5月23日夜の空襲では、杉並第十小学校が全焼し、25日夜の空襲で、和田、堀之内、旧方南町の大部分、そして、戦時中に明治大学和泉校舎が陸軍に接収され基地になっていた事で米空軍機の爆撃目標の一つとなり、旧和泉町の東部地域、永福町駅の周辺と南部の寺町の寺院が総て全焼するなど区内で最大の空襲被害を受けている。この戦争被害があったが、戦後は急速に復興し1960年代には、民家は学校、寺社、公園等公共施設以外全土に広がっている。


訪問した善福寺村の史跡等



小名 西原

永福寺村の北西は小名 西原で、現在の永福二丁目に当たる。文字通り村の西の原だった事からこう呼ばれた。1889年 (明治22年) に町村制で、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に永福寺村は和田堀内村大字永福寺に、小名 西原は小字 西原となっている。


法真山理性寺 (法華宗陣門派)

井の頭線の西善福駅のすぐ北側に法華宗陣門派の法真山理性寺 (りしょうじ) がある。江戸時代、この地は小名 西原になる。理性寺 は1654年 (承応3年) に旗本大久保越中守忠辰、同甚兵衛忠昌兄弟が父の大久保忠当の菩提を弔うため四谷大木戸に創建されている。1914年 (大正3年) に現在地に移ってきた。


山門

西永福寺交差点からの道沿いの商店街の中に寺に石門 (写真左上) があり、参道が伸びている。石門の脇には日蓮系の特徴の題目塔 (左下) が建っている。参道の先の朱塗りの山門 (右上) を潜り境内に入る。


大震災修繕記念供養塔、糸塚、聖観音菩薩立像

山門を入ると境内は殆どが駐車場を兼ねている。土地が限られているので、檀家の参詣を考慮すれば致し方ないのだろうが、寺の趣きは半減している。山門を入った右側には通用門へ向けて、幾つかの石塔石仏が並んでいる。向かって左端から見ると

  • 大震災修繕記念供養塔 (左下): 角柱が置かれ、そこには 「大正十二年九月一日午前十一時五十八分 関東大地震 大正十五年当山修繕落成記念」 と刻まれている。関東大震災で損害があり、その3年後の1926年 (大正15年) に修復された事がわかる。
  • 線塚 (いとづか 中下): 大震災修繕記念供養塔の隣には二つ自然板石が置かれいる。線塚と刻まれている。線塚は初めて見る供養塔だ。何かと思い調べると、三味線の糸の供養塔だった。右側の自然板石には線塚と刻まれ、その下に 「こは杵屋三五郎かねて思い立ちにしをはたさで、いにし弥生の末にみまかりけるを、今年ななめぐりぬれば宗海の尼(三五郎の妻きん)思いおこしてこの事なりぬときに文久三年三月のことなむすすきの正真しるす」 「いと屑もつちになるのか暗きみみず 杵屋三五郎」 と刻まれている。杵屋三五郎は江戸長唄、三味線の名手で、切れた三味線の糸を供養の為に塚の建立を計画していたが、実現されずに逝ってしまった。三五郎の妻がその遺志を継いで七周忌に夫の宿願の糸塚を建てた。左隣りにある自然板石碑には 「その昔初音の人よ埋木の花咲きかえる春となりけり 歌風友に詫住居して幾歳か思い夢見し武蔵野糸塚」 と線塚を讃えた和歌が刻まれている。
  • 聖観音菩薩立像 (右下): 右端には造立年不詳の丸彫りの聖観音菩薩立像が蓮華の台座の上に建っている。


浜田屋弥兵衛墓

糸塚等石塔群と通用門の間には浜田屋弥兵衛の墓が安置してる。寺の墓地にも墓がある様だが、この様な裏参道にも墓がある事から、この寺にとっては重要な人物だろう。浜田屋弥兵衛の初代は江戸時代の初期頃に伊勢国浜田村(現在の三重県津市)から江戸に出てきて内藤新宿に店を構えて商売に成功し、浜田屋弥兵衛と名乗っている。この西に浜田山という地名があり駅名にもなっている。浜田屋の土地があり、一族の墓が置かれていた。浜田屋がこの地名の由来になっている。その後、浜田屋は明治時代に米相場に失敗して没落していき、軍が浜田家の松山を買つた時この浜田屋の墓も理性寺の境内に移された。現在に至っている。


大黒堂、火伏せの大黒

山門を入った左側には大黒堂がある。古い堂宇ではなく現代建築の建物になっている。堂内には正面中央に日蓮聖人が彫ったと伝わる経の字を型どった大黒天の木像が祀っている。その両側にはこの大黒天は1794年 (寛政6年) に江戸幕府の寄合医師の木村検校が奉納された。逸話では、江戸時代に何回かの大火の際には本堂の大屋根に黒衣の大黒天が大団扇を持って現れ、類焼を防いだという。それ以来、「火伏せの大黒」 と呼ばれ多くの人々から尊崇されていた。関東大震災や第二次世界大戦の空襲にも、倒壊、消失を免れた。現在も甲子の日に「大黒天甲子祭」が行われている。

四谷大木戸の理性寺跡地には1918年 (大正7年) に大黒座という劇場となったが、翌年の火事で、吉原組の劇場に移り、再び火事で起き、関東大震災後に再建したが、その後不幸が続き、山手劇場、新宿松竹座と名を変え興行を続けたが、1945年 (昭和20年) に廃業している。


浄行菩薩石像、木村検校の墓

駐車場となっている境内の隅に堂宇があり、造立年不詳の丸彫り合掌浄行菩薩石像 (写真右下) が置かれている。浄行菩薩は病気、怪我などで痛む箇所に、浄行菩薩のその痛む所を 「南無妙法蓮華経」 と一唱えながら磨くと治るという御利益があるとされている事から、浄行菩薩石像の前にはたわしと水桶が置かれれいる。

堂宇の隣りにも墓がある。先ほど見た火伏せの大黒を寄進した木村検校の墓になる。


本堂

四谷大木戸時代の本堂は1744年 (延享元年) に建築され、1914年 (大正3年) に現在地に移ってきた際に移築されている。本堂の正面中央には本尊の金色彩色の十界諸尊、右脇宮殿型仏壇には鬼子母神、帝釈天、十羅刹女、左脇宮殿型仏壇には日蓮聖人が祀っている。本堂の左手前には庫裏が建っている。


双体道祖神坐像

墓地への入口手前には石塔 (文字読めず 右下)、大黒天像 (中下)、近所の方が寄進された双体道祖神坐像 (造立年不詳 左下)も置かれていた。東京で道祖神があるのは珍しい。


法界萬霊塔、伊庭可笑墓

墓地に入ると1936年 (昭和11年) に鉄筋コンクリートで建てられた法界萬霊塔が置かれ、近くには江戸時代中期の歌舞伎芝居の戯作者の伊庭可笑の墓がある。自然石に、「伊庭可笑墓 天明二年 (1782年) 六月三日歿」 と刻まれている。


大久保忠恒墓、歴代住職墓

墓地の真ん中程に、大久保家の墓所 (写真左) がある。開基の大久保忠当以降の墓所になる。その中に大久保彦左衛門の玄孫に当たる大久保忠恒 (1724 ~ 1803年)は旗本で徳川8 ~ 11代将軍の吉宗、家重、家治、家斉に仕えた。旗本でありながら余技で絵を良くし、南蘋派風の作品が幾つかが残っている。

また、大久保家墓所の前は理性寺歴代住職に墓所 (写真右) になる。


林恒齊家代々の墓石

墓地の端の塀沿いに江戸時代に幕府の医官を務めた林恒齊家代々の墓石が十基程並んでいる。初代恒齊は薬種草選別に力を尽くし、二代謹齊は東医宝鑑を校訂し、三代楽軒は小石川養生所に勤めながら普救類方を著わすなど、代々 医家として世に知られた名家だった。現在では子孫は絶えて無縁状態になり、墓地の隅に墓石が並べられているだけになってしまった。無縁様になっています。


川はの像

西永福駅から南に進み神田川に出る。江戸時代にはこの神田川が永福寺村と下高井戸村の村境だった。神田川沿いを下流に進むと広場があり、そこに面白い子供の銅像が置かれている。ここは小名 西原、小名 下村、下高井戸村蛇場美が交わり場所。台座には 「川は」 と刻まれている。名の意味はわからないが、川は季節、天気により、また子供か大人か、男か女か、その時の気分で見え方は変化する。「川は」 の後はこの像を見た際に、その時の印象で鑑賞者が入れてくれということなのかもしれない。この子供の表情を見ていると、川で捕まえたのかカエルを手に、口をポカンと開けている。「今日の川は……」 と思っているのだろう。



小名 向、大町、寺下

神田川沿いを更に下流に進むと東京都道427号瀬田貫井線に交差する。この場所は東西の神田川と南北の瀬田貫井線により四つの小名に分かれていた境界点になる。神田川の南側、瀬田貫井線西は小名 向、東は和泉村小名一本松、神田川北側、瀬田貫井線西は小名 大町、東は小名 寺下だった。それぞれの小名の由来は以下の通り

  • 寺下は、永福寺の南側に位置しており、寺の下と呼ばれた
  • 大町の「町」は、田圃の区切りのことで、水田を意味している。この神田川流域には水田が広がっていた事からこの名が生まれた。
  • 向は、永福寺村中心から見て神田川の向こう側だった事から名付けられた。


何をか眺める?像

交差点広場にも子供の銅像が置かれている。「何をか眺める?」というタイトルの像だそうだ。先ほど見た 「川は」 の像とよく似ている。これも、この子供は今日は何を見て興味を持ったのかを想像させる。調べると両方とも志津雅美氏の作品だ。1988年(昭和63年) から始まった神田川の河川環境整備事業の一環で川沿いに幾つもの子供などの銅像が置かれ、川沿いを散歩する人達の楽しみになっている。



下高井戸村 小名 宿、永福町の寺町

ここから神田川を外れ、東京都道427号を南に進むと幾つもの寺院が集まった場所になる。ここは永福一丁目だが、江戸時代から明治時代 にかけては下高井戸村小名 (小字) 宿だった。

資料では永福町の寺町として紹介されているので、永福寺村の訪問レポートに含める。この寺町は旧下高井戸村、旧和泉村、旧永福寺村にまたがっており、浄土真宗の寺が六つ、浄土宗が一つ、曹洞宗が一つある。この地域は、江戸時代には、大きな森の永泉寺山だった。明治末年以降、永昌寺、龍泉寺、栖岸院が移転し、大正から昭和にかけて託法寺、真教寺、善照寺、浄見寺、法照寺と、本願寺関係の寺院が次々と移転してきて寺町を形成している。

ここに寺が集まった背景には1923年 (大正12年) の関東大震災がある。震災前、築地本願寺内には58もの子院があり、寺町を形成していた。

震災後、寺町は再建されたが、東京を立て直すために帝都復興事業が1924年 (大正13年) から1930年 (昭和5年) にかけて実施され、寺町の中に大きな道路 (晴海通り) が造られ、幾つの寺は移転を余儀なくされた。また築地本願寺も布教を郊外にも拡大する目的で地中子院の郊外移転を奨励した。この事で、多くの寺が移転し、57ヶ寺あった寺も6ヶ寺ほどに減っている。寺は東京各地で誘致されたり、土地を見つけられた寺が仲間を呼び寄せるなどして移転していった。この和泉の寺町には築地本願寺から移転した四つの寺が含まれている。


永泉寺坂

東京都道427号が少し急な登りの坂道になる。永泉寺坂という、昔、永泉寺がここにあった事に由来している。永泉寺は永福寺八世門尭和尚が、永福寺末寺として開山された。1869年 (明治2年) に火事で全焼したため、当時、四谷愛住町にあった永昌寺に合併され廃寺となっている。この坂は永福寺村と高井戸村の境界線になる。


弥勒山和合院本応寺 (浄土宗)

永泉寺坂の途中に阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の弥勒山和合院本応寺が建っている。詳細は見つからなかった。この寺は大正昭和にかけて移り寺町を形成した寺ではない。造りも民家を少し手を加え寺として使っているようで、その後に開創した寺と思う。


天長山永昌寺 (曹洞宗)

永泉寺坂を登り切った所に曹洞宗の天長山永昌寺がある。開創年代は明らかではないが、寺では1624年 (寛永元年) に四谷塩町 (現 新宿区愛住町) に開山を同町の龍昌寺の五世明岩舜洞 (1635年 寛永12年没)として創建されたと伝わっている。1910年 (明治43年) にこの場所に移って来ている。この時に、現在の永昌寺と永泉寺坂を挟んだ反対側の高井戸村にあった永福寺の末寺だった永泉寺を合併している。永泉寺の名が永泉寺坂として残っている。


山門、庚申塔 (225~227番)、地蔵菩薩 (224番他)

山門入口左側に、石仏が並べられている。向かって右側から見ていくと

  • 歌碑 (右上): 「翠り又あすの風吹く柳哉秀国」と刻まれている。
  • 地蔵菩薩立像 (224番 中上): 1667年 (寛文7年) 造立の舟型石塔上部に梵字で地蔵菩薩を表す種字の 「हカ」 が刻まれ、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、両脇には何人もの寄進者の名が刻まれている。
  • 地蔵菩薩立像 (左上): 1631年 (寛永8年) 造立の舟型石塔上部に梵字で地蔵菩薩を表す種字の 「हカ」 が刻まれ、錫杖と宝珠を携え、光背の地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。追加供養として、「霜光嬰児明治世二年十一月四日」と刻まれている。
  • 庚申塔 (225番 右下): 1678年 (延宝6年) に武州荏原郡松原村住民により造立された笠付角柱に宝剣を持ちシュケラをぶら下げた二臂の青面金剛立像、その下には耳を覆った猿 (みざる) が一匹のみ浮き彫りされていると思っていたが、石柱のそれぞれの側面に2匹の猿が浮き彫りされて三猿となっている。
  • 庚申塔 (226番 中下): 1732年 (享保17年) に下高井戸村の講中により造立された駒型石塔に上から、日月、邪鬼を踏みつた合掌八臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (227番 左下): 1698 年 (元禄11年)に下高井戸村の講中により造立された駒型石塔に合掌八臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。


鐘楼

山門を入ると右側に鐘楼


玉石薬師堂

左手には玉石薬師堂が置かれている。玉石薬師堂には、玉川上水工事の際に掘り出された玉石が祀っているそうだが、実物や写真は見れずどんなものかは良くわからない。1652年 (承応元年)に有名な玉川兄弟の兄の庄右衛門が、多摩川の羽村から四谷大木戸まで53Kmの新堀掘鑿工事を幕府から金六千両で請負い、工事を始めたが、設計の不備で二度も水路を変更した。それで、この地まで掘り進んできたところ、資金が底をつき、工事を一時中断して資金作りに狂奔していた。その時に、工事現場で白く輝く霊石が出土した。石の光沢の中に薬師像が浮き出たという。これが江戸中に知れ渡り、資金提供者が現れて、無事工事が完成した。庄右衛門は、日頃信心していた薬師様が霊玉になって助けてれたと信じ、お堂を建てて霊玉を祀り、玉石薬師と命名した。その後、病身の人や病む目に霊験があるという評判が高くなり、1719年 (享保4年) に薬師堂を祠守するために、永泉寺が創建されている。玉石薬師に供えたご飯を練って作った「玉石薬師の玉薬」は、腹痛や下痢によく効くといわれ、飛ぶように売れたお蔭で、本堂と庫裡が建てられた。明治維新後、廃仏毀釈や薬事法の施行で玉薬の販売禁止と共に永泉寺はさびれ、1910年 (明治43年) に永昌寺に合併されたが、玉石薬師はこの永昌寺に移された。1945年 (昭和20年) 5月に永昌寺は戦災に遭い、玉石は、本堂と共に焼かれて光沢を失ったが、堂内に安置されている。


本堂

本堂は1945年 (昭和20年) 5月の空襲で、庫裡も含め、仏像等一切が焼失した。1967年 (昭和42年) に本堂は耐火造りのに再建された。は、等身大の楠の一木造り、白木のがお祀りしてあります。戦災で本尊の釈迦如来坐像は消失したが、新しい本尊を制作し、本堂落慶と共に開眼供養を行ない本堂に安置されている。


墓地、六地蔵 (223番)、庚申塔 (228番)

墓地に入ると、無縁墓地があり、そこには幾つもの石仏や墓石が集められている。その中1701 年 (元禄14年) 下高井戸村の住民により造立された庚申塔 (228番) があり合掌六臂の青面金剛立像が浮き彫りされている。他の墓石で見えないのだが石塔の下側には三猿も浮き彫りされている。また墓地の塀際には1850年 (嘉永3年) に作られ、その後、1897年 (明治30年)、1978年 (昭和53年) に手を加えた六地蔵 (223番)がある。向かって左から、念珠の護讚地蔵菩薩、施無畏印と宝珠の弁尼地菩薩、合掌の破勝地菩薩、錫杖と宝珠の延命地蔵菩薩、柄香炉の不休息地蔵菩薩、幢幡の讚竜地蔵菩薩になっている。


村高山栖岸院 (浄土宗)

永昌寺の東隣りには浄土宗の村高山栖岸院 (せいがんいん) がある。栖岸院の前身は三河国村高庄 (現 安城市桜井町) にあった長福寺で、1591年 (天正19年) に麴町に寺地を拝領して移ってきた。1621年 (元和7年) に老中の安藤対馬守重倍がこの長福寺に葬られてから、安藤家の菩提寺となり、1639年 (寛永16年) に重倍の子、重長が父を開基として、長福寺を重倍の法名をとって栖岸院と改めた。この年が栖岸院創建年とされる。1920年 (大正9年) に現在地に移り、1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で全焼している。


山門

栖岸院の山門は少し変わっている。屋根の中心部が弧を描いている。いつ建築されたのかは見つからなかったが、第二次世界大戦で全焼したので、戦後再建されたもの。昔ながらの山門をベースにデザインが施されている。


本堂

山門を入ると正面に本堂 (写真 左上)、その隣に庫裏 (右上) が見える。この本堂も山門のデザインとシンクロしている。庫裏も近代的なデザインの建物になっている。杉並郷土史叢書 6 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹) ではまだこの本堂はできておらず、仮本堂兼庫裏が建てられていたとあるので、山門、本堂、庫裏は平成時代に入って造られたものだろう。本堂には本尊の阿弥陀如来像 (左下) が祀られている。また、南北朝時代作と言われる 「楠正成尊信の霊像」 と呼ばれる聖観音坐像 (右下) も祀られている。


宝篋印塔

山門を入った境内の左手に宝篋印塔 (写真 左上) が置かれている。「番町皿屋敷のお菊の墓」とも言われていたがが、実際は旗本一千石高木為信の娘での墓だそうだ。五百石御蔵奉行を勤めた久留正親に嫁いだ。境内にはその他石塔が幾つか置かれていた。


墓地、六地蔵

墓地に入ると六地蔵が置かれている。中心には1712年 (正徳2年) に作られた丸彫りの錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が置かれている。元々は六地蔵とは別に置かれていたが、現在ではこの様に配置されている。この地蔵菩薩立像の両側にそれぞれ三体づつの六地蔵が置かれている。向かって左から、柄香炉の不休息地蔵菩薩立像、念珠の護讃地蔵菩薩立像、錫杖と宝珠の延命地 菩薩立像、幢幡の讃竜地蔵菩薩立像、合掌の破勝地蔵菩薩立像、施無畏印宝珠の弁尼地蔵菩薩立像と並んでいる


寂静山潮音閣法照寺 (浄土真宗本願寺派)

浄見寺の左隣りは浄土真宗本願寺派の寂静山潮音閣法照寺になる。法照寺は鎌倉で開創され、1590年 (天正18年) に湯島に移り、1621年 (元和7年) に西本願寺の前身の浜町御坊境内に移った。浜町御坊の時代に本願寺第二十代法主の広如上人がこの寺に寄られた折、よせる波の音を聞かれて、その記念に「潮音閣」という閣号を授けられ、以来「潮音閣」と号す様になった。1657年 (明暦3年) の振り袖火事と呼ばれた明暦の大火で浜町御坊と共に焼失し、1661年 (寛文元年) に御坊と共に築地に移り、1923年 (大正12年) に関東大震災に罹災し、区画整理のため1928年(昭和3年) に現在地へ移ってきている。


本堂

本堂は1945年(昭和20年) 5月25日の空襲で庫裡と共に全焼し、その後、ようやく1964年 (昭和39年) に本堂が再建されている。本堂には江戸時代中期造立の阿弥陀如来立像が本尊として祀られている。


初代市川団蔵の墓

墓地には、初代市川団蔵 (1684年 - 1740年) の墓がある。市川団蔵は屋号を三河屋といい、荒事、敵役の名人芸を以て人気を博した歌舞伎役者だった。墓石は合葬碑で、台石に三ツ桝の家紋、神面に三河屋の三のしるしが彫られている。


柳水山浄見寺 (浄土真宗本願寺派)

善照寺の東隣りは浄土真宗本願寺派の柳水山浄見寺で1610年 (慶長15年) に京都伏見で開山を釋教心として開創され、1621年 (元和7年) に西本願寺の前身の浜町御坊境内に移ったが、1657年 (明暦3年) の振り袖火事と呼ばれた明暦の大火で御坊と共に焼失し、更に、1923年 (大正12年) に関東大震災に罹災し、区画整理のため、築地本願寺が現在の地に建立されるのに伴い 1928年(昭和3年) に現在地へ移ってきている。


本堂、庫裏

本堂は1945年(昭和20年) 5月25日の空襲で庫裡と共に全焼し、その後、1960年 (昭和35年) に本堂、1979年(昭和54年)に庫裏が再建されている。本堂には1768年 (明和5年) に西本願寺より下げ渡された阿弥陀如来立像 (写真 右下) を本尊として祀っている。境内には浄見寺の創建からこの地への移転までの歴史を刻んだ石碑 (写真右中) が建てられていた。


本光山善照寺 (浄土真宗本願寺派)

浄見寺の東隣りにもこの地に移ってきた浄土真宗本願寺派の本光山善照寺がある。善照寺は、小田原で開創され、1590年 (天正18年) に豊臣秀吉が北条氏を攻め小田原落城の際に焼失し、江戸 (場所は不明)に移り再興されている。慶長年間 (1596 ~1614年)から、木挽町、神田金沢町、下谷七軒町、新堀端等に移転を繰り返した後に築地本願寺前身の浜町御坊の子院となった。1657年 (明暦3年) の振り袖火事と呼ばれた明暦の大火で浜町御坊とともに焼失。万治年間 (1658 ~ 1660年) に御坊が八丁堀先海辺を埋め立て移転した際に、築地御坊寺中に移転している。1923年 (大正12年) 9月の関東大震災大震災で焼失し、区画整理のため、1928年(昭和3年) に現在地へ移ってきている。


本堂

本堂は1945年(昭和20年) 5月25日の空襲で全焼し、その後、1970年 (昭和45年) に耐火造りで再建されている。本堂には、江戸時代初期に造立された阿弥陀如来立像を本尊として祀っている。


光栄山託法寺 (浄土真宗大谷派)

善照寺の東隣は浄土真宗大谷派の光栄山託法寺 (たくほうじ) で1634年 (寛永11年) に四谷永住町に浄円によって開創されている。文久2年 (1862年) の江戸切絵図 (図下) には東長寺境内の西方を託法寺に貸していたとなっている。 1922年 (大正11年) に東京市の都市計画事業により移転を命ぜられ (東長寺は昔の場所に残っているのだが…)、栖岸院所有地の一部を得て、この地に移ってきている。


本堂

明治時代の一時期は何らかの理由 (火災?) で、本堂はなく、仮庫裡が置かれていた様だ。 この地に移転後に建てられた本堂は1945年 (昭和20年) 5月の空襲で全焼したが、1954年(昭和29年) 再建されている。本堂には江戸時代末期に造立された阿弥陀如来立像を本尊として祀っている。


三宝山真教寺 (浄土真宗本願寺派)

託法寺の東側の道を北に入ってすぐの場所に浄土真宗本願寺派の三宝山真教寺がある。真教寺は1594年 (文録3年) に黒田甲斐守嫡子の真了法師が開基となり、江戸麻布宮村 (現 港区元麻布) で開創されたと伝わっている。その後、浜町にあった西本願寺の前身の御坊境内 (現 中央区東日本橋三丁目) に移ったが、1657年 (明暦3年) の振り袖火事と呼ばれた明暦の大火で浜町御坊とともに焼失。万治年間 (1658 ~ 1660年) に浜町御坊が八丁堀先海辺を埋め立て移転した際に、御坊寺中に移転している。1923年 (大正12年) 9月の関東大震災大震災で焼失し、全焼後、仮本堂を建てて引き続き築地に寺を構えてたが、区画整理のため、1928年(昭和3年) に現在地へ移ってきている。


本堂

本堂は1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で、焼夷弾の直撃を受け全焼している。その後、1960年 (昭和35年) に再建されたのが現在の本堂になる。

本堂内陣中央に、1630年 (寛永7年) に西本願寺より下付された江戸時代初期に作られた阿弥陀如来立像 (写真左) を戦後、補修して本尊として安置している。内陣右側の厨子の中には、鎌倉時代作とされる親鸞上人 (右上)、玉日姫 (右中 親鸞上人の室)、九条兼実 (右下 玉日姫の父) の三体の木像が安置されている。この三体の木造坐像は京都嵯峨の寺にあったが、1935年 (昭和10年) に奉納されまたもの。毎年11月24日の報恩講の日に開扉されている。この真教寺を訪問した際には門が閉まっており、境内には入れなかった。石仏などの写真は真教寺のホームページで紹介されれている物を借用。


玉川上水永泉寺緑地

見てきた寺町の南側は玉川上水永泉寺緑地の公園になっている。

玉川上水は、江戸時代に江戸の人口が増えて井戸や小川だけでは飲料水を賄えなくなり、江戸市中の飲料水を確保するため江戸幕府により、 1653年 (承応2年) に多摩川の羽村から四谷までの高低差92.3m、全長42.7kmで築かれた上水路。玉川庄右衛門、清右衛門の二人の兄弟により完成したので玉川上水と呼ばれている。玉川上水路は杉並区の浅間橋から福生市の平和橋までの約24kmにわたって遊歩道が整備されている。そのうち、杉並区内の玉川上水路は昭和40年代に一部を除いて暗渠化され、区が東京都水道局から借地して公園が築造されている。公園は全長は約2kmで三つの公園と一つの緑地から成っている。(西側上流からから玉川上水第二公園、玉川上水第三公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水公園)


本願寺和田堀廟所

玉川上水永泉寺緑地を東に進むと甲州街道に出て、緑道は途切れている。ここから東には本願寺和田堀廟所になっている。ここは明治大学和泉キャンパスも含め、江戸時代には和泉新田焔硝蔵、明治時代に入ると陸軍省和泉新田火薬庫だった。

築地本願寺 は1923年 (大正12年) 9月の関東大震災で倒壊全焼し、その復興方策で、1930年 (昭和5年) に大蔵省より、陸軍省和泉新田火薬庫跡地を払い下げをうけ、日本最初の公園式墓地を造成し、築地より墓地・石碑を移転し、余った墓地を公開分譲した。戦時中に明治大学和泉校舎が陸軍に接収され基地になっていた事で米空軍機の爆撃目標の一つとなり、1945年 (昭和20年) 5月23日夜に空襲を受け、旧和泉町の東部地域、永福町駅の周辺と南部の寺町の寺院が総て全焼するなど区内で最大の空襲被害を受けている。


極楽橋、手水鉢

正門を入り、建物の間の廊下を進むと、石橋の極楽橋に出る。橋の畔りに、大きな鉄製の手水鉢が置かれている。この手水鉢は1836年 (天保7年) に築地別院で梵鐘を鋳造した際、この手水鉢も鋳造し寄進されたもの。戦時中に金属回収の際、「重量過大にして運搬不能」の理由をつけて、供出を免れたので残っている。


本堂

1934年 (昭和9年) に築地の旧本堂と瑞鳳殿を移築し和田堀廟所としたが、1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で全焼している。極楽橋を渡った正面にあるのが、1953年 (昭和28年) に耐火造りのインド風で再建された本堂になる。その後、庫裡、伝道会館、休憩所/礼拝所/納骨所の門倍徒会館が建設された。本堂入口の左手に親鸞聖人旅立ちの銅像が安置されている。


墓地

広大な墓地は公園式墓地になっており、著名人の墓が多数ある。案内Mapもあり、その幾つかを訪れた。映画監督の内田吐夢・碧川道夫の墓、俳人で中央公論社初期社長の麻田駒之助墓所、実業家の藤原銀次郎墓所、政治家の永野護の墓、歌人の樋口一葉の墓、作曲家の服部良一の墓まで見た時点で閉門時間となった。

この他、海音寺潮五郎、古賀政男、水谷八重子、笠置シズ子等の墓もあるそうだ。


小名 下村

下村は北に隣接する小名 中道から神田川へ下に傾斜している地域だった事からこの様に呼ばれていた。1889年 (明治22年) の町村制施行により、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に、各村はそれぞれ、大字となり、大字 永福の各旧小名はそのまま小字となり、旧小名 下村は小字 下村となっている。1963年 (昭和38年) から施行された町名変更で、小字 下村は現在の永福一丁目と永福二丁目にまたがっている。


地蔵堂、子育て地蔵 (229番)

永泉寺坂の道まで戻り、この道を北方向に進み、神田川を渡り、江戸時代から昭和初期まで旧小名 大町と寺下の境界線、近世では永福二丁目と永福一丁目の境界の道を更に北に向い、旧小名 下村に入る。そして、永福寺への参詣道の入り口に着いた。ここに堂宇が置かれている。扉を開けると、堂内には1777年 (安永6年) に念佛講中により造立された錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立が安置されている。子育て地蔵と呼ばれているそうだ。台座には「右 大山道 左 ほりの内道」、「右 いの頭道 左 江戸道」 と刻まれ、道標を兼ねていた。この道標を見ると、どうもどこからかこの場所に移設された様に思えるが、それが分かる資料は見つからず。


萬歳山永福寺 (曹洞宗)

参詣道を東に進むと多摩川三十三観音の第三十番札所となっている曹洞宗の萬歳山永福寺に着く。寺伝によれば、永福寺は相州大住郡田原村の香雲寺の未寺で、1523年 (大永2年) に、秀天慶実和尚が高井戸堂之下 (現在地としているものもある。堂之下から現在地に移ったという記述は見当たらず) で開創したとある。1590年 (天正18年) に小田原北条氏の検地奉行の安藤兵部丞が、北条氏滅亡後、七歳の若君を守りながら主従7人と共に住職を頼って永福寺村に落ち延び再興を図ったが、間もなく若君は敵に捕えられて殺され徳川の世となり、再興をあきらめ旧家臣とともに帰農し土地を開墾し、当寺の檀家になり村の開発に努めたと伝わっている。永福寺村の歴史や、石塔、石仏には幾度となく安藤姓の人物が見られる。多分、帰農した安藤兵部丞の子孫なのだろう。その後、寺は衰退していた様だが、1644年 (正保元年) に中興開基とされる旗本九百石加藤重正の弟で幕府御馬預役の加藤重勝が下高井戸村に領地を拝領し、永福寺を菩提寺と定め、衰退していた寺の復興に尽力している。この寺の名が永福寺村の村名になっている。永福寺は、1593年 (文禄2年)、1738年 (元文3年) に災害に遭ったが、1763年 (宝暦13年) には本堂、庫裡、鐘楼堂が再建、長屋門が新築されている。

1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で多数の焼夷弾により、全ての建物が全焼。戦後、1960年 (昭和35年) に本堂、書院、庫裡を再建、その後、鐘楼堂、山門も建立された。


山門

参詣道を登って行くと山門が見えてきた。山門前には曹洞宗寺院では必ずある「禁章酒」と掘られた自然石が置かれている。山門は1960年 (昭和35年) に耐火造になっている。


鐘楼堂

山門は閉まっているので、横に通用門から境内に入る。右手に鐘楼堂があり、これも1963年 (昭和38年) に建立された。鐘楼堂の側には三層塔 (2003年造立) が置かれている。現代の名工に選ばれた庭師の大場昭氏により寄進 (2007年) された。


本堂、庫裏

本堂は1738年 (元文3年) に火災で消失し、1763年 (宝暦13年) に再建されたが、1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲でも、全ての建物が全焼。戦後、1960年 (昭和35年) に建立されている。本堂には戦火を免れた鎌倉時代の名工の快慶 (安阿弥) の作とされる本尊の十一面観音立像と丹慶 (湛慶) 作とされる脇仏の不動明王、毘沙門天が祀られている。(写真右下)

本堂と繋がって、隣には庫裏がある。これも本堂が建てられた時に同時に建てられたもの。


彰功碑

本堂の左手、墓地の入口には高さ4m程の自然板石が置かれている。これは、(明治33年) に中国の北京で起きた義和団事件の鎮圧の際に、戦死した永福寺村出身の安藤辰五郎陸軍大尉の功績を讃えた彰功碑になる。


子授け地蔵 (230番)

墓地の中程に無縁塔があり、その中に、錫杖と宝珠を携えた丸彫りの地蔵菩薩座像 (230番) が安置されている。これは1715年 (正徳5年) に村民の資金により建立されたもの。この地蔵はに 「子授け地蔵」と呼ばれている。それにまつわる逸話がある。

正徳三年(1715) に安藤仁左衛門が子供の健やかな成長を願い、村人と協力してお金を出し合い、墓地の入口に地蔵を建立した。ところが墓地は人家から遠くほとんど忘れられていた。ある時子供のない夫婦が、子供が欲しくて住職に相談したところ、墓地の入口に立つ地蔵にお参りするのがよいと勧めた。早速三七二十一日間、毎日お詣りしたところ間もなく子宝を授かった。同じことが他の夫婦でも相炊ぎ、「永福寺の子授け地蔵」 として知れ渡るようになり、遠くからも盛んに願掛け詣りを受けるようになったという。


馬頭観音 (231番)

墓地にはもう一つ無縁塔があり、その端に馬頭観音 (231番) が置かれている。1832年 (天保3年) に造立された角柱石柱に 「馬頭観世音」 と刻まれてている。元々は永福寺村境に6基建立されていたたものの一基だった。道標も兼ねており、側面に 「ほり野うち道 南大山」、「東 江戸道」 と刻まれている。


六地蔵

この墓地にも六地蔵がある。造立年ははっきりとはわからないのだが、その一つには六地蔵とあるので、この六体は六地蔵として造立されてのだろう。それぞれに造立の後に供養をした年月が追加され刻まれている。その中で最も古いのが1744年 (延享元年) なので、この年かそれ以前に造立されたと思われる。


地蔵菩薩 (232番)、五輪塔 (233番)、庚申塔 (234番)

寺の西門外側の脇には三体の石仏が堂宇の中に安置されている。これらは、1872年 (明治5年) に廃寺になった儀宝院持ちの庚申塚(永福三丁目四二番二号)にあったものを1955年 (昭和30年) 頃にここに移されている。

  • 地蔵菩薩立像 (232番): 右側には1691年 (元禄4年) に儀宝院他15名程により作られた舟型石塔に日月、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 五輪塔/庚申塔 (233番): 中央には1646年 (正保3年) に永福寺村による造立の五輪塔が置かれている。五輪塔の五つの空輪(宝珠形) には上から無限、宇宙を意味するには 「क キャ」、自由、変化を意意味する風輪には 「ह カ」、活動性、エネルギーを意味する 火輪 (三角形) には「र ラ」、流動性、変化を意味する水輪 (円形) 「व バ 」 が刻まれているが、下の安定、不動を意味する地輪 (方形) には梵字ではなく 「土へんに巴」 と刻まれている。この漢字は無い様なので「地」 の誤記なのだろうか?この時代の史跡には当字や誤字が多くある。台座の地輪には「正保三丙戊天辰 奉供養庚申今月本日 衆生旦那三世成就門 武州多東郡養福寺村」 とあり、庚申塔であることが分かる。杉並区内最古の庚申塔だそうだ。五輪塔型式の庚申塔は珍しく、江戸初期には庚申塔に五輪塔も使用されたことを示している。
  • 庚申塔 (234番): 左側には1681年 (天和元年) に造立された傘付角柱にショケラを左手にぶら下げ、残りの手に日月、剣、弓矢を持った六臂の青面金剛立像が浮き彫りされて、二鶏が線刻されている。その下には三猿も浮き彫りされている。


永福稲荷神社

永福寺の西隣りには永福稲荷神社がある。旧永福寺村の鎮守で祭神として宇迦之魂命を祀っている。この稲荷社は、永福寺開山の慶実和尚が永福寺開創の7年後の1530年 (享禄3年) に永福寺境内に、伊勢外宮より豊受大神を勧請して永福寺の鎮守として創建されている。永福寺村は昔は大宮村の一部で、土地の鎮守は大宮八幡宮だったが、永福寺村として独立した頃 (1639年 享禄3年?) からこの稲荷神社が永福寺村の鎮守となった。明治維新後、神仏分離令により 1878年 (明治11年) 頃に永福寺より分離され、永福寺村へ移管された際に、社殿を人家がある西向きに立て直したとある。


一の鳥居

永福町通りから石段を上った所に明治39年) 建立の石造りの一の鳥居がある。鳥居の柱の根元には大正11年と刻まれた擬宝珠が置かれ、鳥居をくぐると石燈籠も置かれている。


二の鳥居、手水舎

参道を進むと二の鳥居になる。朱塗り木製の明神両部鳥居の造りになっている。鳥居をくぐると左側に手水舎が置かれている。


社殿

参道の両側に狛狐が鎮座し、その奥には、1970年 (昭和45年) に耐火鉄筋コンクリート造りで再建された社殿がある。社殿奥の本殿には宇迦之御魂命 (うかのみたまのみこと) が主祭神として祀られている。


境内末社 (天王社、白山神社、白鳥神社)

境内には幾つかの末社の祠が置かれている。明治時代の新編武蔵風土記稿では須賀神社 (素盞嗚尊) と白山神社 (伊弉冊命) の二社とあるが、現在では天王社、白山神社、白鳥神社、天神社の4社となっている。

境内の離れには三つの祠が並んでおり、向かって左から、白鳥神社、天王社、天神社と並んでいる。

天王社は素盞嗚尊を祀っているので、以前にあった須賀神社に相当するのだろう。白鳥神社は、「お稲荷様は白い鳥を忌み嫌う」という伝承があり、永福寺村では、白色の鶏を飼ってはいけないという禁忌があった。大正の半ば頃に養鶏が流行した時に白鳥の神様を未社に加えてお稲荷様に奉仕させれば飼育が許されるだろうと1922年 (大正11年) に創建されている。


天神社

社殿横には菅原道真を祀った天神社が置かれている。江戸時代には字水久保 (現在の永福4-19辺り) にあった修験儀宝院 (明治初年廃寺) の持ちの北野神社だったが、1907年 (明治40年)頃にここに合祀されている。祠内には菅原道真像が置かれている。


法印坂

永福寺の東側、永福寺村の東端、和泉村との境界に坂道がある。この坂沿い東側に昔は真言宗の日照寺があり、法印住職がいた事から法印坂と呼ばれている。



小名 中道

法印坂を北に進むと小名 中道になる。江戸時代から明治時代の小名 中道は、善福寺村の中程を東西に走っていた中通りがあった事が名の由来。1889年 (明治22年) の町村制により、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となり、各村はそれぞれ、大字となった際に、各小名はそのまま小字となっている。この小名 中道も小字 中道となっている。1963年 (昭和38年) から施行された町名変更で、小字 中道は大部分が永福二丁目となり、一部が永福一丁目と永福三丁目に分かれて現在に至っている。


御嶽神社

永福寺参詣道の入り口迄戻り、都道427号線を北に進み旧小名 中道に北端に永福稲荷神社の境外末社の御嶽神社がある。江戸中期に永福寺村内に御嶽講が結成された際に創建されている。



永福寺村訪問ログ



参考文献

  • すぎなみの地域史 1 和田堀 平成29年度企画展 (2017 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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