杉並区 26 (12/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧和泉村
旧杉並村 和泉村
小名 上野原、小字上ノ原
- 泉谷山大圓寺 (曹洞宗)
- 山門
- 地蔵堂、塩見地蔵 (215番)、板碑
- 准提観音坐像
- 青面金剛立像 (214番)、地蔵菩薩半跏像、聖観音菩薩立像
- 本堂
- 六地蔵 (213番)、宝篋印塔
- 戊辰薩藩戦死者墓
- 飯野藩保科家墓所
- 五井松平家墓所
- 六地蔵、萬霊塔、地蔵菩薩坐像
- 馬頭観音坐像、地蔵菩薩坐像
- いの坂
- 神田川、一本橋
小名 北原、小字 崕
- 文殊院石標
- 遍照山高野寺文殊院 (高野山真言宗)
- 山門、百度石、燈籠、手水鉢、戦死馬頭観世音
- 本堂
- 文殊堂、日露役殉難者供養塔
- 庫裏、弘法大師像、厄除け地蔵、地蔵菩薩坐像
- 高野山開創一千百年記念五重塔、弘法大師石像
- 高山紀齊墓
- 四國八十八ヶ所礼寺留塔
小名 上野原、小字 根河原
- 番屋坂
- 貴船神社
- 尻割坂 (けつはりざか)
小名 上野原、小字 本村
- 和泉熊野神社
- 一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居
- 境内、狛犬
- 手水舎
- 神楽殿、社務所
- 社殿、狛犬
- 神木
- 境内末社 (北野神社、御嶽神社、山神社)
- 境内末社 (稲荷神社)、神撰所
- 泉涌山医王院龍光寺 (真言宗室生寺派)
- 大師堂、大師燈籠
- 山門
- 鐘楼
- 観音堂
- 馬頭観音、地蔵菩薩立像
- 地蔵菩薩 (208番)、庚申塔 (207番)、馬頭観音 (212番)
- 供養塔 (209番、210番、211番)、庚申塔 (206番)
- 本堂
- 客殿、庫裏
- 四国八十八箇所霊場
- 墓地、六地蔵、聖観音立像
- 本村坂
小名 中山谷、小字 曽根
- 龍光寺閻魔堂
- 六地蔵 (204番)
- 庚申塔 (205番)
小名 一本松、小字 御蔵附
- 地蔵坂、地蔵堂墓地、地蔵菩薩像 (203番)
- 山手急行遺構
- 水道鋼管
- 玉川上水公園
- 庚申塔 (202番)
- 和泉新田御焔硝蔵跡
小名 羽根木
- 井の頭街道碑
和田村小名大宮訪問を終えて、和泉村の散策に移る。
旧杉並村 和泉村
和泉村は、村内の貴舟神社境内にこんこんと薄き出て渇れたことがない良い(和)泉があったことから、和泉村の名が生まれたといわれている。江戸時代には、谷戸、北野原、北原、中山谷、羽根木、一本松、道斎、荻久保の八つの小名で構成されていた。それぞれの名の由来については後述するが、史跡がなく通らなかった小名の由来は以下の通り。
- 小名 萩久保は、萩が生えていた窪地だった事からが由来とされる。大正時代以降は和田村の地域になっている。
- 小名 谷戸は萩久保の奥の谷あいの地
- 小名 道斎の由来は不明
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となり、各村はそれぞれ、大字 和田、大字 堀之内、大宇 和泉、大字 永福寺となった。大宇 和泉は旧小名 北原が北ノ原と崕、上野原が本村、根河原と上ノ原、中山谷が中山谷と曽根谷、一本松が御蔵附と御蔵下戸の小字に別れ、道斎は八角と名を変え、羽根木と谷戸はそのまま小字となり、合計12の小字で構成される事となった。資料では明確では無いのだが、和田村にまたがっていた荻久保はこの時に和田村の荻久保に移管された様に思える。それぞれの名の由来については後述するが、史跡がなく通らなかった字の由来は以下の通り。
- 八角は「やすま」と呼ばれていた。この名は地形から来ていると推測されるが、由来については不明。
明治時代の地図を見ると、集落は小規模でまばらに散らばっている。1913年 (大正2年) に京王電気軌道 (現 京王電鉄) が開通し、代田橋駅ができ、その北側の和泉村の谷戸を中心に住宅が建設された。1933年 (昭和8年) には帝都電鉄が帝都線 (現在の井の頭線) を開通させ、その永福寺駅の東の上野原にも住宅が拡大している。
和田、堀之内、方南、和泉、永福及び高円寺方面は、1945年 (昭和20年) 五月二十三日夜と二十五日夜にB25の空襲をうけ、黒く塗られた地域が焼失している。5月23日夜の空襲では、杉並第十小学校が全焼し、25日夜の空襲で、和田、堀之内、旧方南町の大部分、そして、戦時中に明治大学和泉校舎が陸軍に接収され基地になっていた事で米空軍機の爆撃目標の一つとなり、旧和泉町の東部地域、永福町駅の周辺と南部の寺町の寺院が総て全焼するなど区内で最大の空襲被害を受けている。この戦争被害があったが、戦後は急速に復興し1960年代には、民家は学校、寺社、公園等公共施設以外全土に広がっている
今日訪問した史跡等
小名 上野原、小字 上ノ原
上野原は「うえっぱら」と呼ばれ、和泉村の北に位置しており、神田川を見下ろす台地上にあった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に、小名 上野原は北から上ノ原、根河原、本村の三つの小字に分割されている。
泉谷山大圓寺 (曹洞宗)
旧小名上野原の北部分の小字上ノ原から見て行く。ここには泉谷山大圓寺があり、木造釈迦如来坐像 を本尊とする曹洞宗の寺院で、元々は1603年 (慶長8年) に赤坂溜池辺に徳川家康が開基となり大渕寺の名で建立され、開山は武田信玄の弟の諦厳桂察和尚とされている。1641年 (寛永18年) に発生した江戸の大火で諸堂を類焼し、跡地は御用地として召し上げられ、その代地として芝伊皿子 (いさらご 港区三田高輪辺) に寺地を拝領して移転し、大圓寺の寺名に改号している。明治維新後、島津家が廃仏毀釈で神道に改宗し、寺の勢いは寂れてしまい、寺院の発展を計り、1908年 (明治41年) に二院の塔頭を併合して現在地に移転している。
山門
道路から山門で境内に入るが、山門前には二体の仁王像が置かれている。多くの寺では門内に置かれているのだが、ここでは門前になっている。また、門前には禅宗の寺でよく見かける「不許葷酒入山門」 の石柱が建てられている。今日は肉や生臭い野菜食べていないし、酒も飲んでいないので問題なく山門から境内に入る。山門扉には葵紋がある。徳川家康が開基で、資金提供していたことから葵紋の使用が許されていたのだろう。
地蔵堂、塩見地蔵 (215番)、板碑
山門を入ると、すぐ左側に地蔵堂が建てられている。堂内正面中央には丸彫りの地蔵菩薩立像 (215番)が置かれている。造立年は不詳だが、1625年 (寛永2年) に品川芝浦の漁師が海中から引き上げた地蔵といわれ、満潮になると、身体が黒く濡れたようになるので潮見地蔵と呼ばれ、江戸府内で有名だった。の海中から出現したといわれ、塩見地蔵と呼ばれている。塩見地蔵の両脇には石像が置かれているが、摩耗が激しく、何を形取っているのかは不明。堂内には板碑も幾つか置かれている。寺では非公開の板碑13基 (写真右下) を所蔵している。明治末年に現在の高千穂大学敷地 (旧大宮八幡宮社地) を整備した際に二基の塚から採取され、板碑造立の最盛期の南北朝期の1357年 (延文2年) から1409年 (応永16年) にかけて造立されたとされている。全てに阿弥陀一尊を表す梵字のキリークが刻まれている。
准提観音坐像
地蔵堂の隣にはもう一つ堂宇があり、自然石が置かれている。
1830年 (文政13年) に自然板石に准提観音坐像が線刻され、台座には 「七佛俱胝准提佛母大菩薩 開光法語」 「于出文政十三年歲次庚寅 三月十五日摩訶吉祥晨 東武城南芝浦輪臺 泉谷山大圓禅寺廿五世瑞峯謹記」 と刻まれている。
青面金剛立像 (214番)、地蔵菩薩半跏像、聖観音菩薩立像
地蔵堂の脇には5体の石仏と1基の石柱が置かれている。向かって左からみると
- 青面金剛立像 (214番 右上): 造立年不詳の駒型石塔の上部に日月、その下にショケラを手にぶら下げ、邪鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像、両脇には二鶏、下部に三猿が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩半跏像 (上中): 造立年不詳の舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩半跏像が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像 (左上): 造立年不詳の舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。右側には黄楊地藏尊と刻まれている。
- 地菩薩半跏像 (右下): 造立年不詳の舟型石塔に月輪を背に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩半跏像が浮き彫りされている。台座には「毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 無佛世界度衆生 今世後世能引導」 と刻まれている。
- 聖観音菩薩立像 (下中): 1855 (安政2年) に造立された丸彫り聖観音菩薩立像で、台座には180名の名が刻まれている。
- 僊家水獺供養塔 (左下): 左端には1829年 (文政12年) に立てられた僊家水顎供養塔は、島津家第26代当主、薩摩藩第九代藩主の島津斉宣 (島津斉彬と天璋院篤姫の祖父) が愛用した秘薬の銀台隠の原料として捕獲された水獺 (カワウソ) の霊の供養碑。
本堂
綺麗に手入れされている境内の奥に本堂、それに隣接して庫裏が建てられている。この本堂は1846年 (弘化3 年) 造築のものを移築している。内陣正面には江戸時代初期に造立された釈迦、文殊、普賢の三尊が祀られ、左右の壁面上部に十六羅漢像が安置してあるそうだ。本堂正面の屋根の瓦には徳川家の 「葵紋」 と扁額の上には島津家の 「丸に十字紋」が見られる。
六地蔵 (213番)、宝篋印塔
大圓寺には墓地が境内の南と北側にあり、南側の墓地への入り口には薩摩藩島津家寄進の六地蔵 (213番 1957年 安政4年造立) が芝伊皿子から移設されている。向かって右から、弁尼地蔵菩薩立像、破勝地蔵菩薩立像、讃竜地蔵菩薩立像、延命地蔵菩薩立像、不休息地蔵菩薩立像、護讃地蔵菩薩立像と並べられ、それぞれに寄進者名が「安政四年五月、薩摩宰相卿御建立」(三基)、「島津勝姫様建立」(一基)、「芝大奥・氏名連記」(二基)と記されている。
六地蔵の側には、宝篋印塔が置かれている。この宝篋印塔は、1826年 (文政9年) に島津齊彬が、母の賢章院殿の三回忌に建立されたもの。
戊辰薩藩戦死者墓
墓地の中に入っていくと、益満休之助他75名の名を刻んだ戊辰薩藩戦死者墓 (写真右上、下) がある。ここには明治元年の戊辰戦争の戦死者や、西郷隆盛の娘の菊草 (菊子)、息子の牛次郎など、薩摩藩ゆかりの人々が埋葬されている。その隣には自然板石の中央に薩摩藩支藩の「佐土原城主島津氏臣戦死者墓」があり、石碑左右に34名の氏名を彫った墓誌が見られる。この墓地の中には、「薩摩バンド」と呼ばれた薩摩藩軍楽隊の碑 (1870年 明治3年建立 写真左中) もあった。伝習中に病死した森山孫十郎の墓の墓前に建てられた献灯で、伝習生30名の名とともに洋楽伝習の経緯が記されている。薩摩藩軍楽隊 (薩摩バンド) は1869年 (明治2年) にイギリス海軍軍楽隊長のフェントン(John William Fenton)の指導を受け薩摩藩が編成した楽隊で、最初の近代軍楽隊とされる。
移転前の大圓寺は薩摩藩邸に隣接しており、薩摩藩主島津光久の嫡子綱久の葬儀を1673年 (延宝元年) に行って以来、島津家の江戸における菩提寺となり、寺内には薩摩家代々の位牌堂が設けられ、調所広郷、天璋院付き老女幾島など薩摩藩家臣・縁者の墓もこの寺に置かれていた。明治維新後の廃仏毀釈で島津氏は神道に改宗し、当時、鹿児島にあった1066の寺院は島津家の菩提寺も含め全て廃寺となり、2964人の僧侶は全員が環俗させられている。当時の日本で起こった廃仏毀釈では最も激しく徹底して行ったのが鹿児島だった。この事で、現在でも鹿児島では487の寺しかなく、仏像など仏教遺産は存在しない。このような経緯から、この大圓寺には島津家の墓はない。島津家は神道に改宗したことに伴い、都城島津家の墓以外は鹿児島に改葬された。
飯野藩保科家墓所
戊辰薩藩戦死者墓から墓地奥に進むと、保科家墓所がある。移転前の伊皿子の寺があった当時、寺内に塔頭 (たっちゅう) として本尊を釈迦如来とする福寿院と本尊を阿弥陀如来とする門能院建立され、それぞれ大名の保科家、旗本の五井松平、三州松平、本多、土方の諸家中、町人衆が檀徒となり、大いに栄えていた。この墓所には上総飯野藩祖の保科正貞をはじめ、歴代藩主などの墓が置かれている。保科正貞は武田氏の家臣だった保科正直の三男にあたる。保科正直は、徳川家康に仕え下総多古に一万石で配され後、信濃高遠に移り、正直の嫡男正光は、将軍秀忠の子正之を嗣子として預かった。保科正之は会津に転封となった際に、正直三男の正貞に保科家家督を譲り、飯野藩祖となる正直が保科家嫡流となっている。墓所の中央に飯野藩主の五輪塔 (写真 中中) が置かれ、三面に累代藩主の法名が刻まれ、両脇に保科家之墓二基も置かれている。この墓所の前には長元院の五輪塔 (写真 下) があり、藩祖正貞の生母で徳川家康の生母の於大の娘 (後に家康の養女) の多却姫 (長元院殿清信授法大禅定) の墓となっている。
五井松平家墓所
北側の墓地には旗本の五井松平家9代忠根、10代忠寄の墓も置かれている。
六地蔵、萬霊塔、地蔵菩薩坐像
五井松平家墓所の奥、墓地の隅に幾つもの石仏が置かれている。
六地蔵: いずれも舟型石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。幾つかには1857年 (安政4年) 造立とある。向かって左から念珠を携えた護讃地蔵菩薩、錫杖と宝珠を携えた延命地蔵菩薩、柄香炉を携えた不休息地蔵菩薩、合掌の破勝地菩薩、宝幢を携えた讃竜地蔵菩薩、そして尼弁地蔵菩薩が置かれている。並び方は少し異なっているが、先に見た六地蔵と同じ地蔵菩薩立像だった。
更に奥には萬霊塔と萬霊と刻まれた三体の丸彫り地蔵菩薩座像がある。仏像は向かって左から、
- 1857年 (安政4年) 造立の丸彫り地蔵菩薩坐像で月輪を背に錫杖と宝珠を携えている。台座にはव バ 、ह カ 地蔵菩薩、ॐ オン 帰依祝福、ई イー 帝釈天、ザラ、~と刻まれている。オンバサラ…は真言でよく聞くので、ここに刻まれているのも真言の一つなのかもしれない。
- 中央には1821年 (文政4年) に造立された丸彫りの月輪を背に、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩坐像で台座中央には萬霊等と刻まれている。
- 右側には1824年 (文政7年) に造立された丸彫りの月輪を背に、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩坐像で台座中央には「每日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 三界萬靈塔 無佛世界度衆生 今世後世能引導」 、側面には「薩隅日三州奴僕及與臺 在武江邸舎死亡者形骸 総帰此土中地下有石擲 上安能化尊永吊其魂魄 文政七歲次甲申七月自恣日 泉谷山第二十五世大圓鑑瑞峯誌」 と刻まれている。
馬頭観音坐像、地蔵菩薩坐像
更に奥にも幾つもの石仏が集められている。そのうち資料で紹介されていたものが以下の通り
- 1840年 (天保11年) 造立の舟型石塔に三面八臂の馬頭観音坐像 (右上) が浮き彫りされ、台座には 「侍衛矮狗 轉生供養塔 即得解脱」 と刻まれている。
- 造立年不詳の月輪を背に錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩坐像 (左下) も置かれている。
いの坂
大圓寺の南側には、いの坂と呼ばれる坂道があり、神田川に架かるという橋から大圓寺がある高台から神田川に架かる一本橋に向けて緩やかに下っている。いの坂の名の由来は不明だそうだ。この坂の道が旧小字上ノ原と旧小字根河原の境界線だった。
この付近で少し変わった風景が見られる。送電鉄塔が幾つもの建っている。大圓寺の東側に和田堀変電所があり、そこから送電線が伸びている。
神田川、一本橋
いの坂の道を東に進むと神田川に出る。ここには一本橋が架かっている。神田川は井の頭公園を水源として東に蛇行して流れ、ここを通り、少し下流で善福寺川が合流して、両国橋で隅田川に合流している。総延長は約24.6㎞で、140の橋が架かっているそうだ。
小名 北原、小字 崕
この神田川の西が小名上野原、川を渡った東が小名北原だった。小名 北原は和泉村の北にある原だった事が名の由来。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に、小名 北原は北から崕、北原の二つの小字に分割されている。小字 崕は神田川に面した所が高い崖になっていた事から、その名がついたと思われる。
文殊院石標
一本橋を渡り、道を東に進むと四角に石塔が立っている。「第八十八番 弘法大師 文殊院」 と刻まれている。文殊院への道標だ。ここから北への道が文殊院への参詣道になる。
遍照山高野寺文殊院 (高野山真言宗)
参詣道を進み、御府内八十八ヶ所第八十八番札所となっている高野山真言宗の遍照山高野寺文殊院の山門を入る。寺伝によれば、開山は高野山興山寺の木喰応其上人 (もくじきおうごしょうにん) とされているが、興山寺二世勢誉が、1600年 (慶長5年) に徳川家康の帰依を受けて駿府に寺地を拝領し寺を建立、興山寺と称して開創したとの記録が定説となっている。江戸時代に入り、1627年 (寛永4年) に興山寺三世応昌が、江戸浅草に寺地を賜り、駿府城北之丸の建物を拝領して移築し、寺号を高野寺文殊院と改めている。その後、1696年 (元禄9年) に麻布白金台町へ移っている。
江戸期には、真言宗で芝二本榎 (港区) の学侶方高野寺 (現 高野山東京別院) と共に、高野山行人方を統括する在番所触頭 (ふれがしら) と重要な役割を担っていた。
そして、1920年 (大正9年) に区画整理により、道林寺跡地を購入して現在地に移転している。(東京都町田市に所在)
山門、百度石、燈籠、手水鉢、戦死馬頭観世音
山門を入ると、左手に文化財に指定されている1823年 (文政6年) 造立の百度石、燈籠、手水鉢、 1904年 (明治37年) に建てられた日露戦争で戦死した軍馬の供養塔として戦死馬頭観世音と刻まれた自然石が並んでいる。
本堂
境内奥に本堂が建てられている。1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲で、堂宇一切は灰燼に帰してしい、戦後、1954年 (昭和29年) に本堂が再建され、現在に至っている。本堂正面の厨子に室町時代の作といわれ、右手に五銘杵、左手に数珠を持った高さ90cmばかりの木造弘法大師坐像 (写真右下) を本尊として祀っている。江戸時代には 「安産守護のご本尊」 と呼ばれ、難産の女人を救い給う安産守護の本尊として信仰されていた。本堂の前の敷き石に四国八十八ヶ所お砂踏み (左下) がある。この下に、四国八十八ヶ所札所の砂が埋めてあり、ここに立って祈願すれば、八十八ケ所霊場参詣と同様な御利益が得られるという。また、本堂前左右に、1746年 (延享3年) に奉納されたの常夜燈 (右中) と石造花立が置かれている。
文殊堂、日露役殉難者供養塔
本堂手前には文殊堂が建てられている。堂内には文殊菩薩が祀られている。文殊堂の隣には石碑が置かれている。これは (明治40年) に建立された日露役殉難者供養塔で日露戦役での戦没者24柱を慰霊顕彰している。
庫裏、弘法大師像、厄除け地蔵、地蔵菩薩坐像
本堂の隣には庫裏があり、弘法大師像が置かれている。その前には三体の石仏が置かれ、そのうちの一体は弘法大師像 (写真下) で、大師が高野山に登った際に先導した2匹の山犬の石像も見える。その隣りには、1915年 (大正4年) 建立の厄除け地蔵 (写真中上) が置かれている。左端には1869年 (明治2年) 造立の月輪を背に錫杖と宝珠を携えた丸彫りの地蔵菩薩坐像が鎮座し、台座には「光誉」 と刻まれている。
高野山開創一千百年記念五重塔、弘法大師石像
文殊堂の奥に、高野山開創一千百年記念に建立された石造の大きな五重塔があり、その台座を囲んで八十八番と番外合わせて91体の弘法大師石像が1878年 (明治11年) から1896年 (明治29年)にかけて作られ置かれている。この高野寺文殊院は宝暦年間 (1751年~1764年) に御府内八十八ヶ所打留の札所となり、この91体の弘法大師石像は江戸時代からの大師信仰を表している。
高山紀齊墓
本堂の裏は墓地になっている。その中に、大正天皇の歯の治療に当った東京歯科大学の創立者である高山紀齊の墓がある。高山紀齊は西欧歯科医学の発展に貢献した人物。皇族、政治家など、有名諸氏の診察で莫大な収入を得ており、株式投資でも財をなし、芝区白金に広大な土地を購入、住居も芝区にあった。高山家の菩提寺がこの遍照山高野寺文殊院であったことから、この地に葬られている。
四國八十八ヶ所礼寺留塔
山門から来た参詣道をもどり南に200m程進むと、「高野山 弘法大師 四国八十八ヶ所札打留 安永二年発巳仲夏吉日 筒井三郎兵衛」 と刻んだ角石柱がった。これは元々は高野寺文殊院のこの地への移転前の白金台の旧地門前から移されたもの。現在では文殊院への参詣道の道標になっている。この四國八十八ヶ所礼寺留塔のある南の道は小名 北原と小名 中山谷の境界線だった。
小名上野原 小字 根河原
四國八十八ヶ所礼寺留塔がある四角で小名 北原と小名 中山谷の境界線の道を西に進み、神田川を渡ると旧小字 根河原になる。根河原は、台地の下 (根) の神田川の河原を意味しているそうだ。
番屋坂
神田川を渡り番屋橋を渡ると小字 根河原に入る。更に道を進むと登り坂になる。この坂は戦前までは番屋坂と呼ばれていた。坂下に番屋橋があるところから、ある時期番小屋があった事に由来しているとあるが定かではない。
貴船神社
和泉村字根河原の番屋坂の南側が貴船神社で、すぐ南にある和泉熊野神社の境外末社になっている。ここにも送電線の鉄塔 (右上) が建っている。創建は文永年間 (1264~75年) とされ、山城国京都鞍馬村貴船神社の祭神で山、谷あるいは川に住む雨水を司る竜神で、雨ごい、止雨に霊力がある高龗神 (たかおかみのかみ、蛇龍 おかみとしている古書もある) を勧請し祀り、和泉地域の人々の厚い信仰を集めていた。現在の神明造りの本殿は1961年 (昭和36年) の造営で、落成を記念した石碑 (右中) も建てられている。
境内の池は 「御手洗の小池」 と呼ばれ、昔は干天にも涸渇することがなく、昔から旱魃の際には村人がこの地に集まり雨乞いを行なっていた。和泉村の名はこの豊富な湧水の池に由来するともいわれている。残念だが、この湧水も神田川の川底を掘下げた改修工事や周辺の住宅化にともない、1965年 (昭和40年) 頃には水が枯れてしまった。この御手洗の小池には伝承が残っている。
昔、池の近くに、沖右衛門さんという農家がありました。ある朝、草刈りから帰ってきた若い衆が真っ赤な顔をして酔っぱらっているので、家の人は「朝っぱらから酒を飲んで」と、苦々しく思いましたが、若者のことだからと黙っていました。ところが次の朝も酔っぱらって来たので、注意しますと、「酒なんか飲んでない」と答え、其の日は普段以上によく働きました。それからも毎朝酔っぱらって帰って来るのですが、仕事は一人前以上に働くので、叱ることができませんでした。「若い者が毎朝酒びたりでは、将来のためによくない」と、考えた沖右衛門さんは、ある朝、「お前は酒を飲んでいないと言うが顔が真っ赤じゃないか、一体酒をどこに隠しているんだ」と、問いただすと、若い衆は「本当に酒は飲んでいません。貴船様の泉の水を飲んだだけですよ」と答え、頑としてあやまらないので、連れ立って貴船神社へ行き、泉の釜(漢水口)から湧き出た水を飲んでみると、かすかに酒の香りがしました。酒に弱い若い来はこの水を飲んで酔っぱらったのです。それから間もないある朝、池のほとりで草を対っていた若い来が、草叢にいた小蛇を面白半分に鎌でなぎ払いました。真二つになった蛇はコロコロっと泉の釜へころげ落ち、切り口から流れ出た血で、池の水が真っ赤に染まり、三日三晩も血の色が消えず、それ以来、泉の水に酒の香りがしなくなったそうです。
尻割坂 (けつはりざか)
貴船神社と熊野神社の間にも坂道がある。尻割坂 (けつはりざか) と呼ばれていた。この名は急坂だったので力を入れて登り降りすることから、腰の筋が張るという意味の「けつはり」に由来するという。
小名 上野原、小字 本村
尻割坂から1ブロック南に進んだところから小字 本村になる。本村とあるので、旧和泉村の中心部だったと思われるが、江戸時代から明治時代には民家はそれ程多くは無い。村の鎮守の熊野神社や龍光寺があった事から本村となったのだろう。
和泉熊野神社
尻割坂の南側には旧和泉村の鎮守だった和泉熊野神社がある。1267年 (文永4年) に熊野川を御神体とする熊野本宮大社の分霊を祀って創建したと伝えられている。江戸期には隣接している龍光寺が別当寺で、和泉村の鎮守社で、「和泉の鎮守さま」と呼ばれていた。また、境内からは縄文時代の土器、石斧、石棒や古墳時代の土師器が出土しており、古い時代から人々が、この地で生活していたことがわかる。
一の鳥居、二の鳥居、三の鳥居
和泉熊野神社へは道路から神橋を渡り、三つの鳥居を潜り、境内に入る。一の鳥居は平成に入り奉納さレラもの、二の鳥居は角柱を組立てた珍しいものだが、柱の途中が折れて補修がされている。石階段を登ると途中の踊り場に厳島神型の木製の三の鳥居が置かれ、更に石階段を登ると、石燈籠が置かれて境内が広がっている。
境内、狛犬
境内に入ると奥にある社殿に向かって石敷きの参道が一直線に伸び、道両脇には1871年 (明治四年) 造立の石造りの狛犬が置かれている。
手水舎
参道の左側には手水舎が置かれ、1832年 (天保3年)の手水鉢が置かれている。
神楽殿、社務所
参道右側には神楽殿が建てられている。その奥には社務所が見える。
社殿、狛犬
参道の先には1936年 (昭和11年) に奉納された狛犬に守られた社殿が建っている。社殿は何度も改築されている。残っている文書からは、1284年 (弘安7年) に修造されたとある。その後、戦国時代、関八州に勢力を拡大していた後北条氏の北条氏綱が上杉朝興と戦い、江戸城を攻略した1524年 (大永4年) にも社殿を改修したと伝えられている。江戸時代には1639年 (寛永16年) と1696年 (元禄9年) に二度に渡り社殿の改修が行われている。この期間、北条家や徳川家にも崇敬されていた。現在の社殿は1863年 (文久3年) に着工され、1871年 (明治4年) に竣工したもの。拝殿の向拝には龍の彫刻 (写真右下) が施されている。現在では造化三神の一柱で天の真中を領する天御中主命 (あめのみなかぬしのみこと)、国を生み、神を生んだ二神の伊邪那岐命 (いざなぎのみこと)、伊邪那美命 (いざなみのみこと) を主祭神として祀っているが、1879年 (明治12年) の 「神社明細帳」 では、須佐之男命の子の五十猛神、娘の大屋津比売命と抓津比売命が主祭神と記されている。戦後、宗教法人和泉熊野神社に登記した際に、東京都の神社台帳に記載されてあった祭神の通りに訂正されたのだが、昔と台帳で主祭神がなぜ異なっていたのかは興味あるが、その背景についてはわからなかった。
神木
社殿の脇には樹齢350年以上と思われる黒松の大木がそびえ立っている。江戸幕府三代徳川家光 (1604 ~ 51年) が鷹狩りの途中で休息し、その時に手植えしたと伝えられ、神木となっている。
境内末社 (北野神社、御嶽神社、山神社)
社殿の南側には境内末社を合祀した祠が建てられている。ここでは菅原道真を祀る北野神社、日本武尊を祀る御嶽神社、大山衹神を祀る山神社が合祀されている。この末社についても1879年 (明治12年) の 「神社明細帳」 では、少し異なっている。御嶽神社では太麻等能豆命を祀るとし、現在では見当たらない面足命/偉根命を祀る天神社 (与喜野天神社) の記載もある。
境内末社 (稲荷神社)、神撰所
社殿北側にも境内末社の稲荷神社があり豊受比売神を祀っている。祠の後方には隣接して、供え物を準備する神撰所 (右上) が置かれている。
泉涌山医王院龍光寺 (真言宗室生寺派)
和泉熊野神社の南隣には真言宗室生寺派の泉涌山医王院龍光寺が建っている。貴船神社の泉に因み山号の 「泉涌山」、平安時代末期に造立されたと伝わる本尊の薬師如来に因み院号の 「医王院」 が付けられたという。また、寺号の 「龍光」 は、この下を流れる神田川の水源の井之頭池にすんでいた巨大な竜が、川を下ってきて、この付近で雷鳴を轟かせ、光を放って昇天したことに由来すると伝えられている。
開創は1172年 (承安2年) とされ、開山は龍観和尚 (1493年寂) と伝えられています。江戸時代には本尊の薬師如来は難病に御利益があるされ、民衆の信仰あつく、護摩の煙が絶えなかったといわれている。江戸時代には中野村にある新義真言宗の宝仙寺の末寺で、隣の和泉熊野神社、貴船神社の別当寺となっていた。明治初年に廃寺となった宝仙寺末の慈冠山日照寺 (和泉村小字本村 現 永福1-34) を合併し、室生寺派へ転派している。
龍光寺の駐車場に自転車をとめて、寺を見学する。駐車場内に寺には背を向け、神田川に向けて地蔵菩薩立像二体が置かれている。ここにこの様な形で置かれている背景が気になったが分からずじまい。
大師堂、大師燈籠
道路から石柱門を入ると、右手に近代的な建物の大師堂があり、葬儀場を兼ねている。左手には大きな大師燈籠が置かれている。
山門
三十段の階段を上る山門が置かれ、その先に本堂が見えている。
鐘楼
山門を入ると、右手に鐘楼が建っている。鐘楼は江戸時代末期に造られたものが残っている。戦前まで、この鐘楼には1742年 (寛保2年) に鋳造された梵鐘が吊るされ、梵鐘には「医王之宝殿」「衆病悉除抜苦」と刻まれていたそうだ。残念ながら、梵鐘は戦時中の金属供出で無くなってしまったが、戦後、1954年 (昭和29年) に天女と龍が浮き彫りされて再鋳されている。杉並区内では最も大きい梵鐘だそうだ。
観音堂
山門の左手には明治初期に建てられた観音堂があり、堂内にはは、1717年 (享保2年) に作られた如意輪観音菩薩坐像が祀っている。
馬頭観音、地蔵菩薩立像
観音堂手前の通路に沿って、幾つかの石仏が並べられている。向かって左端には1886年(明治19年) 造立の馬頭観音 (写真左下) で駒型石塔に馬頭観世音と刻まれている。半ばには造立年不詳の錫杖と宝珠を携えた丸彫りの地蔵菩薩立像、台座 (上中) しか残っていないが、1719年 (享保4年) 念佛同行と刻まれている。地蔵菩薩の台座だったのだろう。
地蔵菩薩 (208番)、庚申塔 (207番)、馬頭観音 (212番)
観音堂の右手、墓地への入口手前に築山があり、多くの石塔石仏が集められて祀られている。
- 地蔵菩薩立像 (208番 左下): 1720年 (享保5年) 造立の錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像で、「乃至法界 平等利益 和泉郷 奉造立地蔵菩薩 念佛講中三十人」 と刻まれている。
- 地蔵菩薩坐像 (左下): 1749年 (寛延2年) 造立の丸彫り合掌地蔵菩薩坐像で和泉2-7から移設されている。
- 庚申塔 (207番中下): 1838年 (天保9年) 造立の駒型石塔上部に日月、その下にシュケラを手に下げ、二匹の邪鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。元々は上荻久保村 (現 南荻窪三丁目) に置かれていたものを移設している。
- 馬頭観音 (212番 右下): 1851年 (嘉永4年) 造立の三面馬頭観音立像で和泉3-23から移設されている。
供養塔 (209番、210番、211番)、庚申塔 (206番)
- 供養塔 (中上): 1823年 (文政6年) に和泉村小名一本松住民により造立された角柱に 「南無地藏大菩薩」 と刻まれている。和泉2-7より移設されている。
- 光明真言供養塔 (209番 右上): 1710年(宝永7年) に造立された塔型角柱の光明真言供養塔で、上部に種字の梵字のह्रीः (キリーク)、中央に光明真言三百万供養と刻まれている。これは唱えることで罪障が消滅し、極楽浄土へ往生できるとされている光明真言を三百万遍唱えたことを記念して建立された供養塔のこと。
- 回國六十六部供養塔 (210番 左下): 1725年 (享保10年) に造立された傘付角柱で、上部には種字の梵字 स (サ 聖観音)、ह्रीः (キリーク 如意観音)、सः (サク 勢至菩薩) が、中央には 「奉回國六十六部供養」 と刻まれている。回國六十六部供養とは法華経を66部写経し、全国66カ国の霊場に納経を行った行者をその功績をたたえたり、供養のために建てられていた。
- 庚申塔 (206番 中下): 1701年 (元禄14年) に上荻久保村に造立された傘付角柱で、上部には日月、下部に三猿が浮き彫りされ、中央に奉庚申供養二世安樂也と刻まれている。上荻久保村 (現 南荻窪三丁目) からこの寺に移設されている。
- 大乗妙典六十六部廻國供養塔 (211 番 右下): 1726年 (享保11年) 造立の笠付角柱供養塔で上部に種字の梵字のह्रीःキリークが、その下に奉納大乗妙典六十六部廻國供養成就所と刻まれている。
本堂
参道の常夜燈の奥に銅板本瓦葺き、入母屋造り屋根平入り、唐破風軒流れ向拝の本殿がある。
客殿、庫裏
本殿の隣には立派な玄関がある客殿があり、その隣りに1948年 (昭和23年) に建てられた庫裏になっている。
四国八十八箇所霊場
石仏や石塔がある築山の奥には四国八十八箇所の写し霊場が設けられている。土日祝のみの公開だそうで、今日は中には入れなかった。墓地への道から塀越しに見ると、霊場参道沿いに各寺院の本尊石仏が置かれていた。
墓地、六地蔵、聖観音立像
寺の西側は墓地になっている。墓地の中にも江戸時代の石仏が多くあり、その内で資料で紹介されていたものがある。六地蔵と紹介されている石仏がある。現在の松ノ木しょう学校の前にあったものを移設している。その内の一つには1739年 (元文4年) とあり、八代将軍吉宗の時代のもの。
もう一つ紹介されている。1793年 (寛政5年) 造立の聖観音立像が和泉村で代々名主をつとめた梅田家の墓所にある。供養塔で亡くなった子供四人を含め六人を供養している。
本村坂
小字本村の南側に本村の名を残す坂道がある。東側の神田川を越えて道は緩やかな登り坂に変わる。この坂は本村坂と呼ばれている。この辺りは和泉村字本村で、明治時代の地図では民家が見られる。坂道脇には名主だった梅田家 (先に龍光寺で墓を見た) 屋敷があったそうだ。
小名 中山谷 、小字 曽根
龍光寺から道を東に進み神田川を渡ると旧小名 中山谷になる。この道は1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に、小名 中山谷は北側が小字 中山谷、南側が小字 曽根に分割されている。小名 中山谷は村の中程、神田川流域の山野を開墾した場所だった。曽根は高台 (曽) の根っこで、神田川に向かって一段低くなっていた台地だった。
龍光寺閻魔堂
龍光寺から神田川を東に渡り少し進んだ旧小字 曽根に龍光寺の墓地があり、そこに閻魔堂が置かれている。黒く塗られた門が目立っている。この門は、江戸幕府の火薬庫だった和田堀焰硝蔵にあったの門で、龍光寺檀徒保有だったので、閻魔堂墓所の御堂新築の際に、補修されて寄進されたもの。
敷地内に入ると閻魔堂が建てられている。堂内には正面中央に閻魔大王が鎮座し、左にはこの後訪れる地蔵堂から移された地蔵堂本尊、右には三途川で亡者の衣服を剥ぎ取る奪衣婆 (だつえば) が祀られている。
六地蔵 (204番)
閻魔堂墓地入口には一列に8体の地蔵菩薩像が並んでいる。中央には1788年 (天明8年) に作られた錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩半跏像が置かれているが、尊像は1987年 (昭和62年) に再建されたもの。この地蔵菩薩半跏像の左右に三体ずつの地蔵菩薩像が置かれ六地蔵 (204番) となっている。1788年 (天明8年) に天明飢饉で亡くなった人の供養塔として造立されている。この六地蔵がまとまって置かれていたのかは不明だが、この内4体は大宮村、堀ノ内村、和泉村、松原村 (現世田谷区) 35~90人の講中、100~200人が奉加して作られている。右端には (明治44年) 造立の隅丸角柱に合掌地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
庚申塔 (205番)
龍光寺閻魔堂から南に進み、井の頭通り (都道413号) と角筈和泉町線 (都道431号) が交わる五叉路に庚申塔が残っている。ここは旧小名 中山谷と旧小名一本松の境だった。1692年 (元禄5年) に造立された駒型石と石塔の上部に日月、中央に合掌六臂の青面金剛立像、下部に三猿が浮き彫りされている。
小名 一本松、小字 御蔵附
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に、小名 一本松は北側が小字 御蔵下、南側が御蔵附に分割されている。一本松は、この地に大きな一本の古松があったから小名の名になったと思われる。御蔵附は、幕府の和泉新田御炤蔵があった事から付けられた。
地蔵坂、地蔵堂墓地、地蔵菩薩像 (203番)
庚申塔 (205番) がある五叉路の東への道は緩やかにカーブした下り坂になっている。地蔵坂と呼ばれていた。
江戸時代には、この坂の途中には地蔵堂があったのだが、(廃仏毀釈の影響だろうか?) 明治初年に取り壊され、本尊は先に訪れた龍光寺閻魔堂に移され祀られている。堂宇は消滅したが、墓地は残っている。墓地入口にはいくつかの地蔵が並んでいる。向かって右側には造立年不詳の地蔵菩薩坐像、その隣に1759年 (宝曆9年) 造立の錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像 (203番) が置かれ、台座には地蔵菩薩を表す種字梵字のह (カ)寒念佛供養と刻まれている。その横には1849年 (嘉永2年) に造立され月輪を背に錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像が置かれている。
墓地に入った通路にも幾つもの石仏が並んでいる。この中の一つの石仏がが資料で紹介されていた。1661年 (寛文元年) に造立された舟型石塔に阿弥陀如来立像が浮き彫りされ、右上に阿弥陀如来の種字梵字のह्रीःキリークが刻まれている。
山手急行遺構
地蔵坂を下ると京王井の頭線にぶち当たる。この井の頭線沿いを南に進むと、崖下の切通しが見える。そこは4線分のトンネルになっている。現在では2線のみ使われて、残り2線は未使用のまま。
これは戦前に東京山手急行電鉄が山手線の外側に約50 kmの環状路線鉄道を計画していた名残りで、世界恐慌のあおりを受けて頓挫した。東京山手急行電鉄は後に帝都電鉄と改称して現在の京王井の頭線を建設し、1940年 (昭和15年) に小田原急行鉄道に吸収合併されている。
水道鋼管
山手急行遺構のトンネルの上の人道橋には大きな鋼管が走っている。これは玉川上水が流れる鋼管で蔦に覆われている。江戸時代に造られた玉川上水がここに鉄道線路建設で切通しとなり、玉川上水の水を流すために鋼管と人道橋が造られた。
玉川上水公園
玉川上水の鋼管にある人道橋から東の井の頭通りまで玉川上水公園になっている。公園内には水路の様なな造りになっており、水門のモニュメントもあった。
庚申塔 (202番)
玉川上水公園の南に庚申塔が置かれている。駒型石塔に日月、邪鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。造立年は不詳だが、刻まれている造立者の中には江戸神田講中とあるので、江戸時代に作られたものと思われる。
和泉新田御焔硝蔵跡
庚申塔の道は直ぐに国道20号線に通じ、この国道20号線を少し西に進むと明治大学和泉キャンパス、そしてその西隣りは築地本願寺和田堀廟所がある。この場所は江戸時代の宝暦年間(1751~1764年)には江戸幕府の和泉新田御焔硝蔵が設けられた。南は玉川上水、甲州街道に面し、東と北は神田川流城の水田、西は永泉寺山に囲まれた台地で、御蔵の周囲に空堀と土手をめぐらせ、土手にからたちの木が植えてあった。正式には和泉新田御婚消蔵と呼ばれ、千駄ケ谷御焰硝蔵と共に幕府の二大火薬庫だった。警護のため幕府から三十俵三人扶持の同心三人が派遣され、年番制で同心の一人が焰硝蔵地内に居住し、常番さんと呼ばれ、常番さんの下で警備や雑用する人足は、御蔵御警衛人足と呼ばれ、付近の十六ヶ村から村高に応じて徴集され、昼夜六ツ時 (現在の六時) 交替で三人ずつ勤めていた。1868年 (慶応4年) 三月初旬、甲州街道を攻め下ってきた官軍に無血接収され、火薬庫の銃砲弾は、上野の彰義隊をはじめ、奥州諸藩の討伐に使用された。明治維新後、焰硝蔵は兵部省武庫 司の管轄となったが、間もなく 陸軍省和泉新田火薬庫となっている。
1924年 (大正13年) に、陸軍軍縮のため、 和泉新田火薬庫は廃止され、敷地は1930年 (昭和5年) に明治大学と築地本願寺へ折半して払い下げられ、明治大学和泉キャンパスと築地本願寺和田堀廟所が建設されている。
小名 羽根木
小名一本松の東側は小名 羽根木 だった。羽根木の由来は不明だが、羽根木は飛地の意味もあり、何らかの関係があるのかも知れない。 1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に、小名 羽根木は小字 羽根木となっている。
井の頭街道碑
玉川上水公園から井の頭通りに出ると、道路を渡った所に井の頭街道碑が置かれている。街道といってもこの道は1924年 (大正13年) に造成されたもの。東京の各家庭に給水する為、狭山丘陵多摩湖の村山貯水池から境浄水場を経て、ここのすぐ南にある和田堀給水所までに埋設された導水管の道である水道道路だった。1938年 (昭和13年) 頃に近衛文麿元首相が荻窪に移り住み、自宅から議会へ車で通えるように、水道道路のうち、井の頭公園と和田堀給水所付近を結ぶ区間を舗装して井の頭街道と命名したのが、現在では井の頭通りと呼ばれている。
和泉村訪問ログ
参考文献
- すぎなみの地域史 1 和田堀 平成29年度企画展 (2017 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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