杉並区 24 (09/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧和田村 (1) 小名 松ノ木
旧和田村 小名 松ノ木
- 松栄山大法寺 (日蓮宗)
- 馬頭観音観音
- 市川九女八墓碑
- 中野清茂 (碩翁) 墓
- 松亭金水墓
- 歴代住職の墓
- 稱光山長延寺華徳院 (天台宗)
- 墓地
- 円福寺別院、墓地跡 (日蓮宗)
- 法華墓
- 聖観音 (162番)、地蔵菩薩 (163番)、庚申塔 (164番)、馬頭観音 (165番、他2基)
- 松島家墓地
- 松ノ木公園
- 用水路跡
- 庚申堂 (160番、161番)
- 稲荷神社
- 山王坂
- 松ノ木遺跡
昨日、定期健診のため東京に到着、今回は少し長く約2週間の滞在を予定。滞在中は、前回の東京訪問での杉並区史跡巡りの続きを行う。初日の今日は前回途中で終わった旧和田村小名松ノ木から巡っていく。
和田村
言い伝えでは、和田村は鎌倉時代には侍所の別当の和田義盛の領地で、その居館があったことから和田村の名が生まれたという。杉並区史には、平安時代に編集された「倭名類聚抄」にある武蔵国多摩郡海田郷の海田がなまって和田になったと推測している。また、別の説では、和田村の「和」は「良い」の意味から、善福寺川の大宮八幡宮台地付近より下流の流域に良い (和) 水田があったので、和田の地名が生まれたとしている。
江戸時代には、本村原、谷中、峰、峰村、方南、萩久保、大宮、松ノ木の八つの小名があった。1889年 (明治22年) に堀之内村、和泉村、永福寺村と合併し、和田堀内村となり、和田堀内村は、後に和田堀町になっている。
和田村 小名 松ノ木
小名 松ノ木は、北は五日市街道、南は善福寺川と和田堀公園、東は堀ノ内、西は成田東一丁目に囲まれた南斜面の台地に位置している。この地に松の大木があったか、(松ノ木一丁目の稲荷祠に目通り二十尺の松の神木があったという)または、松の木が多く生えていたので、その名が生まれたとも言われている。
小名 松ノ木は1889年 (明治22年) の町村制施行で、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となった際に和田堀内村大字和田小字松ノ木となっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に松ノ木町となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法で松ノ木一丁目 ~ 三丁目に分割されて、一部は梅里二丁目に含まれている。
大正末年までは、野菜作りを主とした純農村だったが、昭和初期に陸軍士官学校の教官達が土地を借りて住宅を建てたのを皮切りに、軍人や官吏が次々と住宅を建てたので、「松ノ木の軍人村」と呼ばれていた。戦前 1927年 (昭和2年) ~ 1939年 (昭和14年) の地図を見るとそれまでは畑地域だった小字 松ノ木の北部に民家が増えているのが分かる。その後、戦後もこの地域を中心に住宅街が拡大し、1960年代には現在の和田堀公園以外の全地域に住宅地が広がっている。
小名 松ノ木の文化財
松栄山大法寺 (日蓮宗)
五日市街道沿いに松栄山大法寺がある。日蓮宗の寺院で、本尊は1649年 (慶安2年) に作られた「大願主当寺開山利生院日善」銘のある木造日蓮上人坐像になる。1631年 (寛永8年) に、開山は利生院日善、開基は旗本の浅香伝左衛門直良で、新宿区牛込榎町に創建された。
1663年 (寛文3年) と火災に遭い、1692年 (元禄5年) に土地の寄進を受け再興している。明治時代に入り、廃仏毀釈の影響を受け、1868年 (明治元年) に近隣にあった廃寺寸前だった日蓮宗正栄山仏性寺 (牛込七軒寺町) を合併し、さらに真言宗の本智院 (浅草鳥越町) も合併した。 1909年 (明治42年) に檀家の墓とともに、現在地へ移転している。江戸時代に建てられた旧本堂も移設したが、1979年 (昭和54年) に五日市街道の拡幅のため、境内地が削られ、翌年に耐火造りの建物に建て替えられ、一階は庫裡と客殿、二階が本堂になっている。本堂の正面中央に十界諸尊の曼陀羅、一塔二尊(題目塔、釈迦、多宝如来)と日蓮聖人像が祀ってある。
馬頭観音観音
墓地に入ってすぐに右側に石仏が並べられており、その中に江戸時代に造立されたと思われる舟型石塔に合掌六臂の馬頭観音座像が浮き彫りされている。
市川九女八墓碑
墓地には明治時代の女優の元祖といわれる市川團十郎 (9代目)の唯一の女弟子の市川九女八の墓碑がある。初代市川九女八 (1847 - 1913年) は8歳のとき、板東三津江について踊りを習い、13歳で名取り板東桂八となり狂言師として活躍、後に旅役者となった。
1873年に女形八代目岩井半四郎に入門し、岩井粂八の名で舞台に立つ一方、狂言作家藤基輔に嫁した。後にその團十郎ばりの芸風が話題となったため、1888年に改めて九代目團十郎の門弟となって、市川升之丞を経て市川粂八に改め、その芸風で「女団州」の異名を取った。1897年に九女八と改名している。歌舞伎をはじめ新派、新演劇、文士劇などに出演し、1906年に女優学校を設立、1908年には川上音二郎・貞奴とともに女優養成所を開設、講師として活躍した。
中野清茂 (碩翁) 墓
幕府の黒幕的存在だった中野清茂 (碩翁) の墓もある。養女のお美代を11代将軍家斎の側室にし、大奥を背景に大きな権力を握り、大変豪華で贅沢な暮らしは大名を勝るとも言われた。隠居して剃髪し碩翁となった後も、大御所徳川家斉の話し相手として、いつでも江戸城に登城する許しを与えられており、幕政に大きな影響力を持ち続けた。諸大名や幕臣、商人はこぞって向島の別荘を詣でて、中野清茂には莫大な賄賂が集まった。ドラマでは悪役で描かれる事が多い人物。
松亭金水墓
中野清茂の墓のすぐ側には江戸時代後期の読み本、人情本の作者の松亭金水 (1797 - 1863年) の墓も安置されている。
歴代住職の墓
墓地にはこの他に歴代住職の墓 (写真左下) があり、その中には開山利生院日善の墓碑 (写真右) も置かれていた。また、無縁塔 (写真左上) もある。昔からの檀家は寺が移転する前の牛込榎町あたりに多くいたが、その後、多くは東京を離れている。その中で絶家となったり、長期間音信不通の墓をこの無縁塔にまとめているそうだ。
稱光山長延寺華徳院 (天台宗)
五日市街道沿いにはもう一つ寺がある。華徳院で、9世紀に天台座主第三世慈覚大師円仁によって下野国佐野に理正院長延寺として開山。その後、霞ヶ関に移り、慶長年間 (1596年~1615年) に浅草蔵前天王町に移転し寛永寺末となっている。延享年間 (1744年~1747年) に華徳院に改称した。越後安田藩(村松藩)藩主の堀直時の戒名に由来するという。この時、本堂には、運慶蘇生の作といわれた丈六仏の本尊の閻魔王像、同じく運慶の作といわれた奪衣婆像、聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祀られ、「蔵前の閻魔堂」と呼ばれていた。かつては太宗寺や善養寺とともに江戸三閻魔として知られていた。
1923年 (大正12年) の関東大震災で焼失し、区画整理により1928年 (昭和3年) に現在地に閻魔堂の別当となり移転している。焼失した本尊に変わって、かつて牛込にあった行元寺 (現在は品川区に移転) の閻魔大王像を迎え、浅草の旧所在地には堂宇を建てて、輪王寺の閻魔大王像を祀ったが、1945年 (昭和20年) の空襲で浅草の堂宇は焼失したが、閻魔大王像は無事だったため、現在地の寺に保管している。
墓地
墓地には歴代住職の墓 (写真左) や無縁塔 (右) がある。
円福寺別院、墓地跡 (日蓮宗)
大法寺と華徳院の間には去年まで新宿神楽坂にある1596年 (文禄5年) に加藤清正を開基として創建された日蓮宗の円福寺の別院があった。ここには1901年 (明治43年) に墓地が開設された。近年、何年かかけて、神楽坂の本院に墓を移し、その跡地は売却され、現在では高齢者施設が建てられている。写真上は移転前の姿。
法華墓
華徳院から南に進み、江戸時代から明治時代にかけて松ノ木の中心地の近く、その西側に墓地跡がある。元々は幕末に絶家になった家のうちばか (家墓) だった。昔、松ノ木の旧家18軒の殆んどは、真言宗の中野宝仙寺と和泉の龍光寺の檀家だったが、ここにあった家一軒だけが法華衆 (日蓮宗) の妙法寺の檀家で、この墓地には1694年 (元禄7年) 銘の真妙鎖尼と彫られた基石など11基の個人墓石がまとめられている。法華衆 (日蓮宗) の墓石という事で法華墓と呼ばれている。法華墓の中に六基の石塔が置かれている。元々は少し南に置かれていたが、道路拡張の際に、この墓地に移設されている。
聖観音 (162番)、地蔵菩薩 (163番)、庚申塔 (164番)、馬頭観音 (165番、他2基)
法華墓に並べられている石仏は向かって右から
- 聖観音菩薩立像 (162番): 1691年 (元禄4年) に念仏講中18名によって造立の舟型石塔に蓮華を持った聖観音立像が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像 (163番): 1723年 (享保8年) に松ノ木講中14人により造立された舟型石塔の上部に梵字のカと刻まれ、月輪を背に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
- 庚申塔 (164番): 1708年 (宝永5年) 造立の駒型石塔で、上部に日月、その下に合掌六臂の青面金剛菩薩立像、その下に三猿が浮き彫りされている。
- 馬頭観音: 1925年 (大正14年) 造立の駒型石塔に馬頭観音と刻まれている。
- 馬頭観音 (165番): 1851年 (嘉永4年) に造立された舟型石塔で月輪を背に、合掌した三面馬頭観音座像が浮き彫りされている。台座には馬頭観世音菩薩と刻まれている。
- 馬頭観音: 1888年 (明治21年) 造立の角柱石塔で、上部には馬の顔、その下に馬頭観世音菩薩と刻まれている。
松島家墓地
法華墓のすぐ南側には松島家の墓地がある。松島家の先祖は信濃国伊那の小笠原氏の流れを汲む豪族で、1556年 (弘治2年) に武田信玄が上杉謙信と川中島で対峙している隙を付き、伊那一円の領主8人と共に武田信玄に蜂起したが滅ぼされ、子孫は和田村に移り、土着したといわれている。江戸時代にはしばしば名主を勤め、明治維新後は村長を勤めていた。道路沿いには御所桜という古木 (写真右上) があり、当時和田堀内村の村長だった松島長五郎が明治天皇御大葬に参列し、その参列記念として御下賜されたものだそうだ。
墓地内には幾つも墓碑、供養塔が置かれている。
その内の一つが資料で紹介されていた。1867年 (慶応3年) に造立された地蔵菩薩坐像があり、月輪を後背に念珠と宝珠を携え、真言百万遍 光明眞言一万遍 爲菩堤也、梵字の力、清見童子と刻まれている。
松ノ木公園
松島家墓地から道を西に進んだ所に松ノ木公園という小さな公園がある。昔の地名の松ノ木の名が残されている。
用水路跡
松ノ木公園の西側に小字 松ノ木を南北に縦断している用水路跡があり、暗渠化され遊歩道として整備されている。この用水路跡を辿ると、北は成田東の梅里中央公園の西から始まっている。
松ノ木公園の南で二本に分岐し、いずれも和田堀公園に通じていた。
昔はこの用水路は和田堀公園の南を流れる善福寺川に繋がっていたと思われる。善福寺川から給水していたのか、流れ込んでいたのかは分からず。
庚申堂 (160番、161番)
松ノ木公園から都道427号線を南に進むと四つ角に庚申堂がある。堂内には3基の庚申塔が置かれている。向かって右側から見ていくと、
- 庚申塔 (160番): 1685年 (貞享2年) に松ノ木村9名により造立された傘付き角柱正面に、日月が刻まれ、を合掌六臂の青面金剛立像、その下部には三猿が浮き彫りされている。
- 庚申塔: 中央の庚申塔は比較的新しく、1896年 (明治29年) 造立の角柱石塔に、日月、合掌六臂の青面金剛立像が線刻されている。
- 庚申塔 (161番): 1720年 (享保5年) に松木村15名により造立された駒型石塔の庚申塔上部に日月、その下に合掌六臂の青面金剛立像、下部には三猿が浮き彫りされている。この庚申塔は松ノ木村の別の場所にあったものを移設している。
小さな堂宇だが、天井には天女が描かれ、相撲の絵馬が掲げられている。地域で大切にされているのだろう。
稲荷神社
庚申堂のすぐ南側、道沿いに稲荷神社が祀られている。狭い境内には、石鳥居、石燈籠、稲荷の祠が置かれている。この稲荷神社の詳細は見つからなかったが、かつての個人屋敷に置かれていたものではないだろうか?
山王坂
庚申堂、稲荷神社の前の都道427号線は江戸時代から存在していた古道で北の青梅街道と井の頭通りを結んでいる。この道を南に和田堀公園に向けて進むと、道は下り坂になる。かつては坂上の台地に山王社の小祠があったので山王坂と呼ばれている。
松ノ木遺跡
都道427号線の山王坂の西側に松ノ木運動場入口があり、そこに松ノ木遺跡の案内板が置かれている。それによれば、松ノ木運動場とその北に隣接する松ノ木中学校辺りは戦前には松の木が多く生えていたので松山と呼ばれていた。太平洋戦争が激しくなってきた1943年 (昭和18年) に帝都防衛部隊がこの松山を伐りひらき、高射砲陣地を構築した際、大昔の壷や皿と破片が大量に出土した。地元の松ノ木町会は伐採した木を貰い炭焼きをしていた。
戦後、1949年 (昭和24年) から1979年 (昭和54年) まで五回の発掘調査が行われ、縄文時代中期から弥生時代、古墳時代迄の遺跡と分かり、特に縄文中期の住居址が60基余り確認されている。松ノ木遺跡と命名し、ここには100戸以上の大部落があったと推測している。
1955年 (昭和30年) に中古墳時代の標準的な土師式堀立住居と住居址を復元している。二度の不審火で焼失したが、現在では再復元されている。古墳時代に、この台地上に住んでいた人々が善福寺川の氾濫原に水田を拓き、耕作に従事し、その首長が、水田を一望に見渡せるようにと、対岸の大宮台地に方形周溝墓を造ったと考えられている。
今日は初日なので、あまり気張らず、ここで打ち止めにする。
参考文献
- すぎなみの地域史 1 和田堀 平成29年度企画展 (2017 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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