杉並区 25 (11/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧堀之内村 (2) 小名 清水 (小字 北原/三谷)、小名 中道、小名 小屋ノ台、小名 本村

旧堀之内村

小名 清水 (小字北原)

  • 片岡山智光院 (臨済宗)
  • 陽光山心月院 (曹洞宗)
  • 月高山慶安寺 (曹洞宗)
  • 地蔵菩薩坐像 (154番)
    • 前野良澤の墓
  • 日登山清徳寺 (日蓮宗)
  • 松苔山峯巌院西方寺 (浄土宗)
    • 山門
    • 鳥塚、聖観音立像、西方寺再建碑
    • 鐘楼
    • 地蔵山、雨降り地蔵、二十一夜供養塔 (155番)、マリア観音 (157番)
    • 外南洋機動舟艇部隊殉難烈士供養塔
    • 観音堂
    • 本堂
    • 客殿
    • 石造観音六面幢 (156番)
    • 墓地、無縁塔
    • 絹本著色阿弥陀三尊来迎図

小名 清水 (小字 三谷)

  • 用水路跡

小名 中道

  • 佐内坂
  • 谷中公園
  • 善福寺川

小名 小屋ノ台

  • 済美台遺跡
  • 共同墓地、馬頭観音、六地蔵

小名 本村 (小字 鳥居木)

  • 庚申塔 (168番、169番)、地蔵菩薩 (167番)、宝筐印塔 (170番)
  • 用水路跡

小名 本村 (小字 本村)

  • 熊野神社
    • 一の鳥居
    • 第六天稲荷社
    • 狛犬
    • 神楽殿
    • 社殿
    • 神輿庫
  • 向山遺跡
  • 地蔵堂、庚申堂
    • 地蔵菩薩 (177番)
    • 馬頭観音 (175番)、地蔵菩薩 (178番)
    • 庚申塔 (171番、172番)、観音菩薩 (174番)、地蔵菩薩 (173番、176番)

小名 本村 (小字 定塚久保)

  • 定塚橋公園
  • 定塚久保遺跡


昨日は家族で集まり昼食会をしたので、杉並区史跡巡りは休みとし、2日目の今日は三月に訪れた旧堀之内村の残りから巡っていく。


小名 清水 (小字北原)

3月1日に訪れた小字 清水の西側の小字 北原を見ていく。小字 清水の北側の地域で、明治時代まではほとんどが畑だった。1889年 (明治22年) の小名 清水は清水、北原、三谷の三つの小字に分割され、1932年 (昭和7年) に町名改定が行われ、旧小名 清水の三つの小字は旧小名 原と中道の地域と共に堀之内一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小名 清水に相当する地域は堀ノ内三丁目となり現在に至っている。

小字 北原の北側にも寺院が集まっている地域がある。ここには小字 北原に五つ、隣接して小名 松ノ木に二つ、計七つの寺院がある。全て、大正時代に東京から移転してきたもの。小字 清水の寺町の寺院は全て日蓮宗だったが、ここには臨済宗、曹洞宗、浄土宗、日蓮宗と多岐にわたっている。資料では東京の区画整理事業による移転となっているが、首都東京の近代化にとっては寺などは、外国要人に対して体裁が悪いとの意見もあり、半ば強性的に移転させられたという背景があったとも言われている。寺院が移って来る前までは一面畑で、民家は南側の道沿いに少ししか存在していなかったが、その後、戦後にかけて、この寺院群の周りには民家が増加している。


小名 清水 / 中道の史跡等


片岡山智光院 (臨済宗)

旧小名清水が分割された三つの小字のうちの一つの小字 北原の北の端に臨済宗妙心寺派の寺院で1630年 (寛永7年) に寛永寺の上野東の車坂下に旗本天野周防守雄光室の智光院 (北畠具教の娘) の開基として創建されている。この智光院が名称の由来になる。1698年 (元禄11年) に浅草新谷町に移転し、片岡大麟によって開創した。

江戸時代は「武家の江戸寺」の異名を持ち、武家各家の庇護を受けていたが、火災や安政の大地震による倒壊など不運が続き、1912年 (大正元年) に区画整理のため現在地に移転している。本堂は中野区福蔵院の本堂を移築したもので、1655年 (承応4年) につくられた木造釈迦如来坐像を本尊として安置している。

境内には智光院稲荷大明神 (写真左上) が祀られ、墓地には、三界萬霊塔 (右上)、歴代住職の墓 (左中)、無縁供養塔 (右中)、文化・文政期(1804年~1830年)にかけての江戸北町奉行の永田備後守正道の墓 (下) がある。


陽光山心月院 (曹洞宗)

智光院の道を挟んで心月院が建っている。本尊を金銅釈迦如来像とする曹洞宗の寺院で、1611年 (慶長16年) に江戸南八丁堀に寺地を拝領して創建され、その後、1635年 (寛永12年) に浅草新堀端の替地へ移転している。開山は出羽国庄内総穏寺の二世雲外嶺暾、開基は古溪宗心記室禅師、中興開基は九鬼大隅守隆寛とある。1634年 (寛永11年) に九鬼良隆が、摂津国三田の曹洞宗梅林寺を心月院と改めたことから、この江戸の心月院の院号も九鬼氏によって命名されたものと考えられている。

1691年 (元禄4年)、九鬼隆寛の祖父、丹波綾部藩主九鬼家の家筋の隆幸が葬られて以来、心月院は九鬼家の菩提寺となっている。1913年 (大正2年) に浅草区の区画整理によって、現在に地に移転する際に九鬼家は出自の和歌山県に転居し、同時に墓所も移転している。1945年 (昭和20年) 5月に戦災で全焼し、現在ではコンクリート造りで再建されている。

境内には延命地蔵菩薩 (写真上)、動物供養塔 (右中)、無縁仏 (左中)、歴代(住職)塔、開基塔 (左下) などが置かれている。


月高山慶安寺 (曹洞宗)

心月院の隣が慶安寺で、1966年 (昭和41年) に開眼した転法輪の木造釈迦如来坐像を本尊とする曹洞宗の寺院。1627年 (寛永4年) に江戸下谷池之端に、高山全得を開山、然通堯廓 (ねんつうぎょうかく) を開基として開創された。上野山の紅葉が不忍池に映る景色を望むことのできる場所に位置していたことから、紅葉寺とも称されていた。境内の秋葉社への参詣人も多かったことから、門前は秋葉横丁とも呼ばれた。寺には大名旗本が多く帰依し、特に江戸初期の老中阿部豊後守忠秋は信仰が厚く、開創時の本尊であった虚空蔵菩薩や邸内にあった秋葉社を寄進している。

池之端は湿気が多いため、伽藍の腐食も激しく、墓地にも適さなかったことから、1913年 (大正2年) に、現在地へ移転している。1945年 (昭和20年) の大規模な空襲によって伽藍は全焼し、1966年 (昭和41年) に近代的な伽藍に復興されている。


地蔵菩薩坐像 (154番)

境内には1742年 (寛保2年)造立の地蔵菩薩坐像 (154番 写真右中) 等の石仏が置かれ、奥には無縁仏 (右下) が集められ、その隣には犬の石像 (左下) があり、その下には愛犬の遺骨が納められている。

墓地への入り口には1749年 (寛延2年) 造立の丸彫りの地蔵菩薩立像 (下中) 等の石仏が置かれている。


前野良澤の墓

墓地には、三界萬霊塔、開山高山全得、開基然通堯廓の塔、歴代住職の歴代塔 (写真左上) が置かれ、墓地奥には杉田玄白達と共に、解体新書の翻訳にあたった江戸中期の蘭学者、前野良澤の墓 (左下、右)がある。


日登山清徳寺 (日蓮宗)

慶安寺の南隣が日蓮宗の清徳寺で、本尊の十界曼荼羅を祀っている。1629年 (寛永6年) に最上院日任によって麻布北日ヶ久保町 (現・東京都港区六本木) に開山された。開基は陽証院日乗。創建当初は、朱塗りの山門があったことから「赤門寺」と呼ばれていた。1756年 (宝暦6年)、1760年 (宝暦10年 )と度々火災に遭い、その度に再建していたが、1845年 (弘化2年) の火災の痛手は大きく、寺の復旧は遅々として進まなかった。

1913年 (大正2年) に現在地に移転し再建された。その後も1923年 (大正12年) の関東大震災や1945年 (昭和20年) の空襲で被害を蒙り、1965年 (昭和40年) 以降に復旧整備が行われた。

本堂前には1642年 (寛永19年) 造立の五輪塔が置かれ、開山最上院日任聖人と刻まれている。墓地には、五輪塔、題目塔、歴代住職慰霊塔が置かれている。


松苔山峯巌院西方寺 (浄土宗)

見てきた寺群の東には広い敷地を有する西方寺がある。本尊を木造阿弥陀如来坐像とする浄土宗の寺院で、1617年 (元和3年、1597年(慶長3年) の説あり) に四谷追分角筈 (新宿駅北側付近) の地に本蓮社心誉利通によって開山され、開基は徳川忠長といわれている。院号の「峯巌院」は忠長の戒名「峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士」に由来するという。寺紋の五三の桐は豊臣家との縁を示すものと伝えられている。1829年 (文政12年) と1898年 (明治31年) に火災に遭っている。1920年(大正9年)、中央線の拡幅と道路拡張のため現在地に移転している。


山門

山門から西方寺に入ると広大駐車場がある。参詣者が多いのだろう。山門から本堂への参道沿いに幾つかの石塔が置かれている。

鳥塚、聖観音立像、西方寺再建碑

その中に、鳥塚がある。日露戦争後、1905年 (明治38年) に、食肉問屋業者が中心となって鳥塚を造り、鳥の供養を行なっていた。関東大震災や第二次世界大戦出で一時期は行われていなかったが、1952年 (昭和27年) に再開し、現在では西方寺が受け継いで、鳥供養が毎年行われている。その他、参道沿いに聖観音立像や1898年 (明治31年) の火災後の再建記が漢文で彫られた自然板石の西方寺再建碑がある。


鐘楼

鳥塚の隣には鐘楼が造られている。鐘楼に吊るされている梵鐘は1720年 (享保5年) に鋳造されたもので、1945年 (昭和20年) 5月25日の空襲では鐘楼が焼け落ちたが、梵鐘は金属供出のため取り外されていた為に残っている。


地蔵山、雨降り地蔵、二十一夜供養塔 (155番)、マリア観音 (157番)

更に参道を進むと、観音堂の前に石塔や石仏を集めた地蔵山と呼ばれる場所がある。寺の出入りの職人が百体の石仏を安置しようと集めたものだそうだ。

写真左上から右下に

  • 雨降り地蔵: 1696年 (正徳2年) に造立された丸彫の有輪 (1957年 昭和32年) を背に手には錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像は寺が角筈にあった頃、雨が降らない時には、村人たちが念仏を唱えながら、この地蔵尊の周りを回って雨乞いをしていた。不思議に雨が降ったといわれ、雨乞い地蔵と呼ばれている。
  • 大悲金剛: 雨乞い地蔵の右には自然石の文字塔は1801年 (享和元年)に造立されたもので、上部に梵字のア、その下に「大悲金剛」と刻まれている。
  • 如意輪観音座像: 1679年 (延宝7年) 造立の舟型石塔に如意輪観音座像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩立像: 造立年不詳の丸彫り地蔵菩薩立像で宝珠と錫杖を携えている。
  • 二十一夜供養塔 (155番): 1815年 (文化12年) に造立された月待塔のひとつの二十一夜供養塔で上部の円形の窪みには如意輪観音座像が浮き彫りされ、その下に二十一夜供𫝥と刻まれている。
  • 観音菩薩立像 (157番): 土中出現の子育て観音で、1834年 (天保5年) に造られた二幼児が足元にまとわりついた観音菩薩立像だが、資料にはマリア観音とされていた。
  • 聖観音座像 (157番): 造立年不詳の舟型石塔に幼児を抱いた聖観音座像が浮き彫りされている。先の観音菩薩立像がマリア観音ではなく、こちらが土中出現のマリア観音という資料もある。頭には十字架があったのだが、削り取られている。
  • 馬頭観音: この隅丸角柱は1939年 (昭和14年) に再建されたと刻まれているが、元の造立年は不詳。江戸時代のものと考えられている。石柱上部には月日、その下に合掌六臂の馬頭観音立像が浮き彫りされている。

これ以外にも資料に紹介されていた仏像がある。全て造立年不詳の丸彫り立像になる。写真左上から右下にかけての仏像は、念珠を持つ地蔵菩薩立像、柄香炉を持つ地蔵菩薩立像、錫杖と宝珠を持つ地蔵菩薩立像、合掌の地蔵菩薩立像、地蔵菩薩立像、頭部は欠けている蓮華を持つ聖観音菩薩立像、地蔵菩薩立像、合掌の地蔵菩薩立像

写真左上から右下にかけて、合掌地蔵菩薩立像、合掌地蔵菩薩立像、宝珠を持った地蔵菩薩立像、不明立像、昭和36年に生後10ヶ月で亡くなった子供に供養に建てた合掌地蔵菩薩立像で、台座には「薄命の幼児牧子を供養し世の幼き子供等が毎日元気で生きてやがて世の中のため人のために盡す事が出来る様にと石の地蔵を刻して祈るものなり願主」と刻まれている合掌地蔵菩薩立像、蓮華を持つ聖観音菩薩立像、蓮華を持つ聖観音菩薩立像

資料で紹介されていない石仏も多くある。摩耗が激しい物も多いが、其々が異なった表情だ。


外南洋機動舟艇部隊殉難烈士供養塔

地蔵山の隣に九重の石塔が置かれている。これは外南洋機動舟艇部隊殉難烈士の供養塔で、側には石碑が立ち、次のようにソロモン諸島のコロンバンガラ島での部隊の戦闘と最期が刻まれている。

太平洋戦争も将に酣なる昭和十八年仲秋 我陸海軍集成の外南洋機動舟艇隊は米軍の重囲に孤立したコロンバンガラ島陸海軍部隊約一萬二千名の撤退作戦に任し、敵機の猛爆撃を冒し優勢な敵艦艇と激闘しつつ小舟艇群を以て廣域海面に長期の夜間機動を反復敢行し屢々壮烈な犠牲多数を生じたが挙軍決死毫も屈することなく数次に亘り敵の包囲網を穿貫突破して前例の無い至難な小舟艇に依る兵力強行輸送を完遂し幸いに玉砕寸前の友軍九十八パーセントを救出して克く作戦の目的を達成する事を得た 
之は昭和の佐倉宗五郎となり挺身難に殉じた百七十有余名将兵の敢闘に負う所が最も大であり其義烈の魂は海國日本の光として永く民族の血潮に傳わるであろう
ここに其遺勲を偲びささやかな供養塔を建立して英霊を弔うと共にこの行に御加護厚かった二月堂観音及金刀比羅大神を合祀し報謝の微衷を捧げるものである
 昭和三十二年四月二十日建之
外南洋機動舟艇部隊司令官
元陸軍中将 芳村正義


観音堂

地蔵山の奥に土蔵造りの観音堂が建ち、堂内には千手観世音菩薩が祀られている。


本堂

1945年(昭和20年)の空襲で堂宇全てが焼失したが、戦後に再建している。現在の伽藍は、1981年 (昭和56年) に再興されたもの。堂内には本尊の木造阿弥陀如来坐像を祀っている。


客殿

本堂のとなりには客殿が現代風に建てられている。


石造観音六面幢 (156番)

客殿の裏庭には1653年 (承応2年) に西方寺第八世住職により造られた石造観音六面幢が置かれている。境内にある石仏では最も古い。一般的には六角石幢には六地蔵が彫られているのだが、これは六観音が彫られていて極めて珍しい。六観音は、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道の六道に関連付けて、千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、准提観音、如意輪観音とされているが、この六面では准提観音の代わりに不空霜索観音が加えられている。聖観音像の下には「此一躰者 庚申為供養」、僧侶の指導の下に組織された庚申講の人々の名が刻まれており、六観音の一体が庚申供養の為とされる珍しい例になる。江戸時代初期の庚申信仰の主尊が、青面金剛に定まる以前の姿で、主尊に聖観音があてられている。


墓地、無縁塔

また、墓地の中央には、区政施行以来の区内無縁仏の供養塔が置かれている。


絹本著色阿弥陀三尊来迎図

西方寺は有形文化財の絹本著色阿弥陀三尊来迎図を所蔵している。鎌倉末から南北朝期、14世紀の作品と推定されている。阿弥陀如来が観音・勢至両菩薩を従えて往生者を迎えに来る典型的な阿弥陀三尊来迎図。作者は不明ながら画家の優れた技量をうかがわせる作品とされる。縦221cm、横127cmの大きなもので、現存する来迎図では最大級のものだそうだ。



小名 清水 (小字 三谷)

旧小名 清水の南側が小字 三谷で、1889年 (明治22年) に小名 清水が三つの小字に分割された際にできた地域になる。1932年 (昭和7年) に町名改定が行われ、旧小名 清水の三つの小字は旧小名 原と中道の地域と共に堀之内一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小名 清水に相当する地域は堀ノ内三丁目となり現在に至っている。


用水路跡

西方寺の南側に妙法寺近く辺りまで用水路跡が路地として残っており、部分的にかなり狭くなっている。



小名 中道

小字 三谷の南の小名 清水の小名 中道は、堀之内村の中程の地域だった事から、中道と名付けられたと推測されている。小名 中道 は1889年 (明治22年) に中通りと谷中の二つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年) に町名改定が行われ、旧小名 清水の三つの小字は旧小名 原と清水の地域と共に堀之内一丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小名 中道に相当する地域は堀ノ内二丁目の一部となり現在に至っている。


佐内坂

用水路跡が妙法寺の南で途切れ、そこから南に向かい小名 中道の小字中通りに入った所に左内坂と呼ばれた坂道がある。江戸時代にはこの辺りに医師の松本左内の屋敷があった事からこの様に呼ばれていた。


谷中公園

佐内坂の東側は小字 谷中になり、善福寺川の近くに谷中公園がある。谷中の名が残っている。


善福寺川

谷中公園の南には善福寺川が流れており、川を渡り、旧小名 小屋ノ台に入る。



小名 小屋ノ台

小名 小屋ノ台は、鎌倉幕府の有力御家人の畠山次郎重忠 (1164 長寛2年 ~ 1205年 元久2年) がここの台地に宿陣の小屋を作った という伝承から小屋ノ台の名が生まれたという。小名 小屋ノ台は1889年 (明治22年) に小字 向山となり、1932年 (昭和7年) に町名改定の際に、旧小名 本村の大部分と共に堀之内二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小名 中道に相当する地域は堀ノ内一丁目の一部となり現在に至っている。


小名 小屋ノ台 / 本村の史跡等


済美台遺跡 (済美山自然林、和田堀公園)

荒玉水道道路で善福寺川を渡ると登り坂になり、高台には和田堀公園が広がっている。この和田堀公園には済美山自然林がバードサンクチュアリとして保存され、クヌギ、コナラを中心とする雑木林の中には遊歩道が整備されている。

この地は、1189年 (文治5年) に源頼朝が奥州征伐の折、先陣畠山重忠がこの地に宿陣したという伝説から、和田村小名小屋の台と呼ばれていた。江戸時代から堀之内妙法寺の持ち山で、なら、くぬぎが植えられ、薪炭山として利用されたので、今もなら、くぬぎが大半を占めている。太平洋戦争中には、清美山の上部に、東京立正高等女学校の防空壕が掘られ、下部には、東部第十七部隊のトンネル貯蔵庫が六本掘られて、馬糧や地下足袋、ガソリンなどが貯蔵されていたという。

1972年(昭和47年) に、東京都が妙法寺から濟美山を公園用地に買収し、済美山自然林として整備されている。

済美山自然林の南は和田堀公園が伸びており、済美山運動公園も整備されている。ここには5月11日の日曜日に訪れたので運動公園では子供たちのラクビー教室が行われていた。杉並区には上井草に早稲田大学ラグビー蹴球部グランドがあり、東京都では最もラグビー熱が高い地域になる。

この辺りは善福寺川が大きく蛇行し、三方向を川に囲まれた舌状台地で、大宮一丁目、堀ノ内一丁目の北部に広がった地域では旧石器時代 (約35,000年~16,000年前)、弥生時代後期 (約1,800年~1,700年前)、古墳時代後期 (約1,400年~1,300年前)、中世、近世にわたって様々な時代の遺物が発掘され、弥生時代の環濠集落跡も発見されている。


共同墓地、馬頭観音、六地蔵

済美山運動公園のグランドに沿って南に行き、公園から出た所に共同墓地があった。墓地に入った所に幾つものの石仏が並べられている。一番手前には1758年 (宝暦8年) に大宮男女念佛講中により造立された舟型石塔に二臂合掌の馬頭観音立像が浮き彫りされ、「奉供養馬頭觀世音爲菩提也」 と刻まれている。石仏群の先の端にも馬頭観音石塔がある。こちらは角柱に「馬頭観世音」 と刻まれた文字型で、1850年 (嘉永3年) に造立されたもの。

馬頭観音の隣には六地蔵が並べられている。造立年号が分かるものは二つあり、1755年 (宝暦5年) とある。残りの四体が同時期に六地蔵の一部として作られたのかは不明だが、刻まれている文字のパターンが異なり、造立者の場所も異なっているので、後に各地から集められた地蔵菩薩像をここにまとめて六地蔵と紹介していると思える。



小名 本村 (小字 鳥居木)

小名 小屋ノ台の東側と南側が堀之内村の小名本村になる。小名 本村の南側は1889年 (明治22年) に小字 鳥居木となった。小字 鳥居木内、現在の堀ノ内一丁目八番付近に大宮八幡宮の一の鳥居と一本松があった事が地名の由来になる。小字 鳥居木の北には小字 本村で、そこには熊野神社がある。聖域である熊野神社領域の外側という事で、鳥居木 と呼ばれていたのではと思う。小字 鳥居木は1932年 (昭和7年) に町名改定の際に、旧小名 小屋ノ台と本村の大部分と共に堀之内二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小名 鳥居木に相当する地域は堀ノ内一丁目の一部となり現在に至っている。


庚申塔 (168番、169番)、地蔵菩薩 (167番)、宝筐印塔 (170番)

共同墓地から更に南に進み、都道14号線に出た所、コンビニと民家の間の狭い空間に四つの石塔が置かれている。これらの石仏は、明治の未頃まで大宮八幡宮の参道の鞍掛の松のすぐ東、参道北側の土手の墓地に、南を向いて横一列に並んでいたそうだ。手前から見ていくと

  • 地蔵菩薩 (167番): 1712年 (正徳2年) に造立された錫杖と宝珠を携えた丸彫り地蔵菩薩立像。
  • 庚申塔 (168番): 1707年 (宝永4年) に造立された傘付角柱石塔上部に日月が刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。石塔下部に「施主 与左衛門 道行十一人 施主 作兵衛道行十五人」、正面左側 に「奉納庚申供養」、右側「宝永四丁亥年十二月六日」とある
  • 庚申塔 (169番): 1760年 (宝暦10年) に和泉村と和田村大宮の講中により造立された駒型石塔上部に日月が刻まれ、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。石塔右面に「奉供養庚申尊像」、左面に「八講中/和泉村十一人/大宮四人」と刻まれている。
  • 宝筐印塔 (170番): 造立年は不明だが、宝筐印塔の制作手法から見て、南北朝時代(1334 ~92年)に建立されたと推測され、杉並区内では最古の塔婆と考えられている。宝筐印塔は中国から宝筐印陀羅尼 (経典) を納める塔として伝来し、平安時代以降に広まり、鎌倉時代以降は供養塔として造られた。


用水路跡

和田堀公園の西側、小屋ノ台から小字 本村、鳥居木、小字 定塚久保を通り、善福寺川に通じている用水路跡があり、遊歩道として暗渠化されている。



小名 本村 (小字 本村)

小名 小屋ノ台の東が小名 本村で、1889年 (明治22年) に三つの小字に分割され、この地は小字 本村となっている。 1932年 (昭和7年) の町名改定の際に、小字 本村は二分され、旧小名 清水、原、中道と共に堀之内一丁目、旧小名 小屋ノ台、小字 鳥居木、定塚久保と共に堀之内二丁目となっている。1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) に堀之内一丁目と堀之内二丁目に分割されていた旧小字 本村は旧小名 原、中道と共に堀ノ内二丁目を形成し、現在に至っている。


堀ノ内熊野神社

小字 本村内には旧堀之内村の鎮守で創建は1267年 (文永4年) に紀州熊野三山を勧請したと伝えられている熊野神社はある。新編武蔵風士記稿には熊野社と記載され、祭神は五十猛神 (いそたけるのかみ)、大屋津比売命(おおやつひめのみこと)、抓津比売命 (つまづひめのみこと) とあり、熊野三山の祭神 (家都美御子大神、熊野速玉大神、熊野夫須美大神) と異なるが、その理由は不明。江戸時代には村内の妙法寺が別当職を務め、明治維新まで続いた。明治以降は大宮八幡宮の神職が兼務している。


一の鳥居

道路から神社に入ると第11代徳川家の時代1808年 (文化5年)に造られた石造りの一の鳥居が置かれている。区内最古の鳥居といわれている。


第六天稲荷社

一の鳥居の手前に一回り小さな鳥居があり、その奥に境内末社がある。1909年 (明治42年)に堀之内村内の字 中通りにあった第六天稲荷社を合祀ししたもので、稲荷神社と第六天神社が同じ祠に合祀されている。1926年 (昭和元年) に祠が新築され、1954年 (昭和29年) に、稲荷社、第六天王社の合殿社を改新築された。


狛犬

一の鳥居をくぐり参道を進むと両脇に1924年 (大正13年) に新宿停車場前の薪炭問屋により寄進された子供と鞠を抱えた阿形、鞠を抱えた吽形の狛犬が鎮座している。


神楽殿

狛犬の左奥にある神楽殿は元々は桧造りの幣殿は1923年 (大正12年) に社殿の造営の際に、旧幣殿を神楽殿に改修したものだったが、その後、1971年 (昭和47年) に新築されている。


社殿

社殿は一段高い場所にあり、階段で登ると1839年 (天保10年)寄進の常夜燈と1799年 (寛政11年) 奉納の手水鉢があり、社殿の前に檻の中に狛犬が鎮座している。この狛犬は1801年 (享和元年)に寄進されたもので杉並区登録有形文化財となっている。

戦国時代、北条早雲の嫡男の後北条氏第2代北条氏綱が1524年 (大永4年) に江戸の関東管領上杉氏を攻略した際、和泉村の熊野神社とともに社殿を改修している。1857年 (安政4年) に現在の総欅造りの社殿が建てられ。1876年 (明治9年) に改修、1634年 (寛永11年) にさらに修繕を加えたと伝わる。社殿には精巧な彫刻が施され、拝殿正面には龍や獅子の彫刻が見られる。杉造りの幣殿は1924年 (大正13年) に造営された。1985年 (昭和60年) に不審火で本殿と幤殿の全て、拝殿の一部が焼失したが1992年 (平成4年) に本殿が再建されている。


神輿庫

社殿の右手奥にガラス張りの神輿庫があり、中には神輿が二基、大太鼓が一基保管されている。その内の一つは、1923年 (大正12年) の関東大震災の当日に浅草で購入したもので、猛火の中を無事に神社に運ばれたという事から「火伏の神輿」と呼ばれ、2013年(平成25年) に修復 (写真左上) されている。9月15日の大例祭では神輿の街中巡行 (写真下) が行われている。


向山遺跡

堀之内熊野神社の西側、善福寺川沿いの旧済美教育センターの敷地一帯で向山遺跡が見つかっている。済美教育センターの移転工事中で、工事フェンスが建てられてその地域は見ることができなかった。向山遺跡は古墳時代後期(約1,400年~1,300年前)と江戸時代の遺跡で、1987年 (昭和62年) に発掘調査が行われ、古墳時代後期の住居跡2軒が発見され、住居跡からは、甕、甑、坏、碗等の土師器類や紡錘車が出土し、江戸時代のゴミ捨場と思われる別の場所では瀬戸・美濃系の陶器類、キセル、簪、刀子釘等の金属器類、泥めんこ、泥人形、土笛等の土製玩具類や子供のままごと道具類 (写真右下) も発見されている。

旧済美教育センター敷地あたりは江戸時代には牛馬の死体を捨てた場所で「てんば」とか「捨場  すてば)」と呼ばれ、嫁入りの際にはこの近くは通らず、通れば袖をもがれるという言い伝えがあった。


地蔵堂、庚申堂

熊野神社のすぐ東に地蔵堂、庚申堂と書かれた堂宇が建っている。


地蔵菩薩 (177番)

道内右側には地蔵菩薩等が置かれている。右端には合掌の地蔵菩薩立像 (177番)、中央には無縁塔と刻まれた石塔、左には新しい合掌する地蔵菩薩が置かれている。


馬頭観音 (175番)、地蔵菩薩 (178番)

堂宇内左にも四体の石仏が並んでいる。右から見ていくと

  • 石仏?: 香炉が置かれているので石仏と思われるが、摩耗が激しく何なのかはわからない。
  • 地蔵菩薩立像 (178番): 舟形石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。は造立年などについては不明
  • 馬頭観音: 角柱に南無妙法蓮華経馬頭観世音と刻まれた文字型馬頭観音で1889年 (明治22年) に造られたもの。馬頭観音 (175番): 造立年は不明だが、合掌姿の三面八臂の馬頭観音座像が浮き彫りされている。


庚申塔 (171番、172番)、観音菩薩 (174番)、地蔵菩薩 (173番、176番)

堂宇内正面に五体の石仏が並んでいる。左から見ていくと

  • 地蔵菩薩立像 (176番): 宝珠を持った丸彫の地蔵菩薩立像は造立年などについては不明
  • 聖観音像 (174番): 舟型石塔の上部に梵字のキリークが刻まれ、中央に聖観音像立像が浮き彫りされ、右側に「念佛講中男女廿四人二世安楽所」左には元禄13年 (1700年) 10月と造立年が刻まれている。
  • 地蔵菩薩立像 (173番): 中央には1773年 (安永2年) に造立され、1860年 (万延元年)に再建された錫杖と宝珠を携えた丸彫地蔵菩薩立像が置かれている。「天下泰平 武刕多麻郡 奉納大乗妙典六十六部日本回國」と刻まれている。
  • 庚申塔 (172番): 1716年 (享保元年) 造立の駒型庚申塔には上部に梵字のウーンが刻まれ、その左右に日月、中央に合掌六臂の青面金剛立像、下部に三猿が浮き彫りされている。
  • 庚申塔 (171番): 1700年 (元禄13年) に造立され、1860年 (万延元年) に再建された笠付角柱型庚申塔で、上部に梵字のウーンが刻まれ、その左右に日月、中央に合掌六臂の青面金剛立像、下部に三猿が浮き彫りされている。側面には奉供養庚申講現當成就處と刻まれている。


小名 本村 (小字 定塚久保)

旧小名 本村 の東は1889年 (明治22年) に三つの小字に分割された際に、小字 定塚久保となっている。資料によっては定塚窪と記載されている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に堀之内二丁目に含まれ、1963 ~ 1965年 (昭和38 ~ 40年) には旧小字 定塚久保は分割されて、それぞれが堀ノ内一丁目と堀ノ内二丁目に属すことになった。


定塚橋公園

善福寺川の畔に水害対策として、環七地下調整池取水施設と共に設置された定塚橋公園がある。ここに「定塚」 の名が残っている。


定塚久保遺跡

善福寺川は定塚橋公園を東に流れて、大きく北に川向きが変わる。小字定塚久保の真ん中を縦断し、小字の北へと流れている。この北側側の畔でも、旧石器時代から縄文時代の跡が見つかり、定塚久保遺跡と命名されている。遺跡跡地には集合住宅が建っており、この建設の際に発掘調査が行われた。



小名 清水 (小字 北原/三谷)、小名 中道、小名 小屋ノ台、小名 本村の訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 1 和田堀 平成29年度企画展 (2017 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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