杉並区 19 (24/02/25) 旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村 (1) 小名 原/本村/谷うら/御殿前/金ヶ沢/柏葉
旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村
小名 原 (小字 西原、北原、東原)
小字 北原
- 大国庚申塔 (6番)
小字 西原
- 日王山阿遮院長仙寺
- 山門
- 庚申塔、地蔵菩薩立像
- 如意輪観音 (歯神様 24番)
- 本堂
小字 東原
- 大河原家邸宅、石塔 (4番)
- 稲荷社、馬頭観音 (1番、登録番号なし)、地蔵菩薩
- 中野御犬小屋
小名 本村 (小字 宮ノ下)
- 高円寺駅
- 高円寺阿波踊り
- 氷川神社
- 花手水、日露戦没者慰霊碑、猫の慰霊碑
- 社殿
- 神輿庫
- 気象神社
- 境内末社 (伏見稲荷神社、稲荷神社、御嶽神社/日枝神社)
- 力石 (差し石)
小名 谷うら、御殿前 (小字 中島)
- 宿鳳山高円寺
- 山門
- 参道
- 本堂
- 御殿跡
- 開運子育地蔵堂、六地蔵菩薩 (25番)、桃園子育て地蔵菩薩、三猿、布袋立像
- 稲荷社
- 西門
- 唐渓山西光寺
小名 金ヶ沢 (小字 谷中)
- 庚申堂、地蔵菩薩 (2番)、千手観音菩薩 (3番)、庚申塔 (26番)
小名 柏葉 (小字 下屋敷)
- 御鳥見役宅
今日から、江戸時代から明治時代にかけての旧高円寺村の史跡を巡る。旧高円寺村には多くの寺があり、数日はかかる。今日は高円寺村の北側を散策する。
旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村
高円寺村は江戸時代の初期には、武州多東郡中野郷小沢村と呼ばれていた。葦や萩の生い茂った小さな沢であった桃園川の流域を開墾してできた村だったので、小沢村の名が生まれたといわれている。ます。真盛寺境内にある弁天池から流れ出た小川の流域が小沢村の起源だという説もある。寛永年間 (1624 ~ 43年) に、三代将軍家光が鷹狩りの途中、小沢村内の高円寺にたびたび休憩し、境内に仮御殿が作られ、寺の名が有名になり、高円寺村と記される様になったと思われる。高円寺村の桃園川北岸を原 (郷)、南岸は通り (郷) と呼ばれていた。原には本村、原、御殿前、谷うら、金ケ沢、柏葉の小名が、通りには小沢、南小沢、向山谷の小名があった。
1889年 (明治22年) に町村制が地行されて、高円寺、馬橋、阿佐ヶ谷、天沼、田端、成宗の六ケ村は合併して杉並村が誕生し、高円寺村は杉並村大字高円寺になっている。この際に、旧村の小名は廃止され、大字高円寺には、東小沢、中小沢、西小沢、東山谷、中山谷、西山谷、下屋敷、谷中、中島、宮ノ下、八反目、東原、中原、西原の14の小字に変更されている。
今日は桃園川の北側の原 (郷) を訪れる。江戸時代にどれほどの戸数や人口があったのかは分からないのだが、小名 原で10戸程なので、原郷全体でも30戸h度だったのではと思える。下の地図は民家の分布を表しているが、1896 ~ 1909 年 (明治29 ~ 42年) を見ると既に現在の中央線が走っており、既に線路沿いには多くの民家が建っている。江戸時代から鉄道ができたことで大きく発展している。大正12年の関東大震災後に東京中心部から移住者が激増したことで、宅地化が進み中央線の北側はほぼ全土に民家が広がっている。戦後もこの傾向は続き、1950年代には寺社や公園を除いて、ほぼ全土が商業地、住宅街となっている。
今日訪問する史跡等
小名 原 (小字 西原、北原、東原)
高円寺村の桃園川北岸を原、南岸は通りの二つの郷と呼ばれていた。小名の境界線となっていた桃園川は現在では暗渠化され桃園川緑道となっている。桃園川緑道は江戸時代には曲がりくねっていた桃園川を直線に改修した後の川筋のもので、江戸時代の境界線とは異なる。桃園川緑道には幾つもの橋跡があり、江戸時代から明治時代の小名や小字の名が付けられて、昔の名残がわずかにうかがえる。
小名 原は本村より後に開墾された地域で、この小名 原には本村、原、御殿前、谷うら、金ケ沢、柏葉の7つの小名があった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際には旧小名 原は杉並村大字高円寺小字西原、小字北原、小字東原に分割されている。
小字 北原
中野区大和町を南に突っ切ると早稲田通り (都道25号線、飯田橋石神井新座線) に出る。この道路を境に北は中野区、南は杉並区となっている。1889年 (明治22年) に誕生した小字 北原は、1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 北原は小字 東原と共に、高円寺六丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、旧小字 北原は高円寺北二丁目となっている。
大国庚申塔 (6番)
中野区の大和町郵便局前交差点から、高円寺駅への高円寺庚申通り商店街を進むとその中程に大黒庚申堂がある。商店街の名はこの庚申堂に因んでいる。堂宇内には真ん中に1716年 (正徳6年) に高円寺村原講中10人により造立された傘付き角柱の庚申塔が祀ってある。原講中10人とあり、江戸時代には小名 原にあった家の殆どが講中に参加していた筈なので、江戸時代の小名 原は人口の少ない地域だったと思われる。石塔上部には梵字ウーンが刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛立像、足元には不見、不聞、不言の三猿が浮き彫りされている。康申通り商店街では、災難除け、商売繁盛を願い守り本尊として拝まれている。この庚申塔は元々は南に向って鎮座していたが、1923年 (大正12年) の関東大震災で横転し、その後西向きに建立された。1945年 (昭和20年) の東京大空襲で塔の一部が破損し、1962年 (昭和37年) に修復されたが、笠付角柱型の笠も胴もかなり破損と摩滅が酷い状態になっている。堂宇内には、庚申塔以外に何体も地蔵菩薩像もある。不聞猿と不言猿の像もあるのだが、二体だけで不見猿が無いと思っていたのだが、よく見ると不言猿が不見猿を抱いていた。
小字 西原
江戸時代の小名 原が1889年 (明治22年) の町村制で三つの字に分割された時に、西側は小字 西原になっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 西原は高円寺七丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺七丁目は高円寺北三丁目と高円寺南三丁目の一部となっている。
日王山阿遮院長仙寺
高円寺駅の東南には新義真言宗豊山派の日王山阿遮院長仙寺がある。1704年 (宝永元年)、中野にある明王山宝仙寺の真秀和尚により宝仙寺の末寺として開創されたという。寺の住職墓地に、1651年没の宥観和尚 (初代住職) の墓石があることから、1651年以前には寺が存在していたと思われる。
山門
長仙寺の正面の室町様式鉄筋コンクリート造りの山門は1981年 (昭和56年) に建立され、朱と若竹色に彩られた仁王門が目を引く。山門の両側に鎮座している邪悪なものから寺院を守る仁王像は1998年 (平成10年) に京都美術学院で作られたもの。
山門を入ると境内は綺麗に整備された庭になっている。
この庭は春は桜、秋は紅葉が綺麗なのだが、今は梅の季節なのだが、もうその季節は過ぎているようで、梅の木には少しだけ梅の花が残っていた。
庚申塔、地蔵菩薩立像
山門を入った場所には中野区大和町から移設された二体の石仏が置かれている。右は造立年不詳の舟形石塔の庚申塔で六臂の青面金剛像と三猿が浮き彫りにされている。左は1691年 (元禄4年) 造立の舟形石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
如意輪観音 (歯神様 24番)
境内の庭の中に1724年 (享保9年) に高円寺村観音講中100人により造立された如意輪観音の石仏 (24番) が置かれている。右手を頬に当てている姿は歯痛をこらえているように見え、昔は歯痛を代わって受けてれる歯神様として拝まれていた。
本堂
長仙寺は1796年 (寛政8年) に火災に遭い、寺宝、古記録一切を焼失し、その後、1850年 (嘉永3年) に再建されている。昭和に入り、高円寺地域の発展とともに寺勢再興し、1935年 (昭和10年) に本堂を新築したが、 1945年 (昭和20年) の空襲で全焼したが、1969年 (昭和44年) に平安時代の寝殿造りを模した本堂が鉄筋コンクリート造りで再建されている。本堂には室町時代の作といわれる本尊の不動明王像 (写真右下) が祀られている。空襲の際に、本堂は焼失したが、この本尊だけは持ち出されて無事だった。
書院と庫裏も1945年 (昭和20年) の空襲により焼失してしまったが、その後再建されている。
小字 東原
江戸時代の小名 原の東側が1889年 (明治22年) の町村制で小字 東原となっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 東原は小字 北原と共に高円寺六丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、旧小字 東原は高円寺北一丁目となっている。
大河原家邸宅、石塔 (4番)
旧小字 東原の南、中央線沿いに大正天皇妃の貞明皇后 (昭和天皇の母) が子供時代に里子として五年間過ごした大河原家がある。貞明皇后は1884年 (明治17年) に、赤坂の公爵九条道孝邸で四女飾子姫として誕生、お七夜に大河原家に預けられた。1888年 (明治21年) に幼稚園へ入園のため、九条家へ戻っている。飾子姫が17歳の時に、東宮 (大正天皇) 妃に内定し、その数日後、この大河原家を訪問して娘時代最後の杉並の休日を過ごしたという。邸内には1780年 (安政9年) に造立され、原 念仏講中と刻まれ石塔 (4番) が残っている。(邸内には入れないので、資料にあった写真を載せておく。)
稲荷社、馬頭観音 (1番、登録番号なし)、地蔵菩薩
大河原家の南側、線路沿いに稲荷神社がある。この稲荷社は大河原家の屋敷神だった。稲荷の左に大河原家と大きく彫られた台石があり、その上に2基の馬頭観音がある。左には1872年 (明治5年) に造立された角柱型の馬頭観音、右は造立年は不明だが江戸時代に造立されたさ駒型石柱に合掌八臂の馬頭観音座像 (1番) が浮き彫りされている。その奥には舟型石柱に地蔵菩薩立像が浮き彫りされているが、かなり摩滅の激しい。1722年(享保7年) に造立と考えられている。
中野御犬小屋
江戸時代、五代将軍綱吉の治世、1695年 (元禄8年) に生類憐れみの令が発布され、現在の中野駅付近一帯に中野御大小屋が設けられていた。1698年 (元禄11年) には御大小屋増設が行われ、小字 東原の大部分に四之御囲、小字 下屋敷 (小名 柏葉) の北半分に五之御囲も含め、6万坪の用地を接収して住民を強制立ち退きさせている。敷地には犬部屋、日除け地 (運動場)、役人役宅などの建物が設けられていた。御犬小屋を拡張しても、犬が増えて収容しきれず、犬小屋付近の農民に預ける始末だった。高円寺、中野の農民は、犬を預かり養育金が支給されていた。犬の餌の為、毎日莫大な食料が消費され、御犬小屋の経費は年間70億円以上にのぼり、幕府財財政は大きな赤字となり、物価の高騰を招いていた。1709年 (宝永6年) に綱吉が死去し、14年間続いた生類憐れみの令は停止され、御犬小屋は廃止、敷地は元の農民に返還された。高円寺北一丁目の道路がみな南北に真っすぐに通じているのは、御犬小屋の名残りだそうだ。中野区役所前には犬の銅像が置かれている。
この生類憐れみの令は犬を溺愛した将軍綱吉が江戸中の野良犬を養うよう強要した悪法という従来の評価が一般的だったが、近年では野良犬に関わるトラブルを回避の為もあったと解釈されるようになっている。
小名 本村 (小字 宮ノ下)
小名 本村は旧高円寺村の中心の地域だった。現在でも高円寺駅があり、駅周辺は繁華街で大いに賑わっている。1889年 (明治22年) の町村制で小字 宮ノ下となっている。この小字内には氷川神社があったので宮ノ下と名付けられた。 1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 宮ノ下は小字 中島と共に高円寺五丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、旧小字 宮ノ下は高円寺南四丁目の一部となっている。
1945年 (昭和20年) には空襲により駅周辺は焼け野原となった。その後、焼失した駅を応急復旧し運営していたが、1952年 (昭和27年) に駅舎を全面改築している。
駅周辺のトランスボックスに高円寺阿波おどりをテーマにしたアートデザインが施されている。
2015年に杉並区と東京電力パワーグリッドが連携して、トランスボックスアートプロジェクトを企画し、「東京高円寺阿波おどり」と「高円寺の文化」をテーマにアートデザインを募集、応募総数は146作品にのぼり、30作品が選ばれ、トランス ボックスにラッピングされている。
高円寺阿波踊り
高円寺では毎年8月下旬に阿波踊り大会が開催されている。本場徳島の阿波おどりに次ぐ規模で、東京周辺では最大規模の阿波踊り大会となっている。1957年 (昭和32年) に、隣町の阿佐ヶ谷の阿佐谷七夕祭りに触発され、それに対抗して高円寺の商店街が町おこしとして、高円寺の氷川神社の例大祭に併せて「高円寺ばか踊り」として始まり、やがて「阿波おどり」として発展した。現在は、地元商店街、町会が中心の東京高円寺阿波おどり振興協会が主催している。
氷川神社
高円寺駅南口から歩いてすぐの所に氷川神社がある。旧高円寺村原郷の鎮守で、素戔嗚尊を祀っている。社伝によれば、1189年 (文治5年) に源頼朝が奥州征伐際にこの地に立ち寄り、安達藤九郎盛長に命じて社殿を建立させたとも、随伴していた村田兵部某がこの地に帰農し、大宮高鼻の氷川神社よりより勧請して社殿を建てたともいわれる。別の説では、天文年間 (1531年~1544年) に宿鳳山高円寺が創建された際、氷川神社も創建され高円寺が別当寺となったとある。高円寺村小名原郷の鎮守となっている。
花手水、日露戦没者慰霊碑、猫の慰霊碑
境内に入ると右手に手水舎があり近くに花屋が定期的に綺麗に花を浮かべた花手水となっている。右手には日露戦没者慰霊碑、その奥に20年もの間この神社に住み着いていた猫の慰霊碑がある。
社殿
1916年 (大正5年) に改築した社殿は、 1945年 (昭和20年) の第二次世界大戦による戦災で焼失。現在の社殿は1971年 (昭和46年) に鉄筋コンクリート造りで再建されたもの。
神輿庫
境内奥には1971年 (昭和46年) に落成した社務所があり、一階にはガラス張りの本社神輿庫があり氷川神社の本社神輿が保管されている。2階には大きなてるてる坊主が吊るされている。この氷川神社に移設された気象神社が有名になっている。
社務所向いには旧高円寺村の各地区の町会御輿庫もあり、幾つもの神輿が展示保管されている。
気象神社
本殿の左側には気象神社が鎮座している。戦時中1944年 (昭和19年)に現在の馬橋公園にあった陸軍気象部が気象観測の正確を願い、構内に「晴・曇・雨・雪・雷・風・霜・霧」の8つの気象条件を司る神とされる八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと) を祀り気象神社を造営した。予報係は必ず、この神社に参拝してから勤務についたという。1945年 (昭和20年) の空襲で焼失し、再建立したが終戦となった。戦後、戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令の一環で、同宗教調査局が調査を行ったが調査漏れとなり残った。(敷地内から運び出されたともいう)陸軍気象部敷地が白梅学園へ払い下げられ、1948年 (昭和23年) に、当初は馬橋稲荷神社に引き取られる予定だったが、宮司の話し合いにより高円寺の氷川神社に移された。気象神社参道にはてるてる坊主みくじと下駄の絵馬が吊され、晴天祈願や心願成就祈願がされている。
境内末社 (伏見稲荷神社、稲荷神社、御嶽神社/日枝神社)
気象神社の奥には三つの稲荷社が置かれている。向かって左から、伏見稲荷神社、稲荷神社、御嶽神社/日枝神社だそうだ。戦前には三峯神社 (伊弉冊命)、御嶽神社 (大麻等能豆神 おおまとのづのかみ) の二社だったが、戦後は気象神社が御嶽神社/日枝神社の祠に合祀され、伏見稲荷神社、1962年 (昭和37年) に高円寺北一丁目から合祀された稲荷神社の3つの祠に五社が祀られていた。現在は気象神社が、独立した祠に移されている。
力石 (差し石)
境内末社奥に7個の力石が置かれ、其々に寄進者、年月、重さが刻まれている。いずれも大正時代後期に寄進されており、「さしいし (差し石)」 と刻まれているものもあり、高円寺村では力石を差し石と呼んでいた。これらの差し石の中には最も重いのが60貫 (225kg) にもなる。大正時代迄は境内で若者により、力競べが行われていたのだろう。
小名 谷うら、御殿前 (小字 中島)
江戸時代、小名 本村の東は谷うらと御殿前の小名があった。小名御殿前は高円寺に将軍家の仮御殿が置かれていた事から生まれた地名。小名谷うらは、高円寺北二丁目にあったデバという泉から流れ出た小川が、小さな谷を作り、その下流地域 (方言でウラ) だったので谷うらと呼ばれたという。1889年 (明治22年) の町村制で谷うらと御殿前の二つの小名は共に小字 中島となっている。高円寺村のほぼ中央にある湿地だったので、「中のしまじ」と呼ばれ、つまって中島となったという。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 中島は小字 宮ノ下と共に高円寺五丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺五丁目は高円寺南四丁目となっている。
宿鳳山高円寺
氷川神社の東に村の名になった曹洞宗の宿鳳山高円寺がある。1555年 (弘治元年) に中野成願寺三世建室宗正により開山されたという。この創建のいきさつについての伝説がある。
昔、この地を通りかかった一人の旅人が、父娘の住む農家に一夜の宿を求めた。娘は「飢饉で食べ物がないから」と断ったが、たっての頼みに断りきれず、旅人を泊めることにした。娘が旅人のために食べ物をさがしに外出したあと、父親は旅人が大金を持っていることを知り、旅人を殺して金を奪い盗った。帰宅した娘はこのことを知り、たいへん悲しみ、黒髪を切って尼となり、小さな庵を建てて旅人の菩提を弔いました。1555年 (弘治元年) に、この地へ布教に訪れた建室和尚が、この話を聞いてたいへん感動し、娘と旅人の霊を供養するため、荒れ果てた庵を改修して、曹洞宗高円寺を創立した。
山門
高円寺入り口から山門へ参道が伸びている。入口の隣には高円寺南四丁目交番があり、公園寺の塀と一体化している。山門には三代将軍家光縁の寺という事で、徳川家の三つ葉葵の紋が刻まれている。
参道
山門を入ると銀杏並木道となっている山道が本堂に向けて伸びている。秋は参道銀杏並木の紅葉 (写真右下) が見所だそうだ。
本堂
本堂は寛保年間 (1742年頃) と1847年 (弘化4年)、(明治33年) に火災に遭い、寺運は衰えたという。1927年 (昭和2年) に再建された本堂は、またも、1945 年 (昭和20年) の空襲で焼失し、1954年 (昭和29年) に再建された。比較的新しい本堂だが、施された彫刻は素晴らしく、屋根瓦には三つ葉葵の紋もあしらわれ、昔からの建物の様に見える。
その後、1977年 (昭和52年) に庫裡が増築され、庭も作られて現在の様な姿になっている。
御殿跡
江戸時代、三代将軍家光は鷹狩りの度にこの高円寺を訪れている。本堂の本堂の西隣りの稲荷社の背後に仮御殿が置かれ、御茶屋もあり、家光はこの御殿で休息をとったという。その折に小沢村という地名だったのを寺の名を取って高円寺村とせよとしたと伝えられる。御殿があった事から、高円寺は山号を御殿山とも呼ばれ、境内に桃の木が多くあったので、将軍より挑園と呼ぶよう命ぜられた。それより本尊の聖観音は、桃園観音と呼ばれ、高円寺を挑園観音堂、略して桃堂 (とうどう) と呼んでいた。現在でも、近隣の古老は、高円寺の町と寺を区別して、寺を桃堂 (とうどう) と呼んでいるそうだ。御殿跡は見学できず、垣根の外側から写真を撮った。丘にある御殿跡への石階段が見えている。写真右は資料に掲載されていた御殿跡。
開運子育地蔵堂、六地蔵菩薩 (25番)、桃園子育て地蔵菩薩、三猿、布袋立像
本堂手前の左手に地蔵堂がある。堂宇内正面には1951年 (昭和26年) 造立で、光背に錫杖と宝珠を持ち、足元に二童子を伴った丸彫り地蔵菩薩立像が鎮座している。桃園子育地蔵尊と書かれている。桃園子育地蔵尊の右には三猿の石像がある。庚申塔だろうか? 左端に石塔があるが、戦災で損傷が激しく何の石塔なのか分からない。資料によると、笠付六面地蔵尊で、1664年 (寛文4年) に造立されたもので、1926年 (大正15年) この堂宇に移されている。右端には造立年不詳の布袋像もある。
稲荷社
境内に立派な石造りの鳥居が建っている。ここには稲荷社が祀られている。石鳥居は、1933年 (昭和8年) に馬橋の関口氏が品川神社の石鳥居を模して作らせた双龍鳥居で、自宅内にあった屋敷稲荷社に置いていたが、戦後、同家が没落し、屋敷地の売却の際、高円寺の檀家総代等が貰い受け、境内の稲荷社の社前に奉納したも。柱に昇り龍と下り龍の見事な彫刻があり品川神社、馬橋稲荷神社の石鳥居と共に、東京三鳥居の一つに数えられている。
西門
稲荷社から高円寺墓地への通用門の西門がある。
唐渓山西光寺
高円寺の西側には本尊は阿弥陀如来立像とする浄土真宗の唐渓山西光寺があ。元々は浄土真宗の説教所として開創され、1952年 (昭和27年) から独立した寺となっている。
小名 金ヶ沢 (小字 谷中)
江戸時代には小名 御殿前の西は小名 金ヶ沢だった。小名 金ヶ沢の地名由来は不明だが、鉄分で赤みを帯びた沢、金気のある沢だったので、金ケ沢と呼んだとの説がある。1889年 (明治22年) の町村制で小名 金ヶ沢は小字 谷中となっている。谷の中程の地域だった事から谷中と呼ばれていた。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 谷中は小字 下屋敷と共に高円寺四丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺四丁目は高円寺南五丁目となっている。
庚申堂、地蔵菩薩 (2番)、千手観音菩薩 (3番)、庚申塔 (26番)
環状7号線の東側に堂宇がある。Google Mapには地蔵堂となっているが、ここには庚申塔があったので、庚申堂と言った方が正しいだろう。この堂宇の中には4基の石仏が安置されている。
向かって右側から見ていくと
- 庚申塔 (26番): 元々この地にあった庚申塔で笠付角柱の上部には梵字ウーンが刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛立像、更にその下に三猿が浮き彫りされている。側面には造立年号ので、1701年 (元禄14年)11月と刻まれている。
- 地蔵菩薩立像 (2番): 1741年 (寛保元年) 10月に念仏講中40人によって造立された笠付角柱に錫杖、宝珠を持った月輪の地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。元々は小名 原 小字 東原の地蔵前 (高円寺北一丁目三番) にあり野方みち (現 環状7号線) に面していたものを移設している。千手観音菩薩 (3番) と一対で子育観音と呼ばれていた。
- 千手観音菩薩 (3番): 1760年 (宝暦10年) 10月に高円寺村講中男女25人により造立された笠付角柱で千手観音菩薩立像が浮き彫りされている。左側面には「武列多麻郡野方領高圓寺村 願主 榎本忠右衛門」とある。これも元々は小名 原 小字 東原の地蔵前 (高円寺北一丁目三番) にあり野方みち (現 環状7号線) に面していたものを移設している。地蔵菩薩立像 (2番)と一対で子育観音と呼ばれていた。
- 地蔵菩薩像: 左端に小さな舟形石塔に合掌の地蔵菩薩像がある。1676年 (延宝4年) 12月造立とある。地蔵菩薩像横には「妙善童女 三月十六日」とあり、亡くなった童女の供養塔だ。これもどこかの墓から移設されたものだろう。
小名 柏葉 (小字 下屋敷)
原郷の東端が小名 柏葉があった。その地名の由来については伝承はないのだが、柏の木がたくさん生えていた山だったので、柏葉の地名が生まれたか、中国では松を柏と書くので、松の木が生えていたので柏(松)葉の地名が生まれたとも考えられる。江戸時代の徳川綱吉時代には中野御犬小屋の五之御囲が小名 柏葉の北半分を占めていた。
1889年 (明治22年) の町村制で小名 柏葉は小字 下屋敷となっている。御鳥見役所の役人の下屋敷があった事が小字名の由来になる。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 下屋敷は小字 谷中と共に高円寺四丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺四丁目は高円寺南五丁目となっている。
御鳥見役宅
1643年 (寛永20年) に、三代将軍家光が中野、杉並、練馬、武蔵野方面の94ヶ村を御農場に指定し、これを管理するため、現在の高円寺東公園の場所に御鳥見役宅を設け、御家人や足軽たちが常駐していた。将軍、御三家(尾張、紀伊、水戸) 御三卿(田安、清水、一橋)が鷹狩りの際には、御鳥見役から、各村々に道普請、橋の整備、荷物運搬、勢子、人夫などの賦役が課せられた。御農場禁制や、御鷹場法度で、野鳥の追い払いや捕獲、木の伐採、無許可での花火や寺院の鐘をつく、川ざらい、八月より三月まで魚漁、冬期間の田への給水や耕作、犬の放し飼い、家を新築、新規商売の開業、家の改築してはいなどが禁止され、村民の日常生活や農作業を制限し、農民の生活より野鳥の保護を重視し、これを監視 するため、鳥見役人が村々を巡回していた。鳥見役人は、旗本直参の看板と御鷹場禁制を盾に、威張り散らし、百姓から賄賂を取ったりしたので、百姓は勿論、代官所からも、恐れ嫌われていた。1867年 (慶応3年)に、御鷹場は廃止され、高円寺御鳥見役宅も閉鎖されている。
訪問ログ
参考文献
- すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
0コメント