杉並区 18 (22/02/25) 旧杉並町 (杉並村) 旧馬橋村

旧杉並町 (杉並村) 旧馬橋村

小字 原 (小名 後見ケ谷戸、後原、本屋舗)

  • 陸軍通信学校跡 (馬橋公園)
  • なみのゆ煙突
  • 馬橋通り、馬橋南自治会神輿庫、馬橋中央道路開通記念碑
  • 馬橋駅予定地跡
  • 福昌寺跡墓地、馬頭観音 (41番)
  • 馬橋田圃

小名 西ノ久保 (小字 打手 [内手])

  • 桃園川跡
    • 煉瓦橋
    • こり場跡、西原橋
    • 宮下橋、馬橋、内手橋
    • 東橋、八反目上橋、八反目橋
    • 宝橋、宝下橋、氷川小橋
    • 氷川橋、西山谷上橋、西山谷橋
    • 西山谷小橋、中島橋、中山谷橋
    • 中山谷下橋、谷中橋、谷中下橋
    • 稲荷橋、東山谷橋
  • 馬橋稲荷神社
    • 一の鳥居、社号碑
    • 二の鳥居 (龍の鳥居)
    • 三の鳥居
    • 手水舎
    • 随神門
    • 東門、手水舎
    • 社殿
    • 参集殿(社務所)
    • 忠魂碑
    • 神輿殿
    • 町内神輿展示庫
    • 神楽殿(舞殿)
    • 齋霊殿合祀碑、力石
    • 厳島神社
    • 稲荷社
  • 馬橋霊園、地蔵菩薩立像、馬頭観音 (二基)
  • 馬橋庚申堂 (22番、23番)、庚申奉祭之遺跡

小名 蕎麦窪 (小字 西原)

  • 天保新堀用水路 (緑地)

小名 中道 (小字 本村)、小名 鷹鶴 (小字 田向)

  • 大谷家屋敷、馬橋弁天池跡

小名 大塚根 (小字 往還南)

  • 清見寺
    • 北向清顔地蔵 (158番)
    • 馬頭観音、地蔵菩薩 (159番)
    • 本堂
  • 梅里中央公園、東京光明寮跡
  • 鎌倉道


今日は江戸時代には馬橋村だった地域を散策する。


旧杉並町 (杉並村) 旧馬橋村 (まばし)

馬橋地域については、江戸時代以前の文献や資料はほとんどなく、いつ頃から馬橋が始まったかは分からないが、馬橋稲荷神社裏より室町時代の板碑が出土している事から、室町時代以前から存在していたと思われる。更に時代をさかのぼると、原始時代には、桃園川流域に人が住んでいたと推測されているが、地域の都市化開発が早くから行われ、地形などが変化し、流域からは土器などの遺物や、住居跡などの遺跡は発見されていない。

馬橋村の名の由来ははっきりとはしていないのだが、諸説ある。

  • 青梅街道南側にあった泉から流れ出た小川が青梅街道を突っ切り桃園川へ流れ込む。そこに架っていた橋は馬で一またぎするくらいの幅であったので、馬橋と呼ばれたという。
  • 馬橋稲荷神社裏手の桃園川の湿地帯を、軍勢が通ったとき、馬を橋代わりにして渡ったので、馬橋の地名が生まれたという。1479年 (文明11年) に太田道灌と豊島氏の間 で激しい合戦があったことや当時の合戦の戦法で馬を橋代わりに湿地を渡ることがあった事から、この説の方が信憑性が高いと思われる。

馬橋村は1872年( 明治5年) には56戸、312人 程の小さな村だった。江戸時代もこれぐらいの人口だっただろう。東は高円寺村、西は阿佐ヶ谷村、南は和田村と田端村、北は上沼袋村に接し、村内には後原、後見ヶ谷戸、本屋舗、中道、田向、大塚根、蕎麦窪、西ノ久保の六つの小名があった。

1889年 (明治22年) に町村制が施行され、高円寺、馬橋、阿佐ヶ谷、天沼、成宗、田端の六ヶ村が合併して、戸数488戸、人口2,899人の杉並村が成立し、馬橋村は杉並村大字馬橋になっている。大字馬橋内は、旧小名の後原、後見ヶ谷戸、本屋舗が小字 原に、旧小名 大塚根が小字 往還南、旧小名 中道が小字 本村、旧小名 田向が小字 鷹鶴、旧小名 蕎麦窪が小名 西原、旧小名 西ノ久保が小字 打手 (内手) と大きく名称が変わっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に大字 馬橋 (旧馬橋) は従来の小字を廃止して馬橋一丁目~四丁目となっている。更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法が出され、再び、町名変更が行われた。従来の小名、小字の境界線ではなく、河川、道路、鉄道などを境界としてなされたので、江戸時代の小名の範囲が分からなくなってしまった。この時に旧馬橋住民は、馬橋の名に親しんだ住民の反対はあったものの (当時は人口は東京中心地からの移住者が激増し、昔からの馬橋住民は少数派)、田舎臭く知名度も低い馬橋のから、知名度の高い高円寺か、阿佐ケ谷の地名に変えて欲しいとの住民の要望が多く、中央線の北側地域は高円寺北に、中央線の南側地域のうち、馬橋中央通りより東部は高円寺南に、西部は阿佐谷南に改称している。

前述で、馬橋村は1872年 (明治5年) には56戸、312人の規模の村とあるが、1889年 (明治22年) に甲武鉄道 (現在の中央線) が開通したことで、 下の地図の1896 ~ 1909年 (明治29 ~ 42年) の様に、既に線路沿いに民家が密集している。大正時代頃から住宅地開発が進み、関東大震災でこの地にも移住者が増え、昭和初期には田圃のほとんどが消え住宅地となり、戦前には域内の8割近くが住宅地となっている。戦後も住宅地は増え続け、1960年代にはほ全域が住宅地となっている。


今日の訪問スポット



小名 後見ケ谷戸、後原、本屋舗 (小字 原)

1889年 (明治22年) に町村制が施行された際に、三つの小名の後見ケ谷戸、後原、本屋舗が合併して小字 原になっている。この三つの小名の境界線は分からなかったので、ここではこの地域の史跡等はまとめて記載している。本屋舗は村が成立した当時に最有力者が住んでいた地域、後原は本屋舗の背後にある北の原、後見ケ谷戸は本屋舗の後ろに見えた小さな谷だった。


陸軍通信学校跡 (馬橋公園)

旧小名 後原の中に馬橋公園がある。戦前はここには陸軍通信学校 (その後、陸軍気象部) が置かれていた。更に遡ると、1889年 (明治22年) に甲武鉄道が開通した時に、この地に陸軍鉄道隊が創設され、営門から、高円寺村を経て青梅街道まで幅10m程の鉄道線路敷設練習場が作られた。鉄道の西端から早稲田通りに平行して高円寺北、阿佐谷北を経て日大第二高校まで幅30~50m、長さ2.5kmの土地が軍用地として買い上げられ、鉄道線路の敷設、機関車の運転訓練の演習場になっていた。日露戦争 (1904~1905年) の旅順港攻撃の際に、気球で砲弾の命中状況を観測して好成績を収めたので、日露戦争の後、中野鉄道隊に陸軍気球隊が併設された。1913年 (大正2年) に鉄道隊は千葉県津田沼に移転し、その後へ電信隊が入り、電線架設演習場となった。1919年 (大正8年)、第一次世界大戦で飛行機が主力戦力となり、帝都防衛のため、中野気球隊は飛行隊に編成替えになっている。この時に陸軍は、中野気球隊と電隊の敷地に飛行場本部を設置して、天沼の日大二高までの幅30 ~ 50mの軍用地を幅100m長さ2.5kmの滑走路にする計画で、1920年 (大正9年) に現馬橋公園を含む広大な土地を飛行機格納庫用地として買い上げたが、滑走路計画地内に多くの民家があり、十分な土地の確保が難しく、建設は見送られ、格納庫用地は雑草の生い茂るままに放置されていた。1926年 (昭和元年) に、格納庫用地に陸軍通信学校が開校し、また、陸軍偕行社がいろは四八棟の將校宿舎を建設した。これらの建物は陸軍中野学校の教場にも使用されたという。1934年 (昭和14年) に、通信学校が神奈川県高座?郡へ移転した後、陸軍気象部が入り、気象観測を行いながら、全国から集まったデーターを整理して、航空隊などの軍関係機関に通報していた。

1945年 (昭和20年) の敗戦後、陸軍気象部は運輸省・気象庁の気象研究所に改組され、敷地は約三分の一に縮小され、残り三分の二は白梅学園 (現秀和高円寺レジデンスとNTT高円寺ビル) と馬橋小学校用地に払い下げになった。その後、気象庁の気象研究所があった場所は、研究所の移転に伴い、馬橋公園として整備され、1985年 (昭和60年) に開園している。

鉄道隊や電隊が演習していた長い陸軍用地は、敗戦後、罹災者や海外引き揚げ者が住みついていた。その後、用地の大部分は韓国人に買われ、柵が設けられて立ち入り禁止となっていた。その後、どの様な経緯かは分からないが、都営住宅地となり、1950~2年 (昭和25~27年) に居住者へ払い下げられた。現在では、所狭しと住宅が密集して、軍用地だったとは思えない様になっている。唯一、昔を偲ぶものとしては、軍用地の境界石柱が幾つか残っている。

この境界石柱を辿って見た。途中で92才の老人と話す機会があった。生まれてからずうっとこの地に住んでいるそうだ。終戦が1945年 (昭和20年) なので、当時は12才で、軍用地で兵隊が行進訓練をしているのをよく見た。また、電線を巻いた大きなドラムを転がしたり、小さなドラムを背負って電線敷設訓練の様子も面白く見ていたという。小名 小山のお伊勢の森では兵隊がラッパの訓練をしていたので、その音がよく聞こえたとも話していた。過去に境界標石を訪れた人のブログを見て、訪ねたが、その幾つかは既に撤去されていた。西の日大二校から見ていく。


なみのゆ煙突

馬橋公園から次の訪問地に向かう途中に大きな煙突が見えてきた。とりあえず、その場所に行ってみるとなみのゆという銭湯の煙突だった。この銭湯は戦前からあるようだ。「上でもなけりゃ、下でもない、並みの湯だ」という事で「なみのゆ」と命名したそうだ。


馬橋通り、馬橋南自治会神輿庫、馬橋中央道路開通記念碑

なみのゆの西側の道路は馬橋通りと呼ばれている。この道路沿いに馬橋南自治会の神輿庫がある。この神輿庫の中に石碑が保存されている。案内板によると、

この場所は1907年 (明治40年) に馬橋天神社が馬橋稲荷神社に合祀される迄は、馬橋天神社境内の一部だったが、1919年 (大正9年) から1922年 (大正12年) にかけて中央道路 (馬橋通り) が造られ、この地に馬橋中央道路開通記念碑が建立された。戦後、町の復興のため、この場所に町内の神酒所を兼ねた神輿庫を建てるにあたり、記念碑はその壁の一部として埋め込まれ、人々から忘れ去られていたが、この馬橋通り建設では寄付など地元の協力があった。これを後世に伝えるため、令和御大典記念事業の一環として石碑の修築を行い展示形式に変えている。また、この事業では馬橋稲荷神社境内に町内神興展示庫も建設されている。


馬橋駅予定地跡

馬橋通りを南に進むと中央線に交差する。中央線は高架上を走行しており、道路は高架の下を潜り南に伸びている。この場所は馬橋駅の候補地として挙げられたが、結局は実現せず、阿佐ヶ谷駅と高円寺駅が建設された。この阿佐ヶ谷駅と高円寺駅ができた経緯については阿佐ヶ谷を訪問した際に記述したが、この馬橋駅の誘致の経緯を見ると、もっと複雑な顛末だった事が分かる。中野-荻窪間に駅がなく、馬橋からは中野駅まで30分もかかっていた。1919年 (大正8年) に阿佐ヶ谷の地元有志が新駅誘致の陳情をしていた。この事を聞きつけた馬橋の浅賀源太郎も鉄道省へ新駅誘致の陳情を行い、中野-荻窪間の中間地点に新駅を設置するとの極秘内示を得た。この内示で、新駅予定地の線路を横断する様に早稲田通り、青梅街道、五日市街道を南北に結ぶ馬橋中央通りを建設し、新駅の開設に備えた。先程訪れた馬橋中央道路開通記念碑は馬橋通り完成時に造立されたものだ。

この時には新駅開設の期待が大いに膨らんでいた事だろう。1919年 (大正9年) に鉄道省より新駅用地提供願を求められたが、馬橋村の一部に新駅誘致に反対する人があり、駅の用地提供がまとまらなかった。会合を重ねているうちに、馬橋村陳情の内示を聞きつけた阿佐ヶ谷の相沢喜兵衛は大胆な巻き返しを図る、相沢は高円寺の伊藤兼吉等と共同して、政友会代議士に頼み、一駅内示を覆す二駅誘致の猛烈な誘致運動を展開し、遂に政治力を使い力づくで高円寺駅と阿佐ヶ谷駅の開設が決定し、馬橋駅は夢と消え去った。1921年(大正11年) に高円寺駅が開業し、駅から青梅街道まで道路 (新高円寺通り) が新設された。


福昌寺跡墓地、馬頭観音 (41番)

馬橋神輿庫から西側、中央線近くに、江戸時代、馬橋稲荷神社の別当地として真言宗海原山福昌寺 (寛永年間1624年~1644年に創建) が存在し、1874年 (明治7年) の廃仏毀釈の際に中野宝仙寺に吸収され廃寺となり、墓所だけが残っている。墓地は鉄格子扉で施錠され、中には入れなかった。鉄格子扉越しに地蔵堂が見え、二体の地蔵尊立像が置かれている。向かって左側は1914年 (大正3年) 造立の丸彫り地蔵菩薩像で、月輪を背に、錫杖と宝珠を持っている。豊多摩郡杉並村字馬橋の銘が刻まれている。右の地蔵は1789年 (寛政元年) に馬橋村女講中により造立された丸彫りの地蔵菩薩立像で錫杖と宝珠を携え、光明真言供養と刻まれている。台座には「幼露童子、天明八申八月五日、小兵衛母、久米次郎母、市之丞母、忠左衛門母、馬橋村当村女講中、願主関口 宇兵衛」と刻まれている。1788年 (天明8年) には亡くなった童女の供養の文言になる。この時期、1783~1788年 (天明3~8年) までは凶作が続き、全国で数十万人の農民が餓死した「天明の大飢饉」が起こっている。この馬橋でも餓死者が出ており、ここには亡くした子供の供養のため四人の母親が関口 宇兵衛の世話で供養塔に刻んだのだろう。墓地内には、1865年 (元治2年) 造立の馬頭観音 (41番) もあるのだが、中にはは入れず確認できなかった。(写真は資料から拝借)


馬橋田圃

福昌寺跡墓地の南は馬橋田圃があった地域になる。この南を流れる桃園川から阿佐ヶ谷川という支流があり、荻窪駅付近から現在の阿佐ヶ谷駅を東に向かって流れていた。川が合流する周辺は水田として適しかつては馬橋田圃という水田が広がっていた。大正時代頃から開発が進んで田圃が徐々に少なくなり、1928年 (昭和3年) には稲作が終了、田圃も無くなっている。現在では、当時の面影は消えてしまい住宅街になっている。



小名 西ノ久保 (小字 打手 [内手])

中央線を南に越えると旧小名 西ノ久保になる。馬橋村の中心から見て西方の窪地ということで西ノ久保と呼ばれた。昔、地元では田畑や山林の場所を示す時には西ノ久保を使い、家の場所には打手 (内手) の名を使かったという。この打手 (内手) も昔からあった地名だが、その由来は不明だそうだ。「内手」は昔は砦の内の手勢という意味で、この近くの豪族の阿佐ケ谷氏の家の子郎党の住居のあったところとも想像されている。1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際には旧小名 西ノ久保は杉並村大字馬橋小字打手 (内手) となっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 打手 (内手) は馬橋三丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、馬橋三丁目は、阿佐谷南一丁目と二丁目に属すことになった。


桃園川跡

1961年 (昭和36年)より桃園川では改修工事が行われ、桃園川は地下に埋没され完全下水道になり暗渠化されている。かつての川筋の暗渠の上は桃園川緑道になっている。

桃園川は、天沼弁天池から流れ出て阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺、中野村を東流して、神田川に合流する全長7kmの川で、大正時代まで五カ村30町歩の水田を潤す貴重な用水路だった。弁天池の湧水が僅かだったので、江戸時代の半ば頃から、玉川上水の分流の千川上水から水を引き、それでも足りず、1841年 (天保11年) に善福寺川から水を引いている。

資料に大正初期の様子の描写があった。

春はピンクの花もうせんを敷きつめたように、れんげ草が咲き乱れている田圃の中を、桃園川がゆっくり蛇行し、川の北岸台地は青だたみを敷いたように、麦畑が高円寺、氷川神社、長仙寺の森まで、一面に広がり、畑のあぜや、農家の垣根に赤い桃の花や白い雪柳、こてまりの花が咲きこぼれ、本当に美しい風景でしたよ。夏は岸辺の葦の間から、ヨシキリのかん高い声が聞こえ、幅ニメートル程の川面におもだかの白い花や、こうぼねの黄色い花がゆるやかな流れにゆれ、透き通ったきれいな川には、フナ、クチボソ、メダカ、アカンベエ(たなご)が群れをなして泳いでいた。田圃の水の落ち口を、手拭や風呂敷ですくうと面白いように魚が獲れた。夕涼みに出掛けると、蛙の鳴き声がうるさいくらいで、螢を素手で籠一杯にするのは、造作もないくらいだった。

1923年 (大正12年) の関東大震災後、東京中心部から焼け出された大勢の移住者で、旧杉並村の畑は住宅地に一変し、住宅から出る生活汚水が桃園川へ流れ込み、川は汚れてきたため、高円寺田園は1924年 (大正13年)、阿佐ヶ谷田圃は1928年 (昭和3年) で、米作りが終わってしまった。1923年 (大正12年) に、水田の宅地造成計画が立てられ、馬橋、天沼の流域各地も水田の宅地化工事が行われた。工事費を安くあげるため、蛇行していた桃園川を直線状に変え、川底を深く掘り下げて湿田を乾かして更地にした。この地域は直ぐに住宅密集地になり、桃園川は生活排水の下水溝に変貌している。工事前は大雨が降ると、水田が遊水池の役目をしていたが、水田が無くなった後は、安易な宅地造成工事のため台風シーズンには挑園川は度々、氾濫し住宅地は水浸しになる始末だった。特に高円寺地区は氾濫がひどかった。

1961年 (昭和36年) に本格的な桃園川改修工事が始まり、1967年 (昭和42年) に完全下水道として地下に埋没して浸水の心配は解消され、地上は桃園川緑道や児童公園となり、桃園川は完全に消滅している。桃園川緑道は綺麗に整備されており、道沿いには色々なモニュメントが置かれていた。


旧馬橋村から旧高円寺村の桃園川を自転車を押しながら歩いてみた。(桃園川緑道は自転車走行禁止)


煉瓦橋

中央線の高架下から桃園川緑道が中野方面に向かって伸びている。この高架と桃園川が交わる所には煉瓦橋と呼ばれた橋が架かっていたそうだ。煉瓦は桃園川が埋め立てられ暗渠化された頃まで残っていたそうだ。


こり場跡、西原橋

馬橋村では、雨が降らず日照りが続き作物に影響が出ると、村を挙げて雨乞い行事が行われていた。雨乞行事では、先ずは、家々が一斉に弁天池の水を汲み、畑にふりまいて雨乞いを行った。それでも雨が降らないと、何人かが井之頭の弁天様へ水を貰いに行き、馬橋稲荷神社に供え、神社脇の桃園川の「こり場」(西原橋あたり) に、ふんどし一つで飛び込み、身体を清め、先達が「帰命頂礼、六根精浄」と、音頭をとると、皆が「サンゲ、サンゲ、六根精浄」を唱えながら、川水を川縁にかけ、これを三回繰り返してから陸に上がり、菅笠わらじの旅姿に戻って神社に帰り、竹筒の水を手桶に移し、太鼓、先達、お水、村人の順で神社を出発。先頭の若い衆が太鼓を叩きながら、「アマツノリト、フトノリト」と大声で叫ぶと、先達が「六根精浄、ホー、ホー、ノーホイ、ホーホッ、ノー、ノーエ」と掛け念佛を唱え、あとから皆がこれに唱和し、これを繰り返しながら、村中を行列して巡り、所々で、先達が手桶に笹の葉を入れ、水をつけてバラまいていた。巡ってから神社に戻り、雨乞いのご祈禱後、御神酒を頂いて雨乞い行事が終了となった。それでも雨は降らず、野菜に立ち枯れの危機が迫ると、使いの二人が夕方出発し、朝早く神奈川県の大山阿夫利神社に着き、水を貰い帰って来る。村中の人が、青梅街道の村境で出迎え、水を馬橋稲荷神社に供えて雨乞い行事を行っていたという。


宮下橋、馬橋、内手橋


東橋、八反目上橋、八反目橋


宝橋、宝下橋、氷川小橋


氷川橋、西山谷上橋、西山谷橋


西山谷小橋、中島橋、中山谷橋


中山谷下橋、谷中橋、谷中下橋


稲荷橋、東山谷橋

この先も桃園川緑道が続くが、ここからは中野区になるので、中野区を巡る際に歩いてみる。



馬橋稲荷神社

桃園川緑道の宮下橋跡から南に逸れたところに宇迦之魂神と大麻等能豆神を祀る旧馬橋村の鎮守社の馬橋稲荷神社が鎮座している。神社の由緒書では鎌倉時代末の創建と伝えている。付近の墓地からは1447年 (文安4年) の板碑が発見されているので、室町時代には既にこの地域に人が住んでいたことが分かる。1907年 (明治40年) に村内に点在していた御嶽社 (大麻等能豆神)、天神社 (菅原道真朝臣)、水神社 (美都波能賣神) と御嶽社の末社の白山社 (伊弉册神) をこの稲荷社に合祀し、当時は五社神社と呼ばれていた。


一の鳥居、社号碑

馬橋稲荷神社への正参道へは一の鳥居から入っていく。この高さ8mの朱塗りの鳥居は樹齢400年の檜葉材を用い、笠木を台輪が支える台輪鳥居(稲荷鳥居)の形式で1996年 (平成8年) に建てられた。一の鳥居の脇に自然石に社名を刻んだ社号碑が置かれている。これは1962年 (昭和37年) に住居標示の改正によって、馬橋の地名がなくなる事を惜しみ、1965年 (昭和40年) に神社名を馬橋稲荷神社と改称した際に建立されたもの。


二の鳥居 (龍の鳥居)

正参道を進むと、ニの鳥居がある。この御影石作りの明神型鳥居は1932年 (昭和7年) に杉並村が大東京市に編入されたことを記念して奉納されたもので、鳥居の柱には龍が巻きついたデザインになっている。この様な鳥居は珍しく、品川神社、高円寺内稲荷社と馬橋稲荷神社のみで、東京三鳥居と呼ばれている。


三の鳥居

更に正参道を進むと、1993年 (平成5年) に平成御大典を記念して、高さ7m御影石作り台輪型の三の鳥居が中鳥居として建立された。元々あった旧中鳥居は北参道に移設されている。

 

手水舎

三の鳥居を潜ると随神門が見える。随神門の手前には2001年 (平成13年) に木曾檜を切り妻流れ造りで造られた手水舎が置かれている。四国より取り寄せた天然の伊予の青石に巻き付いた龍の口から地下水が流れ落ちる仕組みになっている。


随神門

随神門は鎮座700年記念事業として1975年 (昭和50年) に建立され、右に豊磐間戸命 (とよいわまどのみこと)、左に奇磐間戸命 (くしいわまどのみこと) の二柱の戸護りの神像を祀っている。天井には、都内最大の開運の直径75 cmの大鈴が吊されている。


東門、手水舎

馬橋稲荷神社の境内へは正参道以外に東参道がある。建物にトンネルが通され、それが参道になっている。トンネルの東参道から東門の鳥居を潜り境内に入った所に手水舎が置かれている。洗心と彫られた御影石の手水鉢は1938年 (昭和13年) に馬橋地区土地区画整理事業完成記念として社殿手前左に造られたものをここに移している。


社殿

境内正面に社殿がある。社殿は手前より拝殿、幣殿、本殿の構成になっている。1927年 (昭和2年) に村社に列し、1935年 (昭和10年) 頃より社殿建築を計画し、茅葺の旧社殿から、拝殿と幣殿は1938年 (昭和13年) に総檜造の銅板葺き流れ造りで、奥の本殿は1831年 (天保2年) に檜・欅造。銅板葺き流れ造りで建立されている。


参集殿(社務所)

随神門から境内に入ると右手に社務所がある。参集殿と呼ばれ、1993年 (平成5年) の平成の御大典記念として、重量鉄骨2層切り妻流れ造りの大屋根に改築された。社務所、会議室以外にも様々なイベントや結婚式にも利用されている。


忠魂碑

随神門の左側には日露戦争 (1904-1905年) の戦没者と出征した兵隊の名前が刻まれた忠魂碑 (右側の石碑) が1908年 (明治41年) に建てられている。乃木希典大将の筆で「忠魂碑」と刻まれている。


神輿殿

忠魂碑の奥には神輿殿が置かれている。1982年 (昭和57年) に宮御輿の神幸祭に際し、鉄筋コンクリート造、銅板葺き流れ造りで建立されたもの。この神輿庫には1922年 (大正11年) に上野不忍池を中心に開催された大正平和博覧会に出品され、1923年 (大正12年) に購入した大神輿が保管されているそうだ。関東大震災の際には、危うく難を逃れたことから、「難除けの御輿」とも呼ばれている。


町内神輿展示庫

神輿殿の手前には馬橋地域内にある八つの町の神輿を保管している神輿庫が2019年 (令和元年) に建てられている。展示ができる様に前面はガラス張りになっている。


神楽殿(舞殿)

神輿庫の隣には神楽殿が置かれており、1987年 (昭和62年) に昭和天皇陛在位60年を記念して、総檜入母屋流れ造りに改築されている。例大祭の神楽や、春秋の芸能鑑賞会 (薪神楽) 等がこの神楽殿で催される。


齋霊殿

神楽殿 (舞殿) の隣には1950年 (昭和25年) に建立された斎霊殿がある。馬橋稲荷神社の氏子で日清日露戦争、太平洋戦争で犠牲になった戦没者500余柱を祀っている。春秋2回の慰霊祭が行われているそうだ。


合祀碑、力石

斎霊殿の隣に合祀碑が建っている。馬橋村に点在し祀られていた、御嶽神社、天神社、水神社、白山神社を馬橋村の中央に位置していたこの稲荷神社に1907年 (明治40年) に合祀している。この石碑はその事を記念して建立されたもの。当時は五社神社と呼ばれた事もあった。合祀碑が置かれている塚にはかつては青年たちが力比べをした力石が置かれている。


厳島神社

合祀碑の所には厳島神社が置かれている。1907年 (明治40年) に村内に点在していた小名後原の御嶽社 (大麻等能豆神) とその末社である白山社 (伊弉册神)、小名後原の天神社 (菅原道真朝臣)、水神社 (美都波能賣神) を合祀しこの厳島神社の祠で祀っている。扁額には厳島神社と水神社が併記されている。馬橋村に点在していた湧水に祀られていた水神や弁天もここに祀られている。


稲荷社

厳島神社の周りには幾つもの稲荷社の祠が置かれている。これは村内各家で屋敷神として祀られていたが、引越しや建て替え等の理由で祀ることが出来なくなった祠を引き取り、神社で祀っている。


馬橋霊園、地蔵菩薩立像、馬頭観音 (二基)

馬橋稲荷神社から南に進むと馬橋霊園があり、その入口には1897年 (明治30年) 造立の錫杖と宝珠を持った丸彫り地蔵菩薩立像と1806年 (文化3年) に造立され、1902年 (明治35年) に改修された自然板石文字型の馬頭観音塔が置かれている。墓地にも馬頭観音があるのだが、墓地は施錠されており、中に入って見ることが出来なかった。資料には1898年 (明治31年) 造立の角柱文字型に馬頭観音とある。


馬橋庚申堂 (22番、23番)、庚申奉祭之遺跡

馬橋通りの東、小名 西ノ久保 (小字 打手 [内手]) と小名 中道 (小字 本村) の境に馬橋庚申堂があり、堂宇内には向かって左側に1673年 (延宝元年) 造立の板碑型庚申塔 (23番) で、上部に梵字のウーン、その下に「奉供養為庚申講二世安楽」と刻まれ、その下に三猿が浮彫りされている。その隣には1716年 (享保元年) に造立された駒形庚申塔 (22番) に上部に梵字のウーンと日月が刻まれ、その下に合掌六臂の青面金剛と三猿が浮彫りされている。

この堂宇の前、道路を挟んだ所に石柱があり、「此地者約三百年前 庚申奉余之遺跡也」と刻まれている。庚申塔は元々はこの場所にあった様だ。1973年 (昭和48年) にここにあった庚申塔を地元有志が建立三百年を記念して、現在地に堂宇を造り移設している。

堂宇にこの顛末を記した「馬橋庚申塔由来記」があった。

庚申塔は、江戸時代の庶民が災難除けの守り神として青面金剛尊をお祀りした供養塔です。昔は、凶作や疫病等の災難は、個人では避けることができなかったので、集落、又は村中の人が団結して庚申講中を作り、集めた浄財で、村の出入り口に庚申塔を建立し、災難が村の中に入って来ないようにお祈りしました。馬橋庚申塔は、延宝元年(一六七三)と享保元年(一七一六)に、それぞれ十数人の方々が協力して建立されたもので、以来数百年間、先祖の方々は幸せの暮らしを求めて、庚申塔に豊作、無事息災、或は病気全快等を祈願し、馬橋村の守り神として敬い、親しんできました。建立三百年を記念して、別記有志が協力して御堂を新築し、奉祀いたしました。永く馬橋の地が平穏でありますことを祈念して庚申塔の由来を読します。昭和四十八年六月吉日

とある。



小字 西原 (小名 蕎麦窪)

江戸時代、小名 西ノ久保の南側、青梅街道の北側には三つ小名があり、その内、西側には小名 蕎麦窪だった。馬橋村の傍 (蕎麦) の窪地だったのでこの様に呼ばれた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際には旧小名 蕎麦窪は杉並村大字馬橋小字西原となっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 西原は小字の本村と鷹鶴と共に馬橋二丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、旧小字西原は阿佐谷南一丁目の一部となっている。


天保新堀用水路 (緑地)

江戸時代、馬橋、高円寺村にあった水田や田圃への農業用水は、この地域のほぼ中央を西から東へ流れていた桃園川から引いていたが、天沼、井草、阿佐ヶ谷村の山林が次第に開墾されるにつれて湧水量が少なくなり、下流各村の水田は雨が降らなければ、田植えができない「天水場」となていく状況だった。1707年 (宝永4年) に、山王日枝神社領だった天沼、阿佐ヶ谷村は、千川上水から分水を許されたが、高円寺、馬橋、中野の三ヶ村は、その思恵が与えられず、毎年田園の用水に苦労していた。1833~9年 (天保4~10年)には凶作が続き、高円寺、馬橋、中野の三ヶ村の名主、田持総代が協議し田端村の善福寺川広場堰から挑園川石橋湧水路合流点へ引水する新堀用水路建設計画を幕府に申請して、1840年 (天保11年) に幕府の助成金を受け工事を行い、延長2,270m、内トンネル650m、落差は2.5mの水路が完成する。しかし、漏水や水路の崩壊があり、1841年 (天保12年) に新たに成宗弁天池へ直線の水路を掘り、延長560m、その内トンネル220mの工事を行い、善福寺川の水を桃園川へ取り込む事に成功した。これにより、馬橋、高円寺、中野の三カ村の水田は、千魃の心配がなくなり、大正時代までその恩恵をうけた。この水路は天保新堀用水路と呼ばれている。成宗弁天社境内にその完成の記念碑が残っている。

天保新堀用水路は弁天池からトンネルで現在の杉並区役所側を通り、一昨日訪れたパールセンター通り (権現通り) とすずらん通りに分岐する所 (写真左上) から、桃園川に向かって伸びていた。この部分は遊歩道になっており、所々に遊具が置かれた馬橋児童遊園地が整備されている。



小字 本村 (小名 中道)、小字 田向 (小名 鷹鶴)

江戸時代、小名 蕎麦窪の東側には小名 中道と鷹鶴 (鷹っ鶴) があった。中道は村の中程を通っている古道沿いの地域、将軍家光が鷹狩りで放した鷹が鶴を捕らえたので鷹鶴と名付けられたとの説がある。鷹鶴は桃園川の向かい側 (南) の田圃ということで小名 田向となった。明治時代には本村に7軒、鷹鶴に4軒という小さな集落だった。1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際には旧小名 中道と田向は其々、杉並村大字馬橋小字本村、鷹鶴となっている。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 本村と鷹鶴は小字の西原と共に馬橋二丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、旧小字 本村は阿佐谷南一丁目と高円寺南三丁目に分かれ、旧小字 鷹鶴は高円寺南三丁目にの一部となっている。


大谷家屋敷、馬橋弁天池跡

先に訪れた馬橋稲荷神社の末社の厳島神社/水神社に合祀された弁天祠があった場所に行って見た。弁天祠は弁天池の辺りにあったという。ここは江戸時代は小名 中道 (明治時代は小字 本村) で、中道 (本村) には、代々馬橋村の名主役を勤めていた大谷家の屋敷があり、その北辺(現・三丁目十二番五号付近)に弁天池があり、岸辺に弁天を祀った小さな祠があったそうだ。



小字 往還南 (小名 大塚根)

江戸時代の馬橋村の青梅街道南側の地域は「松の木の大塚」の麓(方言で根元)だったことで小名 大塚根と呼ばれていた。明治以降、江戸時代には青梅住還と呼ばれたことから、1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際には旧小名 大塚根は杉並村大字馬橋小字往還南となった。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字往還南は馬橋一丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、馬橋一丁目は梅里二丁目となっている。この時に、当初は馬橋一丁目は成田に含める案が提示されたが、住民からは成田は成田山と間違われるとの強い反対論が出て、なかなか町名が決まらなかったが、青梅街道に面しているから、青梅の梅と町を意味する里を組み合わせて「梅里」として名称が決まったという。


清見寺

旧小名 大塚根には中野区の成願寺の末寺の曹洞宗の瑞雲山清見寺がある。江戸時代初期に造立された木造千手観音菩薩坐像を本尊として祀っている。馬橋の灸寺と呼ばれていた。住職に鍼灸の心得があり、明治末年から昭和50年代まで檀家や近隣の方々に治療を施していたそうだ。清見寺の開創は寺伝によれば、1624年 (寛永元年) で、開山は成願寺六世大鐵叟雄鷟和尚と伝わっている。江戸時代には檀家も七戸位程で少なく、寺院運営が厳しかった。新宿や四谷まで出向いて托鉢をしたり、日雇いの仕事をしたりして糊口をしのいだという。一時期は無住の時期もあった。

清見寺は、杉並の小学校発祥の地としても知られる。1875年 (明治8年)、東京府中野村の宝仙寺に桃園小学校が開校したが、校区が広かったため、1875 ~ 1884年 (明治8 ~ 17年) には清見寺山門脇に現在の杉並区立第一小学校の前身である桃園小学校第一番分校 (1876年 [明治9年] に桃野学校として独立)を置き、馬橋村、高円寺村、阿佐ヶ谷村、天沼村、田端村、成宗村の児童が通っていた。


北向清顔地蔵 (158番)

青梅街道から清見寺への参道があり、その入口に堂宇がある。北向清顔地蔵と呼ばれる1664年 (寛文4年) 造立の舟型石塔に光背型の錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩像 () が浮き彫りされている。地蔵尊像脇に「帰真、雲峰宗林信士霊位、寛文四辰歲九月廿四日」と刻まれた戒名があるので元々は墓石だったと思われる。下屋敷 (現在の梅里二丁目) にあったものを、大正年間にこの地に移している。


馬頭観音、地蔵菩薩 (159番)

境内に入るとその奥に無縁仏塔が見えている。無縁仏塔の中心に丸彫の錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩像 (159番) が安置されている。江戸時代の造立と推測され、下部正面に「日本回国奉納大乗妙典六十六部供養」と刻まれている。無縁仏塔の脇には1922年 (大正11年) 造立の角柱型馬頭観音が置かれ、三面の印相八臂馬頭観音座像が浮き彫りされている。材木商を営んでいた人が材木運搬に使っていた愛馬の供養に建てたものだそうだ。江戸時代後期からの馬頭観音は経費の関係で殆んどが文字型塔なので、この様に尊像を彫ってあるのは非常に珍しい。


本堂

境内には正面に本堂、右手に庫裡が建てられている。清見寺は元禄年間(1688 ~ 1703年)に火災に見舞われた。1936年(昭和11年) に練馬区にあった道場寺の本堂を移して改築。現在の本堂は、その後1993年(平成5年)に改築している。

本堂の前には1934年 (昭和9年) に寄進された高さ約3mの弘法大師、観世音菩薩、地蔵菩薩が置かれている。

本堂裏手の墓地にある関口家墓域にもの聖観音、弘法大師、地蔵尊の三体一組の石仏が置かれている。関口家はこの地域では大地主で、陸軍に売却した馬橋公園付近一帯を所有し、先に見た本堂前の三体の大石仏、馬橋稲荷神社の石鳥居と石燈籠、高円寺境内稲荷の石鳥居などを寄進していた。


梅里中央公園、東京光明寮跡

清見寺から西に進むと梅里中央公園がある。この公園のすぐ南側に、昭和初期頃まで「松ノ木の大塚」という古墳と思われる小山があり、昭和7年に取り崩された際には土器とや馬具の鎖のようなものが出土している。

この公園の場所は江戸時代から大正時代には畑だったが、1926年 (大正15年) に大学の運動場になり、1935年 (昭和10 年) に陸軍省が買収し、地方勤務將校子弟の為に本館、武道館、寄宿舎二棟が建てられていた。1948年 (昭和23年) に、この施設は、国立東京光明寮に転用され、戦傷者や失明者に、社会生活の適応訓練と、社会復帰のためのマッサージ指圧師、はり師、灸師に育成を行っていた。1964年 (昭和39年) に、国立東京光明寮は東京視力障害センターと改められ、施設を増強して、全国の視力障害者の福祉センターとなった。東京視力障害センターは1979年 (昭和54年) に所沢市の旧陸軍所沢飛行場跡地へ移転し、跡地に梅里中央公園が整備されている。


鎌倉道

公園の西側の道路は何本もあった「鎌倉道」の一つの古道で、南は松の木を経て大宮八幡前で、鎌倉街道 (下総往還 府中~市川国府台) に接続し、北は阿佐谷の権現道 (パールセンター) を経て豊島城址(旧豊島園)に通じていた。この鎌倉道を境に西側は旧田端村小名関口で、梅里中央公園入り口近くの鎌倉道沿いには関口地蔵が置かれている。



今夜は予定が何も入っていないので、日没まで旧馬橋村の散策ができた。陸軍用地跡や桃園川緑地などは資料を見ながら、ゆっくりと散策を行った。明日の午後は娘二人の家族との会食を予定しているので、杉並巡りは休みとして、午前中は訪問記の編集に充てる。


参考文献

  • すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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