Ride in Kyushu Day 32 (16/1/19) Yamaga 山鹿 Battle at Yamaga 山鹿口の戦い

Battle at Ueki / Muko-saka 植木/向坂の戦い
Yamaga 山鹿温泉
Battle at Yamaga-guchi 山鹿口の戦い
古代公園

植木/向坂の戦い Battle at Ueki / Muko-saka

田原坂での戦いの前にあった事については、1月12日で書いたが、今日山鹿に行く途中なので、行っていなかった史跡を訪れた。
植木/向坂の戦いが始まった場所。神社の境内に記念碑が建っている。
乃木が薩軍に軍旗を奪われた場所。ここで旗手を担当していた河原林少尉が、討ち取られ軍旗を奪われた。その慰霊碑。
乃木が薩軍に圧倒され軍旗も忘れ撤退し、千本桜でその責任をとると言って自決しようとした場所。
西北から進軍してきた官軍は適水に本営を設置。ここから、向坂の戦場までは結構起伏が激しい。本営はその高台の中腹に置かれた。神社が建っている。背後は険しい崖で前方は遠くまで見渡せる。吉次峠が見える。吉次峠の戦いの時点では、ここは引き払っていただろうから、見えても意味は無いのだが…
もう一つの史跡は、見つけるのが大変だろうと思う田圃の片隅にひっそりとある。地元の有志の方が維持をしている。美少年の墓と名付けられた慰霊碑だ。東野孝之丞という美少年の墓と言われている。田原坂の戦いを取り上げた歌がこの地方につたわっている。「馬上豊かな美少年」この歌を題材にし、田原坂公園には馬に乗る少年の銅像が建っている。誰がモデルなのか諸説ある。田原坂公園の像は村田新八の息子と言う説もある。私見だが、美少年は後から付けられたものだろう。地元の人は薩軍が行進している場面や戦地で準備をしている場面を何度となく見ただろう。その中に、少年が少なからずいた。食料などを村に取りにきたりし、交流もあったのではないか。その少年の勇敢さに感動し、戦闘で、ひとり、また、ひとり少年が亡くなって事を哀れに思い涙したのではないか。だからこそ歌がのこり、墓が作られている。観光目的に作られたものではない。
田原坂が陥落した後、官軍は敗走する薩軍を追撃するが、ここ植木で薩軍と戦闘になる。官軍はここを突破出来なかった。薩軍がここで再度、体制を整えた事は見事としか言いようが無い。普通であれば、総崩れになるはずだが…
この地区にも、官軍墓地がある。明徳官軍墓地。写真は1月13日のところにのせてある。
なんとなく、自分の中で、植木/向坂の戦いのイメージが作れるようになった所で、田原坂の戦いと同じく激戦地だった山鹿に向かう。

山鹿口の戦い Battle at Yamaga-guchi

薩軍屈指の勇者、桐野利秋が博多から南下してくる官軍の熊本城への進行を阻止せんとして、ここを守った。
熊本城を取り囲んでいた時に、薩軍は3つに部隊を分けて、官軍に備えた。この布陣も的確で、熊本近辺の地理を把握し、官軍の行動を読んでいた。3つの部隊を指揮すべきは西郷の筈だが、西郷は戦争の指揮は全くやっていなかった。それぞれの部隊がその意思で動いていたように思える。勿論連携はあったが、判断は各大隊が個別にやっていたようだ。その割には、上手く動いている印象だ。各大隊のトップ、桐野、村田/別府、篠原の力量は凄い。
博多から熊本へは豊前街道が走り、山鹿は宿場街であった。博多から、武器や兵站を運ぶにはこの道しかない。もう一つは間道がある。通常の豊前街道のバイパスだ。両方とも自転車で走ったが、道は険しいところがある。実際に激戦区はこの険しい地点を中心にしたところだった。
では時系列でこの山鹿口の戦いを追っていきたい。
ここ山鹿に最初にはいったのは官軍だ。(2月23日)  桐野は官軍が更に南下し熊本城に近ずくのを阻止すべく、 山鹿に向けて行軍をした。官軍は山鹿では地理的に戦闘には不利と判断して、少し引き山鹿の北西の付城台地に移り、山鹿に入ってくる薩軍を撃とうとした。よって薩軍は比較的容易に山鹿には入ることができ、ここに本営を置いた。(2月25日)
今は何も遺構はないが、本営跡の目の前が山鹿温泉だ。桐野達は1ヶ月程、ここにいたので、おそらく、戦闘の後はこの温泉街で疲れを癒していたのだろう。
近くのお寺は薩軍病院として使われていた。
山鹿市内の観光名所に少し立ち寄る。
金剛乗寺 石門
豊前街道 山鹿宿跡
大正期にできた芝居小屋 八千代座 今日は公演があり見学はできなかった。

第一次戦

2月26日に初戦が起こる。官軍は車坂に集結し岩野川を渡り、薩軍との激戦が始まる。
この岩野川の戦闘があった場所には流域には鍋田横穴群があった。起伏のある地形で官軍、薩軍がそこで銃撃戦が繰り広げられただろう。
薩軍有利で戦いは続けられて、官軍はジリジリと後退。車坂は急な坂で自転車で登るのは大変。非常に田原坂の地形に似ている。官軍は坂の斜面の上に陣を作り、車坂を上がってくる薩軍に一斉射撃をした。田原坂とは逆のケース。付城台地は既に薩軍に掌握されて、官軍総崩れで平野迄後退する。この日の戦闘は終始薩軍有利で進められ、官軍の大敗で終わった。

第二次戦

2月26日の戦闘から、小競り合いはあるもののにらみ合いが続き3月3日に第二次戦が起こる。この日までに、官軍は増兵で2000名、薩軍も協同隊、飫肥隊の援軍の参加もあり、総勢3800名となっていた。
桐野は部隊を2つに分け、豊前街道からと間道を通って攻める。豊前街道は第一次戦で攻めたルートで、車坂を上り、上がりきると平坦な永ノ原台地が続き、次にかなり急な下り坂の腹切坂となる。永ノ原台地には薩軍墓があった。これを下ると下岩の官軍がこの日攻撃に出た拠点となる。桐野はこのルートを1日で制圧したのは凄い。腹切坂は豊前街道の難所と言われている。この道を自転車で下るか悩んだ。腹切坂のところから自動車道がバイパスで下岩まである。豊前旧街道は苔が生えて、自動車の轍などない。通れるのか不安。途中で後戻りは辛いだろうと思い、バイパスの方で下岩迄下る。この道は迂回道なのだが急坂だ。腹切坂を行かなくて良かった。
結局この日も薩軍の快勝で終わった。

腹切坂を下ると光行寺があり、豊前街道を大名行列が通る際の休息所だそうだ。ここに官軍の下岩墓地がある。ここまで桐野は占領した。快勝だ。ここから高瀬大会戦の北の南関まで僅か10kmで、そこを落とせば、官軍を孤立させられる。桐野は絶好調だっただろう。
もう一つの部隊は間道を通って官軍を攻める。間道は第一次戦で押さえた付城台地 (地図では城という名の所) から豊前街道に合流する山道。この付城台地には多くの古墳群があり、それらをまとめて古代公園としている。この古墳群の中で戦闘があったのだ。
古代公園に西南戦争の慰霊碑も建てられていた。
西福寺古墳群
チブサン古墳 (前方後円墳)
オブサン古墳 地震で崩れ、現在修復中。多くの歴史的遺構が地震で被害を受けている。
線画のレプリカを展示
石棺群のレプリカもある
この古墳群のあるところから間道が始まる。この間道の起点に薩軍兵士 村田三介の慰霊碑があった。ここは鍋田台地と呼ばれ、この第二次戦では激戦区となった。村田三介は先の植木/向坂の戦いで乃木軍を打ち破り官軍軍旗を奪った強者だった。第四次戦 (3月12日)に銃弾に倒れた。
鍋田台地を抜けると間道が山道になる。少し入ってみたが、激戦になるのがよくわかる道だ。ここも田原坂に近い。近所のおじさんにこの道行けるかと尋ねたら、途中で太陽発電所になってそれ以上は立ち入れないとの事で、これ以上進む事を断念。
車坂の激戦地の近くにはもう二つ薩軍戦死兵士の慰霊碑がある。「熊本共同隊長 平川惟一戦死の地 」と 「薩軍飫肥隊奮戦の地」
熊本共同隊の隊長の平川惟一(ひらかわ のぶかず)が戦死した慰霊碑。鹿児島の私学校挙兵を聞き、ルソーの社会契約論の部分訳の中江兆民の民約論に影響された自由民権運動家の宮崎八郎と共に熊本共同隊を結成し500人程で薩軍に合流。自由民権の思想に則り、選挙にて隊長に抜擢されたそれなりの人物であった。それだけではなく、山鹿で日本で最初の民権政府を作り、選挙によって総代を選び運営を始めた。薩軍敗退と共に消滅。3月3日 第二次戦で、車坂の戦いにおいて熊本県山鹿市鍋田口付近で流弾に当たり戦死した。自由民権が薩軍の求めるものと完全に一致していた訳では無いが、明治政府の矛盾には同じく疑問を持ち共鳴したのだろう。
この西南戦争には私学校の薩摩正規軍のほか鹿児島を中心とした各地域の有志からなる部隊が参加していた。この飫肥隊もそのひとつで飫肥で結成された。この山鹿の戦いでおおいに活躍をした。

第三次戦

3月4日 薩軍が田原坂で大敗の報が桐野に届き、山鹿に薩軍を撤退させた。しかしこの報告が誤りである事が判明し、再び戦闘を開始し、昨日撤退を開始した時点まで進軍をした。これも凄い。一度撤退をすると軍の士気も下がるはず、それを現状まで戻す事は並大抵ではない。反対に官軍の無策が目立つ。この後、車坂と岩村の間で戦闘が続き一進一退の状況が続く。不思議なのは何故この誤報が起こったのか?官軍の策略なのか?薩軍の組織の未熟さなのか?この誤報は以前にも起こっている。私見は組織の未熟さであったと思う。もともと私学校は戦争をする為の組織では無かったし、西郷隆盛が挙兵を決めたのも私学校の暴発はもう止められ無いところ迄来てしまったからで、戦争の準備など十分にしていなかったし、この熊本での戦いでは西郷は指揮をしていない。これまで、高瀬、植木、田原坂、山鹿の戦い全てで、連携ミスで勝機を逸している。このミスが無ければ、薩軍は熊本城を占領できたと思える。

第四次戦

3月12日 官軍の一斉攻撃が鍋田台地で開始される。この時の官軍は3400、薩軍は2500で兵の一部を田原坂に向かわせていた。兵力で劣勢の薩軍は一歩の引かず互角の戦いであった。

第五次戦

3月15日 第四次戦の鍋田台地への部隊と、北から別動隊が付城台地方面への2方向から攻める。薩軍はよくしのぎ、この日も決着つかず。

田原坂で薩軍敗走

3月20日の田原坂での薩軍敗北の報が桐野にもたらされると、すぐさま薩軍は植木と隈府(菊池)に撤退。これで山鹿の戦いは24日間で終結。その後すぐさま、吉次峠から隈府(菊池)までの防衛線を築いている。植木では官軍を田原坂からの部隊とともに交戦。田原坂で敗れたとは言え、すぐに体制を立て直しているには驚きだ。この後まだ熊本城の包囲は続き、菊池、植木、八代、宇土、川尻で戦闘が行われる。
この後、薩軍は形勢が不利になって行く、熊本城包囲を解いてからは敗走しながらの戦いとなるのだが、この田原坂での敗戦が致命傷となった。西郷隆盛の構想は、熊本鎮台を落とせば、明治政府は対話に応じるだろうと考えていた。何故なら、熊本鎮台は九州全土を統括する軍事基地で、西郷がここを握る事は、九州全土を手中に収める可能性が出てくる。そうなれば多くの西郷に呼応するものが出てきて、さながら九州は西郷共和国の様子になってくる。ただ、西郷はこの田原坂の戦いの途中で、明治政府は対話は拒否、あくまで賊軍の征伐との方針である事に気付いたであろう。熊本城が落とせなかった事は、戦いの目的を失ってしまった。この後の戦い方におおいに影響しただろう。この旅の後半では鹿児島、宮崎、大分に行く。その地で、西郷達薩軍が、田原坂敗戦以降、どうなって行ったのかを巡りたい。
サイクリングロード発見。熊本市内まで行ける。34キロ プラス5キロで宿まで。国道で行くより5キロ程余分だが、せっかくだからこの道で帰る。
途中で完全に日が暮れた。宿に着いたのは8時半。100キロ越えのロングライドだった。

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