Okinawa 沖縄 #2 Day 270 (29/09/24) 沖縄市 旧美里村 (02) Hiyagon Hamlet 比屋根集落
沖縄市 旧美里村 比屋根 (ひやね、ヒヤゴン)
- 井戸跡
- アシビナー (遊び庭)
- 慰霊之塔
- 比屋根遺跡、オシアゲ森 (ムイ)
- 上仲門 (ウィーナカジョー) 門中神屋
- 大殿 (ウフドゥン)
- 根屋 (ニーヤ) 門中神屋
- 伊礼 (イリー) 門中神屋、獅子屋 (シーシヤー)
- 殿小 (トゥングヮー、小獄、佐久真之殿)
- 比屋根公民館
- ジョーヌスバ
- 大井 (ウフガー) (未訪問)
- 御願 (ウガン)
- 沖縄県総合運動公園
- 対戦車戦闘壕
- 奥武小 (オーグヮ) ビジュル
- 塩田跡
沖縄市 旧美里村 比屋根 (ひやね、ヒヤゴン)
琉球王国時代の比屋根村は現在の字比屋根に加え、胡屋七丁目と高原一丁目を含んでいた。比屋根集落はオシアゲ森を腰当て (クサティ、聖域) を背に、麓の前川 (メーガーラ) への急な丘陵斜面に広がっていた。
字比屋根には上原 (イーバル)、西原 (イリバル)、比屋根 (ヒヤーゴン)、橋川 (ハシカー)、下口原 (ウリィグチバル)、東原 (アガリバル)、折口原 (オリグチバル)、浜原 (ハマバル)、加那波 (カナハ)、前原 (メーバル)、雨田利 (アマダリー) の11の小字 (原名) で構成されている。
比根屋村には幾つかの屋取集落が存在していた。浜原には奥武小屋取集落があり、1908年には58人 (12戸) が生活していた。その他屋取集落としては天理教ヌ前屋取があったとされるが、所在地はわからなかった。この天理教ヌ前屋取は帰農士族の集落とは性格が異なり、天理教信者が集まってできた村だった1919年の地図では、下口原に殿内ヌ前屋取集落が見られるが、詳細は分からなかった。
琉球国由来記等に記載されている拝所
- 御嶽: オシアゲ森 (神名 オソクツカサノ御イベ)、殿小 (小嶽 神名 オソクツカサノ御イベ)、上山小 (与儀之嶽 弐御前 神名 神山マネジカサノ御イベ 在与儀)
- 殿: 大殿 (比屋根之殿)、殿小 (佐久真之殿)
- 拝所: 上仲門門中神屋、根屋門中神屋、伊礼門中神屋、御願、奥武小ビジュル
- 井泉: ジョーヌスバ、大井 (東ヌ井)
井戸跡
アシビナー (遊び庭)
慰霊之塔
沖縄市では字別の戦没者については次のグラフしか提供しておらず。このグラフには含まれていない字もいくつかある。このグラフによれば比屋根集落での戦没者は140人程になっている。慰霊之塔と大きく数字が異なっている。グラフでは与儀集落の戦没者がない。与儀集落では67人の犠牲者が出ているので、グラフの140人程の戦没者は比屋根と与儀を合わせたものだろう (77+67=144) また、沖縄市は各字の戦没者率もだしていないので、各字の悲惨さも良く分からない。沖縄戦直前の1944年の人口から推測すると、比根屋集落人口は387人で戦没者77名は19.9%にあたる。(沖縄市全体の戦没者率は約30%)
比根屋集落の戦後は、1946年6月に帰還許可がおり、収容所や疎開地から高原に移動し、与儀、高原、比屋根の三集落の住民が米軍コンセットと幕舎の割り当てを受け、共同生活が始まった。同年10月に元の比屋根集落への移動許可が降り、破壊された村の整備に着手し、その後、住民が帰還していった。
比屋根遺跡、オシアゲ森 (ムイ)
上仲門 (ウィーナカジョー) 門中神屋
大殿 (ウフドゥン)
根屋 (ニーヤ) 門中神屋
伊礼 (イリー) 門中神屋、獅子屋 (シーシヤー)
殿小 (トゥングヮー、小獄、佐久真之殿)
比屋根公民館
ジョーヌスバ
大井 (ウフガー) (未訪問)
御願 (ウガン)
沖縄県総合運動公園
対戦車戦闘壕
奥武小 (オーグヮー) ビジュル
塩田跡
今日は一日中小雨が降ったり止んだりという天気だった。小雨という事で、暑さは抑えられ、比較的気持ちよく散策が出来た。バス始発で来たので時間はたっぷりあり、集落巡りが終わった時には20kmも歩いていた。少し無理をしたのだろう、翌日から少し膝に痛みがある。今日は沖縄無料バスの最終日だったので、膝の調子がよくなってから次回からは自転車での集落巡りに戻る予定。
参考文献
- 沖縄市史 第3巻 民俗編 (2008 沖縄市役所)
- 沖縄市史 第5巻 戦争編 (2019 沖縄市役所)
- 沖縄市史 第7巻 近代統計書に見る歴史 (1997 沖縄市役所)
- 沖縄市文化財調査報告書 第4集 沖縄市の埋蔵文化財 (1981 沖縄市教育委員会)
- 沖縄市文化財調査報告書 第35集 沖縄市の伝承をたずねて 東西部編 (2008 沖縄市教育委員会)
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