Okinawa 沖縄 #2 Day 269 (25/09/24) 沖縄市 旧美里村 (01) Yogi Hamlet 与儀集落
沖縄市 旧美里村 与儀 (ユージ、よぎ)
- 下口井 (ウルグチガー)
- クガニチュー、クガニチュー前のシマカンカー
- 与儀公民館
- 火ヌ神 (ヒヌカン)
- 渡口の屋敷跡
- 地頭屋 (ジトーヤー)
- 上ヌ毛 (イーヌモー)
- 慰霊之塔
- ヒーゲーシー (火返し)
- 神屋トニー
- トニーヌ井 (カー) 跡
- 石敢当
- 石碑
- 産井 (ウブガー、キヌガー)
- アダンジャガー
- 与儀遺跡
- 上殿 (イードゥン)
- 防空壕跡
- アシビナー (遊び庭)
- アナガー
- 山小 (ヤマグヮー)
- 御願 (ウガン) (9/29 訪問)
沖縄市 旧美里村 与儀 (ユージ、よぎ)
今日は沖縄市の旧美里村の集落巡りの最初なので、沖縄市と旧美里村の成り立ちに目を通す。沖縄市は、沖縄本島中南部に位置する沖縄県第2の都市で1974年にコザ市と美里村が合併して誕生している。
旧美里村
まずは旧美里村の集落から訪問するので、その旧美里村を調べるのだが、沖縄市が発行している資料では、各集落の情報は非常に少なく、各集落の字誌が幾つかあるのみだ。どうも、沖縄市は地域についての歴史や文化財についてはあまり関心が無いようだ。那覇市も同様な傾向で、大きな都市になるとその地域まで手がまわらないのだろうか?今まで巡った地域で、地域文化に関心の薄いのは那覇市、八重瀬町、そしてこの沖縄市の様に思える。地域文化を大切にしない事が、地域住民に配慮がない事に繋がっていないかと不安がある。
- 美里村は琉球王国時代は美里 (ンザトゥ) 間切で、1666年 (寛文6年) に越来間切から、与儀 (ユージ、よぎ)、比屋根 (ヒヤゴン、ひねや)、大里 (ウフザトゥ、おおさと)、西原 (イリーバル、にしはら)、知花 (チバナ、ちばな)、池原 (イチバル、いけはら)、恩納 (オンナ、おんな)、楚南 (そなん)、山城 (ヤマグスク)、伊覇 (イハ)、石川 (イシカワ)、嵩原 (タケバル)、宮里 (ナーザトゥ)、登川 (ニーブンジャー、のぼりかわ)、嘉手苅 (カデカル) の15ヶ村が分離独立して始まった。その後、大村渠 (ウフンダカリ)、満喜世 (マンジユウ)、渡口 (トグチ)、古謝 (コジャ)、桃原 (トーバル) の5村を新設。更にその後、満喜世は高原村、大村渠は知花と合併して知花村となっている。
- 1776年 (明和3年) に渡口と石川が合併して石川村となる。
- 1903年 (明治36年) に高原から泡瀬 (アーシ、あわせ) が分離。
- 1908年 (明治41年) - 沖縄県及島嶼町村制の施行により越来村と美里村が誕生する。
- 1945年、太平洋戦争後、米軍政府が収容所を拠点に地域の整備を図り、越来村地域に古謝市 (胡差市) が誕生。美里村は前原市に吸収される。
- 1945年9月には地方行政緊急措置要綱に基づき、美里村北部は字石川の収容所を中心として石川市となり、美里村南部は具志川村字前原の収容所や勝連半島を包括する平安座市の一部となった。
- 1946年4月に前原市が廃止され、石川市となった旧美里村の北部を除き、再び美里村が復活している。米軍が設置した軍政地区により、越来村はコザ地区、美里村は前原地区に編入される
- 1956年6月、越来村からコザ村へ名称を変更し、7月にはコザ村が市制を施行しコザ市が誕生している。
- 1974年 (昭和49年) 1月、コザ市・美里村の両議会で合併議案が提出され、美里村議会が難色を示し、混乱の中で可決され、4月に沖縄市誕生している。
与儀集落 (ユージ、よぎ)
- 御嶽: 与儀之嶽 - 上ヌ山小 (神名 シニョロコバツカサノ御イベ) /下ヌ山小 (神名 神山マネジカサノ御イベ)
- 殿: 上殿
- 拝所: 火ヌ神、クガニチュー、地頭屋、渡口神屋、神屋トニー、御願
- 井泉: 下口井、トニー井、アダンジャガー、アナガー、産井
下口井 (ウルグチガー)
与儀バス停を降りるとすぐの所、国道329号線の東の崖下に下口井 (ウルグチガー) がある。草を掻き分けて到着。集落東側 (アガリバタ) の住民だけが使用していたそうだ。旧暦8月10日のカーウガン (井戸御願) で拝まれている。
クガニチュー、クガニチュー前のシマカンカー
ウルクチガーから道329号線を西に渡った所は、かつての与儀集落の南の端になる。与儀集落の南端の村への入り口にあたる。ここにはクガニチューの拝所がおかれ、魔よけの神とされている。旧暦5月15日、6月15日のウマチー、9月9日、11月10日にはシマカンカーの行事、12月24日の御願解きで拝まれていた。
与儀公民館
クガニチューの道を集落中心地に進むと公民館が建っている。この場所が戦前は何だったのかは聞き忘れてしまった。村屋 (倶楽部) だったのだろうか? 沖縄市教育委員会が発行している資料類では、各集落についての情報は極めて少なく、与儀については詳しいものはなかった。幾つかの集落が独自に字誌を出しているが、与儀の字誌は見当たらない。集落巡りの下調べでは、資料に目を通すのだが、行政によって資料の量や質には大きなばらつきがある。沖縄市教育委員会は各集落についての関心はかなり低い様だ。
火ヌ神 (ヒヌカン)
公民館敷地内北側に土地の守り神の火ヌ神 (ヒヌカン) の御願所があり、3つの霊石が祀られている。旧暦11月1日のシマカンカーの日にはヒジャイナワ (左縄) を村の二箇所に張った後、村民全員がここに集まり、火ヌ神を拝み、まずは集落の南のクガニチュー、次いで北の上殿に移動してシマカンカーの行事を行っている。その後、以前は公民館に戻り、シマカンカーで供える為に屠殺した豚を火ヌ神の三つの石に鍋を置き豚汁を作り村民で食していたそうだ。現在では神屋トニーに集まっている。
渡口の屋敷跡
与儀自治会の南東側に渡口の屋敷跡があり、渡口の祖先の按司の住居跡と伝えられている。与儀集落の村立てと伝わる南山軍の敗残兵の友寄ヌ子の四男が渡口の祖先とされる。祠内には大型の霊石が3つ、小型の霊石が3つ、ウコール (香炉) が3つ祀られている。旧暦の1月1日、5月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれている。
地頭屋 (ジトーヤー)
渡口の屋敷跡の片隅には別の祠があり、地頭代の役人が暮らしていたと伝わっている。与儀集落住民は地頭屋 (ジトーヤー) や白殿屋 (シルドゥンヤー) と呼び、旧暦の1月1日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝んでいる。
上ヌ毛 (イーヌモー)
地頭屋から坂道を村の北東側にある高台に向かう。上り切ると広場になっている。ここが上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれる場所。
慰霊之塔
広場には第二次世界大戦の犠牲者を弔っている慰霊之塔がある。戦後、1951年 (昭和26年) に沖縄市内の慰霊碑としては最も早くに建立されている。この初代の塔は、コンクリート製の鳥居をくぐって階段を上がった先に塔の本体があった。1985年 (昭和60年) に塔の老朽化により、区の積立金と遺族や一般などか らの寄付で建て替えられて現在に至る。鳥居は復元されていない。この慰霊碑では沖縄戦で犠牲となった与儀の住民67柱が慰霊されている。与儀自治会が管理しており、6月23日に慰霊祭が行われている。
ヒーゲーシー (火返し)
地頭屋と上ヌ毛の間の斜面にある民家の庭の中に変わった形の石がある。これはヒーケーシー (火返し) と呼ばれる魔除けの石柱だそうだ。石柱の表面には 「◯◯奉山石敢當」 と記されているので石敢當だった。石敢當はここで悪霊が入らない為のもので、普通は敷地内に置かれる事はない。どこからか移設されたのだろうか? 北中城村でも奉山石敢當が幾つかあった。島尻ではあまり見かけなかったが、この地域では奉山石敢當への思いが強かったのだろう。
神屋トニー
与儀遺跡の手前、南側に神屋トニーがある。仲加門中の祖先が住居を構えた場所で、集落住民はナーカアサギとも呼んでいる。南山軍の友寄ヌ子がこの地に落ち延び、ここに畑を開墾して家を構えたと伝わる。仲加門中の祖先は、その友寄ヌ子の長男だった。獅子舞を踊る神聖な場所とされており、拝所は旧暦の1月5日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれている。広場の奥側にはカミヤー (神屋) が置かれ、ヒヌカン (火の神) などが祀られている。
トニーヌ井 (カー) 跡
石敢当
神屋トニーから西に進んだところに古そうな石敢当が置かれていた。表面の文字は摩耗してしまっている。
石碑
更に少し西の三叉路、畑地の隅にはニービ石の石碑が残っており、「□□□西方 廣 □ 百難無」 と記されている。この石碑の目的など詳細は不明だそうだが、仏教関係かもしれない。百難ともあるので、石敢当と同じ様に魔除けの為とも推測されている。
産井 (ウブガー、キヌガー)
石碑の道を挟んだ所に産井 (ウブガー) がある。集落住民はキヌガーと呼んでいる。元旦の若水 (ワカミジ) や子供が産まれた際の産水 (ウブミジ) はこの井戸から水を汲んでいた。井戸の上にはコンクリートの蓋が置かれているが、その蓋に丸い穴が空いており、この穴から紐で吊るしたビンを降ろして水を汲んでいたそうだ。昔は水汲みは女性の仕事だったが、人に会わないよう、人に会っても挨拶はしないように朝早く汲みに行っていたそうだ。これは昔からの言い伝えで「水汲む時は誰にも会わない様にしなさい」言われていたという。現在は8月10日のシバサシで拝まれ、屋敷の神への感謝と家族の繁栄と安全が祈願されている。
アダンジャガー
神屋トニーの南側に戻り、上殿に向かい坂道を登って行く途中にアダンジャガーがあり、アダンヂガーやアカンジャーガーとも呼ばれている。旧暦8月10日のカーウガン (井戸御願) で拝まれている。現在はコンクリートの板で蓋がされている。
与儀遺跡
上殿 (イードゥン)
防空壕跡
アシビナー (遊び庭)
アナガー
山小 (ヤマグヮー)
御願 (ウガン) (9/29 訪問)
9月29日に比屋根集落の方の御願 (ウガン) を見た後に、先日スキップした与儀集落の御願 (ウガン) も訪れた。地図ではすぐ近くにあるのだが、実際はこの二つの御願の間には深い谷になっていた。この谷が与儀と比屋根の境界にあたる。目的の御願は谷の向こう側で、丘陵の上のオキナワ グランメールリゾート ( 写真の右の高い建物) の手前の位置にある。このホテルへの道を登って行く。
参考文献
- 沖縄市史 第3巻 民俗編 (2008 沖縄市役所)
- 沖縄市史 第5巻 戦争編 (2019 沖縄市役所)
- 沖縄市文化財調査報告書 第4集 沖縄市の埋蔵文化財 (1981 沖縄市教育委員会)
- 沖縄市文化財調査報告書 第35集 沖縄市の伝承をたずねて 東西部編 (2008 沖縄市教育委員会)
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