Okinawa 沖縄 #2 Day 269 (25/09/24) 沖縄市 旧美里村 (01) Yogi Hamlet 与儀集落

沖縄市 旧美里村 与儀 (ユージ、よぎ)

  • 下口井 (ウルグチガー)
  • クガニチュー、クガニチュー前のシマカンカー
  • 与儀公民館
  • 火ヌ神 (ヒヌカン)
  • 渡口の屋敷跡
  • 地頭屋 (ジトーヤー)
  • 上ヌ毛 (イーヌモー)
  • 慰霊之塔
  • ヒーゲーシー (火返し)
  • 神屋トニー
  • トニーヌ井 (カー) 跡
  • 石敢当
  • 石碑
  • 産井 (ウブガー、キヌガー)
  • アダンジャガー
  • 与儀遺跡
  • 上殿 (イードゥン)
  • 防空壕跡
  • アシビナー (遊び庭)
  • アナガー
  • 山小 (ヤマグヮー)
  • 御願 (ウガン) (9/29 訪問)


今日も無料バスを利用しての集落巡り。天気予報は雨だが、9月に入ってからは雨の日が殆ど、雨足は1mmとあるので、雨具を持参して出発。沖縄市の与儀を訪れる。


沖縄市 旧美里村 与儀 (ユージ、よぎ)

今日は沖縄市の旧美里村の集落巡りの最初なので、沖縄市と旧美里村の成り立ちに目を通す。沖縄市は、沖縄本島中南部に位置する沖縄県第2の都市で1974年にコザ市と美里村が合併して誕生している。


旧美里村

まずは旧美里村の集落から訪問するので、その旧美里村を調べるのだが、沖縄市が発行している資料では、各集落の情報は非常に少なく、各集落の字誌が幾つかあるのみだ。どうも、沖縄市は地域についての歴史や文化財についてはあまり関心が無いようだ。那覇市も同様な傾向で、大きな都市になるとその地域まで手がまわらないのだろうか?今まで巡った地域で、地域文化に関心の薄いのは那覇市、八重瀬町、そしてこの沖縄市の様に思える。地域文化を大切にしない事が、地域住民に配慮がない事に繋がっていないかと不安がある。


  • 美里村は琉球王国時代は美里 (ンザトゥ) 間切で、1666年 (寛文6年) に越来間切から、与儀 (ユージ、よぎ)、比屋根 (ヒヤゴン、ひねや)、大里 (ウフザトゥ、おおさと)、西原 (イリーバル、にしはら)、知花 (チバナ、ちばな)、池原 (イチバル、いけはら)、恩納 (オンナ、おんな)、楚南 (そなん)、山城 (ヤマグスク)、伊覇 (イハ)、石川 (イシカワ)、嵩原 (タケバル)、宮里 (ナーザトゥ)、登川 (ニーブンジャー、のぼりかわ)、嘉手苅 (カデカル) の15ヶ村が分離独立して始まった。その後、大村渠 (ウフンダカリ)、満喜世 (マンジユウ)、渡口 (トグチ)、古謝 (コジャ)、桃原 (トーバル) の5村を新設。更にその後、満喜世は高原村、大村渠は知花と合併して知花村となっている。
  • 1776年 (明和3年) に渡口と石川が合併して石川村となる。
  • 1903年 (明治36年) に高原から泡瀬 (アーシ、あわせ) が分離。
  • 1908年 (明治41年) - 沖縄県及島嶼町村制の施行により越来村と美里村が誕生する。
  • 1945年、太平洋戦争後、米軍政府が収容所を拠点に地域の整備を図り、越来村地域に古謝市 (胡差市) が誕生。美里村は前原市に吸収される。
  • 1945年9月には地方行政緊急措置要綱に基づき、美里村北部は字石川の収容所を中心として石川市となり、美里村南部は具志川村字前原の収容所や勝連半島を包括する平安座市の一部となった。
  • 1946年4月に前原市が廃止され、石川市となった旧美里村の北部を除き、再び美里村が復活している。米軍が設置した軍政地区により、越来村はコザ地区、美里村は前原地区に編入される
  • 1956年6月、越来村からコザ村へ名称を変更し、7月にはコザ村が市制を施行しコザ市が誕生している。
  • 1974年 (昭和49年) 1月、コザ市・美里村の両議会で合併議案が提出され、美里村議会が難色を示し、混乱の中で可決され、4月に沖縄市誕生している。

旧美里村は旧コザ市同様に、合併後は米軍基地の返還や海岸の埋め立てで急速に発展発した。人口も旧コザ市を上回るようになり、裁判所や保健所が設置され、国や県の公共機関や市の消防本部や水道局なども移転し、沖縄本島中部の中心地となっている。

与儀集落 (ユージ、よぎ)

与儀集落は、南西に面した暖傾斜地からその南下方の低地に広がっている。与儀の発祥についての言い伝えがある。南山が敗れた時に、南山軍の敗残兵がこの地に敗走し、友寄ヌ子が土地や畑を開墾して家を構えたのが与儀の始まりという。友寄ヌ子の長男はナーカ、次男はティーダジョー、三男は又吉、四男は渡口と名乗り分家し、与儀村が広がっていった。現在の上殿や集落一帯にグスク時代初期の遺跡 (与儀遺跡群) が発見されていることから、集落の発生はグスク時代以前と考えられる。古文書では当初は中村渠 (ナカンダカリ) と呼ばれていたが、1674年に与儀村に村名を変えたとある。また、与喜村と記載された古文書もある。
字与儀は与儀仲原 (ヨージナカバル)、前原 (メーバル)、田原 (タバル)、荒久原 (アラクバル)、大節後原 (ウフシジクシバル)、下口原 (クリィグチバル)、浜原 (ハマバル) の七つの小字 (原名) に区分されている。(別の資料では与儀仲原は与儀原、仲原、後原の三つの原名に分けられている。)

明治時代から戦前までの与儀集落は与儀原に集中していた。1919年 (大正8年) の人口は422人 (78戸) だった。地図では与儀集落の南の外れに前原 (マヘバル) 集落が見られる。当時は前述人口のうち44人 (12戸) だった。
1986年 (昭和61年) には返還された米軍接収地域の浜原の海岸近くに3LDK104戸の県営浜原団地が建設されている。更に、この場所には1991年 (平成3年) に150戸の第二浜原団地が増設され、大きく人口が増加している。
2023年末の人口は4,036人 (1,847戸) で明治、大正時代から約10倍に増えている。
字内には鏡地屋取 (カガンジヤードゥイ) 集落があったそうだ。この鏡地屋取がどこにあったのかは調べられなかった。1903年 (明治36年) では4戸の小さな屋取集落だった。

琉球国由来記等に記載されている拝所
  • 御嶽: 与儀之嶽 - 上ヌ山小 (神名 シニョロコバツカサノ御イベ) /下ヌ山小 (神名 神山マネジカサノ御イベ)
  • 殿: 上殿
  • 拝所: 火ヌ神、クガニチュー、地頭屋、渡口神屋、神屋トニー、御願
  • 井泉: 下口井、トニー井、アダンジャガー、アナガー、産井

与儀集落の主な御願行事として、無病息災を祈るシマカンカーや五穀豊穣と子孫繁栄を祈願するウマチー、古くからある井戸に祈りを捧げる井御願 (カーウガン)、神御清明 (カミウシーミー) や慰霊祭、獅子御願エイサー (旧暦7月17日) などがある。村祭祀は美里巫によって執り行われていた。
沖縄市の資料では各集落のサーターヤーやクムイなどが記載された民俗地図は掲載されていなかった。


朝7時過ぎのバスに乗り向かう。時刻表から20分程遅れで与儀バス停に到着。昔からの与儀集落はこのバス停のある国道329号線から北の丘陵の麓に伸びている。集落は東側が高台になっており西への斜面に民家が建ち並んでいる。


下口井 (ウルグチガー)

与儀バス停を降りるとすぐの所、国道329号線の東の崖下に下口井 (ウルグチガー) がある。草を掻き分けて到着。集落東側 (アガリバタ) の住民だけが使用していたそうだ。旧暦8月10日のカーウガン (井戸御願) で拝まれている。


クガニチュー、クガニチュー前のシマカンカー

ウルクチガーから道329号線を西に渡った所は、かつての与儀集落の南の端になる。与儀集落の南端の村への入り口にあたる。ここにはクガニチューの拝所がおかれ、魔よけの神とされている。旧暦5月15日、6月15日のウマチー、9月9日、11月10日にはシマカンカーの行事、12月24日の御願解きで拝まれていた。

シマカンカーはシマクサラシと同じで、旧暦の11月1日 (12月4日) 頃に行われていた厄払いの行事で、集落に悪霊などが入り込まないように、ヒジャイナワ (左縄) と呼ばれる注連縄に島豚のチラガー (顔の肉) やミミガー (耳の肉) を挟んで、「もうここには皮しか残っていないから来ないでください」のメッセージを表してフーチゲーシ (風気返し) の御願 (ウガン) を行っている。与儀では戦後一時期途絶えていたが、しばらくするとシマカンカーを復活させ、現在でも、この場所と北の端の上殿で行われている。他の集落ではシマクサラシーと呼ばれるシマカンカーの行事では、祠を境に豚肉や骨がついた左縄を吊るし、悪霊が村に入らない様に国道方向、集落の外に向かって祈願していた。その儀式の様子 (写真左下) がインターネットで紹介されていた。
また、戦前まではクガニチューの左側に村を守るシーサーも置かれていたそうだ。


与儀公民館

クガニチューの道を集落中心地に進むと公民館が建っている。この場所が戦前は何だったのかは聞き忘れてしまった。村屋 (倶楽部) だったのだろうか? 沖縄市教育委員会が発行している資料類では、各集落についての情報は極めて少なく、与儀については詳しいものはなかった。幾つかの集落が独自に字誌を出しているが、与儀の字誌は見当たらない。集落巡りの下調べでは、資料に目を通すのだが、行政によって資料の量や質には大きなばらつきがある。沖縄市教育委員会は各集落についての関心はかなり低い様だ。

与儀自治会の前の道は綱引き (チナヒチ) の場所となっている。現在でも行われている。


火ヌ神 (ヒヌカン)

公民館敷地内北側に土地の守り神の火ヌ神 (ヒヌカン) の御願所があり、3つの霊石が祀られている。旧暦11月1日のシマカンカーの日にはヒジャイナワ (左縄) を村の二箇所に張った後、村民全員がここに集まり、火ヌ神を拝み、まずは集落の南のクガニチュー、次いで北の上殿に移動してシマカンカーの行事を行っている。その後、以前は公民館に戻り、シマカンカーで供える為に屠殺した豚を火ヌ神の三つの石に鍋を置き豚汁を作り村民で食していたそうだ。現在では神屋トニーに集まっている。


渡口の屋敷跡

与儀自治会の南東側に渡口の屋敷跡があり、渡口の祖先の按司の住居跡と伝えられている。与儀集落の村立てと伝わる南山軍の敗残兵の友寄ヌ子の四男が渡口の祖先とされる。祠内には大型の霊石が3つ、小型の霊石が3つ、ウコール (香炉) が3つ祀られている。旧暦の1月1日、5月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれている。


地頭屋 (ジトーヤー)

渡口の屋敷跡の片隅には別の祠があり、地頭代の役人が暮らしていたと伝わっている。与儀集落住民は地頭屋 (ジトーヤー) や白殿屋 (シルドゥンヤー) と呼び、旧暦の1月1日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝んでいる。


上ヌ毛 (イーヌモー)

地頭屋から坂道を村の北東側にある高台に向かう。上り切ると広場になっている。ここが上ヌ毛 (イーヌモー) と呼ばれる場所。

上ヌ毛の崖上に知念村へ遥拝する拝所が置かれている。村人は知念大屋 (チニンウフヤ) とも呼んでいる。現在、遥拝の香炉はひとつだが、本来はふたつあったと思われる。ひとつの香炉は知念グスクと知念大屋へ、もうひとつは玉城のミントンとミフーダーへ遥拝していたと言われている。旧暦5月15日、6月の15日と25日に拝まれている。


慰霊之塔

広場には第二次世界大戦の犠牲者を弔っている慰霊之塔がある。戦後、1951年 (昭和26年) に沖縄市内の慰霊碑としては最も早くに建立されている。この初代の塔は、コンクリート製の鳥居をくぐって階段を上がった先に塔の本体があった。1985年 (昭和60年) に塔の老朽化により、区の積立金と遺族や一般などか らの寄付で建て替えられて現在に至る。鳥居は復元されていない。この慰霊碑では沖縄戦で犠牲となった与儀の住民67柱が慰霊されている。与儀自治会が管理しており、6月23日に慰霊祭が行われている。

与儀集落の戦後は、1946年6月に帰還許可がおり、収容所や疎開地から高原に移動し、与儀、高原、比屋根の三集落の住民が米軍コンセットと幕舎の割り当てを受け、共同生活が始まった。同年10月に元の与儀集落への移動許可が降り、破壊された村の整備に着手し、12月から棟が完成するごとに家族単位で移動が始まり、1947年2月に全員移動が完了している。生活が落ち着いた1950年に慰霊塔建造の計画が発議され、1951年 (昭和26年) 建立されたのが、ここにある慰霊之塔になる。



ヒーゲーシー (火返し)

地頭屋と上ヌ毛の間の斜面にある民家の庭の中に変わった形の石がある。これはヒーケーシー (火返し) と呼ばれる魔除けの石柱だそうだ。石柱の表面には 「◯◯奉山石敢當」 と記されているので石敢當だった。石敢當はここで悪霊が入らない為のもので、普通は敷地内に置かれる事はない。どこからか移設されたのだろうか? 北中城村でも奉山石敢當が幾つかあった。島尻ではあまり見かけなかったが、この地域では奉山石敢當への思いが強かったのだろう。


神屋トニー

与儀遺跡の手前、南側に神屋トニーがある。仲加門中の祖先が住居を構えた場所で、集落住民はナーカアサギとも呼んでいる。南山軍の友寄ヌ子がこの地に落ち延び、ここに畑を開墾して家を構えたと伝わる。仲加門中の祖先は、その友寄ヌ子の長男だった。獅子舞を踊る神聖な場所とされており、拝所は旧暦の1月5日、5月15日、6月15日、6月25日、9月9日、12月24日に拝まれている。広場の奥側にはカミヤー (神屋) が置かれ、ヒヌカン (火の神) などが祀られている。

神屋トニーの裏側にも別の神屋があったが、この神屋の詳細は分からなかった。


トニーヌ井 (カー) 跡

仲加門中屋敷跡の西にトニーヌ井 (カー) と呼ばれた井戸があったそうだ。現在では住宅地になっており、井戸は残っていない。この辺りだろうか?


石敢当

神屋トニーから西に進んだところに古そうな石敢当が置かれていた。表面の文字は摩耗してしまっている。


石碑

更に少し西の三叉路、畑地の隅にはニービ石の石碑が残っており、「□□□西方 廣 □ 百難無」 と記されている。この石碑の目的など詳細は不明だそうだが、仏教関係かもしれない。百難ともあるので、石敢当と同じ様に魔除けの為とも推測されている。


産井 (ウブガー、キヌガー)

石碑の道を挟んだ所に産井 (ウブガー) がある。集落住民はキヌガーと呼んでいる。元旦の若水 (ワカミジ) や子供が産まれた際の産水 (ウブミジ) はこの井戸から水を汲んでいた。井戸の上にはコンクリートの蓋が置かれているが、その蓋に丸い穴が空いており、この穴から紐で吊るしたビンを降ろして水を汲んでいたそうだ。昔は水汲みは女性の仕事だったが、人に会わないよう、人に会っても挨拶はしないように朝早く汲みに行っていたそうだ。これは昔からの言い伝えで「水汲む時は誰にも会わない様にしなさい」言われていたという。現在は8月10日のシバサシで拝まれ、屋敷の神への感謝と家族の繁栄と安全が祈願されている。


アダンジャガー

神屋トニーの南側に戻り、上殿に向かい坂道を登って行く途中にアダンジャガーがあり、アダンヂガーやアカンジャーガーとも呼ばれている。旧暦8月10日のカーウガン (井戸御願) で拝まれている。現在はコンクリートの板で蓋がされている。


与儀遺跡

坂道を上りきり、道を西に少し進むと上殿が置かれている広場がある。この場所ではグスク時代の与儀遺跡が発見されている。暖傾斜地で若干の土器、須恵器、青磁等の小片が採集されている。与儀遺跡には樹齢100年と推定されるデイゴ (写真右下) とガジュマル (左下) が生息している。

上殿 (イードゥン)

与儀遺跡周辺は与儀集落を創始した仲加の祖先が暮らした場所と伝わっている。与儀遺跡の中に上殿 (イードゥン) があり、祠内には霊石、霊石柱、ウコール(香炉)、巻貝が祀られている。沖縄では近年では防火の為、ウコールでは火を付けない平御香 (ヒラウコー) を供えるのがルールだが、重要な拝所は例外として火を付けた平御香を供える。この上殿はその例外のひとつ。現在の祠は、1969年に改築されたもの。旧暦の1月1日 (旧正月) では真っ先にこの上殿を拝んでいた。また、5月15日 (ウマチー)、6月15日 (ウマチー)、6月23日 (カシチー)、8月10日 (シバサシ)、9月9日 (菊酒)、12月24日 (御願解 ウガンブトゥチ) の行事で拝まれている。
琉球国由来記には与儀と中尾に殿が二つあったと記されているが、この上殿がそれにあたるのだろうか?
また、この場所は集落の北の端で、旧暦の11月1日にシマカンカーの行事が行われている。先程に訪れたクガニチューで儀式を行った後、この場でもシマカンカーの行事が行なわれる。この広場の木の枝にヒジャイナワ (左縄) と呼ばれる注連縄を張り、縄に島豚のチラガー (顔の肉) やミミガー (耳の肉) を挟み、ヒジャイナワを境として、広場横の道で北向き、集落の外方向に向いて悪霊退散を祈願している。その儀式の様子 (写真下) がインターネットで紹介されていた。
上殿 (イードゥン) の後方には与儀遺跡にはかつてこの地で暮らしていた住民に利用された井戸跡が残っている。この井戸では旧正月に若水 (ワカミジ) を汲んでいたという。資料では集落には上ヌ井 (イヌカー) という井戸があったとあるが、その場所は記載されていない。この井戸跡がそうだろうか? 上ヌ井では、ハシカにかかった時はこの井戸の水で水撫で (ミジディー) を行い、患部を洗い平癒を祈願していたそうだ。

防空壕跡

上殿から急な坂道を降りると、神屋トニーに戻ってきた。石敢当があった三叉路を北に進む。道の右手に崖がある。この崖には防空壕が造られ、沖縄戦では住民が避難していたそうだ。


アシビナー (遊び庭)

道の終点は広い広場になっている。ここが与儀集落のアシビナー (遊び庭) として使われていた場所になる。旧暦6月15日のウマチー祭りには、子どもたちがシマズモー(沖縄相撲) を行っていたそうだ。北の向こう側、丘陵の上には高層マンション街が見えている。

アナガー

アシビナー (遊び庭) の広場の奥にアナガーと呼ばれる井戸があり、住民はクワガーとも呼んでいる。与儀集落の村立ての時代に与儀集落の祖先たちが利用していた湧水と伝わっている。昔は水量の豊富な湧き水が溢れていた。当時は各家には井戸はなく、集落の全住民が飲料水として利用していた。若水 (ワカミジ) もこの井戸から汲んでいた。昔、7ヶ月も日照りが続いた時があったが、この井戸の水で凌いだそうだ。それ以降、各家庭で井戸を堀ることにしたという。アナガーは1977年 (昭和52年) に改築されているが、現在では水は汚染され、農業用水としてのみ使われている。旧暦8月10日のカーウガン (井戸御願) で拝まれている。

山小 (ヤマグヮー)

アシビナーやアナガーの西から北にかけては丘陵で囲まれている。西側は山小 (ヤマグヮー) と呼ばれ、そこの森は与儀に初めて住み着いた場所と伝えられ、名幸島 (ナコウジマ ) と呼ばれ、与儀集落の聖域となっている。村人は祟りを恐れて、この森の木は伐採しなかったそうだ。
この森の西北に上ヌ山小 (ウィーヌヤマグヮー)、南東には下ヌ山小 (シチャヌヤマグヮー) と呼ばれる拝所があると資料にはある。琉球国由来記 (1713年) には 「与儀之嶽 弐御前 南方、神名 神山マネジカサノ御イベ。与儀村ヨリ崇之。北方、神名 シニョロコバツカサノ御イベ。比屋根村ヨリ崇之。」 と記載されている。これによると、上ヌ山小は比屋根集落の拝所で、下ヌ山小は与儀集落の拝所だった。与儀と比屋根は昔から関係が深く、二つの集落を合わせて、比屋根と呼ばれたり、与儀比屋根と併記されていたこともある。旧暦の5月15日、6月15日、6月25日、12月24日に拝まれている。ここを訪れた記事はインターネットでは見あたらず、どこかに山への登り口がないかと歩き回るが、それらしきものは見当たらなかった。諦めて公民館で確認しようと思っていたら、おじいがいたので聞いて見た。おじいは行ったことは無いのだがと言いながら、登り口の場所を教えてくれた。去年までは村の自治会で現地まで赴き、拝みを行っていたが、今年は行っていないので道が草で覆われているかもしれないと言っていた。その道に行くと、確かに道は腰まで草が生え放題だ。草を書き分け行くと道が開けている。この道が御嶽に通じていると期待が高まる。ところが、途中で道が無くなっている。とにかく丘陵上に出れば何とかなるだろうと強引に草木の間を登って行くが最後の所が急斜面でよじ登れない。何ヶ所かで試みたが、斜面一帯が草木で覆われ、足場が見えない。これ以上は危険と思いギブアップとなった。
沖縄市の文化財紹介で二つの御嶽のうちのひとつの写真があったので借用。
公民館に戻り、山小の御嶽への別ルートがあるか聞いてみた。先程苦戦した道が唯一だそうで、台風で土砂崩れがあり、丘陵上への最後の道が崩落してしまったそうだ。業者を呼び道の復元を検討したが、難しいという結果となり、残念だが、今年からはお通し (ウトゥーシ 遥拝) での拝みとなっていると説明してくれた。おじいの話はこういう事だったのかと合点が行った。

与儀集落でもう一つ見ようと思っていた拝所があるので、そこへの道も聞いたのだが、その拝所のことは知らないという。という事はほとんど荒れ放題になっているのだろう。先ほどの山小の御嶽探しで、体力も消耗し、気力も萎えてしまった。その拝所は次回訪問予定の比屋根集落の御願の近くにあるので、次回に訪問することにする。

集落内で南洋特有の植物が目に留まった。写真左上は沖縄の街中でよく見かける小型の洋蘭 (デンドロビウム・ビギバム)、右上はマダガスカルジャスミンの実で、これも沖縄ではポピュラーな植物、白い花が咲いた後に実を付けるのだが、花はもう散っていた。ポピュラーと言えばバナナもそうだ。道端に無防備にバナナの房が幾つも垂れ下がっている。

今日 (4月22日) は終日雨予報だったが、時々小雨が降る程度で、まだまだ夏が続いている。与儀集落散策は早く終わったが、暑さでバテ気味なので、バスにて帰宅。少し休憩した後に、自転車で那覇の県立図書館に行き資料探しを行った。



御願 (ウガン) (9/29 訪問)

9月29日に比屋根集落の方の御願 (ウガン) を見た後に、先日スキップした与儀集落の御願 (ウガン) も訪れた。地図ではすぐ近くにあるのだが、実際はこの二つの御願の間には深い谷になっていた。この谷が与儀と比屋根の境界にあたる。目的の御願は谷の向こう側で、丘陵の上のオキナワ グランメールリゾート ( 写真の右の高い建物) の手前の位置にある。このホテルへの道を登って行く。

この付近を探すのだが、目星をつけていた場所への道が見当たらない。そのあたりは墓地になっているので道はある筈と周辺を探す。民家の間に草で覆われた隙間があった。この隙間の可能性があると思い、草を掻き分けて、中に入って行くと広場があった。ここも草が生え放題だ。草を掻き分けて探すと草の隙間から石が見えた。これが御願だった。祠の周りの草を取り除いて写真を撮影。昔はこの辺りは畑と原野で覆われていたという。伝承では、島袋 (比屋根の北隣の集落) の男がこの地に移住し一人暮らしをていた。年をとって亡くなった際に与儀の村人が哀れに思いそこに寺 (ティラ、本土の寺の様なものではなく祠の事) を建てて毎年、魂を慰める為に拝んでいた。現在でも寺をウガンウスメー (ウスメーはおじいさんの意味) と呼んでいる。
資料では旧暦5月15日 (ウマチー)、6月15日 (ウマチー)、6月25日 (カシチー)、9月9日 (菊酒)、12月24日 (御願解 ウガンブトゥチ) に拝まれているとあったが、拝まれている様には見えなかった。
この丘陵の上に米軍兵士家族向けの規格住宅が幾つか残っていた。この西側には2010年までは米軍泡瀬ゴルフ場があった。

ここから丘陵を下り、字比屋根と北中城村の字渡口にまたがる海岸の奥武原に向かう。奥武原は軍用地返還後、総合運動公園になっている。その散策は当該集落のレポートに含めている。

参考文献

  • 沖縄市史 第3巻 民俗編 (2008 沖縄市役所)
  • 沖縄市史 第5巻 戦争編 (2019 沖縄市役所)
  • 沖縄市文化財調査報告書 第4集 沖縄市の埋蔵文化財 (1981 沖縄市教育委員会)
  • 沖縄市文化財調査報告書 第35集 沖縄市の伝承をたずねて 東西部編 (2008 沖縄市教育委員会)

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