Okinawa 沖縄 #2 Day 267 (15/09/24) 旧中城間切 北中城村 (02) Wana Hamlet 和仁屋集落
旧中城間切 北中城村 和仁屋集落 (わな、ワナ)
- カンザキ (和仁屋御嶽 ワナウタキ)
- 東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ)
- イチバルガー
- 藍井 (エーガー)
- 上ヌ井 (イーヌカー、和仁屋井)
- 松元門中屋敷跡
- 武太井 (ムッテーガー)
- 武太へ門中 (ムッテームンチュウ) 神屋
- 倶楽部跡 (村屋跡)
- 仲加門中神屋、村溜池 (ムラクムイ) 跡
- 中組砂糖小屋跡 (サーターヤー)
- 西組砂糖小屋跡 (サーターヤー)
- 仲元 (ナカムトゥ) 門中神屋、梵字碑 (未訪問)
- 和仁屋公民館
- 産井 (ンブガー)
- 下ヌ井溜池 (シチャヌカーグムイ)
- 種子取毛 (タントゥイモー)、拝所
- ヒジュルグムイ、シーサー
- 蒲仲加組砂糖小屋 (カマナカグミサーターヤー)
- 後組砂糖小屋 (クシグミサーターヤー)
- 和仁屋間 (ワナマ) の歌碑
- 勝連道 (カッチンミチ)
- 船蔵道 (フナングァミチ)
- 吉元毛 (ユシムトゥモー)、龕屋跡 (コーヤー)
- 和仁屋間馬場 (ワナマンマィー)
- 上ヌ御嶽 (イーヌウタキ) (未訪問)
- 古井戸
数日までは台風13号が直撃との予報で、今日は集落巡りは出来ないと思っていたが、幸い、台風は予測していた程ではなく、昨日がピークで過ぎ去り、今日は風は強いが曇り予報なので、無料バスを利用して、和仁屋に向かう。
旧中城間切 北中城村 和仁屋集落 (わな、ワナ)
和仁屋は沖縄本島中部の中城湾東部海岸沿いの集落で西側は丘陵地を境として仲順に面し、南は下流の前川 (メーガーラ) 上流は上川 (イーガーラ) を境界にして熱田、北は渡口に接している。字和仁屋は前原 (メーバル)、浜田原 (ハマダバル)、後原 (クシバル)、上原 (イーバル) の小字で構成されており、集落は昔から現在に至るまで前原に集中している。2023年末の人口は755人で北中城村の中では中堅の下の位置にある。
沖縄戦で人口は減少したが、戦後は人口が増加し、1960年代には戦前の人口を超えている。1995年には776人迄増加したが、その後は微増微減を繰り返し、ここ数年は微減傾向にある。
和仁屋の発祥の地は、渡口部落の西、西門原の嶽山森 (タチザンムイ) と呼ばれる小高い丘と伝えられる。その後、13世紀後半に現在の熱田の前川 (メーガーラ) の南のカンザキに移動し、更に現在地に移っている。
和仁屋は古来からの集落で、帰農士族が作る屋取集落はなく、士族住民の割合は低い。
戦前までの集落は前原 (メーバル) の西部分にあった。戦後、帰還後に集落は前原の東部分に拡張し、更に浜田原、後原の一部にも民家が増えて行った。
第二次世界大戦終盤、1944年 (昭和19年) に、和仁屋にも軍隊が駐屯してきた。球部隊と石部隊で、集落内の民家や浜田原の製糖工場を宿泊所として駐留し、集落の北側の吉元毛 (ユシムトゥモー) に防空壕陣地、吉門森には蛸壺陣地、東海岸線一帯に蛸壺陣地の構築作業をしていた。
沖縄戦では1945年 (昭和20年) 4月1日の米軍上陸直前の3月28日には、東海岸沿いの熱田、和仁屋、渡口集落が米軍機の空爆で廃墟となってしまった。
沖縄戦終結後、1946年 (昭和21年) 6月に捕虜収容所にいた和仁屋住民にも帰還許可がおりたが、和仁屋、渡口、熱田は米軍の戦略上都合により、元の集落には戻れず、喜舎場や安谷屋に移り、仮住まいを始めた。暫くして、村への帰還許可が降り、和仁屋集落へは先遣隊を送り帰還準備を始めた。その頃の和仁屋は惨憺たる有様で、戦前にあった64戸のほとんどが焼き払われ、残った家は4戸のみだった。帰還準備で廃墟となった土地に標準家屋を造ってようやく元の集落に戻る事が出来き、12月に全住民の帰還が完了している。
沖縄戦では和仁屋集落住民の24%にあたる88人が犠牲になっている。戦没者のうち、27%が村内で、他の字に比べて著しく高くなっている。この背景に何があるのかはかかれていないのだが、事前疎開が上手くいかなかったのか、3月28日の空襲か、中城湾からの艦砲射撃か、米軍上陸後の東海岸への侵攻ルートにあたっていたからか?様々な要因があったのだろう?
琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。
- 御嶽: 上の御嶽 (イーヌウタキ 神名 コバヅカサノ御イベ、マネヅカサノ御イベ 在 渡口)
- 拝所: 神屋 (火ヌ神 在 渡口)、カンザキ (在 熱田)、東世ヌ御通し (在 熱田)、松元神屋
- 拝井: 古井戸 (在 渡口)、上ヌ井 (元の場所)、上ヌ井 (現在の場所)、産井、藍井、イチバルガー (在 熱田)
- その他: 武太へ井、種子取毛拝所
熱田集落内には和仁屋集落の拝所が幾つか置かれている。これらは9月11日に熱田集落を訪れた際に見学している。
カンザキ (和仁屋御嶽 ワナウタキ)
熱田集落の北部分にカンザキと呼ばれる拝所がある。熱田集落では和仁屋御嶽 (ワニヤウタキ) と呼んでいる。和仁屋は地元では 「わな」 と呼ぶのだが、熱田では 「わにや」 という。最も、和仁屋集落でも、最近は 「わな」 と呼ぶ人はおらず、 「わにや」 と呼んでいる。昔は熱田集落でも御願していたが、現在では拝まれていない。カンザキとは神アサギの事で、昔はカンシャギと発音していた。和仁屋集落では、和仁屋根殿 (ワナニードゥン)、和仁屋御殿 (ワナウドゥン)、和仁屋御嶽 (ワナウタキ) とも呼ばれ、単に根殿 (ニードゥン) という事もある。敷地内にはゲートボール場が造られ、その隣の広場にクバの木が茂り、北側にコンクリート製の祠がある。昔は神アサギの立派な建物があったのかもしれない。根殿は根屋と同じで、集落の中心の家を表し、和仁屋村の守神として、子孫の健康・繁栄を祈願する拝所とされている。祠の中には竈を表す三つの石のウミチムンが置かれ、火の神やジーチヌカミ (土地の神) を祀っている。、和仁屋集落では重要な祭祀の場所になっており、村の全ての行事ではカンザキを御願している。旧暦 1月3日のハチウビー、旧2月15日、5月15日、6月15日のウマチー、旧盆の7月17日に拝まれている。旧盆の7月17日にはこのカンサギでチュムラガエイサー (円形で行われる全体エイサー、ひとつの村のエイサーという意味) が行われ、まずはこのカンザキを祈願し、和仁屋倶楽部 (村屋) まで道ジュ ネーを行っていた。
このカンサギを中心とする一帯は、和仁屋の古島 (フルジマ) といい、現在の集落地に移動する前の旧集落地にあたる。更にその前は、熱田集落と同様に、渡口の嶽山森 (渡口の緑公園) に住んでいたと伝えられている。当時、カンザキのこの場所には和仁屋黒金という有力者が屋敷を構え、その人を頼って周りに住居が増えていったという。この移動の理由は定かではないが、嶽山森は地質がニービのため水が出にくいが、カンサギ周辺は掘れば水が出る地域で、集落の後ろには丘があり風をしのげるという利点があり、住みやすかったのではと考えられている。当時はカンザキの西の一帯に集落を構えていたが、集落のすぐ北を流れる前川 (メーガーラ) が度々氾濫し集落に被害を及ぼした。それで、現在地に移住したと伝えられている。
和仁屋集落には六つの有力門中がある。松元 (マチムトゥ) 門中、小橋川 (クゥシチャ) 門中、仲元 (ナカモトゥ) 門中、大城 (ウフグシク) 門中、 後名幸 (クシナコウ) 門中、武太へ (ムッテ) 門中で、現在の集落には屋敷はないが、それぞれの拝所は造られている。この六門中が1200年代後半に御嶽森からカンサギ周辺に移り住んだ頃から、集落が形成され始めたと思われる。
この六門中の祖先は六煙 (ムーチヌキブイ) と呼ばれ、村立ての六戸と言われている。(キブイは竈からの煙で戸の意味で使われている)
この六煙の中で喜舎場公の子孫だとされる松元門中が最も古いと伝わっており、最初に和仁屋黒金が住んでいたカンザキに移り住み、続いて他の五つの門中が移ってきたとされる。和仁屋という集落名称はこの和仁屋黒金に由来するという説もある。和仁屋黒金が当地に来た当時は 渡口、熱田の地名さえなく、黒金が住むようになってから、名付けられたと言う。その名残が渡口の和仁屋間の寺やこのカンザキなど和仁屋の名が付いた遺跡や、和仁屋に関する遺跡が広範囲に散在している。
東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ)
カンサギ内に東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ、ウフアガリ) の拝所がある。東世 (アガリユー) は東方のニライカナイを表しており、元々はそのニライカナイを遥拝する場所だったのだが、近代に入り、沖縄から多くの住民移住して行ったブラジルやハワイ等へ祈りを届けてくれる拝所と変化している。沖縄の人達は同胞意識が強く、移住して行った人達への思いが現れている。
イチバルカー
カンザキのすぐ東側にイチバルカーがある。和仁屋集落のカンザキ時代に使用された井戸になる。ここの水を飲むと武士、力持ちの子や美人が生まれると伝えられているが、この井戸の水は東方向に流れているので、美しい子は東に嫁にいってしまうという。旧暦1月3日のハチウビー、6月15日のウマチー、6月25日のウハチ、12月の師走御願で拝まれている。
藍井 (エーガー)
熱田にあるイチバルガーから北に進み、字熱田と字和仁屋との境界線になっているクシガーラ (後川、和仁屋集落では和仁屋前川という) を渡る。今は細い水路になっている。
字和仁屋に入った所に細い路地の途中には、藍川 (エーガー) という小さな井戸がある。
昔はここで着物を染める藍を使って藍染をしたというので藍井 (エーガー) と呼ばれている。旧暦1月3日のハチウビー、6月15日のウマチー、6月25日のウハチ、12月の師走御願で拝まれている。
藍井 (エーガー) の北側には戦前までは前組のサーターヤー (砂糖小屋) が置かれていた。
戦前には和仁屋集落には5つのサーターヤー (砂糖小屋) があったが、1939年 (昭和14年) に和仁屋と熱田の142人の共同出資で発動機による和仁屋熱田製糖工場が建設され、伝統的なサーター車でのサーターヤー (砂糖小屋) は次第に姿を消していった。製糖工場へはト ロッコの軌道も敷設され、馬にひかせてキビを運んでいた。戦争直前まで製糖工場での製糖は行われていたが、戦後は稼働しておらず、赤レンガの煙突だけが戦後もシンボルとして残っていた。この煙突も1986年に取り壊されている。
ここまでは9月11日に訪れた拝所になり、今日は、続いて、和仁屋集落の残りの拝所などを巡る。
和仁屋集落に入る。明治時代までの和仁屋集落は現在の集落の西半分ぐらいの範囲だった。その地域で拝所となっている二つの井戸が残っている。
上ヌ井 (イーヌカー、和仁屋井)
集落の西の端の道 (昔は石畳) を北に登る途中の四角に上ヌ井 (イーヌカー) がある。和仁屋ガーともいわれる。カンザキから集落がこの辺りに移ってきてからでは最も古く、砂岩石を使った直径3mくらいの半円の井戸で、生活用水として使われていた。井戸の手前は洗濯場になっていて二つの円形のくぼみが作られ、一カ所のくぼみは着物を洗う場所だった。綺麗な水だったので飲み水にしたり野菜を洗っていたそうだ。沖縄戦が近くなった時期には水量も減り、水質も劣化していた様で、飲料水は産井を利用していた。現在では道拡張の為に半分ほど埋められてしまったが、今でも水は湧いているそうだ。イーヌカーはヤクシ (薬) の神様と繋がっているとされ、健康祈願をしていた。旧暦1月3日のハチウビー、6月15日のウマチー、6月25日のウハチ、12月の師走御願で拝まれている。イーヌカー近辺には、六煙の松元、ムッテー (武太へ) などの旧家が集中している。
ここにも漆喰シーサーが置かれている。
松元門中屋敷跡
上ヌ井の前にはマンションが建てられているが、かつては六煙 (ムーチヌキブイ) の中で喜舎場公の子孫だとされ、最も古いとされる松元門中の屋敷だった場所になる。松元門中の先祖が、御嶽森からカンザキに最初に移住した家という。
武太井 (ムッテーガー)
上ヌ井 (イーヌカー) の四角から東への下り坂があり、そに途中道沿いに祠がある。ここは武太井 (ムッテーガー) があった場所。柄杓井戸 (ニーブガー) とも言われた浅い井戸で、柄杓で水を汲んでいた。名前から武太へ門中(ムッテームンチュウ) と関係あると思われるが、その詳細は不明。沖縄戦後、井戸は消滅していたが、戦前と同じ場所に再現している。この井戸は現在でも自治会に拝まれている。今日は住民総出の草刈り日でこの武太井も綺麗に草がかられていた。
武太へ門中 (ムッテームンチュウ) 神屋
武太井の奥は村の草分けの六煙 (ルゥクキブイ) のひとつの武太へ門中 (ムッテームンチュウ) の屋敷跡で、神屋が置かれている。
倶楽部跡 (村屋跡)
武太井から道を東に降りると和仁屋集落の中心地となり、そこには倶楽部跡がある。2008年 (平成20年) に公民館が新築再建されるまで使われていた。昭和初期までは村屋 (ムラヤー) と呼ばれていた。沖縄戦後、和仁屋の人々が収容所から戻ると、村は4軒を残して全戸が壊滅し、倶楽部はかろうじて建物の骨組みだけが残っていた。1947年 (昭和22年) ごろに、残っていた骨組みだけの倶楽部に村民共同作業で萱を葺き替え、再開している。
ここにも漆喰シーサーが置かれている。
仲加門中神屋、村溜池 (ムラクムイ) 跡
倶楽部跡のすぐ北に広場があり、ここでもご婦人達が草刈りをしている。前には子供の広場で遊具もあったそうだ。広場の隅にも漆喰シーサーがいかれている。戦前までは村溜池 (ムラクムイ) だった。その隣が仲加門中の屋敷で敷地内に神屋が建てられている。
中組砂糖小屋跡 (サーターヤー)
倶楽部跡の南には、戦前までは中組の砂糖小屋跡 (サーターヤー) が置かれていた。跡地の隅には、漆喰シーサーが置かれている。
西組砂糖小屋跡 (サーターヤー)
中組砂糖小屋跡の西にももうひとつ砂糖小屋跡 (サーターヤー) が戦前まで置かれていた。中組が使用していた。砂糖小屋 (サーターヤー) の側にはほとんどの所で溜池 (クムイ) が併設されていた。このクムイがあった所は現在は民家が建っており、ここでも漆喰シーサーを見つけた。
仲元 (ナカムトゥ) 門中神屋、梵字碑 (未訪問)
倶楽部跡の東には六煙 (ムーチヌキブイ) のひとつの仲元の屋敷だった。ここにも塀の上にも漆喰シーサーが置かれている。和仁屋集落内では水の便がよく、各家では井戸を持っていた。この仲元でも井戸を掘った際に、梵字碑が出てきたそうだ。今でも敷地内で保管しているそうだ。その写真 (右下) が資料に載っていた。
次は集落の東から北を散策する。この辺りは戦前は畑で民家は殆ど無かった。
和仁屋公民館
和仁屋集落の東端に和仁屋公民館が建てられている。元々の公民館 (村屋、倶楽部) は集落の中心地にあったが、老朽化と各コミュニティ活動には手狭になり、1997年 (平成9年) 頃に、公民館の移転再建が決まり、その後、住民が資金積立を行い、集落東端の耕作放棄地を地権者五人から購入し、10年後の 2008年 (平成20年) にようやく落成の運びとなった。台風で延期になっていた村人総出の草刈りが今日は沖縄れるので、公民館に集合し集落各地の草刈り作業に向かっていた。ここでおじいと出会い、和仁屋集落について色々な話をしていただいた。この後、集落を散策をしている最中にも何度も出会い、その度に説明を受けた。下調べを入念にしていたので、話は噛み合い意気投合となった。帰りには和仁屋の字誌もいただいた。おじいから聞いた話は、この訪問記の当該箇所に記載している。
公民館の入り口や敷地には幾つものシーサーが置かれている。北中城村の各集落ではこの様なシーサーのモニュメントを多く見かける。特にこの和仁屋村では至る所にシーサーを見かける。これは2000年頃から村の活性化、村興しの為に、漆喰シーサー体験講座を始めた。漆喰シーサー振興会を組織し、各地で漆喰シーサー作りのイベントを開催している。和仁屋シーサーは古い瓦と漆喰で作り、これまでに300体ほど作品があり、それがこの公民館や集落内に置かれている。
集落内でも幾つもの漆喰シーサーが置かれている。見つけたシーサーの一部が下の写真。
産井 (ンブガー)
和仁屋公民館の前の通りの道路の真ん中の分離帯の中に赤瓦葺き建物がある。2016年 (平成28年) に改修工事が行われた和仁屋の産井 (ンブガー) だが、和仁屋村の下の方の井戸なので、下ヌ井戸 (シチャヌカー) とも呼ばれている。若水 (ワカミジ) や産湯 (ウブミジ) を汲む井戸だった。また死者を清める死水 (シニミジ) もここから取った。産井 (ンブガー) は水量の豊富な井戸で、長い干魃のときには熱田、渡口からこの井戸の水を汲みに来ていた。この井戸にはカニマンの神が鎮座しているとされ、拝むとお金に不自由しないといわれ、現在でも他の部落から拝みに来る人が絶えない。 村では旧暦1月3日のハチウビー、6月15日のウマチー、6月25日のウハチ、12月の師走御願に拝んでいる。井戸後方にも漆喰シーサーが置かれている。
下ヌ井溜池 (シチャヌカーグムイ)
産井の道を北に渡る。産井の北側にはかつては下ヌ井溜池 (シチャヌカーグムイ) があった。元々は大きな池だったが、新しい道路の敷設のため、現在は一部だけが残っている。産井 (ンブガー) から溢れた水がたまって池になっていた。田んぼ用水として使用し、牛馬も洗っていたそうだ。
種子取毛 (タントゥイモー)、拝所
更にその北側は稲作の時代に稲種子をとっていた字有地の種子取毛 (タントゥイモー) があった。苗代の収穫時にはこの場所で慰労会が行なわれ、種蒔きの際にはここで豊作を祈願していた。その際の御願所が道沿いに置かれている。旧暦の10月にこの種子取毛 (タントゥイモー) で拝みがあり、ナーシルダー (苗代田) を持っていた 各チネー (世帯) が集まって祈願していた。
戦後、種取毛の西側付近には米軍が使用した砲弾の薬莢が幅約40m、長さ約100m、高さ約3mにわたり整然と野積みされ1949年 (昭和24年) 頃まで放置されていた。住民はこれを廃物利用して屋敷や土地の境界線、住居、家畜小屋の壁、井戸の石積の代用、花びん、結婚式の指輪として再利用していたという。中には未使用に薬莢もあり、子供達がそれを爆発させて遊んでいたそうだ。
この辺り、集落の東側一帯は昭和44-45年まで、産井 (ンブガー)、ヒジュルグムヤーからの湧水を水源とした水田が多く、稲作が行われていた。稲作の他には 田芋、藺草を栽培していた。土地が肥沃で牛蒡 (グンボー) の産地で和仁屋牛蒡 (ワナグンボー) として知られていた。
ヒジュルグムイ、シーサー
更に道を北に進むと三叉路に出る。ここの東側はヒジュルグムイがあったそうだ。冷たいという意味で冷水が湧く池で、田んぼの用水池だった。ここの三叉路東側にはシーサーが置かれていた。
蒲仲加組砂糖小屋 (カマナカグミサーターヤー)
三叉路を西に進むと駐車場がある。ここは戦前までは砂糖小屋 (サーターヤー) があった場所。
後組砂糖小屋 (クシグミサーターヤー)
更に道を西に進むと駐車場がある。ここは戦前までは、後組の砂糖小屋 (サーターヤー) が置かれていた場所になる。字所有の土地だったが、現在の公民館の土地取得の際に一部はこのサーターヤーと交換して民有地となっている。
和仁屋間の歌碑
後組砂糖小屋跡の上北側の住宅地の中に和仁屋間の歌碑が置かれている。1800年 (尚温6年) の冊封式典後の余興芸能として仕組まれた、辺土名親雲上の作といわれる組踊の忠臣身替の巻 (八重瀬とも称される) は村のあちこちの村踊りても演じられていた。
東表を見渡せば
浪のぬれぢの津堅島
おりて渡口の村過ぎて
わにやま潮路にわけ入れば
急ぎあゆでも歩まらぬ エイ
今ど勝連南風原に
急ぎいそいでしので来やる
八重瀬の按司によって滅ぼされた主君 (玉村按司) の遺児の若按司か身を寄せていた平安名大主の裏切りで、若按司が敵の手にわたされたと風の便りに聞き忠臣の波平大主かその実 不実を確かめるべく勝連に忍んでいく道行を謳っている。
「わにやま潮路にわけ入れば」 のわにやま (ワニャマ) は和仁屋 (ワナ) の事で、潮路とあるので、和仁屋間 (ワニャマジョー) あたりが昔は潮路であったと思われる。村の近くに船蔵という原名もあるので、和仁屋間は昔は船が出入していた事が分かる。わにやまは首里方面から勝連方面へ渡る潮路だった。
勝連節にも「勝連ぬ島や通いぶしゃあしが和仁屋間門ぬ 潮ぬきやいあぐでぃ (勝連の村には通って遊びたいが、 和仁屋門の潮波が荒くて渡るのが大変難儀だ)」と和仁屋門の様子が歌われている。現在では地形は変わっているのだろうが、和仁屋間 (ワニャマジョー) と呼ばれる道 (間は道を意味する) はこの碑の東側の海岸線を通っていたようで、和仁屋は大きな港で首里・野嵩と勝連を結ぶ重要な中継地になっていたと推測されている。
勝連道 (カッチンミチ)
和仁屋間の歌碑から道路を北に進むと、道路は大きく東に曲がっている。ここから西側に細い通路の様な所がある。この道が、先程の歌碑にあった渡口から勝連への道で石畳道だった。百度踏揚 (モモトフミアガリ) が勝連の阿麻和利 (アマワリ) に嫁ぐ時に通ったと伝わっている。先ほど見た和仁屋間の歌碑はここに置きたかったのだという。勝連道はここに流れる川にそって伸びていたが、時々水が溢れ出し勝連道を少しずつ崩したそうで、U字溝が作られかつての勝連道は失われてしまった。地元では再現を期待したが、行政は費用対効果がないという事で対応はされていない。
船蔵道 (フナングァミチ)
勝連道からは北の渡口にあった船蔵 (フナングァ) への道が通っていたそうだ。現在では消滅して面影は残っていない。
吉元毛 (ユシムトゥモー)、龕屋跡 (コーヤー)
和仁屋間の歌碑の西側には吉元毛 (ユシムトゥモー)、吉元山 (ユシムトゥヤマ) と呼ばれた小高い丘 (写真左) がある。昔はここで若者たちが集まって時を過ごしていた。今は雑木林となっており、中には入って行けない。沖縄戦直前までは旧日本軍の防空壕陣地が置かれていたそうだ。この吉元毛 (ユシムトゥモー) の北の麓には龕屋があった場所になる。公民館で出会ったおじいに 「ガンヤ」 の事を聞くと通じない。亡くなった人を墓に運ぶ龕と言うと、「コーヤー」 の事だなと通じた。地元ではこの様に呼んでいる。自動車で案内してくれた。歌碑の場所から道があった。ここも雑草が生い茂っている。歩いて行くにはハブの活動期で危険という事で、自動車で途中まで進んでくれた。この先が龕屋があった場所 (写真右) になる。龕屋は沖縄戦で消滅してしまったが、戦後村へ帰還後の1950年 (昭和25年) に龕と龕屋を再建して暫くは使っていた。戦前まで、沖縄では風葬、洗骨が通常の埋葬方法だったが、戦前から火葬をが奨励されていた。戦後、次第に火葬が広まりって行く。それに伴い、龕も使用されなくなっていった。この和仁屋も例外ではなく、1957年 (昭和32年) には火葬に変わり、龕は琉球政府立博物館 (現在の沖縄県立博物館 おきみゅー) に寄贈されている。
これで和仁屋集落内の史跡見学は終了した。おじいが親切に対応してくれた事や、草刈りで多くの村民が通りで作業して、話す機会が多くある。楽しい集落巡りだった。今日は始発のバスで来たので、まだまだ時間が残っている。心配していた台風は沖縄本島からはずれ、気温は32度で晴れ、真夏日となり、兎に角暑い。暫く休憩して、北隣の渡口集落に向かう。
和仁屋間馬場 (ワナマンマィー)
和仁屋集落を後にして、道を渡口交差点に向かう。途中に幅広い道になっている。ここが戦前までは和仁屋間馬場 (ワナマンマィー) と呼ばれた馬場が造られていた。和仁屋集落の馬場なのだが渡口にある。旧暦8月11日にはこの和仁屋間門で御願が行われた。熱田、渡口、仲順、喜舎場、荻道、大城、コザ方面から馬が集まり、馬勝負が行われた。また、出店も多く、相撲大会も催されていた。
この馬場についてはその所有に関して、熱田、和仁屋、渡口の間で2度裁判になっている。戦後、熱田と和仁屋の間で裁判となり、過去の地図や熱田には馬が多く、和仁屋には馬がいなかったので、熱田の勝訴となった。その後、熱田と渡口との間で争いとなり、熱田の勝訴となっている。この結果何だが、和仁屋集落はこれは地番の話で、あいかわらず、和仁屋間馬場は和仁屋のものと思っている。
和仁屋集落は三回移動しており、その当時に拝所がその地に残っており、現在でも御願している。集落発祥地は渡口の嶽山森、次に移動したのは熱田のカンザキになる。熱田にある拝所は前回に訪れている。嶽山森がある渡口は訪問を予定しているので、その際に追って追加する事にする。
上ヌ御嶽 (イーヌウタキ)
和仁屋発祥の地は字渡口の西門原にある嶽山森 (タチザンムイ、タッチジャン)、現在ではみどり公園となっているあたりと伝わっている。この公園内の小高い丘に上ヌ御嶽 (イーヌウタキ) がある。みどり公園の中に上ヌ御嶽への道はあるのだ入り口にロープがはられていた。嫌な予感がしたのだが、この道なので階段を登って行くと、道は倒木で塞がれている。何とか潜り抜け進むのだが途中で道が無くなっている。嫌な予感が的中した。ただ、ここへは和仁屋集落が村祭祀を行っているのでどこかに代替路があるはず。今日は暑さでグロッキー気味になっている。これ以上道を探す気力は残っておらずギブアップ。次回は和仁屋公民館に立ち寄って代替路を確認したほう良いだろう。
この地で和仁屋集落がいつ頃始まったのかは不明。上の御嶽は和仁屋集落の御嶽で、和仁屋御願 (ワナウガン)、和仁屋御嶽 (ワナウタキ) とも呼ばれている。(熱田のカンザキも和仁屋御願、和仁屋御嶽と呼ばれている)
琉球国由来記 (1713年) には和仁屋村の御嶽として 「上立御嶽 二御前 和 仁屋村一御前 神名、コバヅカサノ御イベ 一御前、神名、マネヅカサノ御イベ」 とあり、この上の御嶽がそれにあたると推測されている。上立神嶽、下立神嶽 (熱田村の御嶽) の立神 (タチガミ) はタチジャンミ→タチジャン→タチザン (嶽山) と変化したと考えられている。
この上の御嶽は屋根、壁ともにそれぞれ一枚のサンゴ石灰岩でできた東向きの石造建造物で、祠内には三つの神体の天の神、地の神、火の神が祀られている。旧1月3日のハチウビーと旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日のウマチーにここを拝んでいる。下の写真はインターネットでまだ道が整備された頃に訪れた人がアップしていたものを借用した。この写真を見ると公園の上から下ってこの上ヌ御嶽への道がある様だ。次回にトライ予定。
古井戸
高台にあるみどり公園から急な階段を降りていくと広場があり、そこに井戸がある。嶽山森に和仁屋集落があった時代の村井 (ムラガー、村の共同井戸) だった。
今日は和仁屋の後、渡口集落も巡ったが、朝8時15分にバスを降りてから既に7時間炎天下で10kmを越えるの散策で体力も限界にきている様だ。渡口集落は予定の7割程を見学したが、残りは少し離れた二地区にある。頑張っても終わりそうにないので、今日はこれで終わりにする。クーラーの効いたバスに乗り込み、座席にぐったりと座り込み、家に向かう。
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
- 字誌 わなむら (2021 和仁屋自治会)
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