Okinawa 沖縄 #2 Day 266 (11/09/24) 旧中城間切 北中城村 (01) Atta Hamlet 熱田集落

旧中城間切 北中城村 熱田集落 (あった、アッタ)

  • 熱田シー
  • 熱田公民館
  • 島根殿 (シマニドゥン)
  • 産井 (ンブガー)
  • 東世ヌ御通所 (アガリユーヌウトゥシドゥクル)
  • 山石敢當
  • 中道 (ナカミチ)
  • シマナーカの通りの井戸
  • 前ヌ井 (メーヌカ-)
  • 墓、井戸
  • 根屋 (ニーヤー)、根所 (ニードゥクル) 
  • 根屋井 (ニーヤーガー)
  • 和仁屋御嶽 (ワナウタキ、カンサギ)
  • 東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ)
  • イチバルガー
  • 藍川 (エーガー)
  • 梵字碑
  • 松島ヌ井 (マツシマヌガー)
  • 上ヌ井 (イーヌガー)
  • 御待ち毛 (ウマチーモー)
  • 龕屋跡
  • 井戸跡
  • ナカニシガー
  • 井戸跡
  • 熱田マーシリー
  • 宮城御願 (ナーグスクウガン 未訪問)
  • 米須嶽 (クミシダキ)  (9/15 訪問)
  • 和仁屋間のテラ (9/15 訪問)


今日から沖縄集落巡りを再開する。前回の訪問は2ヵ月前、それ以降に一度北谷町の集落訪問を試みたのだが、20kmほど走り、まもなく目的地と言うところで軽い熱中症の症状が出て、リタイア。そこで落ち着くまで休み集落訪問は断念し、休み休み時間をかけながら帰宅となった。去年は熱中症で気を失った事もあったので、今年の夏は遠出を避けて、暑さが和らぐまで自重していた。膝の痛みも随分とおさまってきた。気温は、まだ30度~31度と高いのだが、沖縄県がバス利用促進のイベント開催しており、9月は日曜日と水曜日がほとんどのバスが無料で利用できる。これを利用すれば行き帰りは熱中症を心配せず快適に移動ができる。9月中はこのバスを利用して集落巡りをすることにした。
9月に入ってから連日雨で、今日も雨。バスなので目的地までは濡れないで利用できる。住まいの近くのバス停から乗り換えなしに行ける集落を選び、北中城村の熱田集落訪問とした。1時間程で熱田停留所につき、雨ガッパを着込んで集落巡りをスタート。


旧中城間切 北中城村 熱田集落 (あった、アッタ)

熱田 (アッタ) は北中城村の東部に位置し、東は中城湾に面し、南はクバタガーラ (久場川) を挟んで中城村久場、西は丘陵を越えて大城と仲順、北はクシガーラ (後川、和仁屋集落では和仁屋前川という) を挟んで和仁屋に接している。1972年の本土復帰までは1800人程の人口があり、北中城村では最も人口の多い字だったが、それ以降は人口は減少して、現在では4番目にまで落ちている。
熱田集落の始まりについては時期は不明だが、渡口の西北にある宮城御願 (ナーグシクウガン) から米須嶽 (クミシタキ) に移住し、後に現在の地に移動したといわれている。米須嶽には火の神が祭られ、現在でもウマチーには熱田の古島の御嶽として拝されている。宮城御願は戦前まで拝んでいた。
字熱田は12の小字に区画されている。東原 (アガリバル)、西原 (イリバル)、前上原 (メーイーバル)、上原 (イーバル)、後上原 (クシイーバル)、加井真川原 (ケーマガーバル)、宗石原 (ソーシバル)、仲里原 (ナカザトゥバル)、高辻原 (タカチジバル)、前原 (メーバル)、真志札原 (マーシリバル)、浜原 (ハマバル) で構成されている。
戦前までの集落は中城湾側の平坦地の東原と西原全域に集中し、東原と西原の境に中道 (ナカミチ) が走り、整然とした碁盤目状の形態をとっている。この碁盤目状の区画は琉球王国時代の農業政策によるものではなく、沖縄戦で焦土と化した熱田集落を米軍指導で区画整理されたものだそうだ。その南の前原、真志礼原は広大な農地で、砂糖きびの半分ははこの地域で生産されていた。北側の前上原・ 後上原・上原はまとめて上原と称している。上原三字の南外の加井真川原は傾斜地となっている。仲里原は前原と加井真川原に挟まれた比較的狭い地域。仲里原の西側の宗石原は山林地域。浜原は中城村の久場から和仁屋境界までの細長い東側の海岸一帯でかつては田が多く米作が盛んな場所だった。
明治36年の人口に対しての士族の割合は0%で純粋に農民で構成された村だった。これは北中城村にほぼ共通の傾向で中城村に比べて士族割合は低かった。
戦前までは住民のほとんどは農業に従事していた。人口が多い割に耕地面積が少なく、字外にも耕作地を持っていた。農作物は砂糖きびと主食の米、甘藷が最も多く、豆類や野菜類等もあった。
熱田集落の民家の分布の変遷を見ると、明治時代の集落の範囲と現在のそれとはそれほどの変化はみられない。字熱田の西側と県道沿いに民家が少しだけ増加している。
1990年代後半に中城湾海岸部が埋め立てられている。かつての海岸は埋め立て地域との間の川となり、1997年 (平成9年) には県営北中城団地 (4棟 137戸 3LDK) が建設され、北側には緑地公園 (左下)、しおさい公苑の公園 (右下)、給食センター (右中) が併設されている。
埋立地海岸は熱田漁港が整備されている。港には幾つもの漁船が見られた。ただ、戦前には中城湾に面していたにもかかわらず、漁業に従事する家は一軒だけだったそうだ。

琉球国由来記等に記載されている拝所
  • 御嶽: 和仁屋御嶽 (カンザキ 和仁屋集落拝所)、米須嶽 (在 渡口)、下立御嶽 (三御前 神名、森ヅカサノ御イベ、神名、コバヅカサノ御イベ、神名、クモコズイノ御イベ  所在地及び比定地の記載なし)
  • 殿: 浜川ヌ殿 (所在地及び比定地の記載なし)
  • 拝所: 熱田シー、島根殿、東世ヌ御通所、根屋、根所、和仁屋間のテラ (在 和仁屋)、宮城御願 (在 渡口)
  • 井泉: 産井、根屋井、藍川 (和仁屋集落拝井)、イチバル (和仁屋集落拝井)ガー、松島ヌ井、上ヌ井、前ヌ井

米須嶽、和仁屋間のテラ、宮城御願は字熱田の外にあるので、今回は訪問せず。

祭祀行事は大城ノロによって執り行われていた。


ケンドー (県道、現在の国道329号線)

家の近くのバス停で東陽バス泡瀬東線に乗り、沖縄を縦断している国道329号線を突っ走り、40分程で熱田交差点を過ぎた所の熱田バス停に着き下車。国道329号線は本土復帰前までは政府道で、昔からケンドー (県道) と呼ばれていた。昔のケンドーは現在の国道329号線とほぼ一致している。

熱田シー

国道329号線の東側は浜原 (ハマバル) という小字になる。東側海岸の熱田漁港との間の畑の中に珊瑚石灰岩の祠があると資料に記載があった。地図もあり、その場所に行って見ると、一帯は雑草で覆われてその場所に近づく事さえできなかった。昔は旧暦3月15日の三月ウマチー (サングヮチウマチー、麦の豊年祈願) の際に、大城ノロ、安谷屋ノロ、瑞慶覧ノロ、島袋ノロが揃い、この熱田シーでネズミなどの害虫駆除祈願を行っていた。現在は、旧1月3日と旧2月15日、5月15日、6月15日の各ウマチー (豊年祈願)、旧6月25日のウハチー (収穫祭) の行事で拝まれているとあるので、御願の時期には草がかられて、拝所が姿を表すのだろう。右下の写真は北中城村のホームページで紹介していたものを借用。

熱田公民館

バス停に戻り、国道から西側の熱田集落に入る。西原と東原にまたがる熱田集落の中央部、二つの原の境、東原側に熱田公民館が建っている。戦前はここにある島根殿の敷地東角に倶楽部と呼ばれた建坪35坪ぐらいの木造瓦葺の建物だった。住民の集会や、青年会や婦人会の活動の場として活用されていた。第二次世界大戦で焼失したが、現在は大きな体育館併用の公民館となっている。
熱田公民館入り口には赤いペンキが塗られた酸素ボンベが吊るされていた。島尻では各公民館に酸素ボンベが吊るされていたが、北谷町、中城村、北中城村では初めて見る。ボンベの胴体には火の用心と書かれている。警鐘として使われていたのだろう。通常は戦後、住民への連絡用の鐘として使われ、その鳴らし方で色々な知らせをしていた。
沖縄戦が始まる前にまでは、集落内の民家五軒が兵隊の宿舎として使用され、行軍する日本軍兵隊の小休止場所となっていた。
1945年 (昭和20年) 4月1日の米軍上陸後の侵攻ルートに従って、先ずは北中城の西側にある瑞慶覧、屋宜原、安谷屋、石平、北側にある島袋、比嘉の住民が捕虜になり、そして、中間にある喜舎場、仲順、更に東側にある渡口、和仁屋、熱田と南側にある萩道、大城の住民が数日で捕虜になっている。当時は熱田の人口は北中城村ではもっとも多く、その26.7%にあたる351人もの犠牲者を出している。村内での犠牲者は犠牲者全体の11%と比較的少ない。これは米軍上陸時には北中城村に駐留していた日本兵は中城グスクから首里城の本営にかけての防衛線に移動しており、村内には兵士がおらず、ガマなどに避難していた住民の投降がスムーズに行われた。これにより、北中城村の戦没者は他の地域に比べて少なかった。とは言っても、米軍上陸の数日前には大規模空襲によって村は壊滅状態になっていた。
1945年 (昭和20年) 10月に捕虜収容所の住民を元の居住地区に移す移動計画案指示要綱が策定され移動準備のための先遣隊が派遣された。北中城の移動許可地は、喜舎場、仲順、熱田、和仁屋、渡口が喜舎場区、安谷屋、屋宜原、瑞慶覧、萩道、大城が安谷屋区と決められ、10月末から順次移動が開始された。
喜舎場区への移動となった字住民は1946年 (昭和21年) 3月に帰村が許可され、5月には移動が完了している。そのころの東海岸沿いの周辺は、まず中城湾には数多くの米艦船が停泊し、久場崎には米軍港 (ブラウンビーチ) があり、その周辺には米軍基地が広がり、熱田前原から真志礼原一帯は、大きな米軍のモータープールになり、車の往来が激しかった。仲順から東側への道沿いのバーケー原には、米軍のユニバーシティー (野戦沖縄大学) があり、渡口と隣接する美里村 (現・沖縄市) の与儀・比屋根・泡瀬一帯には、新設飛行場があった。この様な環境だった事から、熱田、和仁屋、渡口の住民は直接各自の村落に帰ることができず、喜舎場区に集団移住している。
熱田、和仁屋、渡口の帰村が始まるのは1946年 (昭和21年) 5月に北中城村が中城村から分村後の6月からで、集落建設隊が派遣され、集落建設に取りかかった。米軍の上陸直前の三月末の空襲でほとんどの家屋が焼き払われ、その後、米軍の進駐で、敷きならされていたので、一から集落をつくるようなものであった。熱田は、運動場のように均された地形になり、かつての屋敷の境界も不明な状態であったので、米民政府工務部の指導で、屋敷の区画分配、道路開通などを行った。熱田は9月、渡口、和仁屋は12月には移動帰郷が完了している。熱田が帰郷完了の1ヵ月後の10月には県外、外地から約250人の那覇市民が久場崎に引き揚げ上陸し、熱田住民が住み始めた熱田の前原のテント小屋とコンセットに収容することになり、熱田住民困惑のなか、引き揚げ那覇市住民と熱田住民は混成の集落となり、部落振興を進めていった。この状態は1949年 (昭和24年) 7月のグロリア台風でテント小屋、コン セットが被害を被り、那覇の人々は、徐々に那覇に戻るまで続いていた。

島根殿 (シマニドゥン)

熱田集落の重要な拝所は、公民館近辺に集中している。熱田公民館の敷地内には祈願の対象の波で浸食された大きな岩を背に建てられた島根殿がある。島根殿は元々は熱田御嶽 (アッタウタキ) と称し、別の場所にあった。熱田に来住した人のものと伝えられる遺骨があったが、倶楽部の神屋小 (カミヤーグワー) に移し、島根殿 (シマニドゥン) が建てられた。

1940年 (昭和15年) に石造りの祠をコンクリート製に造り替え、鳥居がその際に建てられ、お宮 (オミヤ) と呼ばれるようになり、現在に至っている。沖縄戦での戦火で木造部分は焼失し、かろうじて拝殿と岩と鳥居だけが残り、焼失したところに現在の公民館が建設されている。公民館の人が話してくれたのは、この人が米国留学中に、沖縄戦に関わった元米軍人から当時の沖縄空爆計画書の地図を見せて貰ったそうだ。沖縄戦の前には綿密な沖縄侵攻やその後の統治計画まで完成していたのを見て驚いたという。その計画書には熱田の空爆計画もあり、この島根殿、倶楽部、その周りの旧家は空爆対象外となっていた。住民の信仰の聖域などはできる限り戦火が及ばない様に配慮がされていたという。この事で、拝殿が消失から免れた。この様な拝殿が設けられている拝所は沖縄では初めて見た。昭和初期からあったというので、本土の国家神道の影響があるのだろう。この島根殿は熱田集落の草分け門中の一つの仲門により管理されているそうだ。
沖縄戦前までは神人がウマチー (旧暦2月15日、5月15日、6月15日) に御花、線香、神酒を供えて集落の住民の健康と豊年祈願をしていた。現在でも外部からの参拝者も年中絶えることがなく、 旧暦2月15日、5月15日、6月15日)の各ウマチー、旧暦6月14日の綱引き、6月25日のウハチ、7月16日のエイサーで拝まれている。7月にはこの公民館の広場では熱田エイサー祭りが行われている。産川、島根殿、東世ヌ御通所を参拝後、旗頭の出迎え、小橋川 (クヮシチャ)、仲門 (ナカジョー)、根所 (ニードゥクル) のアサギをに参拝し、エイサーや空手演舞などが奉納されている。
大岩の前と公民館玄関下に差石 (サシイシ、力石) が置かれている。集落内にあった物をここで保存している。


東世ヌ御通所 (アガリユーヌウトゥシドゥクル)

熱田公民館の敷地内には西向きに建てられた東世ヌ御通所 (アガリユーヌウトゥシドゥクル) の拝所もある。単に、東世 (アガリユー) とも呼ばれている。ここは東世 (アガリユー) への遥拝所で、東のニライカナイ (琉球神話の理想郷、日本神話の根の国に相当) に向かっ豊穣を祈願していた。祠の横には手水鉢が置かれている。昭和15年に鳥居が設置された際に、この手水鉢が置かれたのだろう。これも戦前の国家神道政策の名残りだ。現在では各ウマチー、旧暦6月14日の綱引き、6月25日のウハチ、7月16日のエイサーで拝まれている。


産川 (ンブガー)

熱田公民館の北東側に産井 (ンブガー) がある。名の通り、集落で子供が産まれると、この井泉から水を汲み産湯 (ウブミジ) に使用していた。また、正月の若水 (ワカミジ)、死者の体を清める死水 (シニミジ) として湯灌の水や、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつけるミジムイやウビナディ (水撫で) の儀式にもこの井戸の水を利用していた。現在では旧暦6月14日の綱引き、6月25日のウハチ、7月16日のエイサーで拝まれている。公民館の玄関にかつての産井の様子を描いた絵が掲げられていた。公民館の人が説明してくれたのだが、昔は産井の手前までは海が迫っていたそうだ。確かに絵ではその様になっている。


山石敢當

熱田公民館の南東側、民家の西側塀の外に西向きに泰山石敢當が立っている。石敢當は中国起源の除災招福の石柱で、魔除けの役割があるとして沖縄に伝わったもの。この石敢當は元々は「泰山石敢當」と刻まれていたのだが、琉球王国最後の第19代尚泰王 (在位1848〜1879年) の時代に、国王の名の字を使用するのは憚られるという風習に従い「泰」の字を削ったという。削った跡が残っている。この様な経緯で、「山石敢当」と呼ばれている。


中道 (ナカミチ)

公民館西側、東原と西原の境となっている南北の道が中道 (ナカミチ) で、この道を境に、東原の前村渠 (メンダカリ) と西原の後村渠 (クシングカリ) に分けられていた。旧暦6月14日には綱引きが行われている。昔、中道を南北で行われていたが、現在は島根殿横の幅広のシマナーカの通り (写真右下) で、中道から東西に分かれて大綱を引いている。

シマナーカの通りの井戸

公民館からシマナーカの通りのを少し東側の民家跡に井戸が残っている。熱田集落は丘稜からの湧水が豊富で、宅地内でも水質の良い水が出て、集落の至る場所に現在も井戸跡が残っている。この後も集落内に幾つかの井戸に出会った。

前ヌ井 (メーヌカー)

中道を南に進んだ住宅地の奥まった所に前ヌ井 (メーヌカー) がある。井戸の前は洗い場になっている。

墓、井戸

熱田公民館の北側、中道を北に少し進むと道脇に墓が造られていた。集落のメインストリートに墓があるのは珍しい。この地域に集落が出来き始めた頃は数軒だったという。この辺りには村立ての旧家が集まっている。まだ、集落の形になる前の墓かも知れない。その後、和仁屋や渡口から人が移動してきて集落が大きくなって行ってと公民館の人が話してくれた。その北には民家内にも井戸があった。


根屋 (ニーヤー)、根所 (ニードゥクル)

更に中道を北に進んだ所に根屋 (ニーヤー) がある。根屋は熱田集落の創始者の屋敷で、その屋敷跡には石造りの根所 (ニードゥクル) と呼ばれる祠が建てられ、祠内には四つの香炉 (ウコール) と火の神の三つの霊石が供えられている。

さらにその西隣に根屋 (ニーヤー) の拝所がある。島根殿はニードゥクルにつぐ門中の仲門が管理している。敷地跡には井戸、屋敷神も置かれている。


根屋井 (ニーヤーガー)

根屋 (ニーヤー) の北、道を挟んだ北側には根屋井 (ニーヤーガー) があり、集落の創始者の根屋が利用していたと伝わっている。根所 (ニードゥクル) と共に、ウマチーに拝まれている。


和仁屋御嶽 (ワナウタキ、カンサギ)

中道を更に北に進み、集落の北部分に和仁屋御嶽 (ワナウタキ) がある。カンザキまたは根殿ともいい、広い敷地にクバの木が茂り、広場のゲートボール場北側にコンクリート製の祠がある。この地は熱田地内だが、熱田の拝所ではなく、和仁屋の拝所になる。昔は熱田集落でも拝んでいたが、現在では拝んでいない。 このあたりは、和仁屋集落発祥の古島といわれている。詳しくは和仁屋集落訪問記で触れる事にする。


東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ)

カンサギ内に東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ、ウフアガリ) の拝所がある。ここも和仁屋集落の拝所になる。東世 (アガリユー) は東方のニライカナイを表しており、元々はそのニライカナイを遥拝する場所だったのだが、近代に入り、沖縄から多くの住民移住して行ったブラジルやハワイ等へ祈りを届けてくれる拝所と変化している。沖縄の人達は同胞意識が強く、移住して行った人達への思いが現れている。


イチバルガー

カンザキのすぐ東側にイチバルカーがある。和仁屋集落のカンザキ時代に使用された井戸になる。ここの水を飲むと武士、力持ちの子や美人が生まれると伝えられているが、この井戸の水は東方向に流れているので、美しい子は東に嫁にいってしまうという。ここも和仁屋集落の拝井になり、旧暦1月3日のハチウビー、6月15日のウマチー、6月25日のウハチ、12月の師走御願で拝まれている。

藍川 (エーガー)

イチバルガーから北に進み、字和仁屋との境界線になっているクシガーラ (後川、和仁屋集落では和仁屋前川という) を渡る。今は細い水路になっている。

字和仁屋に入った所の細い路地には、藍川 (エーガー) という小さな井戸がある。昔、染物の藍を洗う時には必ずこの井戸の水を使ったといわれ、この名がついたという。ここも和仁屋集落の拝井になる。


梵字碑

熱田公民館の北西にニービヌフニ(細粒砂岩)で造られた梵字碑が残っている。久しぶりに梵字碑を見る。資料によれば、北中城村には幾つかの梵字碑が見つかっているそうだ。大日如来の真言が刻まれており、石敢當と同じように魔除けの為に置かれたと考えられている。石敢當と同じだが、拝所とは扱われておらず、拝まれてはいない。


松島ヌ井 (マツシマヌガー)

梵字碑のすぐ北側に丸い井戸が残っている。松島家の北角にあたるので松島ヌ井 (マツシマヌガー) と呼ばれている。公民館横の現在の産井 (ンブガー) ができる前までは、熱田集落の産井だった。


上ヌ井 (イーヌガー)

集落のはずれ西側は高台になっている。坂道を登って行くと井戸があった。

更に登ると上ヌ井 (イーヌガー) がある。井戸は残っていないが小さな祠が置かれ、熱田集落の拝所となっている。


御待ち毛 (ウマチーモー)

集落北西に端に熱田児童公園が整備されている。この場所は御待ち毛 (ウマチーモー) と呼ばれた所だった。熱田を管轄していた大城ノロが熱田の祭祀のために来るのを迎えるため字役員が待った所と伝えられている。ウマチモー (御待ち毛) は上ヌ毛 (イーヌモー) とか種取毛 (タントゥイモー) とも呼ばれ、かつてタントゥイ (種取) では、立冬の季節に入ってから良い日を選び、籾を水に浸け発芽させ苗代に蒔いていた。当日は子供たちは、煎り豆をゲームヤー (ススキの穂の茎で編んだ小さい籠) に入れて食べながらタントゥイモーに集まり、角力を取って遊んでいたそうだ。


龕屋跡

御待ち毛のすぐ北には戦前には龕屋があったそうだ。龕屋は通常は村の端や外れに置かれている。ここも集落から外れた場所だった。

井戸跡

龕屋跡の東側集落内、道路脇に井戸が残っている。

ナカニシガー

熱田集落の外れ、南西の端にも井戸がある。この井戸も金網で囲まれているが、草が纏わりついて井戸の全体は見えない。いつもならば、草むしりをして写真を撮るのだが、今日は雨が降っているのでそのままで撮影。この井戸についての情報は見当たらず、熱田集落で拝まれているのかは不明。

井戸跡

ナカニシガーから集落へ降りていく道沿いにも井戸跡があった。

集落内の史跡巡りは終了。予定では熱田集落の北隣の和仁屋集落も散策を考えていたが、雨が強く、雨ガッパの内側にも水が入ってきて、ずぶ濡れ状態。これではじっくりと史跡を見ていく事は出来ないので、集落巡りはこの辺りで終わりとして、帰りのバス停 (第二久場) に向かう。

熱田マーシリー

バス停に向かう途中、国道沿い、中城村久場に近いところにマーシリー (マーシリーグスク) と呼ばれる大きな岩があり、鬱蒼と木が茂っている。昔は近隣部落の若者達男女が集まりモーアシビー (毛遊び) をしていた。この熱田マーシリーには悲恋伝説が伝わっている。具志頭間切 (現在の八重瀬町) の青年の白川桃原樽金 (シラカワトーバルタルガニ) と勝連間切浜村の美女の浜川真鍋樽 (ハマガーマナンダルー) の恋愛秘話で、二人は結ばれることなく焦がれ死にし、遺言により、もともと拝所として熱田集落の人々に拝まれていましたこの熱田マーシリーへ埋葬されたと伝わっている。琉球民話では難題聟とも呼ばれている。
ある日、白川桃原樽金は商人から「勝連浜の村に琉球一番の美女が住んでいる」と聞き、わざわざ具志頭から遠く離れた勝連南風原の浜原という村に出掛けた。樽金は村で真鍋樽見つけ一目惚れしてしまい結婚を申し込んだ。真鍋樽も樽金に一目惚れをしたが、申し出には悩んでいた。そこで真鍋樽は樽金の人物か知るために謎掛けを出した。「二頭の馬に鞍を一つ載せて、一人で乗ってきて下さい」と言う。樽金は謎掛けが分からず、具志頭に戻り村の老婆に助けを求めた。老婆は「妊娠している分娩前の馬に鞍を載せて、今すぐ乗って行きなさい」という。その通りにすると、鍋樽は感心して樽金を一層気に入ったが、更に謎掛けを出した。「上のすだれと下のすだれが仲良くなった時に来てください」という。答えが分からず、樽金は老婆を再度訪ねた。老婆は「上のまぶたと下のまぶたが一緒になって眠った時分、つまり夜中に忍び込んで来なさい」と答えた。樽金は言われた通りに夜中に真鍋樽を訪ねると、謎掛けを解いた樽金に小刀、ご飯が入ったお椀、竹で作った箸がのったお盆を差し出し、そのまま自分の布団の床に就いてしまった。樽金は晩飯を出されたと思い、出された物を食べたのだが、すると真鍋樽は突然怒り出して樽金に「帰れ」と言って家から追い出してしまった。意味も分からず失恋した樽金は、老婆に全ての経緯を話すと「これは、直ぐに私を抱いてくれという意味だ」と謎解きをしてくれた。小刀は沖縄の言葉で「シーグ」で「直ぐに」という意味、お椀は沖縄の言葉で「わん」は「私」、竹は「ダキ」で「抱き」という意味、米は「込め」で、「直ぐに私を抱き込め」という意味だと言う。樽金は自分の浅はかさに後悔し、恋に焦がれた挙げ句、恋の病で死んでしまった。真鍋樽も、樽金を気に入っていながら素直になれず謎掛けを繰り返した事に後悔しつつ、同じように恋に焦がれて死んでしまった。二人の遺言で男は女の見える場所、女は男に見える場所に遺骨を納めるようにとあり、具志頭と勝連南風原から両方の村の人々が遺骨を運んで来て、丁度、この熱田マーシリーの拝所で二人の遺骨が出会い、この地に樽金と真鍋樽を合葬し墓が造られた。

熱田マーシリーを見終わり、国道を少し歩いて第二久場停留所に着く。雨は強く降っているが、停留所は幸にも屋根付きだった。20分ほどでバスが来て、無事乗車、40分程で自宅前の停留所に到着。今日は雨でずぶ濡れでの集落巡りだったが、炎天下に中自転車で巡るより遥かに楽だった。暑さが和らぐまで9月中はこの無料バスを利用しての集落巡りしよう。心配だった膝も、8km程歩いたが、痛みも無く一安心。


熱田集落に関わる拝所や関連の史跡は字渡口にもあるが、今日は訪問していない。近々、渡口集落を訪問予定しているので、その際に追加記載をする。

宮城御願 (ナーグスクウガン)

渡口集落北西の丘陵上に宮城御嶽と宮城之殿がある。この周辺には、かつて宮城村 (ナーグスクムラ) があり、この御嶽は宮城村の聖域の腰当 (クサティー) だった。宮城御嶽は琉球国由来記には宮城ノ嶽 渡口村 神名 アフヤネノコバヅカサノ御イベ とあり、島袋ノロが祭祀を管轄していた。現在、渡口集落では、ウマチー(旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日)と旧6月25日、旧12月24日(フトチヌウガン)に渡口の殿からウトーシ (遥拝) で拝している。宮城門中は、旧6月25日に拝んでいる。
また、この場所は熱田集落の発祥の地とも言われている。

米須嶽 (クミシダキ) (9/15 訪問)

渡口みどり公園内の南東の前ヌ川 (メーガーラ) にかかるメンター橋の近くに米須嶽 (クミシダキ) がある。熱田集落は、渡口の上手にある宮城御願から西側の平地のこの米須嶽 (クミシダキ) に移り、さらに現在地に移動してきた。宮城御願から米須嶽に移住したのが熱田の始まりとされ熱田古島とされ、この御嶽は熱田部落発祥の地の拝所とみなされている。米須嶽はクバジ嶽とも呼ばれ、1988年 (昭和63年) に渡口みどり公園の整備が行われたとき、改修された瓦葺の祠の中には霊石が五つ安置されて、火の神を祀っている。さる戦前まではウマチー (旧2月15日、旧5月15日、旧6月15日) で拝んでいた。
移住の背景には、この地は土地は狭く、条件の良い現在地に移ったと伝えられている。別に言い伝えでは風水で、台グシクを後にして前は太平洋の地が選ばれたとも言う。更に、別の伝承によると、熱田古島の米須嶽は、真向かいに仲順にあった比屋根クワークワー岩があり、ムラが栄えないので移動したという話もある。御嶽の北の小高い森の裏側に井戸があり、この井戸は熱田の先祖が米須嶽一帯に居住していたときに使用した井戸と伝えられている。

和仁屋間のテラ (9/15 訪問)

渡口集落の東部に和仁屋間のテラがある。渡口のテラ、浜崎のテラ、テラモーヌメーとも呼ばれている。琉琉球国由来記 (1713年) には和仁屋間神社とあり、「往昔、渡口村、高時卜申者、霊石ヲ権現卜崇、宮建立仕タル由、伝アリ」と記載されている。沖縄での権現信仰の起源知る上で貴重なものだそうだ。
南向きの石造建築物で屋根の頂上には宝珠が置かれ、内部には大きな砂岩の霊石が四個、他にも小型の霊石が幾つか置かれている。これらの石はビジュル、ボージャーブトゥチ (赤子の仏)、クヮンマガハンジュウヌカミ (子孫繁栄の神)、推明旧 (おしあけきょう)、笑旧 (わらいきょう)、威部司 (いべつかさ)、寄旧加那志 (よりきょうがなし) などと呼ばれ、子宝祈願や子孫繁栄の祈願が行われている。
渡口に伝わる伝説では、
泊大屋子 (トマリウフヤシー) が海にいると波に黒い石が浮いていた。よく見ると妊婦の様な不思議な形をしており、この石を渡口の浜に引き揚げて祀り、浜崎の寺としたところ渡口村は栄えたという。
琉琉球国由来記には
昔、渡口村に住んでいた高時という人が一つの変わった形の霊石を得てこれを尊んで宮を建てて安置したとされており、祭祀は竈与儀 (かまどぅよぎ) という人物が代々の責任者だった。
とある。
渡口集落では旧暦9月9日にクングヮチャーとして拝され、熱田集落では旧暦6月25日のウハチ (御初穂) と7月14日のエイサーで拝まれている。

本日の熱田集落散策ログ


参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)

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