Okinawa 沖縄 #2 Day 275 (10/12/24) 旧中城間切 北中城村 (07) Ufugusku Hamlet 大城集落

旧中城間切 北中城村 大城集落 (ウフグスク、おおしろ)

  • 西ヌ井泉 (イリヌカー)
  • 兄弟 (チョーデー) 広場
  • 壷井泉 (チブガー)、チブガー庭苑
  • 大城グスク (ウフグスクグスク)
  • 大城ノ御嶽 (ウフグスクヌウタキ)
  • ミーグスク (小嶽、カニマン御嶽、火ヌ神) 
  • 久知屋根所 (クチャニードゥクル)
  • 喜友名根所 (チュンナーニードゥクル )
  • ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)、火ヌ神 (ヒヌカン)
  • 前喜友名 (メーチュンナー)、大城遺跡、ウカンジャモーの拝所
  • 東ヌ井泉 (アガリヌカー)
  • 大城公民館、大城広場
  • 東井泉 (アガリガー)
  • 安里アカダガー
  • 中村家住宅
  • 大山盛保生誕之地
  • 大山ヌ井泉 (ウヤマヌカー)
  • 名称不明井戸跡

12月5日に続いて今日12月10日も荻道・大城集落を巡る。ここでは大城集落を散策した史跡等を紹介している。



旧中城間切 北中城村 大城集落 (ウフグスク、おおしろ)

字大城 (ウフグスク、おおしろ) は、北中城村の南側丘陵に位置し、丘陵南端には中城グスクがある。伝承では大城集落の始まりは、700年程前といわれている。英祖王 (1229年 - 1299年、在位 1260年-1299年) の第三中城王子 (中城按司) が上ヌ森西側にあった大城グスクの城主であったとの伝承もあり、中城グスクの築城前に台城城主であった伊寿留按司 (護佐丸の兄、伊舎堂安里の祖) の屋敷も大城村内に存在したとされる。護佐丸の弟安里大親も大城の掟として大城村にいたとも伝えられている。

大城は西側で荻道と隣接し、荻道・大城 (ウンジョウ・ウフグシク) と連称される。東側は熱田、南東は中城村久場、南は中城村泊、南西は中城村登又にそれぞれ接している。字大城は門田原 (ジョウダバル)、登原 (ヌーリバル)、前原 (メーバル)、東原 (アガリバル)、川尻原 (カージリバル)、後原 (クシバル) の六つの小字で構成されている。

大城の集落は大城グスク (大城ヌ嶽)、ミーグスクのある上ヌ森 (イーヌムイ、イーヌモー 上ヌ毛) をクサティ (腰当 = 聖域) として、その南の門田原傾斜面 (標高約100 ~ 140m) から平坦地に集中し広がっている。小字の東原、前原、登原、川尻原、後原は、急傾斜部分も多く、農作業には難渋した。東原には四、五軒の屋取集落があった。1903年 (明治36年) 時点での平民 (農民) と士族の個数、割合を表したのが下のグラフだが、この時期には士族は存在していないので、既に屋取集落は消滅したとも考えられる。

戦前には大城住民の大部分は、農業に従事しており、既に、この時期には水田は少なくなり畑が9割を占め、芋と砂糖きびが主要作物だった。製糖のために、上組、中組、下組の三つの組が組織されていた。大城は丘陵地にあって、周囲が急傾斜地帯で、どこへ行くにも交通に不便な土地で、特に黒糖を那覇へ出荷するには不便だった。1915年 (大正4年) に大正天皇御即位記念事業として安谷屋のクシミチが幅員が拡張され、1921年 (大正10年) ごろには、仲順への道路を2年かけて開設したが、それでも砂糖きびの運搬等に不便だった。昭和8年に大城は隣字の荻道と共に活動を行い、村道として中城城跡にある役場から安谷屋の西側までの路線 (現県道146号線) の認可を受け落成。沖縄製糖嘉手納工場では、砂糖きび出荷のためのトロッコ軌道を敷設し、農家の利便を図った。

大城集落は琉球王国時代から戦前まではその民家の分布地域はほとんど変わっていない。

戦後は米軍による土地収用はなかったが、集落は拡大はしておらず、その状況は現在に至ってもほとんど変わっていない。これはいまだに交通の便が悪いことによると思われる。どこに行くにも県道146号線しかなく、バス路線はあるが本数はかなり限られている。

第二次世界大戦では1944年 (昭和19年) にサイパンが陥落し、最後の本土防衛作戦に移行する。その作戦のなかの捷二号として台湾、南西諸島での攻防戦の為、日本軍大本営直轄の第32軍司令部 (南西諸島方面防衛軍沖縄方面陸軍 牛島満中将) の下、満州から第9師団 (武部隊)、第24師団 (山部隊)、第28師団 (豊部隊)、中国から第62師団 (石部隊) の4個師団と5個旅団が沖縄に配備された。1944年 (昭和19年) 8月20日に突然の如く、荻堂、大城集落に第62師団 (石部隊) の歩兵第64旅団第23大隊 (山本部隊) 200名が移動して、村の幹部と協議し、大隊本部を設置、各家庭に宿舎を割り当て、食料の供出、炊事場を設置した。北中城の他の村にも到着した兵隊も含め、翌日から北中城全域に布陣して、旅団本部・大隊本部・将校や一般兵の宿舎・炊事場・糧秣倉庫の設営、飛行場・機関銃陣地・大砲陣地・通信基地・監視哨・野戦病院、戦車壕・戦車障害・蛸壺などの構築を進めている。この構築には現在に北中城村を含む中城村住民が 「根こそぎ動員」 されて、連日、12時間の労働を強制されている。構築用資材は現地調達が基本で、日本軍は集落内の石垣や村所有の山林から木材伐採なども無許可のまま行い、村には大きな損害だった。米軍との決戦が近づくにつれ、1945年 (昭和20年) 2月から3月にかけて15~50才の住民男子は防衛召集されている。これは赤紙の正式な召集ではなく、白紙召集と呼ばれた、口頭による物だった。(戦後、正式な兵隊ではないという政府見解で恩給などは一切ない事が問題になっている) この白紙召集となった旧中城村の防衛隊員は540人以上になるが、戦死者数も含めてはっきりした人数は現在でも不明。男子だけでなく少女、婦人も炊事班、救護班として動員されていた。
ここ大城も例外では無かった。1944年 (昭和19年) 8月20日に第23大隊が駐屯を始め、大隊本部が置かれ、倶楽部 (現在の公民館) や大きな民家は兵隊の宿舎や炊事場となった。営倉も設置され憲兵が監視に当っていた。村内に日本軍陣地がつくられ、米軍戦車の進出を妨害するため、戦車妨害柵と戦車壕を構築した。更に、ライカム入口付近と大順堂病院に慰安所が2カ所つくられ、十人前後の朝鮮人慰安婦がいたという。当初、日本軍は米軍の沖縄上陸を阻止を目論み、この地一帯に陣地を構築し兵隊を配置していたが、戦局が不利と見て、沖縄を本土防衛の前線 (捨て石) とし首里中心南部での持久戦に作戦を変更した。米軍の本土上陸を先延ばしにする目的だった。その為、兵力温存もあり、1945年の1-2月には石部隊の兵隊は島尻方面に引き上げて行った。この方針変更により、4月1日の米軍上陸は、散発的な日本軍とも戦闘はあったもの、たいした抵抗もなく成功し進軍して行った。ここ荻道/大城には4月2日には到達し占領されている。村に残っていた住民が捕虜となり、北谷の砂辺の捕虜収容所に送られ、その後コザなどの民間収容所に移され、帰還許可が降りるまでの数ヶ月を収容所で暮らしていた。

大城の戦没者は北中城村では最も戦没者率が高く、北中城村全体では27.8%に対して、41.9%だった。大城の戦没者の内訳は兵隊として出生し外地での戦死者が31%、村内で空襲や米軍上陸侵攻時の戦死者15%、村から逃れて亡くなったのが54% (島尻郡での戦死者は56人で戦没者の33.7%をしめる) 


大城集落の拝所と主な祭祀行事

正月元旦の初拝み、2日初ウビー、2月2日の腰ユックイ、2月15日/16日 (ウマチー)、3月15日麦祭り(ウマチー)、16日麦祭り(ウマチー)、4月吉日の畦払れー (ムシバレー)、島ク
サラシ、泉井御願 (カーウガン)、5月15日/16日稲穂祭り (ウマチー)、6月14日の綱引き、6月15日/16日の稲祭り (ウマチー)、6月25日のカシチー (収穫感謝祭)、7月17日の旗すがし (チャイファー)、12月24日の竈の御願 (御願解き ウガンヌブトチ) などがある。中でも、7月17日の旗すがし (チャイファー) は最も大きな祭りで、大城・荻道の両ムラ合同で行われる。荻道が「天下泰平遊楽」の六文字、大城が「飛龍昇天」の四文字を旗頭にしている。旗頭を先頭にした行列が「チャイファー チャイファー」のかけ声と鐘や太鼓の音に合わせて集落を練り歩く。この旗すがしの主な祭場は、アシビナーと両ムラの境界、そしてノロ火の神と喜友名根所、久知屋根所になる。
琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。
  • 御嶽: 大城ヌ嶽 (カナヂヤノ御イベ、イチヤヂヤノ御イベ)、小嶽 (神名: 島根富御イべ、ミーグスク)
  • 殿: なし
  • 拝所: 大城巫火神 (ノロ殿内)、喜友名根所、久知屋根所、前喜友名、ミーグスクの火の神、ウカンジャモーの拝所
  • 井泉: 壷井泉、東ヌ井泉、東井泉、西ヌ井泉、安里アカダガー、大山ヌ井泉 (伊寿留井泉)


西ヌ井泉 (イリヌカー)

大城集落は荻堂集落に隣接しており、県道146号線を進むと境界線を越えた道沿いに西ヌ井泉 (イリヌカー) がある。大城集落内にの四つの共同井戸である村井泉 (ムラガー) の一つになる。(残りの三つの村井は壺井泉、東井泉、東之井泉 ) この井泉は主として大城集西側の住民が飲料水として利用していた。明治初期に造られたと思われ、1922年 (大正11年) に井泉の上にコンクリート製屋根が設置された。水量が豊富であったため1935年 (昭和10年) 頃に、この井泉を水源として簡易水道が整備された。1960年代に水道が普及するまでは、この井戸の水の恵みを受けていたが、現在では使用されていない。


兄弟 (チョーデー) 広場

西ヌ井泉のすぐ側に公園がある。兄弟 (チョーデー) 広場と呼ばれている。大城集落と荻堂集落は昔からチョーデー(兄弟)部落と呼ばれていて深い関係にあった。公園には兄弟小 (チョーデーグヮ) と名付けられた彫刻が置かれている。公園はちょうど両集落の境に造られている。両集落は共通する拝所が多い。旗スガシーなどは荻堂と大城共同で毎年旧暦の7月17日に行われている。荻堂が「天下泰平遊楽」、大城が「飛龍昇天」の旗頭を先頭に、それぞれ「チャイファー」という掛け声に合わせてお互いの字にある聖地を巡拝しながら集落内を練り歩く。巡拝が終わるとこのチョーデー (兄弟) 広場に集まりチョーデー (兄弟) 棒を演じている。

広場の東側にはかつて使われていた地下水路「大城イリヌカー隧道」の展示場が置かれている。この隧道は大城グスクがある上ヌ毛の山から琉球石灰岩の中に水路を掘り、大きな石を積んで造った水路で先程の西ヌ井泉 (イリヌカー ) に水を流していた。水は日照りでも涸れたことのない名水だったので、大城だけでなく近在の村人たちの命の水となっていた。言い伝えによれば、19世紀後半、大城の屋号吉里のハブウスメー(ハブ爺さん)と呼ばれた人が、若い時に村人の協力を得て、ランプの灯りをたよりにたがねで岩をうがち水路を掘ったといわれている。

荻道・大城にはこのような仕組みの井泉がいくつかあり、水道が敷設される以前は住民に水を供給していた。

公園の入口には拝所も置かれているが詳細は分からなかった。

公園の東屋の上には変わったオブジェが置かれている。沖縄県立芸術大学の学生が1999年から2002年にかけて作られた作品で、幾つもの足で構成されている。石平、荻堂、大城の道沿いや集落内にはこの様な芸術作品が幾つも展示されている。


壷井泉 (チブガー)、チブガー庭苑

兄弟公園から県道146号線沿いを少し進むと、道沿いに大城集落で最も古い共同井泉 (ムラガー 村井) と伝わる壷井泉 (チブガー) がある。大城集落の始まりはこの周辺からという。壷井泉は水量が多く、村最古の飲水用井戸として使われ、その後は、住民の洗濯、野菜洗い、水浴びなどの生活用水に利用されていた。壷井泉は大城集落の産井 (ウブガー)で赤ちゃんが産まれる際に産水 (ウブミジ) や、人が亡くなった際の身体を清める死水 (シニミジ) としても利用されていた。また、かつては、多くの人達が壷井泉に集まり出会いの場として大きな役割を果たしていた。

壷井泉に隣接してチブガー庭苑が整備されている。入口にはヒンプンが置かれ、陶器タイルで大城集落のスポット案内板となっている。公園内にはユニークなシーサーが置かれ、東屋も作られて住民の憩いの場となっている。


ここから県道県道146号は南にカーブする。ここから南側に大城集落が広がり、北側には荻堂、大城集落の聖域 (クサティ) の大城グスクの上ヌ毛になる。


大城グスク (ウフグスクグスク)

壷井泉 (チブガー) とチブガー庭苑の間の道を登ると道は二股に分かれ、左側の道を進むと大城グスクに通じている。

大城グスクはクサティ (腰当 = 聖域) とされるイーヌムイ (上ヌ杜) あるいはイーヌヤマ (上ヌ山) と称される後方の丘陵一帯をいう。グスク内に大城御嶽やミーグスク御嶽があり、ムラの聖地となっている。また、カニマン御嶽(もしくはカナマンウタキ) もあり、戦前は松の巨木が枝々を重ね合わせ、昼でもうす暗い聖域であったという。琉球王国時代から明治時代までは大城巫 (ウフグスクノロ) が祭祀を司っていた。この大城グスクは英祖王 (1229~1299年) の第三子の中城王子の居城と伝わっている。



大城ノ御嶽 (ウフグスクヌウタキ)

琉球国由来記には、大城邑の祭場として大城ノ嶽二御前と記され、神名 「カナヂヤノ御イベ」 と「イチヤヂヤノ御イベ」 の二つの拝所があったとされる。ここにある大城ノ御嶽が大城ノ嶽にあたる。現行の年中祭祀の中では、正月の初拝みの時だけにウガン (御願) を行っている。

戦前には石積みが残っていたが、沖縄戦で旧日本軍が陣地の機関銃座の造築にここにあった石積みが持ち去り使い、現在では僅かに石積みが残っているだけ。

残った石積みの近くに洞穴があり、鬼大城 (大城賢雄 1420 ~ 1469年) の祖先の石棺が納められ、子孫に当たる荻道根屋の仲元門中が拝んでいる。


三重城 (ミーグスク、小嶽、カニマン御嶽、火ヌ神) 

大城グスクの東側に隣接する丘陵にミーグスクがある。配水池のフェンス沿いに進むと崖の上にミーグスク拝所がある。

このミーグスクは大城グスクが中城王子により築かれる以前から存在し、荻堂/大城はその城下村だったと推測される。ミーグスク入口の琉球石灰岩の大岩を入り、給水タンク横の道を進み、行き止まりの崖上にミーグスクの御嶽がある。ミーグスクには琉球石灰岩のヒヌカン (火の神) が祀られている。

かつては今帰仁へのウトゥーシ (お通し = 遙拝所) だったといわれ、旧暦9月に大城集落の行事として、ここより遙拝する祭祀があった。この一帯は木を切ったり、枝を落としたり、土地を汚すことはタブーであった。琉球国由来記にある小嶽 (神名: 島根富御イべ) とされている。

この火ヌ神の近くに鍛治に関する意味のカニマン御嶽という拝所があり、金満 (カニマン) 按司が祀られているそうだが、見つからず。



久知屋根所 (クチャニードゥクル)

先ほどの道の分岐点まで戻り、右側の道を進む。この道沿いには大城集落の旧家がある。先ずは久知屋根所 (クチャニードゥクル) がある。久知屋 (古知屋) は北部金武間切の古知屋 (現在の宜野座村松田) から移住して来たと伝わっている。久知屋屋敷内には神屋 (カミヤー) が置かれ、その中には観音菩薩像、トーシー (当世) の祖先の香炉が三つ、遠い祖先、火ヌ神が祀られているそうだ。


喜友名根所 (チュンナーニードゥクル )

続いて、大城と荻堂の根所と伝わる喜友名根所 (チュンナーニードゥクル ) がある。喜友名門中の祖先は大城集落の草分けとされ、宜野湾間切の喜友名村から来住したという。大城集落はこの喜友名屋敷から広がって行った。戦前、喜友名の屋敷には中央に茅葺屋 (カヤブチャー) の母屋があり、その右手に瓦葺きのカミアシャギ、反対側に家畜小屋が建っていた。現在、カミアシャギには四つの香炉が祀られている。 大城集落の祭事ではノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の火ヌ神 (ヒヌカン)、次にこのカミアシャギを巡拝していた。大城集落は、この喜友名家を中心として東の方に、現在の比嘉門の周辺まで延びていき、それから南西の平坦部に拡大したと考えられている。 


ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)、火ヌ神 (ヒヌカン)

道は県道146号線に合流する。この合流地点にノロ殿内 (ヌンドゥンチ)の拝所が置かれている。大城ノロの屋敷跡で、現在は火ヌ神 (ヒヌカン) が祀られており、琉球国由来記にある大城巫火神にあたる。大城ノロは広範囲の地域の祭祀を管轄しており、大城 (大城之岳) をはじめ、荻道、熱田 (下神立岳)、和仁屋 (上立神岳)、更に現在の中城村の伊舎堂 (台城) と久場 (久場之岳) も含んでいた。大城集落の主な祭事は、このノロ殿内火ヌ神から開始し、村内の拝所を巡拝していた。かつてはノロ殿内屋敷前にはアシビナー (遊び庭) の広場が置かれ、8月15日のムラアシビ (村遊び) は、この広場で行われていた。現在は、県道拡張のために昔の面影はなくなってしまった。また、戦前には旗すがしの旗頭は、このノロ殿内に保管されていた。

1944年 (昭和19年) の十・十空襲でノロ殿内の屋敷は全焼し、現在では農園として使われている。


前喜友名 (メーチュンナー)、大城遺跡、ウカンジャモーの拝所

ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) の東隣に小丘があり、道を登るとウカンジャーモー (ウカンザマー) という広場になり、この場所は前喜友名 (メーチュンナー) の屋敷跡で、大城遺跡とされている。広場隅にはコンクリート製の祠が南向きに建てられいる。戦後、1948年 (昭和23年) 頃に、ここにお宮を建て、ノロ殿内の火ヌ神や詳神、喜友名の根神、火ヌ神を合祀したが、数年後にユタのお告げで元の地に戻しているので、現在はお宮内には神は祀られていないそうだ。現在では屋外では火災を避ける為、ヒラウコー (平御香) に火を付けずにヒジュルウコー (冷たい線香) で拝むのが一般的になっているが、ここでは昔からこの祠を拝むときは線香に火をつけないカラウコー (空御香) で拝んでいた。元々のヒジュルウコー (冷たい御香) はシルカビ (白紙) の上に、火を灯さないヒラウコー (平御香) を供え、火をつけていないヒラウコー (平御香) に神を乗り移し、自宅の火ヌ神 (ヒヌカン) に案内して、自宅で毎日拝む為に行われていた。

ちなみに、この前喜友名には普天間権現が美娘に化身した話とそっくりで娘が前喜友名の娘に変わっている言い伝えが残っている。


東ヌ井泉 (アガリヌカー)

ウカンジャーモーの拝所の南西側に東ヌ井泉 (アガリヌカー) がある。大城村の人口増加に伴い明治初期に造られたと思われる。この井泉では大城集落の住民が飲料水として戦後に上水道が整備されるまで利用されていた。戦前は旧正月元日に若水 (ワカミジ) を汲んで、火ヌ神 (ヒヌカン) や仏壇に供えていた。井泉には魔除けである2体のシーサーが設置され、井泉の水を悪霊から守っているそうだ。

この井戸の場所は大城公民館多目的広場彫刻公園として整備されている。井戸の上、県道146号線沿いには東屋があり、彫刻作品も置かれている。

井戸の下側には池があり、ここにも彫刻作品が置かれている。


大城公民館、大城広場

東ヌ井泉 (アガリヌカー) から西への道を進むと大城公民館がある。この地には昭和8年頃に倶楽部が建てられた。それ以前には公民館に相当するものはなく、村内の大きな屋敷を輪番で村屋 (ムラヤー) として使っていた。倶楽部は沖縄戦で焼失し、戦後、1947年 (昭和22年) に全村民の帰村が完了し、この場所に字事務所を建設している。数年後に台風で倒壊し、新しく公民館が建設されている。

公民館の中庭には幾つもの彫刻作品が展示されており、それに混じって中村榮春顕彰碑があった。

仲村榮春はその実践的な働き振りからミンクリー(クバ笠やムンジュルー笠!村長と呼ばれ戦後の北中城村の復職と発展に尽くし沖縄市町村会のリーターとして活躍した主席公選を求める5人委員会のメンバーとして公選主席誕生に貢献し手腕を言われて琉球政府総務局長などを務め祖国復帰前夜の困難な事案解決に尽力した政治家である。北中城村においては、戦で荒廃した土地の整備、農道の舗装、砂糖キビの奨励とトロッコ・ケーブルカー導入による労働力軽減、養鶏の普及、清浄野菜の米軍施設への出荷実現などにより村経済の発展に大きく貢献した。消防車を米事より譲り受け、県下て始めて消防団を結成し、大型ブルドーサーを米軍から買い受け、民間の会社へ貸付してその収入を村財政に活用。教育面では村民から資金を募り育英会を設立して貸しい家庭の子どもにも進学の横会を与えて、人材育成に貢献した。このような現場重視の政治手法が生んだアイテア、豊かな実践と指導力による多大な功績を讃え、ここに顕彰碑を建立する。

とある。沖縄ではこの様な顕彰碑をよく見かける。戦後の米軍統治下の混乱期に、本土の様には日本政府の復興支援もない中、各地で復興を進めるリーダーが存在していた。

大城公民館の西隣には大城広場が整備されて、イベント会場としても利用されている。ここにも幾つもの彫刻作品が置かれている。


東井泉 (アガリガー)

大城集落の東側に大城集落の共同井泉の一つの東井泉 (アガリガー) がある。築造年代は不明だが、昔から洗濯、野菜洗い、水浴び等の生活用水として利用されていた。戦前は旧正月2日に初御水 (ハチウビー) の祈願をしていた。現在では石造りのウコール (香炉) が置かれて1月3日に御願が行われている。


安里アカダガー

大城集落の南西側に安里アカタガーがある。主に集落南東部の住民が洗濯、野菜洗い、水浴びなど生活用水として利用されていた。戦後は農業用水として利用されて、現在も周辺に広がる田畑が広がっている。
この周辺の丘の斜面には幾つも古墓があり、その中には伊舎堂安里の墓が現存しており、安里アカタガーと関係があるとも考えられている。(どれが伊舎堂安里の墓かは分からなかった。) 丘の上には大城ノロ殿内按司墓が置かれていた。

安里アカタガーの奥の農場で外国人が作業をしていた。声をかけられて話すと、沖縄に30年以上も住んでいるカナダ人で日本人女性と結婚しているKen中村さんだった。無農薬栽培をしている。今年は台風で栽培していた野菜は大きなダメージを受けたそうだ。今はそのリベンジで次の栽培の準備をしている。収穫した野菜は神里のモリンガファームという所に卸していると言っていた。モリンガファームは家から近い所にあるので、近々寄ってみてKenさんの野菜を買って見よう。


中村家住宅

大城集落のはずれに戦前の沖縄の住居建築の特色を残している中村家住宅が保存されている。1972年 (昭和47年) の本土復帰の際に国の重要文化財に指定されている。入り口で拝観料の500円を払って見学。中村家住宅は重要文化財ということで立派なのだが、残念なのはガイドなどはおらず、料金所に若い女の子が一人いるだけで、彼女に質問しても話が通じなかった。有料という割には少しがっかりした。この様な沖縄の古民家は幾つか保存公開されている。先日は北谷町上勢頭のうちなぁ家を訪れた。規模は中村家住宅に比べて小さいのだが、無料でボランティアガイドが丁寧に解説してくれた。色々と聞きたければうちなぁ家がお勧めだ。

中村家の先祖賀氏 (がうじ) は約500年前に護佐丸が居城を読谷から中城に移したときに、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられている。その後、護佐丸が勝連城主の阿麻和利に滅ぼされ、中村家の先祖も離散の憂目にあったが、1720年頃、初代比嘉親雲上の時代にその家運を盛り返し、五代と七代はこの中城間切の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられた。保存されている中村家住宅は18世紀中頃に建てられたと伝わっている。建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が加えられ、独特な住居建築になっている。この遺構は、士族屋敷の形式に農民の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色をすべて備えている。

屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切りひらいて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植え、台風に備えている。屋根は本瓦ぶき(明治中頃まで竹茅葺)、漆喰塗りで、屋根の上に魔除けのシーサー (獅子) が置かれている。


ヒンプン (顔隠し堀)

屋敷には立派な石積みの塀の門から入るとヒンプン (顔隠し堀) がある。このヒンプンは門の内外との仕切りで、外から直接母屋が見えない様にした目隠しの役割をしている。中国の屏風門 (ビンフォンメン) が沖縄化したもの。沖縄ではヒンプンを挟んで男性は右側から出入りし、女性は左側を通り台所へ入ったそうだ。


アシャギ(離れ座敷)

敷地に入ると右側にアシャギ(離れ座敷) が建っている。琉球王国時代に中城間切の役所へ、首里王府の役人が地方巡視に来た際に、宿泊所として使用したそうだ。


ウフヤ (母屋)

門の正面は母屋になる。江戸時代後期に建てられた母屋には一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)の三間になっており、それぞれの裏に裏座があり、寝室、産室として使用されていた。三番座の前方にはナカメー (中前) と言う板間がある。琉球王国時代には広さの規定があり、農民には各間は六畳以下となっていた。


高倉 (籾蔵 もみぐら)

中庭のアシャギ(離れ座敷)の向かい側には高倉が建てられている。この高倉は沖縄在来の形式である丸柱ではなく、住居と同じ角柱を用い、壁、床とも板貼りになっている。高倉の上部はネズミ返しの傾斜になっており、ネズミが穀倉に入れないように工夫されている。


トゥングワ (台所)

ウフヤ (母屋) の奥はトゥングワ (台所) になっている。トゥングワには火の神(ヒヌカン)が祀られ、朔日(ついたち)、十五日に拝んでいた。トゥングワの上の屋根裏部分は薪や食料の物置として使用していた。


メーヌヤー (家畜小屋兼納屋)

トゥングワの奥にはメーヌヤー (家畜小屋兼納屋) が建てられ、畜舎あるいは納屋となっている。中二階の棟で、一階は腰石壁で畜舎、二階は黒糖製造用の薪置場と使われていた。と台所の間にある十二畳の板間は、くつろぎの部屋で、農作物の整理などに利用されていた。


フール (豚小屋)

メーヌヤー (家畜小屋兼納屋) の奥にはフール (豚小屋) がある。アーチ型の三基連結になっており、石囲いは、豚の飼育所で排泄物が豚の餌となっていた。


チンガー (釣瓶井戸)

メーヌヤー (家畜小屋兼納屋) の前には石積みの井戸がある。チンガー (釣瓶井戸) 形式のものになっている。


大山盛保生誕之地

中村家住宅から県道146号線を南に進む。この先には中城グスクがあり、公園となっているので、この県道は公園通りと呼ばれている。道を進むと、中北消防本部を越えたあたり、県道沿いに大山盛保生誕之地の石碑が建てられている。大山盛保は港川人を発見した人で、この場所が彼の生家跡になる。沖縄の人の顔つきは本土の人とは異なっており、そのルーツについては学会で様々な学説が持ち上がっていたが、有力な説は沖縄人は縄文人の流れを汲んでいる事がDNAの検査で明らかになっている。北海道アイヌも同じDNAを持ち縄文人系という。本土でも古代には同じ縄文人が住んでいたが、中国からの渡来人と混ざり弥生人が生まれ、それが本土の日本人のルーツだという。

大山ヌ井泉 (ウヤマヌカー)

大山盛保生家跡は駐車場になっており、その中に井戸跡がある。大山ヌ井泉 (ウヤマヌカー) と呼ばれている。大山盛保生家の場所にあるから、そう呼ばれたのだろうが、元々の井戸はこの場所ではなく、別の場所にあったそうだ。この辺りは、中城村の伊舎堂集落の村立ての場所で伊舎堂古島という。伊舎堂が現在地に移動する前は護佐丸の兄で伊舎堂安里の祖の台グスク城主伊寿留按司の居住地であったと伝えられている。この事から大山井泉は伊寿留井泉とも呼ばれている。

名称不明井戸跡

大山ヌ井泉から県道146号を中城グスクに向かい進むと南側には井戸があるそうだ。県道からそこへの入口はあるのだが、現在は雑草地になっており、近づけないので、県道から拝んでいるという。名称は不明だが、伊寿留按司が手足を洗うために利用したと伝えられている。


大城集落は荻道集落戸同じく、村内は綺麗に手入れがされており、彫刻作品やシーサーなど住民が村の美化に努めていることがよくわかる。

大城集落でもきれいな花が咲いていた。下の写真はその一部。


参考資料

  • 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
  • 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
  • 大城の今昔 (1980 仲村 栄春)

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