Okinawa 沖縄 #2 Day 265 (06/07/24) 旧北谷間切 北谷町 (06) 伊平 (伊礼•平安山)
北谷町 字伊平 (イヘイ、いへい)
字伊平 伊礼 (イリー/イリア、いれい)
- 蔵森 (クランモー)
- 字伊礼郷友会
- 伊礼之殿 (イリーヌトゥン)
- 井泉 (カー) の合祀所
- 土帝君、祖霊神 (字伊礼祖霊之墓)、火の神
- 獅子屋 (シーシーヤー)
- 伊礼原 (イリーバル) 遺跡
- 字地川 (ウーチヌカー)
- 徳川 (トゥクガー)
- キラマジー (ケラマジー)
字伊平 平安山 (ハンザン、へんざん)
- 平安山の合祀所
- 宇地川之神 (ウーチヌカー)
- 平安山御願 (ハンザンウガン)
- 殿之神
旧北谷間切 北谷町 字伊平 (イヘイ、いへい)
現在の北谷町の字による行政区の字伊平は、1942年 (昭和17年) に字伊礼 (イリ―) と字平安山 (ハンザン) が合併してできた字で、二つの旧字のそれぞれの名称の一字を組み合わせて伊平と名付けられた。今日はこの 字伊礼 (イリ―) と字平安山 (ハンザン) の史跡を巡る。
琉球王国時代には伊礼は平安山の一部だったが、琉球王国末期に伊礼が平安山から分離独立している。当時は広大な地域にまたがった字だった。
字伊礼と字平安山には多くの屋取集落があり、これらの屋取集落は次第に人口が増加し、本村を凌ぐほどになり、4~5倍にも達していた。1925年 (大正14年) に字伊礼から御殿地屋取、喜友名組屋取、勝連組屋取、上勢頭屋取が分離独立して字上勢頭 (ウィシードゥ) となり、字伊礼は本村と小さな上間兼久屋取のみとなっている。同時期に字平安山からも下勢頭屋取が分離独立し、字浜川の一部と字野里と合わせて字下勢頭となり、字平安山も本村のみとなっていた。1942年 (昭和17年) に字伊礼と字平安山が合併し字伊平となり、更に、1980年 (昭和55年) に字伊平の海岸沿いの地域が独立分離して美浜三丁目となり、現在に至っている。
旧北谷村の特徴は士族の割合が多いことやその背景については桑江集落の訪問記で述べたが、その中でも平安山と伊礼はずば抜けて多く、平安山はその人口の90%、伊礼は84%が帰農士族に占められていた。
沖縄戦では1945年 (昭和20年) 5月1日に米軍が上陸し、真っ先に占領され、戦後、伊平全域の土地は接収されている。 1982年 (昭和57年) に蔵森 (クランモー) が一部返還され、2003年 (平成15年) には、旧字伊礼集落があった土地が返還されている。今後、嘉手納基地となっている地域も返還予定ではあるが、基地の辺野古移転にはまだまだ問題や課題があり、いつ返還されるかはわからない。
旧北谷間切 北谷町 伊礼 (イリー/イリア、いれい)
- ニングワチャー (クシックィー・クスックィー、旧暦2月2~3日): 豊年祭。クランモーで豚を潰してごちそうを作り、30歳以下のワカカタと、30歳以上のトシカタに分かれて輪番のニングワチャーヤードゥで宴会をした。1日目は宴会、2日目は宴会の後に、ニングワチャーヤードゥからサーターヤーまで「唐船ドーイ」を伴奏に道ジュネーをした。
- ニングワチウマチー (旧暦2月): 平安山 (ハンザン) ヌロが来て拝んでいた。集落の人たちにはあまり関係がなかった。
- エイサー (旧盆、旧暦7月7~15日): 1939 ~ 40年 (昭和14~15年) 頃までは男性のみでエイサーを催していた。
- シーサーモーイ (十五夜 旧暦8月15日): 悪疫払いと五穀豊穣を祈り、蔵森 (クランモー) で獅子舞が行なわれていた。獅子舞の後は、他集落の青年たちと沖縄相撲をしていた。獅子舞は、戦争で中断していたが、伊礼と砂辺では復活している。
伊礼集落の拝所
- 御嶽: なし
- 殿: 伊礼之殿 (イリーヌトゥン)、宮増原ヌ殿 (在 桑江)
- 拝所: キラマジー、土帝君、祖霊神、火ヌ神
- 井泉: 蔵森南ヌ井 (クランモーフェーヌカー)、後ヌ井 (クシヌカー)、上間兼久 (イーマガニクヌカー)、蔵森ヌ井 (クランモーヌカー)
蔵森 (クランモー)
戦後、この地は軍用地となり、整地されて軍施設が建てられたが、蔵森 (クランモー) と獅子屋は米軍によって保存された事で消滅から免れた。米軍キャンプ桑江内の字伊礼の聖地だった蔵森は住民の粘り強く、また強行姿勢で米軍との交渉し、ようやく1981年 (昭和57年) に蔵森だけだったが返還された。戦前には、蔵森の丘陵部の琉球石灰岩には自然洞穴があり、内部に人骨を納め、集落の合葬墓 として利用されていた。平場には獅子舞に使用された獅子頭が保管していた赤瓦屋や、井戸も在 り、戦前にはここで集落の行事が行われていた。蔵森の由来は明確ではないのだが 「暗い場所」ということからか、「倉 (高床倉庫)」があったからなどと推測されている。 戦前は毎年8月15日にはこの広場で獅子舞が行われていた。1982年 (昭和58年) に、以前の姿に戻す為に、復元工事が行われ、墓、井戸、各種石碑が在った場所に復元され、墓には骨壺が再び戻されている。また、旧集落内にあった井戸や拝所も合祀所を造り祀っていた。1983年 (昭和59年) には、獅子 (シーサー) 頭は無くなっていたが、獅子屋と戦前のものよりも大きな獅子頭も復元された。(下の写真と縄張り図は伊礼郷友会館敷地に移転する前のもの。)
字伊礼郷友会
伊礼之殿 (イリーヌトゥン)
井泉 (カー) の合祀所
- 上間兼久 (イーマガニクヌカー) - 上間兼久屋取の産井 (ウブガー) だった
- 蔵森ヌ井 (クランモーヌガー) - 蔵森ヌ産井 (クランモーヌウブガー) とも呼ばれ、伊礼 (イリー) の産井 (ウブガー) だった。グングワチウマチ 一と十五夜のときなどに拝まれていた。
- 後ヌ井 (クシヌカー) - 新垣ヌ井 (アラカチヌカー) とも呼ばれた伊礼の共同井戸だった。
土帝君、祖霊神 (字伊礼祖霊之墓)、火ヌ神
獅子屋 (シーシーヤー)
伊礼原 (イリーバル) 遺跡
字地川 (ウーチヌカー)
徳川 (トゥクガー)
キラマジー (ケラマジー)
北谷町 字伊平 平安山 (ハンザン、へんざん)
- ニングワチャー (クシユクワーシー・クスックイ 旧暦2月2~3日): 1日目にはシマクサラシも行なわれ、豚を1頭潰しギキチャー (ゲッキツ) の枝にその血を塗り悪鬼払いをした。拝所を男性だけで拝んだあと、ワカカタ (青年組) とトゥスイカタ (年寄り組) に分かれて、それぞれのヤードゥでごちそうを食べた。2日目には、ワカカタがトゥスイカタにごちそうを持って行っていた。
- 綱引き (旧暦6月24日): メーベーとクシベーに分かれ綱引きを行なっていた。
- エイサー (旧暦7月): 1936~37年 (昭和11~12年) 年頃まで行なわれていた。
- 白露の御願 (旧暦9月): 平安山御願と字地川で祈願が行なわれていた。各家から大豆を集めて豆腐を作り、その豆腐にカラスグワー (魚の塩付け) をのせて供えて豊作を祈願した。
平安山集落の拝所
- 御嶽: 平安山御願 (ハンザンウガン、オヤギヤクイ君ガ嶽)
- 殿: 平安山之殿 (ハンザンヌトゥン)
- 拝所: 祝女殿内 (ヌンドゥルチ) 拝所
- 井泉: 字地川 (ウーチヌカー)、トーマヌカー (消滅?)
平安山の合祀所
- 宇地川之神 (ウーチヌカー) - 祠内左端には宇地川之神 (ウーチヌカー) が祀られている。宇地川 (ウーチヌカー) は、先程訪れた伊礼集落の丘陵麓の遺跡公園内に現存している。戦後、1981年に返還されるまではキャンプ桑江敷地内になって立ち入り禁止で御願も自由には出来なかったので、ここに合祀されていたのだろう。この井泉は縄文時代以降、平安山の祖先たちが使用したと伝えられている。昔は雨乞い祈願が行われていた。先ず、男たちがウーチヌカーにおいて豚を一頭潰し、潰した豚の骨片や肉を霊石に供え、平安山ノロを中心に祈願を行い、祈願を終えたノロが雨乞いのウムイ (神唄) を唱えながら、字地川の水を村人にかけながら、水の神に雨乞いを行ったという。
- 平安山御願 (ハンザンウガン) - 祠の中の向かって右に平安山御願 (ハンザンウガン) が置かれている。元々は現在の普天間飛行場敷地内 (行政区では字浜川になる)、かつての平安山の上屋取の南側、 グンクンニー (写真下) の北東側に御願岩 (ウガンヌシー 写真中) の小山があり、この岩 (シー) は平安山御願 (ハンジャウガン) とも呼ばれ、琉球國由来記のオヤギヤクイ君が嶽 (神名イシノ御イベ) と考えられている。戦前までは、ここで白露の拝みが行われていた。戦後、この地域は米軍嘉手納飛行場として接収されたため、浜川に合祀所を設け、拝まれている。二十四節期の第15にあたる八月節 (旧暦7月後半から8月前半頃) の白露 (はくろ) に集落の有志がシル豆腐を供えて白露の拝みを行なっていた。この平安山御願の神を白露之神と呼んでいたので、拝所には白露之神時された石碑が祀られている。2月、3月、5月、6月の麦と稲の豊作祈願と収穫祭の四ウマチーでは平安山ノロが祭祀を行っていた。
- 殿之神 - 平安山御願の隣に殿 (トゥン) の香炉と石碑が置かれている。戦前までは平安山集落の北側にあった。琉球国由来記には平安山巫火神と記載され、琉球国日記には 「平安山之殿 麦・稲四祭之時、花米九合宛・五水八合宛此時、朝神・夕神二度、神酒一宛・シロマシ一器平安山地頭、神酒二半宛芋。平安山村百姓中、供之。平安山巫ニテ祭祀也」 と書かれている。この殿では旧暦2月2日から4日の3日間、腰憩め (クスッキー) が行われ、初日には豚の骨片を吊るした左縄を張り悪疫の集落侵入を防ぐ 「シマクサラサー、シマクサラシ」 が男性を中心に行われ、集落では 「アカフーゲーシ」 とも呼ばれていた。戦後は次第に行われなくなっている。又、四ウマチーでは平安山ノロが白装束に身を包み、頭にはヤマカンダー (山葛) と白ハチマキをしめて祭祀を行っていた。現在ではノロの継承も途絶え、ノロ殿内の家人らによる拝み行われている。
参考資料
- 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
- 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
- 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
- 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
- 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
- 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
- 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
- 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
- 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
- 旧字伊礼郷友会誌 (2004 北谷町旧字伊礼郷友会)
- 蔵森 沖縄西海岸道路北谷拡幅建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書 [北谷町文化財調査報告書 第39集] (2016 北谷町教育委員会)
- 旧字伊礼郷友会誌 (2004 北谷町旧字伊礼郷友会)
- 伊礼原遺跡 北谷町文化財調査報告書25 (2006 北谷町教育委員会)
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