杉並区 07 (02/02/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧上井草村 (3) 八町・宿

小名 八町 (はっちょう、旧小字 中通り南、中通町 [現 桃井二丁目、桃井一丁目の一部、今川一丁目の一部、今川二丁目の南部、今川三丁目の一部])

  • 今川一丁目公園
  • 今川稲荷大明神
  • 今川二丁目公園
  • 庚申塔 (77番)、佐平吉弁財天、地蔵菩薩像
  • 中通公園
  • 桃井公園
  • 薬王院
    • 庚申塔 (85番)、地藏菩薩 (86番)、地藏菩薩 (87番) 他
  • 井荻町役場跡
  • 御茶園跡
  • 八丁交差点、八丁通り
  • 旧八丁通り

小名 宿 (しゅく、旧宿町 [現 桃井三丁目、桃井四丁目の東部分、上荻四丁目の一部、西荻北五丁目の一部、善福寺一丁目の一部])

  • 桃井はらっぱ公園
  • 中島飛行機工場跡
  • 宿町御嶽神社
  • 六童子 - 上向き童子 (2024年4月4日 訪問)


小名瀬戸原から小名八町に入り、史跡巡りを続ける。


小名 八町 (はっちょう、旧小字 中通り南、中通町 [現 桃井二丁目、桃井一丁目の一部、今川一丁目の一部、今川二丁目の南部、今川三丁目の一部])

江戸時代の上井草村の小名の一つの八町は、1889年 (明治22年) には小名宿の一部とともに小字 中通り南 (中通道南) となり、1932年 (昭和7年) にかつての小名 八町の地域は中通町となっている。小名八町は、今川氏が領主になったとき、領地を治めるための役宅と家臣の屋敷地として、八町歩の土地を、青梅街道沿いに定めた事からこのように呼ばれた。
明治時代から大正時代、戦前までは、小名 八町内の集落は青梅街道と現在の早稲田通りの西側 (井草通り) から神戸の天祖神社へ向かう道沿いに見られ、それ以外には見当たらない。戦後、従来の集落が拡大して、現在はほぼ全土が住宅地となっている。

小名 八町内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: 薬王院
  • 神社: 今川稲荷大明神
  • 庚申塔: 77番、85番
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: 地蔵菩薩像、地藏菩薩 (86番、87番、88番)
  • その他: 佐平吉弁財天


今川一丁目公園

井荻駅を南に越えて、笹目通りを南に進み清水三丁目交差点を渡った西側が今川町になる。交差点近くに今川一丁目公園がある。杉並区では各公園は昔の地域名を残している。

今川稲荷大明神

今川一丁目公園から西に進み、八丁通りを渡り、井荻中学校を越えたところの住宅街から小道を奥に入った駐車場の一画に今川稲荷大明神が置かれている。この神社の情報は見つからなかったが「今川」と冠がつけられているので、今川地区の鎮守だったのだろうか?

今川二丁目公園

今川稲荷大明神から南に進むとここにも公園がある。ここは今川二丁目で、今川二丁目公園と名付けられている。今川は三丁目まであり、立ち寄りはしなかったのだが、三丁目にも、今川二丁目公園が造られている。

庚申塔 (77番)、佐平吉弁財天、地蔵菩薩像

今川二丁目公園の南には1725年 (享保10年) に遅野井村中通の講中27人により造立された駒型石塔の上部に日月とニ鶏、その下に邪鬼を踏みつけた六臂合掌の青面金剛像、その下に三猿が浮き彫りされている。
庚申塔の脇には佐平吉弁財天と刻まれた石塔と丸彫の地蔵菩薩立像もあった。

中通公園

八丁通りを南に進み、今川二丁目交差点を越えた所に中通公園がある。江戸時代の八町は1889年 (明治22年) に中通り南、1932年 (昭和7年) に中通町となっており、その当時の地名がこの公園の名に残っている。


桃井公園

今川から八丁通りを南に進み、桃井一丁目に桃井公園がある。桃井という名称は古くからあったものではなく、1875年 (明治8年)、薬王院内に中野桃園第二分校が開校し、翌年に独立校となった際に、桃園の「桃」と遅野井村の「井」を採って、桃井小学校と名付けられた。これが桃井という名が生まれた経緯だそうだ。


薬王院

桃井公園のすぐ西側、青梅街道沿いには曹洞宗の玉光山薬王院があり、薬師如来座像を本尊としている。門は閉まっているのだが、施錠はされておらず、自由に見学ができる。門を入った正面に薬王堂が置かれている。薬王院の創建年代は不詳だが、開創は元禄年間以前といわれ、開山は海光和尚と伝えられている。薬王院は開山当初より今川氏の保護をうけ、1700年 (元禄13年) に今川範高から土地を寄進され、1719年 (享保4年) に今川氏の祈祷所となっている。1747年 (延享4年) 頃に今川氏の菩提寺である観泉寺の末寺となり、明治維新の際、観泉寺に合併され、以後同寺の境外仏堂の薬王堂となっている。

1882年 (明治15年)、境内の一隅に不動明王を祀った不動堂が設けられ、寄木造りの坐像の本尊が置かれ、近在の人々は「お不動様」と呼んで信仰し、3年後の1885年 (明治18年) には信徒によって成田山成開講がつくられ、近年まで行者の道場として栄えていたといわれている。江戸時代後期に薬王院が観泉寺の管理になった際に、住職の隠居所となり寺子屋も開かれていた。寺子屋では教科書として今川了俊が書いた今川氏の家訓を骨子とした「今川状」や「女今川」などの往来物が道徳の教科書として使われていた。1875年 (明治8年) には桃園学校第二番分校 (現 桃井第一小学校) が薬師堂で開校している。


庚申塔 (85番)、地藏菩薩 (86番)、地藏菩薩 (87番) 他

境内には石仏や石塔が集められている場所がある。向かって右から見ていく。

  • 地藏菩薩 (87番 右端)、地蔵菩薩 (88番 右から2番目) - 1720年 (享保5年) に武易多摩郡遅野井村の人々により同時に造立された蓮台の上に丸彫の地蔵菩薩立像が二つ置かれている。どちらも同じ像形で同じ文字が刻まれている。
  • 地藏菩薩 (86番 左から2番目) - 1669年 (寛文9年) に念仏講中により蓮台に舟型塔が建てられ、地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、為念仏講施十九人現證菩提と刻まれている。
  • 阿弥陀如像 (左端) - 1667年 (寛文7年) 造立の蓮台の上の舟型塔に阿弥陀如像が浮き彫りされている。
  • 仏像 (右) - 詳細不明
  • 地蔵菩薩像 (中) - 1896年 (明治29年) 造立の蓮台の上に丸彫の地蔵菩薩像。
  • 如意観音像 (左) - 詳細不明
  • 地蔵菩薩像 (右) - 1718年 (享保3年) 造立の上荻久保村の人により造立された丸彫地蔵菩薩像。
  • 不動明王像 (中) - 不動明王像は失われ、不動明王の左脇侍 矜羯羅 (こんがら) 童子と右脇侍 制多迦(せいたか) 童子が残っていたが、近年に不動明王が置かれている。造立年は不詳。
  • 不動明王像 (左) - 詳細不明
  • 石橋供養塔 (右端) - 1892年 (明治25年) に自然石に石橋供養塔と刻まれている。
  • 敷石碑 (右から2番目) - 詳細不明
  • 薬師瑠璃光如来 (左から2番目) - 1889年 (明治22年) 造立の角柱に薬師瑠璃光如来と刻まれている。
  • 庚申塔 (85番 左端) - 1793年 (寛政5年) に武易多摩郡上荻窪村講中により造立された角柱に「庚申塔」と刻まれている。道しるべも兼ねていた。

境内奥にも幾つもの石仏や石塔が置かれている。多分墓石を集めたと思われる。


井荻町役場跡

薬王院の隣は1932年 (昭和7年) に杉並区が成立するまで、井荻町役場が置かれていた場所になる。1889年 (明治22年) の市制・町村制の施行で上井草村、下井草村、上荻窪村、下荻窪村の4村が合併し、井草の井と荻窪の荻をとり「井荻村」が誕生した。井荻町役場の前身となる井荻村役場は当初は荻窪駅寄りの青梅街道沿いに置かれたが、1899年 (明治32年) にこの地に移転している。 誕生当時の井荻村は、人口2,925人の農業を中心とした典型的な一農村だったが、その後交通機関の発達もあり、 1923年 (大正12年) の関東大震災以降、都市近郊の住宅地として人口が急激に増加し、1925年 (大正15年) に村は井荻町となり、二階建ての新庁舎が建設されている。この年の人口は13,514人と人口は4.6倍と大きく増加している。その後も人口の流入は続き、大規模な土地区画整理が行われた。1932年 (昭和7年) に、井荻町は和田堀町、杉並町、高井戸町と共に杉並区として東京市へ編入され、井荻町役場はその役割を終えている。この時の井荻町の人口は25,968 人にもなっていた。


御茶園跡

薬王院と中通り公園の間に、現在の八丁通り西沿いには江戸時代には今川家の御茶園 (御菜園?) 跡と言われている。現在は住宅街で昔を偲ぶものは残っていない。


八丁交差点、八丁通り

八丁通りと青梅街道とが交わる所は八丁交差点になる。この辺りには八丁云々という地名が幾つか見られる。この辺りから現在の八丁通り沿い北側 (青梅街道沿いとする資料もあった) には高家今川氏が領主になったとき、領地を治めるための役宅と家臣の屋敷を建築した。南北に八丁歩の敷地だったので八丁屋敷と呼ばれた。後に、家臣は江戸今川屋敷内に住み、役宅は観泉寺を使用したため、八町歩の屋敷地は畑として農民に耕作させていた。現在でも八丁云々という地名が幾つか残されている。また、小名 八町の北部は現在の今川一丁目~三丁目として「今川」の名も残されている。

旧八丁通り

かつての八丁通りは、現在の八丁通りとは異なっている。以前は八丁交差点から薬王院を通り、警察署までの青梅街道沿いだった。この街道沿いには民家や店が集中していた。現在でも多くの商店があり、八丁商店街と呼ばれている。


小名八丁から西隣の小名宿に移動。


小名 宿 (しゅく、旧宿町 [現 桃井三丁目、桃井四丁目の東部分、上荻四丁目の一部、西荻北五丁目の一部、善福寺一丁目の一部])

古くから青梅街道がこの地を通り、街道沿いに宿場のようなものがあり、ここの小名は宿と呼ばれる様になったと考えられている。

1889年 (明治22年) には小名 宿の一部と八町は小字の中通り南 (中通道南)、小名 宿の一部と三家は小字の中通り北 (中通道北) となっている。1932年 (昭和7年) に中通り南と中通り北は中通り町 (かつての小名 八町の地域に相当)、宿町 (かつての小名 宿の地域に相当)、三谷町 (かつての小名 三家の地域に相当) に行政区現行され、1964年 (昭和39年) に現在の住居変更が行われている。

明治から大正、昭和初期までは、民家は青梅街道沿いに集中している。江戸時代には宿場らしきものがあったと考えられている。宿地域の空き地 (農地) に大正14年に中島飛行機工場が置かれて、その周辺に民家が増え始め、昭和20年代後半には工場跡地を除く全土が既に住宅地になっている。中島飛行機工場跡地は日産自動車工場となり、その後、工場が移った跡地は公園と集合団地になっている。

小名 宿内の寺社仏閣や民間信仰の塔は以下の通り。

  • 仏教寺院: なし
  • 神社: 宿町御嶽神社
  • 庚申塔: なし
  • 馬頭観音: なし
  • 地蔵菩薩: なし
  • その他: 佐平吉弁財天


桃井原っぱ公園

薬王院の西にも公園があり、かなり広い敷地になっている。桃井原っぱ公園で戦前にあった中島飛行機東京工場の跡地になる。中島飛行機東京工場は1925年 (大正14年) に開設され、第二次世界大戦後は1966年 (昭和41年) に日産自動車荻窪工場となり、宇宙航空事業部の開発・生産拠点となっていた。工場は1998年 (平成10年) にカルロス・ゴーン氏のリバイバルプランにより、群馬県富岡市へ移転し、跡地を売却。2001年 (平成13年) に公園とする都市計画が決定され、2002年 (平成14年) 末には桃井原っぱ広場として暫定的に開放され、その後も整備工事が続けられて2011年 (平成23年) に桃井原っぱ公園として開園している。

2024年4月7日にこのはらっぱ公園を再訪した。桜が咲いているだろうと思い立ち寄ってみた。満開時期は過ぎているのだが、まだ花見客が大勢来ている。


ロケット発祥の地

公園への並木道を入ると、公園入り口に記念碑が二つ置かれていた。向かって右の石碑は旧中島飛行機発動機発祥の地と刻まれている。この地にあった中島飛行機東京工場では国産第1号の飛行機用エンジンをはじめ、当時世界に名を轟かせた零戦のエンジンも設計・製造を行なっていた。戦後、1953年 (昭和28年) に旧中島飛行機は社名を変え富士精密工業となり、東京大学生産技術研究所 (現 文部科学省宇宙科学研究所) の指導を受け、ロケットの開発に着手した。2年後の1955年 (昭和30年) にはペンシルロケットの初フライトに成功し、これが日本のロケット第1号となった。これを記念した石碑が向かって左の「ロケット発祥の地」になる。


宿町御嶽神社

宿町集会所の階段脇に祠があり、宿町御嶽神社という。この場所は江戸時代には上井草村宿 (しゅく) で遅野井村 (おそのい) とも呼ばれていた。(明治25年) の町村制施行で井荻村ができた時に豊多摩郡井荻村大字上井草字宿 (後の井荻1丁目)、原 (井荻2丁目)、寺分 (井荻3丁目) となっている。(昭和8年) の町名変更により、東京市杉並区宿町となったが、昭和37年の住居表示法で桃井、上荻、西荻北、善福寺と宿町の区域が分断され宿町の町名は消えてしまった。ここにある御嶽神社に宿町の名を残している。 


六童子 - 上向き童子 (2024年4月4日 訪問)

宿町御嶽神社の西、青梅街道沿いの杉並区立勤労福祉会館の玄関口に上向き童子のモニュメントが置かれていた。これは西荻窪の商店街が町おこしとして2009年 (平成21年) に道沿いや駅の周辺に六童子 (花の童子、おすもう童子、龍神童子大朝露童子縁結び童子上向き童子) を設置したもの。台座には以下の様なメッセージが添えられている。
「おっと うつむきゃ涙がこぼれる いつでも楽観 上向き童子」


今日は東京滞在の最終日なので、もう少し頑張って、次の小名の新宿も見ることにした。


上井草村 小名 八町・宿 訪問ログ


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 井草のむかし (2019 井口昭英)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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