Okinawa 沖縄 #2 Day 273 (13/10/24) 旧中城間切 北中城村 (04) Adaniya Hamlet 安谷屋集落
旧中城間切 安谷屋集落 (アダンナ、あだにや)
- 袖端坂 (スディバナビラ) 石畳道
- しあわせ地蔵
- なかぐすくへの道
- 第一安谷屋交差点シーサー群
- 安谷屋公民館 (村屋)、アシビナー (遊び庭)
- 上森公園 (イームイ)
- 大井戸 (ウフカー)
- ノロ殿内 (ヌンドウンチ)
- 仲 (ナーカ)
- 若松公園、中城若松屋敷跡、若松の火ヌ神
- 中城若松之墓 (ナカグスクワカマチヌハカ)
- 中城若松の母の墓、中城若松の妻の墓
- 壺井戸 (チブガー)
- 後原樋川小 (クシバルヒジャーグヮ)
- 夫婦井戸 (ミートゥカー)
- くるま御井戸 (クルマウカー) (2024年12月19日 訪問)
- 辺土大主之墓 (へドゥウスーヌハカ、ヒルウフスウーヌハカ)
- 与儀ヌ井 (ユージーヌカー)
- 外間神屋 (フカマカミヤー)
- 熱田神屋 (アッタカミヤー)
- 寺小山坊主墓 (テラグァーヤマボウズバカ)、久米島の遥拝
- 安谷屋グスク
- 根所火ヌ神 (ニードゥクルヒヌカン)
- クガニジ御井戸 (ウフカー)
- クサテ御井戸 (ウフカー)
- 上ヌ井戸 (イーヌカー)
- 七殿 (シチドゥン)
- 上ヌ御獄 (イーヌウタキ)
- 今帰仁/島尻お通し (ナチジン/シマジリウトゥーシ)
- 下ヌ御獄 (シムヌウタキ)
- 大樋川 (タカヒージャー) (2024年12月5日 訪問)
- アカイ玉御墓 (アカイタマウフカ) (2024年12月5日 訪問)
旧中城間切 安谷屋集落 (アダンナ、あだにや)
1944年に入ると青年男子の徴兵が始まり、村では働き手がいなくなり、住民の生活は苦しくなってきた。同年夏には日本軍が喜舎場国民学校に駐屯し、その後まもなく、安谷屋にも石部隊が倶楽部 (公民館) や個人の家に駐屯し、陣地を構築したり、壕を掘ったり、米軍の戦車の進路を絶つために民家の石垣を壊して、要壁を作ったりしていた。部落の人たちは軍隊に野菜、芋などの農作物を拠出していた。1944年年の十・十空襲では安谷屋集落には被害は無かったのだが、焼き出された那覇の人たちが、住み家を求めて安谷屋にも避難し、その後、米軍上陸前にヤンバルに引っ越していった。
住民が捕虜となり各地に収容され、空になった安谷屋は難民収容所として使用され、南部で捕虜になった人たちが安谷屋に収容されていた。この時期には安谷屋集落の人口は八千人に達していたといわれる。
1945年11月にコザ地区に収容されていた安谷屋の住民たちは北中城村では最も早い帰還の許可が降りている。これは帰郷である。帰還が叶わなかった屋宜原、瑞慶覧、荻道や大城の人たちも安谷屋に移ってきている。
安谷屋住民で沖縄戦で亡くなった人は265人で当時の住民の33.2%に当たる。村内での戦没者は14人で戦没者のうちの5%だが、沖縄各地に逃げていった人は多くが亡くなっており、その数は188人で戦没者の71%を占める。村に留まっていれば捕虜として生きながらえたはずだが ...
北側の安谷屋グスク一帯が、村落発祥の地といわれ、御嶽、拝所、古墳墓群が散在している。グスクの殿、 周辺の御嶽、拝所、火の神、古井泉、古墳墓群等、数多くの拝所があり、村が拝祀している拝所が20か所以上ある。琉球国由来記等に記載されている拝所は以下の通り。
- 御嶽: 安谷屋城嶽 (上ヌ嶽 神名、コンキヤネイシラゴノ御イベ)、下ノ嶽 (神名、ヨノカネノマネツカサノ御 イベ)
- 殿: 安谷屋城之殿、中之根所
- 拝所、神屋: 安谷屋巫火神 (安谷屋ノロ殿内)、瑞慶覧巫火神 (瑞慶覧ノロ殿内)
祭祀行事は安谷屋ノロによって執り行われていた。
袖端坂 (スディバナビラ) 石畳道
しあわせ地蔵
緑豊かな北中城村安谷屋のがけ下に、尊いお地蔵様が何者かにより無残にも投げ捨てられていました。頭からすっぽりと沼地に落ちたお地蔵様は数年間も誰にも見つからず、手足をバタつかせ「助けてくれ〜」と、 もがき苦しみ今にも息が切れかかりそうでした。
平成23年10月、村人により発見される。
心よい村人達に手厚く供養されたお陰でやっと息を吹き返した。お地蔵さまは再び生命 (いのち) が蘇りこの地を行き交う人々に癒しを与えています。お地蔵様の恩返し(ご加護)なのでしょうか? ここを訪れた人達に不思議なことが起こるようになりま した。子宝、恋の成熟、病気の快復…。私達に幸せをもたらせてくれるお地蔵様。それからと言 うものこのお地蔵様は「幸せ地蔵」と呼ばれるようになりました。平成25年 吉日
なかぐすくへの道
第一安谷屋交差点シーサー群
安谷屋公民館 (村屋)、アシビナー (遊び庭)
上森公園 (イームイ)
御さけやらはかふし
一あたにやの きもあくみの もりに
(安谷屋の敬愛されている杜に)
世かほう よせわる たたみ
(世果報を寄せなさる城主)
又くよくと たたみと しなて
(又安谷屋グスクと城主がつり合って)
又たたみと まなてすと しなて
(又城主と愛すべき村人が和合して)
大井戸 (ウフカー)
ノロ殿内 (ヌンドウンチ)
仲 (ナーカ)
若松公園、中城若松屋敷跡、若松の火ヌ神
中城若松之墓 (ナカグスクワカマチヌハカ)
中城若松の母の墓、中城若松の妻の墓
壺井戸 (チブガー)
後原樋川小 (クシバルヒジャーグヮ)
夫婦井戸 (ミートゥカー)
くるま御井戸 (クルマウカー) (2024年12月19日 訪問)
その後、12月19日に喜舎場集落へ向かう際に、このくるま御井戸を探しに訪れた。前回途中で途切れていた道の延長線を目指す。畑の奥に道があり、その突き当りに井戸跡があった。名前を表示したものはないのだが、多分これがくるま御井戸と思える。
辺土大主之墓 (ヒルウフスウーヌハカ)
与儀ヌ井 (ユージーヌカー)
外間神屋 (フカマカミヤー)
熱田神屋 (アッタカミヤー)
寺小山坊主墓 (テラグァーヤマボウズバカ)、久米島の遥拝
安谷屋グスク
根所火ヌ神 (ニードゥクルヒヌカン)
クガニジ御井戸 (ウフカー)
クサテ御井戸 (ウフカー)
上ヌ井戸 (イーヌカー)
七殿 (シチドゥン)
上ヌ井戸から更に道を登ると安谷屋グスクの頂上に広場があらわれる。七殿 (シチドゥン) と呼ばれる場所で七根屋 (シチニーヤ) ともいう。昔はこの広場で七つの門中の代表の神人 (カミンチュ) が集まり白い着物を着け祈りを捧げた場所といわれている。7つの門中は東側から草分けの古い順に熱田、仲、仲村渠、野ン殿内・大屋、外間、蔵根が座していたそうだ。広場の奥に拝所が置かれている。資料ではこの拝所については触れられていないので、村祭祀には関係がないのかも知れない。二つの石碑があり、それぞれにウミナイ、ウミキィと刻まれている。沖縄での開闢神話に関わるになる。人類の始まりは天にいた天帝の長男で琉球開闢神話の神の天孫子が息子と娘を地上に降ろし、この二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなった。次男の按司がウミキィでその妻がウミナイでここに祀られている。
上ヌ御獄 (イーヌウタキ)
更に道を進むと道の中央に石が積まれている。これが上ヌ御獄 (イーヌウタキ) で、琉球国由来記に記載されている安谷屋城嶽 (神名 コンキヤネイシラゴノ御イベ) にあたる。
今帰仁/島尻お通し (ナチジン/シマジリウトゥーシ)
下ヌ御嶽 (シムヌウタキ)
2024年12月5日に荻道集落を訪れる途中に未訪問だった安谷屋集落の史跡を訪れた。
大樋川 (タカヒージャー) (2024年12月5日 訪問)
安谷屋集落から県道146号線を荻道集落に向かう途中で、分岐する農道を北に進んだ所にコンクリートのタンクと整備されている大樋川がある。「おもろさうし」 では「たかさうず」と謡われた泉で、ウフヒージャーといわれるが、安谷屋ではタカヒージャーと呼んでいる。昔から枯れることなく、琉球石灰岩と基盤のクチャの間から水が湧き出しており、若水を汲んだ井泉だった。昔は生活用水や農業用水として使われていたため、部落の至る所にあったタンクにパイプで結ばれ、生活の糧として重要な湧き水だった。戦後初期の学校のミルクを作るときには、ここの湧き水が使用され、また、酒造業にも利用されていた。現在は水道設備が完備され、農業用水としてのみ活用されている。
1933年 (昭和8年)、沖縄県が飲料水改善施設補助制度を設け、農村地方の飲料水の改善に乗り出す。この事業の補助制度が翌年始まり、安谷屋でも住民たちは共同作業により集落内に10カ所のコンクリート造りの水タンクを造り、量豊富なこのタカヒージャーからパイプを引いてタンクに給水し簡易給水装置が作られた。住民はタンクの上に常備されていた柄杓でタンク内に溜まった水を水桶に入れて各家庭に運んで使用していた。その後、1958年 (昭和33年) に琉球列島高等弁務官資金により集落内に住民の共同作業で大きなタンクを造り、タカヒージャーから水を引き、部落内の数カ所に圧力式の水道蛇口を設置し、新しくできたタンクから送水を送り、簡易水道が完成し住民の飲料水を支えていた。集落内には20ヶ所程の時間制の給水所が設けられた。1964年 (昭和39年) に各家庭に水道が引かれ、簡易水道時代が終わり、その後はタカヒージャーの水は農業用水として使用されることになった。ここから引かれた簡易水道のタンクが集落内に残っているかもしれないと思い探してみたが、残ってはいなかった。
アカイ玉御墓 (アカイタマウフカ) (2024年12月5日 訪問)
安谷屋集落の東方の宝森 (タカラムイ) 北側崖の斜面にアカイ玉御墓 (アカイタマウフカ) があると資料にはあった。
2018年に台風で崖が崩落し消滅してしまったそうだが、その後、どうなっているのかに興味があり、訪れる事にした。大樋川から県道146号線の戻り、荻道集落に向かい道を登って行くと、アカイ玉御墓への入口がある。昔は案内板があったのだが撤去されている。やはり消滅したままなのだろう。道は雑草で覆われて、ここに道があるとは分からない状態。持参している鎌で雑草を刈りながら進むと墓地があらわれる。この奥の森の崖にあったそうだ。
鎌で雑草を薙ぎ倒しながら森に入って行く。僅かに道らしきものがあり道を登って行くと崖に行き着く。
崖には幾つもの古墓がある。この近くにアカイ玉御墓があったので、その痕跡を探すが見つからず。
アカイ玉御墓はアカヌウハカとも呼ばれ、建造時期は不明だが、宝森 (タカラムイ) の北面した断崖の中腹を掘り込んで造られた壁龕墓で墓口は幅2m、高さ1.4mにわたり石積みされ、朱塗りの木格子がはめ込まれている。この墓は天孫氏の系統の一つの辺土天孫氏王統の墓との言い伝えがあり、屋号・野呂殿内が管理していた。朱塗りで赤ではなく、障子のことを方言でアカイといい、墓の名称は、墓口にはめ込まれた格子がそれに似ていることに由来する。2018年9月30日の台風で崖崩れが起こり、埋まってしまった。消滅前の写真があったので借用した。
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
- 安谷屋字誌 あだんな (2020 安谷屋自治会)
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