Tokaido 東海道 30 (28/11/19) Chiryu Shuku 池鯉鮒宿

(39) Chiryu Shuku 池鯉鮒宿

  • 知立松並木 (11/27に見学)
  • 馬市之碑 (11/27に見学)
  • 慈眼寺 (11/27に見学)
  • 問屋場跡
  • 本陣跡
  • 宝蔵寺
  • 知立古城
  • 池鯉鮒大明神常夜燈
  • 了運寺
  • 総持寺
  • 知立神社
  • 一ツ木一里塚
  • 地蔵堂
  • 阿野一里塚

刈谷城跡

  • 本丸跡 (亀城公園)
  • 椎の木屋敷
  • 豊田佐吉像
  • 下町常夜灯跡/市原常夜灯
  • 文礼館跡
  • 市原稲荷神社
  • 刈谷城大手門跡/町口門跡/札の辻/緒川口門跡

(39) Chiryu Shuku 池鯉鮒宿

池鯉鮒宿は東海道39番の宿場で岡崎宿から 3里29町22間 (15.0km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒、戸数292戸、人口1,620人。池鯉鮒と書いて「ちりゅう」と読む。ところが、ここは別の漢字で知立となっている。本来は知立。平安時代に文献にそう書かれている。変わった感じになったのは鎌倉時代からで、智鯉鮒と書かれていた。江戸時代になると池鯉鮒と書かれていた。

知立松並木 (11/27に見学)

池鯉鮒宿を目指し走ると、またまた松並木が見えてきた。岡崎宿と池鯉鮒宿の間は旧東海道が国道1号線と重なったり離れたりして通っているのだが旧道にはいくつか松並木が残っている。
ここにも明治用水が走っている。

馬市之碑 (11/27に見学)

松並木が終わる所に馬市之碑がある。安藤広重の池鯉鮒宿の浮世に描かれているのがこの馬市。古来より三河の地は良馬の産地で、愛知県知立市の牛田〜八橋間の野原では馬の市が立っていた。山内一豊が妻 まつのお金で馬を買い馬揃えで信長に褒められたと言う有名な話の馬を買ったところがこの池鯉鮒の馬市であったという話もあるそうだ。

慈眼寺 (11/27に見学)

明治時代になり、先に訪れた馬市は慈眼寺の境内に場所を移し、馬から牛の取引になり、更に鯖市も行われていました。写真の石標には「三河西国二十八番 馬頭観世音菩薩及家畜市場」と書かれていた。

問屋場跡

池鯉鮒宿の中心地に入るとまずは問屋場跡がある。

本陣跡

問屋場の裏側に本陣跡がある。東海道に面していない。こういうケースも時たまあったが、ほとんどのケースは東海道に面していた。

宝蔵寺

本堂裏には岡崎城主田中吉政により建てられた、美濃加賀野井城主弥八郎重茂の墓がある。弥八郎重茂は、慶長5年 (1600) 池鯉附宿にて刈谷城主水野忠重と浜松城城主堀尾可晴と会談酒宴中に闘諍となり弥八郎は忠重を刺殺し、弥八郎は可晴によって斬殺。

知立古城

この場所は在原業平の子孫の永見氏が代々務める知立神社の神官のいた館であった。戦国時代にはこのあたりを治めていた水野氏の傘下に入っていた。29代神主の貞英は、この後訪れる刈谷城主の水野忠政 (家康の母・於大の父) の娘を正室として迎え、その子供の一人が家康の側室のお万の方で次男の結城秀康の母親。城跡には一切遺構は残っておらず、石標があるのみ。結城秀康の双子の兄弟はこの永見氏に引き取られ知立神社の神主となった。桶狭間の戦い当時、知立あたりは今川方に支配にあったが、今川義元が討ち取られ、知立城も落城。その後、刈谷城主水野忠重がこの土地に屋敷を建て統治を行った。

池鯉鮒大明神常夜燈

了運寺

この寺の創建時期は不詳。知立神社の別当寺院として開山したと伝えられている。ここには関ヶ原合戦の直前、石田三成に家康暗殺を命令された加賀井重茂望が水野勝成の父であった刈谷城城主の水野忠重を暗殺した話は昨日訪れた宝蔵寺で知ったのだが、ここにはこの時に水野忠重の二人の付き人が責任を取り切腹をした。その二人を埋葬し弔ったのがこの追腹塚だった。この了運寺と宝蔵寺は事前に調べて訪れた所では無いのだが、その繋がりを発見するとは面白い事だと思う。

総持寺

総持寺は、嘉祥三年 (850) 創建の古い寺院。徳川家康の次男の結城秀康を産んだお万の方の誕生地と伝わっている。

知立神社

第12代景行天皇の時に東国平定に赴いた日本武尊が当地で戦勝を祈願し、平定後の帰途に感謝して建国祖神を祀ったのが創建と言われているから相当に古い神社。先程訪れた知立古城で触れた永見氏が神官を務めていた。
境内には仏塔がある。神仏習合の時代からのもので、知立神社の別院として境内に造られていた神宮寺の遺構。この塔の中にあった本尊は先程訪問した総持寺に移されている。
神社には公園もあり菖蒲園がある。ここで知り合い話をした地元のおじさんから菖蒲が一輪咲いているから見て行きなさいと薦められた。この冬に咲いているとは珍しく、写真におさめた。

一ツ木一里塚

日本橋から数えて85番目の一里塚

地蔵堂

東海道の脇に小さな地蔵尊。ガイドブックに載っていたが一切の説明はなく、どういう地蔵尊なのかは不明。

阿野一里塚

一ツ木一里塚の次にある86番目の一里塚。二つとも残っており、国史跡に指定されている。

刈谷城跡

天文2年 (1533年) 水野忠政が築城し、本拠地を緒川から刈谷に移した。城跡の本丸と帯曲輪の一部が亀城公園となっており、本丸の土塁が残存している。(写真右中)
公園内にある資料室でCGによる城の再現ビデオが提供されている。
城跡の周りにはいくつかの史跡があり訪れた。
徳川家康の生母於大はこの刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁いだ。於大の兄の水野信元が今川氏を離れ織田氏についた (織水同盟) ため、松平氏を離縁され、刈谷城近くの椎の木屋敷で久松氏に再嫁するまで過ごしている。水野信元は織田側についたが、後に武田方への内通を疑われ、信長の命で家康に殺害され、刈谷城には佐久間信盛が入った。更に信盛は信長に追放され、信元の末弟忠重が城主となって水野氏の領有に復したという経緯がある。その後、明治の廃藩置県で廃城になるまで領主は国替えなどで変わりはしたが存続。

椎の木屋敷

豊田佐吉像

本丸の堀跡の池の辺りに豊田佐吉像がある。そういえば、豊田市は愛知県にある。豊田佐吉は明治44年 (1911) に豊田自動織布工場を設立し、大正15年 (1926) ここ刈谷市に豊田紡織株式会社刈谷試験工場を作り、その後、豊田自動織機製作所も設立した。刈谷市は豊田のルーツが刈谷にある事を誇りとしている。

下町常夜灯跡/市原常夜灯

刈谷は城下町として発展した。その名残りの常夜燈が残っている。

文礼館跡

藩校の文礼館跡

市原稲荷神社

白雉4年 (653年) に亀狭山 (現在の亀城公園) に社殿を創立したのがこの神社の始まり。その後、天文2年 (1533年) に水野忠政が刈谷城を築城した際、水野忠政は現在地に移転させた。永禄3年 (1560年) の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた際、敗走する今川方の鳴海城城代岡部長教は刈谷城を襲撃し市原稲荷神社の社殿も焼き払った。

刈谷城大手門跡/町口門跡/札の辻/緒川口門跡

刈谷城大手門跡 (左上)、町口門跡 (右上)、札の辻 (左下 宿場町の入り口)、緒川口門跡 (右下)
今日はここで日没となった。どんどん日が短くなっている。これから今日の宿に10キロほど走って向かう。


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