Ride in Setouchi & San-in Day 78 (1/6/19) Otogo Castle Ruins 乙子城跡

Otogo Castle Ruins 乙子城跡
Takatori Yama Castle Ruins 高取山城
Toishi Castle Ruins 砥石城
Myokoji Temple 妙興寺
Fukuoka Post Town Market 福岡市跡
Osafune Katana Museum 長船刀剣博物館

自転車道路で児島湾に向けて走ると小さな山が左に見えてきた。あれが乙子城があった山だ。
乙子城の麓には「宇喜多直家国取り始まりの碑」が建っている。祖父能家が自刃に追い込まれた後、父興家の浪人生活が始まり、興家が亡くなった(自殺という説もある)後は、母が旧主君浦上家に奉公。母の働きにより、直家は浦上宗景への仕官がかなった。天文13年(1544年)、宇喜多直家が15才の時、初陣で赤松晴政との戦いで戦功をあげ、三百貫の所領と30人の足軽を与えられ、この乙子城が築かれた。15才の時なので、本人が普請したのではなく、誰かが助けたのだろう。 ここから直家が戦国大名への道が開けたので、直家の国取り始まりの地と言って過言では無いだろう。

Otogo Castle Ruins 乙子城跡

天文13年(1544年 直家 15才)から天文18年(1549年 直家 20才)の5年間、新庄山城に移るまでは、ここを居城とした。移った後には弟の宇喜多忠家をここ乙子城に置いた。忠家ともう一人の異母弟の春家は直家が福岡にいた時に生まれたことになっているので、少なくとも6才は年下なので、忠家は14才で乙子城主になったことになる。戦国時代では幼くして家督を継いだり、城主になる事はよくある事だが、今に比べて成人と見なされるのが随分と早い。現代では20才になってもまだ子供気分の若者が多い。現代人は考える必要があるのではないか。
登り口があり40mぐらい上がった所が本丸跡。それほど広いスペースでは無い。
そこから北のほうに曲輪が何段かあり、二の丸がある。二の丸跡には乙子神社が立っている。
ここからは直家の次の出世のきっかけとなった砥石城が臨める。(写真正面の山) 次の訪問地だ。

Takatori Yama Castle Ruins 高取山城

砥石城手前に高取山城跡がある。この城は直家にとって遺恨の城。砥石城の祖父能家を急襲し自刃に追い込んだ張本人の島村盛実の居城だ。島村氏は代々この城を居城に備前守護代の浦上氏に仕えていた。砥石城には1キロ程の距離。先程行った乙子城からもそれれほどの距離でもなく、直家はいつか仇討ちをとの思いを秘めて毎日この城を見ていただろう。城は標高162mの山頂に本丸を築き、二の丸と三の丸が尾根沿いに広がっている。山はそこそこ急な道が多い。三の丸まであるのだから、島村盛実は浦上氏家臣でも宇喜多能家と張り合っていたというから、上の方だったと思われる。
三の丸
本丸
二の丸
永禄2年(1559年、直家30才)に直家は主君浦上宗景の命で謀叛の疑いがあった沼城の義父中山信正を謀殺、同じく謀叛に加担していた島村能登守をも謀殺し、この城も攻めた。遂に仇討ちがなった。この謀叛については諸説あり、濡れ衣としているのもあるし、策略であったとも、昨日読んだ小説では謀叛は事実で、直家は義父からそれを打ち明けられ、悩んだ末に謀殺したとなっている。
城跡から見た砥石城
北方面

Toishi Castle Ruins 砥石城

この城は宇喜多直家の祖父 宇喜多能家が築城。天文3年(1534年 直家 5才)、高取山城主島村豊後守に夜襲をかけられ、病床にあった能家は自決。宇喜多氏の本領は高取山城主の島村氏へ、砥石城は浮田大和守に与えられた。それから25年後、永禄2年(1559年 直家 30才)、直家は主君浦上宗景の命により義父中山信正、高取山城主島村豊後守、そして三村氏内通の疑いで砥石城主の浮田大和守を討ち取り、異母弟の春家を砥石城主とした。

直家が岡山城を築城すると春家は沼城へと移り備前平定後、砥石城は廃城。
城跡は輪郭がはっきりと残っており、本丸には石垣が遺構としてあった。
本丸
突き出した曲輪跡
ここから見た高取山城跡
本丸からの景色

Myokoji Temple 妙興寺

妙興寺は直家達が祖父能家の自刃の後、鞆の浦に逃れ、それからこの福岡の豪商阿部善定を頼って移って来た。直家の父興家は善定の娘との間に子をなす。後の忠家と春家である。春家は直家が砥石城を攻略後、砥石城に入り、その後は沼城 城主となる。忠家は直家が乙子城から新庄山城に移った時に乙子城 城主となる。興家は直家が旧主の浦上宗景に仕官が叶う前にこの地で亡くなり(病死とも自害とも言われている)、ここ妙興寺に眠っている。
この寺には、もう一つ墓がある。黒田家の墓。黒田官兵衛のルーツはここにある。官兵衛の時には播州に移っていたが、黒田家は代々ここを拠点にしていた。福岡城にある福岡は官兵衛の嫡男黒田長政が故郷の福岡にちなんで命名した。

Fukuoka Post Town Market 福岡市跡

興家/直家親子が住んでいた福岡は吉井川と山陽道が交差する交通の要衝で、備前随一の商都で刀鍛冶、鉄砲鍛治が発達していた。長船と並ぶ、刀鍛治の一文字派はこの福岡が拠点。直家はのちに明禅寺の戦いで三村氏を備前国西域から撃退し、この福岡や長船の地を押さえた事で、経済的及び軍事的に有利な立場を得て、戦国大名への道が開けるきっかけとなった。
福岡一文字派
平安時代末期、鎌倉時代初期から続く備前では最も古い刀鍛治の一派。この後、長船の刀剣博物館に行く。

福岡城跡

この近くのゴルフ城内に福岡城跡がある。赤松・浦上氏と松田氏の対立により、福岡城をめぐって両者の合戦(福岡合戦)が行われたが、大永年間の大洪水により吉井川が流れを変えたため、福岡城は廃城となった。
それ以前は足利尊氏自が直冬討伐の際、ここに四十日余り滞在したこともある。
ここから刀鍛治で有名な長船に向かう途中、丸山城という城跡があった。詳細は不明。

Osafune Katana Museum 長船刀剣博物館

つねさんに薦められた場所。長船で作られた刀剣の博物館。遠目に見れば刀などどれも同じに見えるので、あまり関心があったわけでは無いのだが、実際に作る工程の説明や実物を見るとこれは芸術品だ。職人のこだわりが細部にある。ただ長船が刀の産地となったのは戦国時代に大量生産の需要があり、それに対応した事がある。大量生産の刀はこの博物館に展示されているものとは随分と異なる筈だ。この大量生産の事は殆ど触れられていない。現代では大量生産の需要はないので、刀鍛冶は芸術品として、刀を作っており、大量生産の工程は無い。本当はそこも知りたいし、長船を支えてきたのは、そこの筈。やはり当時は刀は殺戮の道具。芸術品は権力者からの注文や、職人自身のこだわりで作ったもので数は限定される。刀を芸術品としてしか紹介しないのには少し不満が残る。
特に興味を引いたのが波紋だ。刀を芸術品にしている要素では、たしかに美しい。

1コメント

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  • sumito dohi

    2019.06.06 05:02

    見たところほとんどが一次産業従事者なのでしょうけど、写真の集落ではこれといった産業があるのでしょうかね?刀鍛冶も産業というほどの規模では内容ですし。冶金の何かがあったりするのでしょうか。もしないとすると、完全に限界集落の状況なのでしょうね。これが現実か....