Ride in Setouchi & San-in Day 30 (14/4/19) Pagoda Ruriko Temple 瑠璃光寺 五重の塔
大内氏関連史跡
- 瑠璃光寺 五重の塔
- 雲谷庵
- 神福寺
- 聖サビエル記念公園
- 仁壁神社
- 常栄寺
- 清水寺
- 興隆寺
- 乗福寺
- 今八幡宮
毛利氏関連史跡
- 豊榮神社/野田神社
- 洞春寺
維新関連史跡
- 菜香亭
- 八幡隊結成の地 (今八幡宮社務所)
大内氏関連史跡
瑠璃光寺
もともと瑠璃光寺は別の場所にあり陶弘房の菩提寺であった。当時この場所には香積寺があり応永の乱で敗死した25代義弘の菩提を弔うため、弟の26代盛見が1442年に建立したが、香積寺は萩に移り、ここに瑠璃光寺が移ってきた。五重の塔は香積寺時代のもの、日本三名塔の一つ。
神仏習合の名残で金比羅さんがあったのだが、解説を見ると、金比羅はクンピーラという梵語でヒンズー教で鰐神、これが仏教にも取り入れられたと書いてあった。てっきり神道の神かと思っていた。考えてみると七福神などはヒンズー教、仏教、神道のごちゃ混ぜだ。
寺の前は香山公園になっている
公園内には、大内弘世像 (何故、弘世かはわからない。多分彼の時代に山口に移って来て、京文化がここに生まれたからだろう。雪舟像、沈流亭 、露山堂 (毛利敬親の茶室)
少し何でもかんでも集めたという感じが否めない。これは山口市の他の場所でも感じた。山口は西の京都とは言ってはいるが、京都ほど文化財が昔の形で多く残っているわけではない。毛利氏が藩庁を萩に置いてから長い間山口は忘れられていた。明治になり、県庁となり、軍隊が駐屯し、一気に人口が増え、住宅ラッシュ。山口は山に囲まれ盆地で兎に角狭い。多くの建物が建て替えられた。大内、毛利、維新に関わりのあるものをなんでもかんでも史跡に登録した。山口史跡のストーリーが不十分。西の京都という言葉にこだわり、翻弄されている様に思える。もう一度ストーリー作りをした方が良い。
雲谷庵
雪舟のアトリエがあったところ。現在の建物は明治17年に建てられた。復元されたのか?材料の一部は室町時代の物を使っている。雪舟は大内氏の招きにより40歳頃に山口に来て、48歳の応仁元年(1467)に遣明船で中国に留学。帰国後もここに住み作画活動と弟子養成に従事。永正3年(1506) 87歳で山口で亡くなった。この頃は京都は相次ぐ戦争で荒廃しており、多くの文化人が山口に来ていた。当時は文化、芸術の中心であった。
神福寺
大内弘盛が建久年間(1190年代)に創建した真言宗のお寺で、当初は神宮寺と呼ばれていた。明応8年(1499)、京都を追われた将軍足利義稙が大内氏を頼って山口に来て、この寺を居館とした。明治3年に平蓮寺と、大正5年に妙福寺と合併し、神福寺となった。
聖サビエル記念公園
大内義隆がザビエルに布教を許可した時に、(許可状の碑がある) 大道寺を教会として与えた。この地がその大道寺の跡地ではないかと言われている。成る程、それでここに公園を作ってサビエル記念公園としたのが納得がいった。少しつまらない事だが、山口ではFrancisco Xavierをサビエルと呼んでいる。一般的にはザビエルと習ったのだが、誰かサビエルにこだわる人がいたのだろう。ここにある碑文にはザビエルが使われていた。さすがに訂正できなかったのだろう。ちなみに、彼はスペイン人と書かれてあるものもあるが、実際はバスク人でXavierはバスク語ではシャビエルが一番近いのではと思うのだが....
仁壁神社 (にかべじんじゃ)
周防国の三の宮。明応6年(1494年)に九州の戦陣から帰った大内義興が周防国内5社に戦勝報告をした際にも3番目に参詣。永禄12年(1569年)に大内輝弘が山口に乱入(大内輝弘の乱)した際に焼失。毛利輝元により再建。正徳2年(1712年)に再び焼失。享保5年(1720年)に毛利吉元によって再建されたものが現在まで続いている。
玉祖神社が一の宮、出雲神社が二の宮、四の宮と五の宮が先日訪れた赤田神社と朝田神社。山口に3つもある。玉祖神社は防府にあるのだが、行きそびれた様だ。
常栄寺
常栄寺は大内政弘が別邸としてたてたもので、庭は雪舟に依頼して築庭させたものと言われている。その後、ここに大内氏が妙喜寺を建立した。毛利氏はここ妙寿寺と改名し、更に常栄寺の移転によって再度改名となった。庭園は寺の変遷の最中もそのまま維持され続けた。
清水寺
平城天皇の時代(806~809)の創建と伝えられているので平安時代が始まりとは相当古い寺。文書では建久六年(1195)にこの寺が記載されているものがあるので、鎌倉時代には創建されていた事は確かな様だ。
山口の寺の多くが大内氏全盛の室町時代以降の創建であるので、清水寺は山口で最も古い寺。
興隆寺
寺伝によれば、推古天皇の時代 (613年) に大内氏を起源となる百済の琳聖太子が創建したと伝えられる。
天長4年(827年)ごろ、大内茂村が大内氏の総氏寺に定めたという。
しめ縄が本堂に貼ってあったので、近所のおばさんにこちらは神社であちらのお堂がお寺ですか?と聞くと、本堂もお寺です。あの梵鐘は大内義隆さんの置き土産です。地元の人の大内家に対して特別の想いが感じられた。
乗福寺
大内氏22代重弘が開いた寺。重弘はこの寺に葬られ菩提寺となった。最盛時は塔頭36字、末寺88箇所あったといわれているが大内氏滅亡とともに衰廃してしまった。確かに塀は崩れて、石の階段はずれている。
供養塔と墓
今八幡宮
今八幡宮の創建年は不明。守護大名大内氏24代弘世による山口開府(1360年)よりも前とされる。29代政弘によって山口の総鎮守と定められ、さらには次代義興によって現在の社殿が造営された。幕末においては藩士のほか、京を追われた三条実美以下七卿も援助を受けている。
毛利氏関連史跡
豊榮神社/野田神社
豊榮神社と野田神社は、隣同士で建っている。それぞれ別の宗教法人だそうだ。本殿や拝殿、廻廊等の社殿もそれぞれ別にあるが、社務所を始めとする共有の施設もあり、密接な関係にもある。祭神は豊榮神社が毛利元就で野田神社が毛利敬親とその養嗣子の元徳。
豊榮神社の歴史は古く、毛利輝元が萩に移封された時に、祖父の元就を祀った事から始まっている。明治2年に萩から、元就が祀られていた神社を山口に移して豊榮神社と名をつけた。その2年後に有志により、豊榮神社の境内に敬親を祀る神社を建てた。これが野田神社の始まり。
同じ敷地に二つの神社がある。
左が野田神社、右が豊榮神社 ほとんど同じに見える。
洞春寺
毛利元就の菩提寺。その前には、応永11年(1404年)大内盛見が建立した国清寺があった。毛利氏が防長に移封になってから毛利隆元の菩提寺となり、後に元就の菩提寺となり洞春寺と称す。山門は国清寺創建当時のもの。本堂は、江戸時代に焼失して再建されたもの。
長州藩毛利家墓所
毛利宗家の墓所は萩なのだが、15代敬親から17代まではここに墓が造られている。土饅頭形式の墓で、天皇家の御陵以外にこの形式を見たのは初めて。何故、この形式にしたのだろう。
墓所の前に勅撰銅碑というものがある。明治天皇が毛利敬親の偉業をたたえてこの碑の建造を命じたと書かれてある。彼の評価が政府内では高かった様だ。
幕末維新関連史跡
菜香亭
明治10年(1877)、料亭として創業。山口の迎賓館として、井上馨、伊藤博文、佐藤栄作ら時代を担った人々が集った場所。
平成16年(2004)年に、山口市の観光施設・市民交流の場として再生。
菜香亭の前は維新策源地の屋外展示場になっている。
八幡隊結成の地
今八幡宮のすぐ下にある社務所で八幡隊が結成された。山口への藩庁移転後、今八幡宮の社務所には毎日のように若い藩士たちが集まるようになった。彼らが通ったとされる門が現在もそのまま残されている。久坂玄瑞、入江九一、堀真五郎、来島又兵衛らが、尊皇攘夷に向けての議論を交わし長州諸隊の一つ「八幡隊」を結成し、隊士100人。長州藩が京を追われるきっかけとなった「八月十八日の政変」の報復を企図し、久坂や来島らとともに半数にもおよぶ隊士が1864(元治元)年の「禁門の変」に参加した。
今日は多くの史跡をまわり過ぎた。少々消化不良の感があるが、大内氏の当時の影響力はよくわかる。(今でもなお、地元の人の畏敬を集めている様だ。毛利氏以上である。)
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