Ride in Setouchi & San-in Day 22 (6/4/19) Miyajima 宮島

Miyajima 宮島
  • 宮尾城 (要害山)
  • 町家通り
  • 塔の丘/五重の塔/千畳閣
  • 厳島神社
  • 清盛神社
  • 大聖院
  • 安芸勝山城
  • 駒ケ林
  • 弥山
宿から宮島口フェリー乗り場まで4km弱。自転車を港に停める。今日は徒歩での宮島巡りになる。まる1日潰すつもり。フェリーは2社あり宮島への到着港が異なる。JRフェリーは厳島神社の大鳥居のそばを通るらしいので、行きと帰りを別々のフェリーを使う事にする。
ものの10分で到着。まずは鹿の歓迎を受ける。随分と人に慣れているy。餌をねだらない。奈良の鹿より教育が行き届いている。時間が経ち観光客が増えてくると多くの鹿もどこからか姿を表して来た。桜の花びらが好物だそうだ。
宮島に来たかった理由は厳島神社が有名だからというよりは厳島の戦いの古戦場を見たかったから。
厳島の戦いは日本三大合戦の一つ (残りの二つは桶狭間の戦いと河越夜戦) 毛利元就3千5百の軍勢と陶晴賢2万7千の軍勢との戦いで、兵力で圧倒的に不利な毛利軍がわずか1日で勝ちをおさめた。如何にして勝てたのか? 毛利元就はこの戦いにより西日本の最大勢力へとなる。
当時、毛利元就は大内氏に従っていた。領主の大内義隆が、1551年に家臣の陶晴賢(すえはるたか)の謀反により殺害され、陶晴賢は大友宗麟の弟を大内家当主とし傀儡政権を樹立。しかし、この陶の挙動は大内氏家臣の混乱を引き起こし、毛利元就は陶晴賢との対立する。これが厳島の戦いの背景。
兵力で圧倒的に不利な毛利元就が戦場として選んだのがここ宮島。弘治元年 (1555) 5月に元就は厳島神社の近くに宮尾城を築き、陶晴賢の大軍を厳島へと誘き出す。

宮尾城 (要害山)

厳島神社参道の入り口の小さな丘にある。陶軍を誘き出す為だけの城なので、今は城と思わすものは一切ない。この城に300の兵を配置し、弘治元年 (1555) 9月21日に宮島に上陸した陶晴賢軍 (2万余) に攻撃されたが、毛利元就援軍の到着まで持ちこたえた。

町家通り

陶晴賢軍は宮島に上陸すると、宮島城攻撃の為、現在塔の丘と呼ばれている場所に陣を引いた。町家通りを抜けてこの塔の丘に向かう。距離は1キロもない。通りの両側には今でも古い家屋が並ぶ。地元の人の趣向なのだろうが、各家の玄関に明かり取りがある。一つ一つに、各家の思いが書かれてあり、それを見ながら歩くのも楽しい。
通りの向こうに塔の丘にある五重の塔が見えてきた。

塔の丘/五重の塔/千畳閣

宮尾状を攻める為に陶晴賢が9月21日に上陸し、陣を敷いた場所。ここも少し小高い丘。この陶の進軍には裏がある。毛利の家臣から陶に内通する旨を伝えさせた。この策略にまんまとのせられた形だ。ここには1407年に建てられた五重の塔と豊臣秀吉が1578年に安国寺恵瓊に命じて造らせた千畳閣がある。厳島の戦いは1551年なので、合戦当時は五重の塔は既に存在していた。
この塔の丘のすぐ下が厳島神社がある。この厳島神社も激戦地となる。
陶軍が宮島城を攻めている間、毛利元就は協力を要請していた村上水軍を待っていた。そして村上水軍が到着し、9月30日夜に毛利本隊
が動き、包ヶ浦に上陸し、博奕尾(ばくちお)の峰を越えて、陶軍本陣のある塔の丘へ襲撃をかける準備が整っていた。ほぼ同時期に別働隊の小早川隆景隊も厳島神社がある大元浦に到着。
10月1日に陶軍を挟み撃ちにする形で毛利本隊と小早川別働隊が塔の丘の陶本陣に奇襲を開始。陶軍は全く予想していなかった敵の来襲に大混乱。戦闘は毛利軍の優勢で進む。戦闘は神聖な場所である厳島神社は避けて行われたが、近くの民家から飛び火の可能性があるので毛利軍は消化活動まで行っていたと伝えられている。

厳島神社

仁安3年(1168年)頃、平清盛が社殿を造営し現在と同程度の大規模な社殿が整えられた。その後、平家一門の隆盛とともに厳島神社も栄えて平家の氏神となる。建永2年 (1207年)と貞応2年 (1223年)の2度の火災で建物の全てを焼失。現在残る社殿は仁治年間 (1240年-1243年)以降に造営されたもの。
ここを訪問したのは午前9時過ぎでそれほど観光客は多くなかった。外国人観光客の数にびっくり。日本人より多いのではというくらいだ。
山に登って下山してみると、観光客の数が驚くほど増えている。東京の浅草のような感じ。商店街はアメ横並みになっていた。午後になると引潮で、海水が引いて、鳥居まで陸地になっていた。多くの人が降りて、潮干狩りでもやっているようだった。

清盛神社

この厳島神社は平清盛と非常に関係が深いからだろうか、海岸線を少し行ったところに清盛神社が建立されていた。ただ、ここまではあまり観光客は足を伸ばさないのか、人はまばらだった。

大聖院

塔の丘で大きな敗北をした陶晴賢は厳島神社から山の方向にある大聖院に逃げ込んだ。ここにも毛利勢の追撃が激しく、島からの脱出の為に海岸線に出るが、毛利勢に船も抑えられ乗る船が無い。ここにも毛利勢の追撃で陶晴賢は自刃することになった。

安芸勝山城

この大聖院のところには安芸勝山城があった。大内氏の築城。陶晴賢は塔の丘に本陣を構える前はここを本陣としていた。土砂崩れの危険性があるため侵入禁止になっていた。

駒ケ林

陶晴賢が自刃した後も残党は背後にある山の駒ケ林に退却をして抵抗を行っていた。毛利軍は駒ケ林を包囲し残党を殲滅し、厳島の戦いに終止符が打たれた。10月3日の朝であった。
大聖院の脇から厳島の戦いの最期の合戦地の駒ケ林まで登る。まずは川に沿って参道がある。殆どが階段になっている。標高509mでほぼ海抜0mから登るので、かなりきつい。山頂近くまでがロープウェイがあるので、ほとんどの人はロープウェイを利用しての登山。それでは登山の楽しさは味わえないので、全行程徒歩で行く。今日は夏日のように暑いので半袖シャツ一枚。汗が滴り落ちる。この辛さの後に見る下界の光景が何とも言えないのだ。
弥山
駒ケ林からの眺めですぐ向こうにもう一つ山がある。弥山でここにロープウェイの山頂駅がある。駒ケ林から少し降り、そしてまた急坂を登り弥山山頂に到着。すごい人だかり。この雰囲気は山登りには少しそぐわない。大体のケース、辛い思いをして登り切った時に、自然の芸術がパッと広がり、苦労が報われ、誰もいない中で一人、悦に浸る。この雰囲気が好きなのだが...
暫く休憩をして下山。違うルートを下る。このルートは階段が少なく初心者コース。麓も紅葉谷公園に到着。紅葉の時はきれいだろうに。これで宮島の旅は終了。
フェリーで宮島口に渡り、25キロ先の岩国に向かう。海岸線をほぼ平坦な道で暗くなる前に岩国に着いた。公園で休憩していると初老のおばさん (おばあさん) が公園にいて、話しかけてきた。世間話しを半時間程する。最近は、おばさんとの世間話も特に苦にならなくなった。見た目や持ち物で決して裕福そうで無い、と言うよりはその日暮らしといった感じなのだが、話していると気持ちの優しさを感じる。話しかけて良いのか迷ったのだが、話しかけてみたと言っていた。都会ではそんなことさえ思わない人が大半だろう。人に対しての興味の度合いの違いだ。都会で失われているものが、地方ではまだ残っている。

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