Ride in Setouchi & San-in Day 19 (3/4/19) Kikkawa Motoharu Residence Ruins 吉川元春館跡

Haji Dam 土師ダム
Kikkawa Motoharu Residence Ruins 吉川元春館跡 
Mantoku In 万徳院
今朝起きて、右太腿の具合も悪く無い様なので予定通り北広島町に行く。昨日よりも長い距離なので、往復で100キロは超えるだろう。
宿を出てすぐに小川が流れており遊歩道がある。中学生の通学路のようで、朝は生徒が大勢歩いていた。小川沿いに桜並木があるがまだ満開までは数日あるようだ。
小川は広島市内を流れる太田川に流れ込んでいた。太田川沿いのサイクリングロードを走る。自動車道路を走るよりはるかに安全だ。広島は運転マナーが悪い。安全運転を促すポスターがある。写真は撮るのを忘れたが、「停まらない車 ワースト2広島」といったものだった。信号機の無い横断歩道で一時停車の率が1%。100台に一台しか停車しない。(ちなみに、ワースト1は栃木。 バスの優先レーンは走行禁止時間帯でも、全く関係無しにビュンビュン走っている。
話が脱線したが、太田川沿いから昨日と同じ経路で山間部にはいる。昨日のルートの半ばから、更に坂道に入り、登り切るとダムがある。

Haji Dam 土師ダム

人口湖になっており、湖畔にはスポーツセンターやキャンプ場、公園などがある。まだ寒さが続いているせいか、あまり訪れている人はいない。湖畔と川に沿ってサイクリングロードになっており、安心して走れる。市営キャンプ場は安いので今夜はここでテント張れば、時間をあまり気にせず。色々な所に行けると思い気楽になった。広島との往復だと、片道4時間かかり、往復で合計最低移動時間は8時間。見学の時間は2-3時間が限度なので、キャンプすれば更に2時間増える次第。ただ、ここ数日寒いので、この地の気温を調べると、夜中は0度まで下がる。持参してきている装備では寒さに耐えれない。この間のキャンプでは4度でも寒くて寝れなかった。キャンプは不可。残念。

Kikkawa Motoharu Residence Ruins 吉川元春館跡 

発掘復元された館跡の場所に歴史館がある。吉川氏についてはそれほど詳しく無いので、まずは歴史館で事前に勉強。来場者は他にはいない。
展示は主に発掘調査での出土品だった。後はパネル展示。
吉川氏は鎌倉時代にここに移り住み、駿河丸城、後に小倉山城えお居城とし、有力豪族となる。毛利元就の妻は吉川国経の娘で、国経の嫡男 元経が元就の姉を娶り、毛利家と吉川家は姻戚関係であった。吉川元経の嫡男 興経は、大内方と尼子方への背反を繰り返し、元就も窮地に追い込まれる事態となる。毛利元就は調略で興経の家臣を味方につけ、毛利元就の次男 元春に吉川家の家督を強引に継がせる。条件は興経の生命の保証であったが、のちに興経を謀殺する。これで吉川氏を完全に毛利グループに組み込んだ。
吉川元春は小倉山城から日山城を築き、居城を移す。その後、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いの後、嫡子の吉川元長に家督を譲り元春は隠居し、日山城の麓に館を構える。関ヶ原で毛利勢の敗戦での移封に伴い吉川家(当時の家長は次男の広家)は岩国に移封となる。この関ヶ原以降については岩国訪問の際に書き記すつもり。

Kikkawa Motoharu Residence Ruins 吉川元春館跡

吉川元春が自身の隠居館として1583年(天正11年)に建設を開始。未完成のまま元春はこの館に入り隠居生活を開始したが、天正14年(1586年)に建設半ばで元春が九州で死去。まもなく、家督を譲った嫡子の吉川元長も病死。広家の頃に完成を見た。広家が天正19年(1591年)に月山富田城に移ると、徐々に廃墟と化していった。
廃墟となって400年も経つが、遺構の保存状態は頗る良い。石垣は城の様に立派なもので、この館の威信がうかがえる。
台所が復元されている。
その他当時の遺構が残っている。

Mantoku In 万徳院

毛利元就の孫にあたる吉川元長が、自らの死後の菩提寺とするため建立した寺院の跡
金堂は参道入口にガイダンス施設として復元されている。
庭園も発掘により当時の形が復元されている。
蒸し風呂も復元されている
建物の礎石が残されている
寺院の裏にある山が日山城。時間があれば登ってみたいが、登るとなると広島へ帰るのが9時をまわってしまう。夜暗い中の山道走行は危険なので、次の機会にしよう。その他の城跡もあわせてみれるだろう。
8時頃に宿に到着。今日も右太腿がつってしまった。脚に疲労が溜まっているのだろう。明日は脚を休めることにする。

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