Ride in Setouchi & San-in Day 14 (29/3/19) Kure City Ride 呉市内

Yamato Museum 大和ミュージアム
The Whale of Iron Museum 海上自衛隊呉資料館 (てつのくじら館)
Irifuneyama Memorial Museum 入船山記念館
Kure Guardian Office 海上自衛隊 呉地方総監部 (旧海軍呉鎮守府庁舎)
Hill with History View 歴史の見える丘 (翌日)
アレイからすこじま (翌日)
今日は大和ミュージアムのある呉の港に行く。海上自衛隊と民間の定期航路が港を共通している。港には大型船舶が寄港している。呉が明治時代に海軍基地に選ばれたのは、瀬戸内海という地理的な要因があったからだ。当時は飛行機はなく、国際戦争は軍艦が中心であった。瀬戸内海であれば、呉まで侵入して来る途中で撃沈する機会が何度もあり、防衛上都合が良かった。ただ、時代は変わり、太平洋戦争の時は、戦争の主役は海から空に移っていた。その為、太平洋戦争では呉は、空襲の標的となり街は完全に破壊された。戦艦大和の製造もある意味では時代錯誤のシロモノだった。国際連盟で軍艦の保有数を制限されたことにより、大型戦艦で何台もの役割を果たさせようとした訳だ。結局大和は一度もまともな戦闘をしないまま撃沈された。滑稽な事ではあったが、残ったものがあった。それは技術だった。戦後復興の原動力になったのはこの技術力だ。多くの企業が生まれ、瞬く間に日本は造船立国になった。これは戦闘には役目を果たせなかったが、大和のおかげだろう。

Yamato Museum 大和ミュージアム

戦艦大和 1/10模型の展示
戦艦大和の誕生から沈没までの歴史をパネル展示
大和の製造
大和撃沈
沈んだ大和の現在の状態
大和に続いて、次のテーマは呉。
呉が鎮守府に選定されてから造船を中心に産業が発展し、呉が大都市に変わっていく歴史をパネルにて紹介。
呉に海軍鎮守府が置かれる。
何もなかった呉に鎮守府が建設された。
鎮守府が置かれ、呉の発展が始まる。その発展に拍車をかけたのが日清戦争と日露戦争であった。これにより造船所が建設され技術導入が加速された。
宮古 (呉で初めて製造された)
筑波
潜水艦まで製造するように発展
呉には多くの技術者、労働者が集まり、呉のインフラが急速に整備される。
更に第一次世界大戦 (大正 3-7 年 1914-1918) が益々の発展の原動力になる。戦艦の海外輸出が始まる。この時期には戦艦の製造は軌道に乗り、次々と製造されていた。戦艦の名付けも基準が設けられた。
日本が海軍国になって行く。
世界が日本の台頭に危機感を抱き軍縮会議にて艦船の保有台数が制限された。アメリカ、イギリスは断トツだが、日本は他の欧州国よりはるかに多い。まさに海軍立国となった証。
軍縮の影響は呉に失業者を生み出したが、これが日本の特異性かもしれないが、高品質を求めた。これぐらいではへこたれない日本が当時は存在した。(今はどうかな?)
日露、日清、第一次世界大戦が日本経済を引っ張った。それにより、軍国主義が進んで行く。
更なる軍縮会議で、保有台数が制限される。ここから枠外であった戦闘機に力を入れることになる。
軍縮が皮肉にも更なる危機感を抱かせ、国防意識を高める事になる。一層の高い技術を求め、戦艦大和のような巨大戦艦を志向するようになった。戦艦大和は驚くほど短期間で製造されたのだが、ブロック工法を取り入れて、各部分を並行で製造し、最終段階で組み込む事により実現された。製造技術の高度化にもつながった。
廃艦処分された土佐と戦艦から航空母艦に改造された加賀
そして第二次世界大戦に突入して、不幸な結果となる。
敗戦後、呉には英連邦占領軍が駐留し、敗戦処理が始まる。残った軍艦の解体など、今まで製造に従事した技術者はその解体にかりだされた。
市民の生活は混乱し、食糧難に苦しむ。
戦後の失業に対するドッジライン
旧軍港市転換法により戦後の呉の再発展が開ける。
呉れだけでなく日本の復興に寄与したのが朝鮮戦争勃発による戦時特需だった。この特需で好景気となり、呉に多くの会社が創業を始める。この背景には過去の呉で発展した高い技術力があった。
朝鮮戦争が自衛隊の設立に影響していたとは.... 考えてみればなるほどと思われる。それも米国がそれを望んだとは.... 
朝鮮戦争休戦で特需が終了し、再び不況失業の兆候が出始める。
その環境下で呉の経済を引っ張ったのが造船業。日本は世界の造船トップになっていく。
ミュージアムではその他の兵器の展示もあった。興味を引いたのは人間魚雷と呼ばれた回天の展示があった。考えさせられるのは、戦時下で逼迫していたとはいえ、戦闘機での特攻隊やこの人間魚雷などを非人道的な兵器を作り出した軍部、それを許した政府、それを仕方がないと考えた国民。異常な時代と思う。歴史上過去に自国民にこのような事を強いた時代は無かった。日本の武士道精神はどこに行ってしまったのか、この時代に消滅したように思える。その後は高度成長期など豊かな時代が到来し、本当の武士道精神は復活しないままで終わったように思える。
かなり見応えのあるミュージアムだった。ここで紹介はしていないが、戦争による悲惨さも、戦没者名簿や、当時の悲惨さを語る生存者のビデオもあった。戦艦大和はヒーローではあるがそれをめぐる戦争の悲惨さをも訴える内容。戦争によって発展した呉。今も港には米国海兵隊と海上自衛隊の多くの軍艦が停泊し、米軍基地、海上自衛隊基地と隣接して多くの工場が建っている。非常に複雑な矛盾の中で発展したのが呉市だ。

The Whale of Iron Museum 海上自衛隊呉資料館 (てつのくじら館)

大和ミュージアムの向かいに大きな潜水艦が横たわっている。てつのくじら。海上自衛隊のPRの資料館。自衛隊の展示は常に面白い。小松では戦闘機の資料館があり多くの戦闘機が展示されていた。昔から戦闘機などには興味があったので期待できる。
呉の海上自衛隊の主要任務が説明されていた。戦争中に設置された機雷の処理だという。戦後70年も経った現在でも続いているという。この様な事をしているとは全く知らなかった。このように役に立っているのか。どうも自衛隊のPRに乗せられてしまったが、これは必要な作業だ。陸でも世界各国で地雷の除去が続いている。命がけの仕事だ。戦争とは後の事を全く考えず、その時に相手国が降伏するならば何でもやる。どこの国でもだが、復興には長い年月と金がいる。
放置された機雷のバリエーション
機雷除去の作業ツール
艦船と潜水艦
資料館の前のてつのくじらと呼ばれる潜水艦は内部を公開している。

Irifuneyama Memorial Museum 入船山記念館

明治時代に置かれて四つの鎮守府 (佐世保、横須賀、舞鶴) の内の一つがこの呉にあった。先に訪問した大和ミュージアムでもその歴史についてパネル展示があった。その鎮守府長官の官舎である。旧呉鎮守府司令長官官舎を中心に郷土館や歴史民俗資料館などからなり、呉の郷土資料や大日本帝国海軍資料、金唐革紙関連資料を展示している。
ゲートから官舎までは数百メートルあり、そこには守衛所、時計台、火薬庫が復元移設されて展示されている。
旧呉鎮守府司令長官官舎は正面からは洋館造りになっている。海外からの賓客を迎える為だ。
その洋館の裏側は日本家屋となっている。こちらの方を住まいとしていた。日本人だからやはりこちらの方が落ち着くだろう。
呉鎮守府の歴史がパネルで紹介されている。
隣には呉市歴史民俗資料館がある。呉市全体をカバーしているのではなく、鎮守府絡みだけの展示で、官舎復元に使った金唐紙と軍服の歴史を紹介していた。

Kure Guardian Office 海上自衛隊 呉地方総監部 (旧海軍呉鎮守府庁舎)

見学しようと、ここに行くと自衛隊の守衛に止められた。事前予約が必要との事で中にはが入れなかった。何故か分からないが、見学者の殆どがスーツネクタイ着用だった。近くに歩道橋があったので、その上から外観だけを眺めた。

Hill with History View 歴史の見える丘 (翌日)

戦艦大和が建造されたドックが見える。現在は上屋だけが当時から残っている。ここで秘密裏に製造されていたが、呉の住民の間では巨大戦艦が作られていると噂になった。この製造の為に最新の造船技術が集められ、技術や製造方法などが更に発展した。このことにより、呉が軍港都市から民間造船業を中心とした産業都市に生まれ変わる事になる。いつも思うのだが、明治維新から終戦まで90年ぐらいだが、この間に日本の変革は他に例を見ないスピードだ。日本人の潜在能力は凄いものがある。現代でもこの時代のスピリットが欲しいものだ。

Self-Defense Port Alley Karasukojima アレイからすこじま (翌日)

アレイからすこじまのスポットに向かう。海岸線は自衛隊の基地になっている。日曜日は予約を入れた人に軍船の一般公開がされている。当然予約など入れていないので、柵越しに外観のみの見学。
自衛隊の隣は米軍基地になっている。佐世保も自衛隊と米軍基地が隣同士。軍港を共有しているからだろう。どれほどにの交流があるのか気になった。
アレイからすこじまは明治23年に旧海軍工廠として発足。港には多くに潜水艦が停泊している。潜水艦の実物を見たのは初めて、迫力がある。港にはレンガの倉庫群も復元されている。
こんなものまであった。この映画は見たことがないが、映画のロケ地巡りは観光地でよく見かける。もっとこのようなものを企画すれば良い。その映画や俳優が好きな人は興味をそそられるだろう。観光地としては飲食店やホテルがロケ地であれば、なおさらだ。金が落ちる可能性が高まる。

1コメント

  • 1000 / 1000

  • sumito dohi

    2019.04.01 01:09

    ホント、見るからに軍港の街ですね。海軍そのものといっても良いくらいの地域密着度合いです。私も以前の仕事の関係で田浦にある海上幕僚監部の第二術課学校によくお邪魔させていただいていた時期があるのですが、潜水艦2艘の接岸は見たことないですね。とても迫力あってかっこいい写真です。 ちなみに、気になったので旧海軍呉鎮守府庁舎のドレスコード(?)を調べてみましたが、スーツ着用については言及がありませんでしたよ(笑) 『艦内には急な階段等がございますので、スカート、ハイヒール、サンダル等はご遠慮ください。』『鋲打ちの靴や金具のついた靴は甲板を傷つけますのでご遠慮ください。』 だ、そうです。