Okinawa 沖縄 #2 Day 301 (02/04/26) 石垣市 旧宮良間切 (6) Nosoko Village 野底村

旧宮良間切 野底村 (ヌスク、のそこ)

小字 東田原 (アーリィタバル)

栄集落 (さかえ)

  • 栄公民館
  • 栄開拓の碑

兼城集落 (かねしろ)

  • 兼城公民館、入植之碑

下地集落 (しもじ)

  • 下地公民館、入植之碑
  • 野底小学校
  • 野底岳 (ヌスクマーペー)

小字 野底崎 (ヌスクザキィ)

  • 野底村 (ヌスク)
  • 野底御嶽 (ヌスクオン)

多良間集落 (たらま)

  • 多良間公民館
  • 入植記念碑

小字 新原 (ニーバル)

  • 吹通川 (フキドゥカーラ)、マングローブ林


昨日は休養日とし、伊野田海岸で一日ゆっくりと過ごして、脚の疲れも回復。今日は石垣島の西海岸を走り、石垣島中心地の登野城まで走る。途中、野底と桴海のスポットを巡る。


旧宮良間切 野底村 (ヌスク、のそこ)

字 野底は、東は字 伊原間と字 桃里と、南は字 桴海と接している。字 野底内は、東田原 (アーリィタバル)、野底崎(ヌスクザキィ)、新原 (ニーバル) の三つの三つの小字に区分されている。

琉球国時代、川平間切桴海村に属していた野底は土地が肥えており、黒島の人々が船で行き来して耕作していたが、1732年 (第13代尚敬王) に黒島の過密問題解決の為、黒島から 400人、新城島から25人程を寄百姓として強制移住させ、元々の住民とともに野底村として創建された。移住者は道を境に強制的に移住者を決めた「道切り」と呼ばれる悪法によりなされ、移住者は未開の地を開拓し、故郷との往来も制限されていた。 

1768年に1771 年には人口が599人と増えたが、同年の明和の大津波では、石垣に行っていた24人が溺死しているが村内での死者は出なかった。その後、風土病マラリアや疫病の流行、飢饉などによって人口が次第に減少し、1788年には安良村に25人が強制移住させられ、1903年 (明治36年) には24人 (8戸) となり、1904 年 (明治同37年) に野底村の人々は伊原間村へ移住し、村は事実上、廃村状態となり、1934年 (昭和9年) に最後の一戸が新川に移転して廃絶している。

戦後の1954年 (昭和29年) に、琉球政府計画移民政策により、沖縄本島、宮古島から入植し、西方一帯の平野に入植した。越来集落、美野集落 (後に越来集落と美野集落は合併して栄集落となる)、兼城集落、下地集落 (後に一部は伊土名集落に分離)、多良間集落 (後に一部は上多良間集落に分離) を形成した。字 野底の人口は琉球国時代に野底村が廃村になってから戦前までは、殆ど人が住んでいなかった。1954年 (昭和29年) に、琉球政府計画移民政策により、891人 (142戸) が入植して各地に開拓集落を始めたが、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1978年 (昭和53年) には299人 (86戸) まで減少している。その後は増減を繰り返し、2023年末では字 野底人口は333人になっている。世帯数は178戸と増加が続いている。野底内の多良間や伊土名はマリンスポーツで観光地になっており、移住先として人気の高い所で、若い世代の一般移住が続いていると思われる。

  • 御嶽 (八重山島由来記): 半嵩野底御嶽
  • 井戸: 西の井戸 (未訪問)


小字 東田原 (アーリィタバル)

字 野底の北半分の地域が小字 東田原 (アーリィタバル) になる。


栄集落 (さかえ)

栄集落 (さかえ) は1954年 (昭和29年) に琉球政府計画移民により入植した美野集落 (みの) と越来集落 (ごえく) が1964年 (昭和29年) に合併してできた開拓集落になる。美野集落は沖縄本島の読谷、石川、具志川、美里、嘉手納から203人 (40戸) 先遣隊が入植し、美里出身者が多く、美里と野底の一字ずつをとって美野と命名された。越来集落は沖縄本島各地や宮古島、石垣島、与那国から、155人 (37戸) 先遣隊が入植し、開拓団の団長の出身地に越来を集落名とした。


栄公民館

県道79号線を走り、字 伊原間を抜けて石垣島の西海岸に出たところから字 野底になる。ここからは先日訪れた平久保半島の山々が見渡される。

字 野底に入り、県道を南に少し行き、牧草地と畑の中を海岸側に向かうと栄集落になる。

美野集落と越来集落が1964年 (昭和29年) に合併して栄集落となった同年にこの場所に栄公民館が建てられている。公民館の横には連絡用に酸素ボンベが吊るされていた。開拓時代を忘れない為に今でも吊るしているのだろう。


開拓の碑

公民館の前の広場には開拓と刻んだ入植記念碑が置かれ、プレートには1954年 (昭和29年) にこの地に先遣隊として入った人達の名が刻まれている。



兼城集落 (かねしろ)

県道79号線に戻り、南に進む。戦前までは、川平から野底そしてと東海岸の伊原間を結ぶまともな道はなく、幾つかの断続的な山道を利用していた。道は人馬が辛うじて通れる程度で、木々に覆われていた。入植した移住民たちは日常品の調達には、クリ舟での移動や、山道での移動で苦労していた。戦後、1949年 (昭和24年) に川平から伊原間に至る道路の開削が着手され、密林、ヤマバレー峡谷、マラリアなどで工事は難渋したが、1953年 (昭和28年) にオグデン少将の八重山初視資金援助により、川平・米原間が完成、1955年 (昭和30年) には、 伊原間までの道路が完成し、一周道路の開通した。この新しい道は援助を提供したオグデン少将に因み、「オグデン道路」と呼ばれていた。

この道の開通で、石垣島の流通は格段に発展して、パインブームを石垣島北部にももたらしている。

かつてのオグデン道路を暫く走ると、道の先に建物が見えてきた。

兼城集落に入る。この集落も琉球政府計画移民により、沖縄本島各地や宮古島から、1954年 (昭和29年) に入植した166人 (30戸) により創建された開拓集落になる。入植当初は芋、陸稲、落花生、サトウキビ、パインなどをつくっていた。

他の開拓集落と同じく、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1972年 (昭和47年) には51人 (10戸) と入植当時の三分の一にまで減少している。その後、増減を繰り返していたが、2014年以降は、僅かではあるが、徐々に人口は増加が続き、2023年末では兼城集落の人口は73人 (34戸) になっている。他の開拓集落と比べて、世帯あたりの人数は多いので、まだ若い世帯の移住があるのではと思われる。


兼城公民館、入植之碑

道沿いに見えていたのは兼城公民館で、1988年 (昭和63年) に建てられている。

公民館に隣接して広場があり、その隅には2004年 (平成16年) に兼城開拓団入植者名を刻んだ記念碑が建てられている。広場内にはブランコ、鉄棒など遊具が置かれている。大木は滑り台になっている。ブランコに乗っていた婦人と話すと、これら遊具は村人の手作りで、ここに来てブランコに揺られいると気持ちが良い、この滑り台は村の自慢と笑顔で言っていた。



下地集落 (しもじ)

兼城集落から県道79号線を更に南に進むと、下地集落に入る。先に訪れた栄集落 (美野集落、越来集落)、兼城集落と同じく、1954年 (昭和29年) に琉球政府計画移民として入植したして創建されている。沖縄本島の糸満や宮古島の下地などから165人 (40戸) が入植し、下地からの入植者が多かったので下地集落と命名された。

他の開拓集落と同じく、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1972年 (昭和47年) には62人 (14戸) と入植当時の三分の一にまで減少している。その後、徐々に減少し、1990年 (平成2年) には29人 (15戸) の危機的状況にまでなっていた。その後、2006年 (平成18年) にかけて人口が増加に転じ、152人までに回復している。これは今まで見てきた開拓集落と大きく異なっている。この背景についてははっきりとはわからないが、一般移住者の増加がある様だ。近年は世帯数は安定しているが、人口は減少傾向にある。


下地公民館、入植之碑

県道から南の住宅地に入った所に下地公民館が置かれている。公民館の前の広場奥に先遣隊入植者の名が記された入植之碑が建てられている。


野底小学校

県道の下地バス停の前には字 野底の小学校の野底小学校が建てられている。下地集落が創建されら1954年 (昭和29年) 末には早くも、移住民先遣隊合宿所を教室に使用して、野底小中学校が開校している。2年後の1956年 (昭和31年) にコンクリート建ての校舎 (写真上) が建てられた。1963年 (昭和38年) に中学校は伊原間中学校に統合し、小学校のみ継続。

オグデン道路が開通した際 (1955年 昭和30年 11月12日) にはこの野底小学校で開通記念式典が行われオグデン道路 (現在の県道79号線) で車両パレードが行われた。


野底岳 (ヌスクマーペー)

野底小学校の背後の山脈の中に尖った山が見える。野底のシンボルにもなっている野底岳で地元ではヌスクマーペーと呼ばれている。標高282mで石垣島では2番目に高い山だ。明治年代のころまで野底富士とも呼ばれていたそうだ。登ってみたいのだが、今日は登野城まで走るので長丁場となるので、登山は断念。次回以降に石垣島に来る際には是非登ってみたい。

この野底岳がマーペーと呼ばれる様になった逸話が伝わっている。

むかし、黒島にマーペーという女性とカニムイという男性が住んでいた。二人は深く愛し合っていたが、黒島は土地が狭く人口が多かったため、石垣島への移住が決められ、「道切り」 と呼ばれた方法で移住者を決めていた。道の向こうの住民を無条件で移住させていた。島の集落ごと、時には家族さえも引き離して移住させたこの政策で、カニムイと一緒になりたいと願っていたマーペーは許されず、野底に強制的に連れて行かれた。野底での生活は厳しく、マーペーはカニムイを想いながら次第に衰弱していった。あるお盆の夜、マーペーはカニムイへの募る思いから野底岳に登り、黒島を見ようとするが、於茂登岳に遮られて黒島は見えなかった。精魂尽き果てたマーペーはカニムイの住む黒島の方角に向けて石になってしまったという。

この物語は、琉球国が疲弊した財政の解決策として、未開地を開拓させて税収増加を狙い、寄百姓と呼ばれた強制移住により引き離され犠牲となった移住者と島民の悲劇を表している。

もう一つ、黒島に歌い継がれているチィンダラ節という歌があり、これも当時の島民の思いが込められている。

沖縄カラ (琉球王庁から)
御差図ヌ (お差図がきた)
美御前カラ (琉球王から)
美御声ヌ (御命令がきた)
島別リデ (移住せよとの)
仰ハラレ (仰せであった)
フン別リデ (組島から別れよとの)
仰ハラレ (厳命であった)
トゥバラマヤ (殿原[恋男]は)
行キィグリシャ (行けなかった)
黒島二 (黒島に)
残クサレ (残された)
カヌシャマヤ (可愛い恋女は)

居ルグリシャ (一所にいたいと嘆願したが)

野ユ底ニ (野底に)

別ギラレ (連れて行かれた)

ナクナクトゥ (泣く泣く)

別ギラレ (連れて行かれた)

ユムユムトゥ (いやいやながら)

別ギラレ (連れて行かれた)



小字 野底崎 (ヌスクザキィ)

字 野底の西にある野底崎の南方一帯が小字 野底崎 (ヌスクザキィ) で、琉球国時代には野底村があり、野底の中心地だった。


野底村 (ヌスク)

琉球国時代、野底崎の南方には野底村が存在していた。当時、川平間切桴海村に属していた野底は土地が肥えており、黒島の人々が船で行き来して耕作していたが、1732年 (第13代尚敬王) に黒島の過密問題解決の為、黒島から 400人、新城島から25人程を寄百姓として強制移住させ、元々の住民とともに野底村として創建された。

1768年に1771 年には人口が 599人と増えたが、同年の明和の大津波では、石垣に行っていた24人が溺死しているが村内での死者は出なかった。その後、風土病マラリアや疫病の流行、飢饉などによって人口が次第に減少し、1788年には安良村に25人が強制移住させられ、1903年 (明治36年) には24人 (8戸) となり、1904 年 (明治37年) に野底村の人々は伊原間村へ移住し、村は事実上、廃村状態となり、1934年 (昭和9年) に最後の一戸が新川に移転して廃絶している。


野底御嶽 (ヌスクオン)

下地集落から県道を数百メートル進むと、森への道がある。この林の中に、かつての野底村の拝所だった野底御嶽 (ヌスクオン) が置かれている。この場所はかつての野底村の北の外れにあたる。

野底村御嶽は昔のままで保存されている。由来は不明だが、琉球国由来記には 「野城御嶽 神名:野城、御イベ名 とんかいよせそい」 とある。御嶽は石積みで囲まれており、入口を入った正面にイビ門があり、その奥にイビが祀られている。イビ垣のカサ石 (冠石 写真右下) は三個組合わせ一組のキン石が二組並べて置かれている。通常、八重山諸島の御嶽のカサ石は、一個、または二個の組み合わせなので、珍しい工法で作られている。野底村が1904 年 (明治37年) に廃村になった後は、信仰も途絶え、この御嶽を含め旧野底村一帯は密林化し、御嶽も放置されていた。

境内イビ門の右手に土原豊見親 (んたばるとぅゆみゃ) のコンクリート造りのイビが残っている。1954年 (昭和29年) に、この近くに入植した多良間出身者が、白保村に住む与那国島出身のユタの判示により、野底御嶽を発見し、信仰するようになり、故郷の土原豊見親 (んたばるとぅゆみゃ) の神霊を勧請し、野底御嶽の一隅にコンクリート製のイビを建てて一緒に信仰していた。その後、多良間集落内で、この様な祭祀は不適切という批判もが出て、信仰は中絶し、現在では信仰は絶えている。

この林では何種類も綺麗な蝶を見かけた。その中で、二種類をなんとか撮影できた。

写真上はスジグロカバマダラで沖縄で見られる蝶で特に石垣島ではよく飛んでいるのを見かける。写真下はジャコウアゲハ (麝香鳳蝶)) で、本土でも生息しているのだが、見た事がなかった。沖縄ではよく見かける。


多良間集落 (たらま)

旧野底村の東側、県道79号線沿いに多良間集落がある。この多良間集落も琉球政府計画移民により、1954年 (昭和29年) に沖縄本島の石川、宮古島などから199人 (41戸) が入植して創建された開拓集落になる。多良間出身者が多くいたことから多良間集落と名付けられている。入植当初は芋、野菜、落花生、玉ネギ等の生産を行っていた。後 (時期不明) に、多良間集落は下多良間集落と上多良間集落に分かれている。入植後、家族を呼び寄せ、新たな入植者もあり、1967年 (昭和42年) には人口255人になっていたが、その後、1972年 (昭和47年) の本土復帰にかけて、ドル高、オイルショック等の不況で村を離れる人が増加し、1980年 (昭和55年) には63人 (24戸) と入植当時の三分の一にまで減少している。その後、増減を繰り返し、2023年末では50人 (30戸) となっている。


多良間公民館

県道沿い、上多良間集落内に1968年 (昭和43年) に多良間公民館が建っている。


入植記念碑

公民館敷地内に大きな石が置かれていた。近づきよく見ると、文字は半分は消えているのだが、入植とある。1954年 (昭和29年) の入植後、何周年かの記念碑として建てられたのだろう。

公民館の前、県道を渡った場所にひまわりがいっぱい咲いている。多分、多良間集落の住民によって世話されているのだろう。



小字 新原 (ニーバル)

吹通川 (フキドーカーラ) の河口周辺および、その東方から南方に続く一帯が小字 新原 (ニーバル) になる。


吹通川 (フキドゥカーラ)、マングローブ林

上多良間集落を過ぎると、小字 新原 (ニーバル)に入る。県道を南に進むと吹通川 (フキドゥカーラ)に出る。吹通川は野底岳を源として、全長1.5kmを流れて東シナ海に注いでいる。

吹通川に架かる吹通橋は1771年の明和大津波以前からあり、下吹通橋 (シィムフキドウバシィ) と呼ばれ、石垣島西海岸地域の交通の要地だった。その後、橋は幾度か架設替えがなされ、戦後、1955年 (昭和30年) に琉球政府による八重山開拓政策の推進に伴って、石垣島一周線のオグデン道路の開削の際にコンクリート橋に架け替えられた。その後、交通量の澈増、重量車両の増加、橋自体の弱体化で、1970年 (昭和45年) 頃に架設替えされ、現在の橋は、それ以降に架け替えられたもの。

吹通川河口付近には石垣市天然記念物のヤエヤマヒルギ、オヒルギ、メヒルギの群生による広大な面積のマングローブが形成されている。この吹通川をマングローブ林を見ながら上流に上登るカヌーやカヤックツアーは観光客に人気があり、今日も多くの観光客がツアーに参加していた。



これで、野底の開拓集落巡りは終了。県道 79号線は吹通川 (フキドゥカーラ) の南で字 桴海に入る。引き続いて、字 桴海の開拓集落を見ていく。(桴海の訪問記は別途)



参考資料

  • 石垣市史 各論編 民俗 上 (1994 石垣市役所)
  • 石垣市史 各論編 民俗 下 (2007 石垣市役所)
  • 石垣町誌 (1975 喜舎場 永ジュン)
  • 八重山を学ぶ (2024 『八重山を学ぶ』刊行委員会)
  • 八重山歴史 (1954 喜舎場永珣)
  • 石垣島の風景と歴史 (2911 石垣市総務部市史編集課)
  • 石垣市史研究資料 1 いしがきの地名 1 (1989 石垣市役所総務部市史編集室)
  • 八重山のお嶽 (1990 牧野清)
  • 村むら探訪 Vol 3 開拓の村むらを歩く (1995 石垣市総務部市史編集室)
  • 村むら探訪 Vol 1 野底の歴史 地名 生活 (1993 石垣市総務部市史編集室)
  • 石垣島白保以北の旧村々 (2011 石垣繁) 
  • 野底想い出写真集「道」-50年の歩み- (2004 与那原 マサエ)

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