Okinawa 沖縄 #2 Day 288 (07/11/25) 読谷村 (3) Hijabashi Hamlet 比謝集落
読谷村 比謝集落 (ヒージャ、ひじゃ)
- 四角ヌ角 (ユシンヌカド) 南東
- 御神屋 (ウカミヤー)
- 佐久川いも (サクガーイモ) 発祥の地碑
- 比謝中道 (ナカミチ)
- 四角ヌ角 (ユシンヌカド) 南西
- 比謝公民館
- 遊び庭 (アシビナー)
- 遊び庭ヌ井 (アシビナーヌカー)
- 比謝スポレク公園
- 慰霊之碑
- 比謝アジマー (十字路)
- 四角ヌ角 (ユシンヌカド) 北東
- 根屋 (ニーヤ) 跡
- 四角ヌ角 (ユシンヌカド) 北西
- 製糖小屋 (サーターヤー) 跡
- 溜池 (クムイ) 跡
- 松林跡
- イェーヤの石橋
- 米国海軍軍政府跡
読谷村 比謝集落 (ヒージャ、ひじゃ)
字大湾の北側が字比謝になる。比謝は「東」 を意味しており、大湾村内の東に位置していた事からこのように呼ばれたという。比謝は古くからある集落で、17、18 世紀の古文献にその名が現れている。比謝集落の初期の古島は比謝川とその支流の長田川の合流地点付近北側 (現在字牧原の比嘉原) にあった。比謝川や比謝橋の名はこの古島の比謝村があった事から由来という。古島時代には比謝川が頻繁に氾濫し水害を受け、住民の生活に不便をきたしていた。琉球国第17代の尚灝王 (1787~1834年) 時代に大湾村後原の芭蕉畑であった現在地に、古島旧地と交換し移動してきたと伝わっている。琉球王国時代、読谷山間切 (ユンタンザマギリ) には巫 (ノロ) が5名配置され、大湾巫が大湾 (比謝を含む)、 渡具知、伊良皆の3村、9か所の拝所の祭祀を執り行っていた。大湾の井戸や龕は比謝村と共用されていた。その後、時代は定かではないが、比謝は大湾から分離独立した伝わっている。比謝村には比謝原、比謝後原、比謝西原、佐久原、伊保堂原、比謝後原屋取の長佐久原、深佐久原 (深迫原)、大木屋取の糸蒲原、嘉阿護原、松須久堂原の10の小字に分かれていた。
1935年 (昭和10年) に字比謝から大木屋取の糸蒲原、嘉阿護原、松須久堂原 (40戸) が、字楚辺から三つの小字 (19戸) が分離独立して字大木が創設されている。
戦前には嘉手納の嘉手納駅を中心に商店や行政施設が建ち並び栄え、中頭郡西海岸における交通の要所であり中心地だった。読谷はその隣接地だった事から、比謝橋から比謝に向かう県道 (現在の国道58号線) 沿いにも多数の商店があり、大いに栄え、比謝は嘉手納と読谷の経由地で、人の往来が多かった。
沖縄戦後、字比謝全域が米軍の軍用地として接収された。国道58号線の東側が軍用地として接収されたが、住民が一体となって復興に取り組んできた。比謝西原(イリバル)には、米軍基地建設で集落を接収された渡具知の住民が集団移住した。西原より北側地域は転入者の居住が多く、県営比謝団地をはじめ住宅地として広がっている。軍用地の一部は1999年に返還され、読谷村の新たな商業地、住宅地、南の玄関ロとなっている。
1880年 (明治13年) の字比謝人口は213人 (47戸) で当時の読谷山村にあった16の村の中で2番目に小さな地域だった、沖縄戦直前の1944年 (昭和19年) には人口は1880年に比べて2.5倍に増加している。2024年末現在では1,812人 (857戸) にまで増加し、読谷村の22の字 (内3字は住民は0) では12番目に位置している。世帯数はこの順調に増加傾向にあるが、人口は横ばい傾向にある。
比謝公民館にはかつての比謝集落を紹介しているガイドマップが置かれている。
四角ヌ角 (ユシンヌカド) 南東
国道58号から字大湾と字比謝の境にあたる道の角は四角ヌ角 (ユシンヌカド) と呼ばれ、四角ヌ御願 (ユシミウガン) が行われた場所になる。ここは四つある比謝集落の南東の四角ヌ角にあたる。この四隅で字外に向かって旧暦元旦、初御願の際に拝している。多くの集落で、村への入り口の4隅では、その場所から悪霊や疫病が入らないように祈願場所となっている。集落によって、風水 (フンシー)、カンカー、シマクサラシなどと呼ばれている。 この後、残りの三つの四角ヌ角 (ユシンヌカド) を訪れたが、前述の明治時代の地図にある集落の4隅に一致している。
御神屋(ウカミヤー)
国道58号の字大湾と字比謝の境を西に入る道を登った所に比謝の御神屋(ウカミヤー) が置かれている。ここでは比謝村の五穀豊穣、子孫繁昌、無病息災が祈願されていた。戦前の敷地は狭かったが、 戦後1957年 (昭和32年) に現敷地を購入し、祠も新しく改築している。(写真右下) 戦前には祠内部にビジュル (霊石)が祀られていた。祠改装の際にビジュルも復元されている。現在の祠は2001年 (平成13年) に改装されたもの。祠内には向かって右側には国元乃神、村元乃神、火乃神が祀られ、左側には2001年の改装時に、比謝村発祥の家の根屋 (屋号安里小 戦災にて絶家) に祀られていた根屋乃神を移設し祀っている。
戦前、旗スガシーの道ジュネーは根屋からはじめられ、その衣装や道具も根屋にて管理されていた。現在、旗スガシーでは最初に御神屋の前の広場ででエイサーが奉納され、道ジュネーが行われる。
旧暦正月の初御 願(ハチウガン)、旧暦7月16日の旗スガシーに拝されている。
佐久川いも (サクガーイモ) 発祥の地碑
御神屋の隣には佐久川いも発祥の地と刻まれた記念碑が建てられている。写真中下は以前の記念碑。佐久川いも (サクガーイモ) は比謝出身の佐久川清助が佐久川種は1894年 (明治27年) 頃、泊黒 (トゥマイクルー)、暗川 (クラガー)、名護和開 (ナグウランダー) を混ぜて植えた畑で自然に結んだ種子が最初といわれている。この後8年をかけて、佐久川種と呼ばれる新種を開発した。佐久川紙は早然種で、夏植えに適し土質を選ばない多収品種で、1916年 (大正7年) には沖縄全域の甘藷作付けでは14.4%を占めるほどに広く栽培され、明治から昭和初期にかけての主要品種として普及していた。
比謝中道 (ナカミチ)
御神屋の前の道を進むと、少し幅広の道に出る。この道は比謝中道で、比謝集落の中心的な道で大正年間初期頃はこの道で綱引きが行われていた。また、旧暦7月16日には旗スガシーでの道ジュネーも行われている。
四角ヌ角 (ユシンヌカド) 南西
中道 (ナカミチ) を越えて、少し進んだ所が比謝集落の南西の角で、四角ヌ角(ユシンヌカド) にあたる。
比謝公民館
昔は公民館のことを村屋 (ムラヤー)、1908年 (明治41年) 以降は事務所と呼んでいた。現在の公民館の場所に、村屋、事務所が置かれ、比謝の行政、諸活動の中心地となってきた。戦前の村屋は赤瓦葺木造平屋建で、1941年 (昭和16年) に改装されたが、沖縄戦で全焼している。終戦後1951年 (昭和26年) に比謝に帰還許可が下り、戦後初代の茅葺き事務所 (写真左) を建てて集落の再建が開始された。1956年 (昭和31年) にセメント瓦葺木造平屋建で戦後二代公民館 (写真右) が新築されている。
更に1988年 (昭和63年) に現在の鉄筋コンクリート2階建てで、比謝地区学習等供用施設兼公民館が建設され、自治会行政、朝市、比謝まつり、ゆいまーる共生事業など比謝のコミュニティ活動の中心地として活用されている。
遊び庭 (アシビナー)
公民館前の敷地はかつて遊び庭(アシビナー)と呼ばれ、農開期には遊び (アシビ) と呼ばれ多様な芸能が行われていた。現在も比謝まつりがここで催されている。アシビナーには戦前期まで多くのガジュマルが繁っていたが、現在では1本のガジュマルを残すのみ。このガジュマルは、アシビナーの1本ガジュマルとして地域の人々に親しまれている。ガジュマルの木には赤く塗られた酸素ボンベが吊るされている。戦後、集落住民への連絡鐘として使われていた。このアシビナーの前南側には戦前までは個人所有の玉城サーターヤーがあったそうだ。
遊び庭ヌ井 (アシビナーヌカー)
公民館敷地内のアシビナーに掘り抜き井戸 (チンガー) がある。1909年 (明治42年) に掘られ、遊び庭ヌ井 (アシビナーヌカー)と呼ばれた。元々はこの場所から数メートル離れた所にあった。戦後、埋設していたが掘り起こして現在の場所に復元している。1986年 (昭和61年) に祠 (写真右下)を建てて祀っていた。この井戸が掘られるまでは字大湾の湾井 (ワンガー)、比謝井 (ヒージャガー、マーカーガー) を利用し、井御願 (カーウグヮン) も大湾の湾井で行っていたが、遊び庭ヌ井 (アシビナーヌカー) が出来た後、ここに湾井と比謝井の水神を勧請合祀し、井戸前には水神、中軸之神、産水神御通と書かれた香炉を置き、現在でも新しく建て替えた拝井で旧暦9月吉日の井泉ヌ御願、旧正月の初御額で拝んでいる。
比謝スポレク公園
比謝公民館の南に公園が整備されている。以前は比謝公園だったが、現在は比謝スポレク公園となっている。
慰霊之碑
比謝スポレク公園広場の奥に慰霊之碑が建立されている。この慰霊之碑は2003年 (平成15年) に建てられたのだが、その前には先に訪れた御神屋に隣接してあった。いつ頃に建立されたのかははっきりしないのだが、昭和40年代には存在していた。比謝村では慰霊碑と御神屋が同じ場所にあるのは不適切との事で移転も考えていたが、適当な土地がなく、そのままになっていた。その後、比謝公園の隣の土地を字大湾から譲り受け、2003年 (平成15年) に建てられている。
慰霊之碑では63柱 (内5柱は追加) を祀っており、6月23日に慰霊祭が行われている。その後、3柱追加され66柱となり当時の字比謝住民の17.1%が犠牲になった。
沖縄戦の前年、1944年 (昭和19年) 8月に比謝集落の学童疎開が行われている。1945年 (昭和20年) 2月から、山原への一般疎開が始まり、比謝住民は国頭村の浜と奥間に避難していた。比謝の全世帯が山原に避難したわけではなく、村に残った人達や途中でで投降した人たちもいた。
4月1日の米軍上陸後は、地元に残った人々はいち早く保護されて、まず旧楚辺集落に集めらた。楚辺で一月半程暮らしたが、読谷飛行場に日本軍の義烈空挺隊が突撃するという事件や、日米間での戦闘も双方からの攻撃があり、危険という事で、全員が石川に移された。戦後、1946年 (昭和21年) に字波平や高志保に居住許可がおり、比謝住民もここに移り暫く生活していた。10月には字大木や楚辺にも居住許可がおり、多くの比謝住民は、少しでも故郷の比謝に近い方へと字大木へ移っている。1951年 (昭和26年) 5月には字比謝、大湾、伊良皆方面へも居住許可がおり、ようやく故郷に帰還できる事になった。村は全土が荒廃し、家は一軒も残っておらず、一からの村の再建が始まった。
現在でも、字比謝の東部は米軍嘉手納弾薬庫地区として接収されたままで、この地域の返還予定は未定という。
比謝アジマー (十字路)
公民館から中道を北に進むと突き当たり、そこを東に進むと国道58号線に合流する。この合流地点は比謝アジマーで、旗スガシーには空手やエイサーが演じられている。
四角ヌ角 (ユシンヌカド) 北東
比謝アジマーから国道58号線を北に少し進んだところが四角ヌ角(ユシンヌカド) 跡でこの場所はかつての比謝集落の北東の端だった。
根屋 (ニーヤ) 跡
四角ヌ角(ユシンヌカド) のすぐ側には根屋 (ニーヤ) があった。根屋は屋号安里小で、現在の牧原の比嘉原にあった古島から最初に現在地の比謝集落に移り住んだ家で、村の宗家だった。安里小は沖縄戦で絶家となり、根屋の拝所は御神屋に移設されている。
四角ヌ角 (ユシンヌカド) 北西
比謝アジマーから西に進みと北へ伸びる細道があり、細道を入った所が四つ目の四角ヌ角(ユシンヌカド) になり、ここはかつての比謝集落の北西の端だった。
製糖小屋 (サーターヤー) 跡
戦前まで比謝には4つの製糖小屋 (サーターヤー) があった。本村に2ヶ所、後屋取 (クシヤードゥイ) に2ヶ所。この内、本村の一つの比謝サーターヤー跡地に行った。そこは住宅が建ち並び、面影はない。そこの住んでいるおばあに聞くとサーターヤーだったとは知らないとの事。井戸が残っている筈なので、井戸があるかと尋ねると、家の裏に古い井戸があるという。見せてもらうと、資料にあった井戸だった。やはり、ここにサーターヤーが置かれていたのだ。
この場所から少し北、国道58号線に近い場所の比謝後原 (ヒージャクシバル)にも戦前までは後屋取 (クシヤードゥイメ) の知花ヌ前サーターヤーがあったのだが、ここも現在では住宅地になっている。後屋取のもう一つの源河屋取サーターヤーは、長佐久原の現在は米軍弾薬庫地区内の黙認耕作地内にあった。
溜池 (クムイ) 跡
サーターヤーの井戸から国道58号線方向に細い路地を行くと少し広い道に出る。ここだけが道幅が不自然に広くなっている。資料の民俗地図では溜池 (クムイ) があったとされている。クムイを埋めた所が広くなっているのだろう。
松林跡
国道58号線に出て、北に進むと、道路中央に北に向かって並木が植えられている。以前は道沿いには松並木が続いていた。
現在ではその風景は消滅してしまったが、その面影を再現しているのだろう並木道に整備されている。
イェーヤの石橋
国道58号線から西に進んだ比謝後原にイェーヤの石橋がある。この辺りはイェーヤと呼ばれており、戦前まではハブや幽霊がでる恐ろしい所だったという。その名にまつわる話が残っている。
昔、沢山のハブ公が集団になって、夜間海に魚などの餌を喰いに行く習わしがあった。或る日、この集団のハブ公が海から腹一杯魚を飲み込んでゾロゾロ山に帰る途中、イエーヤにさしかかった頃には、腹がすりちぎれてしまった。その腹の中からイエーの魚が出て、ハブは死んでいたとのことである。ハブ公はその魚を頭からまるのみしていたであろう。それ以来、この地はイエーヤということになった。
米国海軍軍政府跡
イェーヤの石橋の道を少し南に進んだ所に丘があり、斜面は墓地になっている。ここには戦後、米国海軍軍政府が置かれていた。沖縄戦では米軍が1945年 (昭和20年)3月26日、慶良間諸島に上陸した時に同地域における日本政府の行政権と司法権の停止を公布し、米軍による沖縄での軍政が始められた。4月1日に本島に上陸後5日目には、読谷村渡具知軍政府 (米国海軍軍政府) を開設し、琉球諸島の本土からの分離を宣言している。その後、間もなく、米国海軍軍政府は陸軍に引き継がれる事になる。
今日は途中で雨が降り、一時はかなり強い雨足となり、近くのショッピングモールで雨宿りを1時間程したので、予定していた伊良皆集落は一部しか見れなかった。伊良皆集落の史跡の残りは次回に巡る予定。
日没後、先月10月にオープンした読谷村図書館で調べ物を行った。
参考資料
- 読谷村の字ガイドマップ 比謝 (2012 読谷村史編集室)
- わが生り島比謝村 (1993 石嶺伝夫)
- 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 上 (1995 読谷村役場)
- 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 (1995 読谷村役場)
- 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 地図 (1995 読谷村役場)
- 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 補遺及び索引 (1998 読谷役場)
- 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 上巻 (2002 読谷村史編集委員会)
- 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 下巻 (2004 読谷村史編集委員会)
- 読谷村民話資料集 15 渡具知、比謝、比謝矼の民話 (2003 読谷村教育委員会)
- 読谷村 (2023 京都府立大学文学部歴史学科)
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