Okinawa 沖縄 #2 Day 287 (06/11/25) 読谷村 (1) Hijabashi Hamlet 比謝矼集落

読谷村 比謝矼集落 (ビジャバシ、ひじゃばし)

  • 比謝川、比謝橋
  • 比謝橋碑文、比謝矼モニュメント
  • 吉屋思鶴 (ヨシヤチルー) の琉歌、比謝矼友竹亭顕彰碑
  • 拝所 (ウガンジュ)
  • 喜屋武朝徳住居跡
  • 長田川、長田橋
  • 農業学校田圃跡
  • 大城 (ウフグシク)
  • 大湾按司の墓
  • 慰霊碑
  • ウミナイビ墓
  • ウミキー墓
  • 若按司墓
  • 屠豚場跡 (トトンバ)、獣魂碑
  • 按司井 (アジガー)
  • 産井 (ウブガー)、新井 (ミーガー)、祝女井 (ヌールガー)
  • 比謝矼公民館 (村屋跡)


ようやく暑さもおさまり、熱中症の心配も無くなったので沖縄集落巡りを再会する。今日から前回まで巡った嘉手納町の北に隣接するか読谷村を訪れる。那覇からは約25kmで自転車で2時間の距離。自転車での日帰りでは時間のロスが大きいので、読谷村の字座喜味にあるゲストハウス琉球庵を拠点にして、3泊4日で見ていく。今日は読谷村の南の端の比謝矼集落から見ていく。


読谷山 (ユンタンザ) 間切

この地は琉球王国時代から明治時代にかけて、読谷山 (ユンタンザ) 間切だったが、1908年 (明治41年) に町村制施行により、読谷山間切全域が読谷山村と変更された。1945年 (昭和20年) の沖縄戦終結後、読谷山村の95%が米軍用地として接収され、1946年 (昭和21年) に約5%の土地にあたる波平、高志保の一部地域に帰村許可がおり、村民約5千人が帰村し、読谷村と改称して、戦後の復興が始まった。読谷村の復興は凄まじいもので、その中でも基地返還に対しては村民の多くの労力が費やされた。米軍基地は1972年 (昭和47年) の本土復帰時でも、73%が基地に接収状態で、現在でも36%を米軍基地が占めている。


比謝矼集落 (ビジャバシ、ひじゃばし)

比謝矼は読谷村の南端に位置し、比謝川で嘉手納町と接している。この地域は比謝川の水運を利用した山原船の移出入港として発展し、明治期以降に各地からの移入者によって街道沿いに開かれた集落だった。比謝矼集落はもともとは字大湾の一部で、東組 (アガリグミ) と称していた。本字の大湾は純農家だったが、東組 (比謝矼) は県道に沿った商工業主体の集落であったことから、字の運営、諸行事の実施等々種々の面で利害が相反し、不都合な点が少なくなかった。東組の町方化が一段と進むにつれ、本字からの分離を読谷村当局に陳情し、1914年 (大正3年) に字大湾から分離独立し、比謝川に架橋された比謝橋にちなみ、字比謝矼と命名している。集落は運用上、上組と下組に区分していたが、1941年 (昭和16年) に中組をつくり、三組体制での村運用をしていた。

1944年の比謝矼の戸数、人口は、98戸 409人であったが、太平洋戦争により107人の命が失われた。とりわけ、上級学校への進学が多かった比謝矼では、学徒動員による犠牲者も多かった。米軍は上陸後、比謝矼一帯を物資集積所などとして利用していた。

戦後、1947年頃までに読谷村大木地区に比謝矼の59戸が帰ったが、旧地は米軍基地に接収され、その後、土地の一部が返還されたが、道路拡張 (現国道 58号) のため旧比謝矼集落地には戻ることはできず、国道58号の西側の僅かな土地や字大木、字比謝などに分散居住を余儀なくされ、比謝矼を離れていく人も多かった。1999年 (平成11年) に国道58号線の東側の土地は返還されたが、既に別の地域で生活基盤を築いていることから、旧地の戻る人はほとんどないなかった。

比謝矼集落は元々は字大湾の一部だったが、1914年 (大正3年) に字大湾から分離独立し字比謝矼を形成した。当時の人口は不明だが、1921年 (大正10年) の人口は291人 (80戸) で多分、字大湾の30%~40%が比謝矼集落の人口だったと思われる。当時の読谷山村の最も栄えた商業地だったことが判る。その後、沖縄戦直前の1944年 (昭和19年) には人口が473人 (99戸) まで増加している。戦後1999年 (平成) は旧地の大部分が米軍基地に接収されたことで、字比謝矼住民は読谷村では最も少なく、2025年では僅か83人となっている。現在、比謝矼自治会への加入人口は昔からの比謝矼集落住民の53世帯129人だが、そのうち、比謝矼地番に暮らす人びとは僅か23人となっている。(2016年12月28日現在)

比謝矼公民館にガイドマップが置かれている。読谷村は各字の公民館にはガイドマップが置かれている。村役場ではこの様な文化、習慣、歴史などの継承に力を入れており、殆どの字では字誌を編纂発行している。また多くの資料も整備してオンラインで公開している。



比謝川、比謝橋

嘉手納町から国道58号線を北に進むと、比謝川に出る。比謝川は前ノ川、無漏渓 (ムロケ) 川、茂呂木 (モロケ) 川などとも呼ばれていた。この比謝川が嘉手納町と読谷村の境になり、川には比謝橋が架けられている。読谷村への入り口になる。戦前、この橋の近くまで山原船が出入りして、橋の附近は商業地として繁昌していた。

比謝橋は、木造であったためにたびたび破損し、1667年 (寛文7年)、1689年 (元禄2年) の両年に大修理を加え、1716年 (享保元年) に改築。1729年 (享保14年) に大破し、1730年 (享保15年) に石橋に改築している。この工事には、前後1年9ヶ月を費し、工事延べ人員4127人という大工事だった。その後、1852年 (嘉永5年) に修理を施すが、1866年 (慶応2年) に大雨で破損、1867年 (慶応3年)に修理した。この工事により、五座になった石橋も、豪雨などの時には橋の上から水が越えることがあった。1908年 (明治41年)から1909年 (明治42年) にかけて北谷村野国から恩納村の境までの県道工事が行われて、この時に比謝橋も嵩上げ工事が行われ、橋から水が越えるということがなくなった。このようにしてできた4つのアーチと1つの予備アーチをもった五連続アーチ式の石橋は、真玉橋とともに沖縄の名橋の一つだった。五つのアーチには、それそれ名称があって南側から順にフェーヌハシ、ユーハイハシ、ナカヌハシ、エバンハシ、ニシヌハシと呼ばれていた。北の石橋二座は比謝北橋とよばれていた。1953年 (昭和28年) に一号線拡張のため基礎まで壊され、今日の鉄筋コンクリート橋にかわった。

1945年 (昭和20年) 4月1日 に楚辺、渡具知に上陸した米軍はこの比謝橋を渡って南進してきた。旧日本軍は敵の進撃を阻止するため、この橋に爆雷を仕掛けて破壊しようとしたが、橋の路面上に穴が開いたが、橋本体には損傷が無く生き残った。この地を占領した米軍は道幅の狭い石橋では物資の輸送に支障があり、石橋と並行してベイリーブリッジとよぶ簡易な鉄橋を3本架けている。戦後、道路拡張工事が行われ、1953年 (昭和28年) に遂に石橋は壊され、現在の鉄桁コンクリートの橋が米軍によって造られている。


比謝橋碑文、比謝矼モニュメント

比謝橋を渡り読谷村に入ったところに比謝矼モニュメントが置かれている。この橋は琉球王国時代には国頭と首里を結ぶ宿道に架かっていた。明治以降、嘉手納には農林学校や製糖工場があり、比謝矼は嘉手納とつながる港町、商業地として大いに栄えた。

道路沿いには比謝橋が1716年から1717年にかけて木橋から石橋へ改良し架け直された際の記念碑が残っており、その経緯等が漢文で記されている。碑文は沖縄戦で倒れていたが、1964年 (昭和39年) に現在地に建て直している。


吉屋思鶴 (ヨシヤチルー) の琉歌、比謝矼友竹亭顕彰碑

比謝矼モニュメントの場所の奥は広場になっており、吉屋思鶴 (ヨシヤチルー) の琉歌碑が置かれている。吉屋思鶴 (1650 ~ 1668) は琉球王朝時代の代表的な女流歌人で、八才の時に那覇の仲島遊郭 [https://amp.amebaownd.com/posts/34483487]に身売りされた。伝承では、思鶴は遊郭の客だった仲里の按司と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられず (または仲里の按司とは身分が違うために一緒になれなかったとも)、悲嘆にくれた思鶴は食を絶ち、18歳で亡くなっ たという。歌碑には身売りされ、仲島遊郭に向かう心境を詠んだ「恨む比謝橋や 情け無いぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら (恨めしい比謝橋は 情けのない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか)」と刻まれている。

身売りという不条理を背負ったチルーのやり場のない気持ちが、比謝橋や橋をかけた人に向けられ、絶望的な悲しみを表している。

その隣には比謝矼友竹亭顕彰碑も置かれている。比謝矼友竹亭は、廃藩置県後、首里から旧王府所領の牧原、久得、御殿敷あたりに移住してきた旧士族同好者たちの琉歌創作サークルで、その活動は、越来村在住の山内盛熹を点者に迎え、比謝川河畔のこの地に店舗を構えていた黒糖仲買商「全通店」(この碑の前にあったそうだ)の広間で行われた。活動成果は明治40年から大正5年にかけて、再々琉球新報や沖縄毎日新聞等の文芸欄に発表されその数実に700余首にも及び、県琉歌界隆盛の一翼を担ってきた。またこのサークル活動は実に本村記録文学の嚆矢で、その影響は木村の琉歌ならびに三線音楽の発展に大いに寄与し今日に及んでいる。本村の歌並びに三線音楽の発展に大いに寄与した。2005年 (平成17年) に読谷村文化協会が、先人の遺徳を偲びその功績を称えるため、かつての全通店近くのこの場所に顕彰碑を建立している。


拝所 (ウガンジュ)

碑が置かれている広場の奥、比謝川沿いへ向かう道がある。以前ここを訪れた際には、奥に何かありそうだとは思ったのだが、金網フェンスで私有地かと思って入らなかった。読谷村発行の資料ではこの奥に拝所があるというので今日は中に入って見学。長田川に降りる道の左手の岩に石碑が置かれ、その奥に土が盛られた所に大木が生えている。ここが資料では、御嶽とか、拝所 (うがんじょ) と記されていた。比謝矼は明治期以降に職を失った士族が大湾に移住してできた屋取集落 (東組) なので、昔からの御嶽や拝所はなかった。東組内の結束を高める為に、ここを拝所としたと思われる。比謝矼集落にある他の拝所は殆どが大湾集落の拝所になる。


喜屋武朝徳住居跡

比謝橋碑文が置かれている国道58号線を渡った所には沖縄空手首里手少林寺流を起こし、沖縄空手の発展に大いに貢献した挙聖 喜屋武朝徳の住居があったそうだ。

前回、嘉手納に訪れた際には比謝橋の嘉手納側の屋那上原 (ヤナイーバル)に喜屋武朝徳の顕彰碑が置かれていた。


長田川、長田橋

比謝橋から道を北に進むと比謝川支流の長田川に橋が架かっている。長田川は昔は後ノ川 (クシヌガーラ) とも呼ばれ、地元ではトーマガーラグヮーと呼んでいた。ここに架かっている長田橋は昔は上ヌ橋とか新橋 (ミーバシ) と呼ばれていた。長田橋付近は鍋 (ナービ) グーフ (写真右下) と呼ばれ、鍋底の様に鉢状の窪みで、子どもたちの水遊び場だった。長田川と比謝川の合流地点には水源確保の為に下流堰が建設され、鍋グーフは消滅してしまった。長田橋近くに住んでいるおばあと話すと、ダムは一定の貢献はあったが、2014年の台風8号で国道58号や県道74号が冠水し交通が遮断され、読谷村が一時孤立し、おばあの家も床上浸水の被害を被ったという。現在はこのダムは撤去されている。

戦前と戦後の長田橋と比謝矼集落の写真が残っている。戦前 (写真右) には長田橋から道沿いには、ぎっしりと家屋が見られる。1922年に隣接する北谷村字嘉手納に沖縄県営鉄道が開通し、比謝矼、嘉手納一帯は海路、陸路ともに沖縄本島の南北を結ぶ交通の要所となった。嘉手納には農林学校や製糖工場があり、比謝矼は嘉手納とつながる港町、商業地として大いに栄えた。比謝矼には郵便局、産業組合、畜産組合、屠殺場、牛の売買を行う牛市場がおかれた。このほかにも多くの商店が建ち並び、景勝地であった比謝川河には、大勢の観光客が訪れ、人びとが行き交うにぎやかな街となった。

沖縄戦を契機として賑わっていた比謝矼集落は大きく変貌している。戦後1960年の写真 (左) には米軍によって造られた長田橋があり、大湾交差点付近にのみ、民家が見られる程だった。 戦前、1944 年の比謝矼には409 人 (98戸) が住んでいたが、戦後、1947年頃までに読谷村に59 戸の比謝矼の人びとが帰ったが、米軍基地接収、道路拡張で旧地へと戻ることはできず、分散居住を余儀なくされ、比謝矼を離れていく人も多かった。戦前の比謝矼住民で、比謝矼に帰り暮らす人びとは 僅か23人となっていた (2016年12月28日現在)。


農業学校田圃跡

長田橋を渡る手前東側、川沿いには、戦前、嘉手納にあった沖縄県立農林学校の田圃があり、学生の実習の場だった。現在では長田川取水ポンプ場になっている。


大城 (ウフグシク)

比謝橋から道を北に進むと右手に地元では山小 (ヤマグヮー) と呼ばれている標高10mの丘がある。ここは大城 (ウフグシク) 又は大湾グシクの跡といわれている。築城の時代は不明だが大湾按司が築城したとされている。ウフグシク (大湾グシク) には石積みの城壁があったが、比謝橋の改修の際に城壁が取り壊されたと伝わっている。戦後、米軍による県道1号線 (現国道58号線) の建設、その後、国道拡張工事などで土が盛られて、元々の地形は大きく変化している。丘の上には 「ウフグシク」 と刻まれた石碑と香炉が置かれていた。

大湾按司は1330年頃から1424年頃まで四代にわたり続いた。初代大湾按司は中北山系の今帰仁子の三男で、初代伊波按司、五男山田按司とのは兄弟に当たると言われ、1322年に今帰仁グスクが羽地按司 (怕尼芝) に攻略され、南下し、この地に居城を築いたと伝えられている。二代は伊覇按司から養子で察度王時代にあたり、その長男が尚巴志時代に三代を継いでいる。次男は読谷山間切古堅村中宗根の元祖古堅之比屋、三男は中城間切津覇村を創設した大湾子で呉屋根の元祖と伝わっている。


大湾按司の墓

国道から入った所、丘の上に御先大湾按司之墓が置かれている。元々の大湾按司の墓は大城 (ウフグシク) の崖の中腹にあった板門 (イタジョー) 墓だったが、国道拡張工事の際に現在地に移された。墓の中には3つの陶製厨子甕 (ジーシガーミ) が安置されている。初代、三代、四代の大湾按司のものだろう。ただ、伝承では初代大湾按司は中国に渡り南京で死没し、墓は福建にあるという資料もある。


慰霊碑

更に丘の上へ向かう階段があり、上がると、広場になり、そこに慰霊碑が建立されている。慰霊碑には沖縄戦を含む第二次世界大戦で亡くなった比謝矼の人達を弔っている。碑には106名の戦没者が刻銘されている。その後、追加の戦没者も含め116人が確認され、不明者を除いて戦没者率は25.9%と高い率だった。

碑文には

いとし我が子よ我が父母よ
夫よ妻よ同胞よ
お帰りくださいふるさとへ
永遠に鎮まり安らかに
お眠りください比謝矼に

と刻まれている。

この場所では毎年慰霊の日 (6月23日) に慰霊祭が行われている。東日本大震災などでも見られるが、慰霊祭は故郷を離れる事を余儀なくされた村人が、里帰りで交流を行う機会でもあったが、戦前から比謝矼集落は小さく人口も少なく、更に、土地返還が遅く住民の帰還が叶わず、移住先で生活基盤を築き、土地返還後も帰村する人は少なく、高齢化もあり、年々、慰霊祭への参加者は少なくなっている。

1944年 (昭和19年) 4月から、沖縄県で学童疎開が始まり、比謝矼集落でも宮崎県西諸県郡加久藤村に学童が疎開している。疎開には船で向かったが、その中で、5月に嘉義丸、8月に対馬丸で移動した学童と家族は米国潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没し、一人を全員死亡している。

1944年 (昭和19年) 9月に山小 (ヤマグヮー) にあった託児所が閉鎖されて、日本軍兵隊 (球部隊) がテントを張り駐留を始めている。集落内民家も兵隊の宿舎や作業場、倉庫などに使われていた。1945年 (昭和20年) 2月から国頭 への疎開が始まったが、疎開を渋る住民も多く、集落に残っていた人は多かった。3月24日に比謝矼は初めての空襲被害をうけた事で27日には集落の善世帯の非戦闘員は国頭に避難していった。避難先の国頭では避難所を追い出され山の中に逃げ込んだ人々は食糧が乏しく飢餓にさらされたり、全く身を隠す場所さえない状態で、食を求め歩いて銃弾の犠牲になったり、「敵に知られる」ということで泣きわめく我が子を殺すという事態まで起こり、修羅場だったという。

沖縄戦では、日本軍は米軍がいずれ沖縄本島に上陸してくるとして四地点を上陸想定地として防備を進めていた。1945年 (昭和20年) 4月1日に米軍が日本軍の5倍以上にあたる54万の総兵力で上陸を敢行したが、その場所は日本軍が想定していた場所では無い北谷、嘉手納、読谷の海岸だった。日本軍が米軍想定上陸地の設定は誤りだったとされている。沖縄の海岸は珊瑚礁があり、海岸沿いから沖に珊瑚礁が長く伸びている地域は大型船は海岸に近づくのは不可能なのだが、想定した地域はまさにそれにあたっていた。米軍が上陸した地域は珊瑚礁が海岸付近に限定されていた。この点で、日本軍は上陸について熟考したとは考えにくい。その反面、米軍は翌地形を調べていたのだろう。この時期には、日本軍は戦略を持久戦に変更し、その目的として、損害が大きくなる対着上陸戦闘を捨てて主力部隊を首里周辺に配備し、上陸海岸付近には僅かな兵力しか配備していなかった。このことで、日本軍はほとんど反撃を加えることなく、米軍の「無血上陸」となり、米軍は簡単に日本軍の主力飛行場だった北・中両飛行場を占領することができた。日本軍は指令本部がある首里城から米軍上陸を悠々と見ていたという。米軍が南下していた際に決戦をする計画だった。

米軍は4つの師団が上陸し、その一つの陸軍第96師団が桑江、伊平、浜川海岸に上陸し、宜野湾、浦添を南下して首里二向かうことになる。

浜川、伊平では日本軍の抵抗がほとんどなかったことで、村の被害は最小だったが、占領された後はこの地域が米軍の沖縄進軍の拠点となり、村の家屋はことごとく破壊されて基地として使用されている。資料では、北谷町 (村) の当時の被害や戦没者数は見当たらなかった。

終戦により、住民は保護され田井等、漢那、中川、石川等の各収容所に移動させられている。

1946年 (昭和21年) 11月に帰還許可が降り、各収容所の比謝矼は、解放された波平地域へ移っていった。翌1947年 (昭和22年) に大木・楚辺地域への移住が降り、大木地域に移り、米軍の廃材で住居を作り生活を始めた。やがて読谷南部の各集落の多くは旧敷地に移動したが、比謝矼、牧原、長田は故郷は米軍施設用地で帰還は叶わなかった。比謝矼では再三にわたって旧集落があった国道58号線東側の開放を陳情してきたが、叶わず、僅かに返還された字比謝矼地番に1951年 (昭和26年) 頃に移動した人もいるが、多くは大木、比謝等の地に住居を建築し、生活をしていた。


ウミナイビ墓

大城 (ウフグシク) の南側、長田川沿いにウミナイビ墓がある。ウミナイは女の神人の事で王妃を意味しており、北谷ではウミナイビも王妃を意味しているので、大湾按司の王妃の墓だろう。


ウミキー墓

その上にウミキーの墓がある。ウミキーは男の神人の事で、長田川を少し遡った場所にヤクミー (兄) グスクがあり、大湾按司の兄の居城だったというので、ウミキーはこの人物の墓なのかもしれない。


若按司墓

按司墓から長田川への道がある。戦前は切り通し道だった。1932年 (昭和7年) に丘を掘削して造った切り通し道で、それまでは大城(ウフグシク)の丘を越えて行かねばならず大変難渋していたそうだ。

その道、途中左側は岩場になっており古墓があった。

この古墓の奥に若按司の墓と刻まれた古墓がある。この若按司は初代大湾按司の長男で嫡子だったが早逝し、この若按司以外男子の後継がなく、一門の伊覇按司から養子を迎え大湾按司を継承したという。


屠豚場跡 (トトンバ)、獣魂碑

切り通しの道を長田川に向かうと広場になっている。ここには戦前迄は屠殺場だった。地元では屠豚場 (トトンバ) と呼んでいた。1910年 (明治43年) 頃に村営場に設置され、利用者から使用料を徴収して運営していた。ここには畜類一次保管所、解体処理場、獣医室事務所、又、この広場の一角には屠殺された豚などを弔うための獣魂碑も置かれていたそうだが、撤去された様で見当たらなかった。


按司井 (アジガー)

大城 (ウフグシク) から国道58号線を隔てた所には、昔は石段を下りた所に石積み囲いの井戸があった。軍道建設で消滅してしまったが、井戸を模して形式保存されて拝所となっている。年中清らかな水を溢れさせていたが、飲料水には使用せず、洗濯や野菜洗いなどの生活用水にしか用いられなかったという。古書ではこの地に御井 (ウカー) があったと記されており、この按司井 (アジガー)にあたると思われる。


産井 (ウブガー)、新井 (ミーガー)、祝女井 (ヌールガー)

国道58号線を北に進むと、大湾交差点に、戦前まで大湾及び比謝矼集落の人々が生活用水として利用していた三つの井戸が合祀されている。現在の国道58号沿いにあった産井 (ウブガー)、新井 (ミーガー)、祝女井 (ヌールガー、湾祝女井 ワンヌールガー) で、戦後、米軍による軍道1号の道路拡張により埋められて消滅した。


比謝矼公民館 (村屋跡)

国道58号線を北に進み、大湾交差点を過ぎて少し進んだ西側の住宅街の中に比謝矼公民館が建てられている。戦前には村事務所が置かれていた。戦後、村全土が米軍に接収され、比謝矼の家屋は全て取り壊されている。土地が返還された後に、村事務所があった土地を購入し、1969年 (昭和44年) に公民館が建てられた。


これで比謝矼集落の散策を終え、この後、比謝矼集落の東に隣接していた牧原集落巡りに移る。牧原集落の訪問記は別途記載。


参考資料

  • 読谷村の字ガイドマップ 比謝矼 (2016 読谷村史編集室)
  • 比謝矼誌 (1995 比謝矼公民館)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 上 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 下 地図 (1995 読谷村役場)
  • 読谷村史 第4巻 資料編3 読谷村の民俗 補遺及び索引 (1998 読谷役場)
  • 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 上巻 (2002 読谷村史編集委員会)
  • 読谷村史 第5巻資料編 戦時記録 下巻 (2004 読谷村史編集委員会)
  • 読谷村民話資料集 15 渡具知、比謝、比謝矼の民話 (2003 読谷村教育委員会)
  • 読谷村 (2023 京都府立大学文学部歴史学科)

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