中野区 04 (02/09/25) 旧野方村 下沼袋村 (1)

下沼袋村

小字 北原

  • 庚申塔 (60番)

小字 中通

  • 野方駅
  • 笑い地蔵尊 (45番)
  • 野方町役場跡
  • 沼栄橋新道開設記念碑、 沼栄橋公園 [未訪問]
  • 願掛け地蔵 (44番)、二十三夜碑 (41番)、庚申塔 (36番)

小字 三谷

  • 北向地蔵 (42番)、馬頭観音 (40番)、如意輪観音
  • 三谷稲荷神社
  • 南向地蔵 (41番)、庚申塔 (35番)
  • 交通安全地蔵 (43番) [未訪問]

小字 原大久保

  • 妻戀稲荷神社 [再建工事中]
  • 辻地蔵(40番)
  • 和田寺

小字 新橋

  • 平和の森公園
  • 旧中野刑務所跡 (移転工事中)


今日は旧下沼袋村の史跡を巡る予定だが、この地域には多くの寺院があり、1日ではまわりきれないと思われる。出来るだけ多くの史跡を見学したい。


下沼袋村

下沼袋村は中世には上沼袋村と一体で沼袋村と称されていた。江戸時代に上沼袋村と下沼袋村に分村された。沼袋村は「袋」水がたまる (袋) ような低湿地 (沼) だった事から名付けられたという。

下沼袋村は1889年 (明治22年) に町村制が施行され、下沼袋村を含むの7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋となっている。元々の下沼袋村の範囲とは少し異なっており、当時上沼袋村だった地域の一部は下沼袋村に編入されている。

新しくできた大字下沼袋は6つの小字に分かれていた。

明治時代の地図を見ると、民家は現在の西武鉄道新宿線 (旧西武鉄道村山線 1927年開通) 沿線にみられ、特に野方駅周辺の小字北原、中通、本村に集中している。ただし、この時代にはまだ鉄道は開通していなかったので、旧西武鉄道村山線が民家があった地域に敷設されたと言った方が正しい。1923年 (大正12年) の関東大震災以降、東京から郊外に移り住む人が急増しており、それまであまり民間がなかった、南部地域に住宅地が拡大している。1960年代には住宅地はほぼ全域に広がっている。


下沼袋村の史跡、スポット



自宅から新青梅街道に出て、中野道を野方に向かう。先日見た庚申塔 (42番) にある踏切手前で中野道を外れて東に向かう。



小字 北原

下沼袋村の北西端にあったのが小字 北原で、北は江古田村、東は上鷺宮村に隣接していた。下沼袋村の北側に広がる原野や台地だった事から 「北原」と呼ばれたという。 1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字北原となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 北原小字 中通と共に沼袋二丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 北原に相当する地域は野方六丁目、野方四丁目の一部となり、現在に至っている。


庚申塔 (60番)

北原小学校の北側の東西に伸びる古道沿いに庚申塔がある。堂宇の中に唐破風笠付角柱が置かれ、上部に日月が浮き彫りされて、中央に金剛界大日如来の梵字種字のवं (バン) 、その下に 「奉供養庚申待二世安樂所」 と刻まれ、下部に三猿が浮き彫りされている。側面には 「右 中村ミち」「左 さきのミやミち」 と刻まれ道標を兼ねていた。

この庚申塔は1748年 (寛延元年) に上沼袋村念仏講中10人により造立されたもの。「武刕多摩郡上沼袋村」の銘がある。下沼袋村のこの場所に上沼袋村の庚申塔が置かれている事に疑問があるが、下の図 (正確ではないと思う) の様に、江戸時代には上沼袋村と下沼袋村は飛地などで入り組んでいた。下沼袋の小字 北原にも上沼袋村が入り組んでおり、庚申塔 (60番) は当時の下沼袋村と上沼袋村の境に造られたようだ。



小字 中通

小字 北原の南が小字 中通になる。この中通の地名由来は不明だが、下沼袋村の中心を通る道があった事からかもしれない、確かに小字 中通には雑司ヶ谷道 (現在の新青梅街道) が東西に走っている。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字中通となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字 北原小字 北原と共に沼袋二丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 中通に相当する地域は野方四丁目、野方五丁目、若宮一丁目の一部となり、現在に至っている。


野方駅

中野道に戻り、道を進む。環状7号線に交わる手前、北側に野方駅がある。この野方駅は、1927年 (昭和2年) に高田馬場-東村山間に西武村山線が開通した際に開業している。

鷺ノ宮駅の訪問記でも触れたが、この野方駅周辺地域に関しても、「野方駅周辺地区まちづくり構想」 が2018年 (平成30年) に策定され、それから7年後の2025年 (令和7年) に 「西武新宿線沿線まちづくり整備方針(野方駅周辺地区編)」 が発行されている。この二つを見比べると、殆ど進展はない。構想と方針とあるので、誰でも考えつく様な、抽象的な内容で、具体的な計画はない。これ以降に具体的計画が策定されるのかには少し疑問がある。


笑い地蔵尊 (45番)

古道の中野道沿いに伸びる野方商店街から路地に入った所に丸彫りの地蔵菩薩坐像を祀った堂宇があり、「笑い地蔵尊」 の提灯が吊るされている。この辺り一帯は、戦前までは三角原と呼ばれた野原だった。戦後、野方に西武座という映画館を建てた人がおり、第二次世界大戦の敗戦で人びとは日々苦しい生活に追われ、笑いを失っていた事に心を痛め、その人達と野方商店街の繁栄を願って、旧家の庭先にあった地蔵菩薩 (造立年は不詳) をこの地に移したという。商店街では地蔵を安置した後、縁日を六の日と定め、売出し日として、同時に地蔵を供養する運動がおこなわれ、堂宇も寄付によって建造された。縁日は現在でも続けられ、地蔵保存会も結成され、年一回供養しているそうだ。


野方町役場跡、野方商店街

中野道に戻り、中野方面に進むと環状7号線に交わる。環状7号線 の手前に野方Wiz (中野区野方区民ホール) がある。この場所には、1889年 (明治22年) に野方村が誕生し、1902年 (明治35年) に野方村役場が設置された。1924年 (大正13年) からは野方町役場となり、1932年 (昭和7年) に中野区が誕生し、野方町が消滅するまで機能していた。


沼栄橋新道開設記念碑、 沼栄橋公園(未訪問)

中野道から外れ、環状7号線を南に進むと妙正寺川に出る。この川には新昭栄橋が架かっている。「新」昭栄橋というので旧昭栄橋があると思うのだが、昭栄橋は存在せず、すぐ西側には 沼栄橋は架かっていた。この「沼」栄橋がいつしか 「昭」栄橋と記されるようになっていたという。野方村 (野方町) が誕生し、人の往来の増加が続いていたが、それに対応する道路整備が遅れていた。そこで、地域の人々により妙正寺川に橋を架けて南から野方村役場への道路が開設された。この橋は小字 上沼袋と小字 下沼袋が共に栄えるようにと 「沼栄橋」 と命名された。川を渡った所には架橋と道路の完成記念碑 「沼栄橋新道建設記念碑」 が1925年 (大正14年) に建てられている。また、川岸には沼栄橋公園が整備され、「沼栄橋」 の名が残されている。

この時に造られた道路は元の大場村と新橋村の境界付近であったことから、大場村と新橋村の一文字ずつを取り、大新横丁 (大新通り) と名付けられた。


願掛け地蔵 (44番)、二十三夜碑 (41番)、庚申塔 (36番)

中野道に戻り、道を南に進むと妙正寺川に向かって下坂になっている。野方駅付近は高台だった。この坂の途中の三差路、小字 中通と小字 本村の境に堂宇が置かれている。前にも書いたが、この中野道は勤めていた会社への通勤路で自転車で何百回も通っていたのだが、この堂宇を立ち止まって見ることはなかった。

堂宇内には庚申塔と地蔵尊、堂宇脇には二十三夜塔が祀られている。

  • 庚申塔 (36番): 1736年 (享保21年) に講中31人により造立された唐破風笠付角柱で上部に月日、中央に合掌六臂の青面金剛像が浮き彫りされ、脚の両脇には二鶏が線刻、その下に三猿が浮き彫りされている。青面金剛像の両側には「奉造立青面金剛二世安樂」 と刻まれている。側面には蓮の花と葉が彫ってあり、台石には「右 中村道 左 さぎのみや道」とあり道標も兼ねていた。
  • 地蔵菩薩 (44番): 庚申塔の隣には1744 (延享元年) に造立された丸彫りの地蔵菩薩立像 (願掛け地蔵) が置かれている。「秩父坂東西国右百箇所奉納為二世安樂也」と刻まれているので、巡礼した記念に建てた地蔵菩薩像になる。
  • 二十三夜塔 (41 番): この石塔は比較的新しく1926年 (昭和2年) に造られている。石塔には 「二十三夜」 と刻まれれいる。二十三夜信仰は江戸時代から昭和初期にかけて盛んに行われ、勢至菩薩を本尊として良縁や財運を願うもので、旧暦の毎月23日の夜に月の出を待って飲食し、祈りを捧げる 「二十三夜講」の月待行事が行われていた。その記念や供養のために建てられた石碑が二十三夜塔になる。この場所の三差路の土地のことでもめごとが起こった時、近所に御岳教の 「おんたけさん」 と呼ばれていた人がいて、その人に祈祷してもらったところ、昔、この地に二十三夜の石塔があったが、なくなってしまったので新しく建てるようにとお告げがあり、で関係者が建てたという。


小字 三谷

小字 中通の南にあったのが小字 三谷で、地名の由来は不明だが、「三つの谷」が合流する地だった事に由来するという設がある。小字 三谷の南は妙正寺川、北側には江古田川 (中新井川) などの河川が流れており、多くの谷状の地形 (谷戸) が見られ、三つの谷が合わさる場所に集落が形成され、それがそのまま地名になったと考えられている。三谷は北三谷と前三谷に分かれていた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字三谷となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字の原大久保、新橋と共に沼袋一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 三谷に相当する地域は野方二丁目となり、現在に至っている。


北向地蔵 (42番)、馬頭観音 (40番)、如意輪観音

小字 中道から村境となっていた妙正寺川を渡たり、小字 三谷に入った所、住宅街に中に堂宇が置かれている。地元では北向地蔵と呼ばれている。

  • 如意観音: 堂宇前には如意観音の石仏が置かれている。摩耗して造立年月などは判読できない。
  • 地蔵菩薩 (42番): 堂宇内には下沼袋村の22人により造立された (損傷の修復で造立年判読不能)舟型光背の石塔が置かれ、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。北向地蔵と呼ばれ、北を向いた地蔵は珍らしく、 ご利益があるとされ、近隣だけでなく、遠くからも参詣に来る人もいるそうだ。小字 三谷時代からの旧家13軒が念仏講を続け、毎年6月24日には地蔵の供養を行なっている。
  • 馬頭観音 (40番): 地蔵菩薩の隣には角柱石塔が置かれている。1802年 (享和2年) に三谷の人達が西国三十三か所、坂東三十三か所、秩父三十四か所の合計百か所の観音霊場を巡礼した記念に建てた馬頭観音で、石塔上部に馬頭観音が浮き彫りされ、その下に梵字種子、「奉巡礼西国坂東秩父百箇所供養為二世安楽也」 と刻まれている。


三谷稲荷神社

北向地蔵から道を南に進むと道沿いに三谷稲荷社の祠が置かれている。創建年代は不詳だが、江戸時代に三谷講中により創祀されたと考えられている。当時は農耕に従事しており、五穀を司る宇迦之御魂神を祭神として祀っていた。時代の推移と共に崇敬する者多くなり、江戸時代には農家のみの信仰対象に止まらず広範なる産業神として信仰されるに至っている。三谷講中は絶えてしまったが、その子孫が三谷稲荷神社維持管理を行なっており、1965年 (昭和40年) には現在の社殿に建て替えている。


南向地蔵 (41番)、庚申塔 (35番)

三谷稲荷神社から更に道を南に進み2番目の道を東に進んだ所にも堂宇があり、こちらは南向地蔵と呼ばれている。堂宇内には2基の石仏が安置されている。元々はここから西側の現在の環状7号線沿いの十字路 (野方2-56) にあったが、交通量が多くなり現在地に移転している。毎年6月24日に北向地蔵とともに供養行事が行なわれている。

  • 子育地蔵 (41番): 向かって右側は1689年 (元禄2年) に子育地蔵尊で舟型光背石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、「為奉造立地蔵尊二世安楽也」と刻まれている。
  • 庚申塔 (35番): 左側には1687年 (貞享4年) に沼袋村14人により造立された舟型石塔の庚申塔で上部に大日如来を表す梵字種子のवं (バン) 、その下両脇に日月、中央に 「奉供養庚申待二世安楽所」 が刻まれ、下部に三猿が浮き彫りされている。


交通安全地蔵 (43番) [未訪問]

小字 三谷の南西端、小字 原大久保との境界だった、現在の環状7号線の場所に堂宇があり、その中には丸彫りの地蔵菩薩立像が安置されている。この地蔵は地元では交通安全地蔵と呼ばれている。この少し北に、先に訪れた南向地蔵があったのだが、関東大震災以降昭和に入り、耕地整理で住宅街が広がり交通量が多くなり、現在の南向地蔵の場所に移設された。移転後、この場所で交通事故が頻繁に起こるようになった。そこで地元の人が1966年 (昭和41年) にここに新しく交通安全地蔵尊を建てたところ、交通事故は減ったという。以前はなかったのだが、現在では堂宇には鉄柵が設けられていた。イタズラ防止なのだろうか?



小字 原大久保

下沼袋村の南端は小字 原大久保になる。字名の由来は不明だそうだが、原は荒地、原野、大久保は窪地を表しているので、窪地の原野だったからかも知れない。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、上鷺宮村等の7ヶ村が合併し、野方村となり、東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字原大久保となっている。 1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字の三谷、新橋と共に沼袋一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 原大久保に相当する地域は野方一丁目となり、現在に至っている。


妻戀稲荷神社 (再建工事中)

かつての小字 原大久保の南端の早稲田通り沿いに妻戀稲荷神社があり、訪問したのだが、全面建て替え工事中で、建物は撤去されていた。工事前の写真とその説明があったのでここに載せておく。次回、東京に来た際に、再訪を予定。

妻戀稲荷神社の創建の年代は不明だが、古文書では江戸時代中期の文化年間には存在していた事が確認されているので、それ以前には創建されている。湯島の妻戀神社からの分霊を勧請し、日本武尊 (やまとたけるのみこと)、妃の弟橘姫命 (おとたちばなひめのみこと)、穀物や食物の神様である倉稲魂命 (うかのみたまのかみ) を主祭神として祀っている。

この神社は明治の初めまでこの地に住んでいた矢島源左衛門が維持管理を行なっていたので、源左稲荷とも称されている。矢島源左衛門の一族はこの地を去る際に周辺の土地を人に貸し、その地代で稲荷社の管理を頼み、それ以降は土地の旧家の方々が年番交代で管理している。境内には溶岩でできた石祠や、1766 (明和3年) 造立の慧唫襌童子と呼ばれる地蔵菩薩立像を安置した祠も置かれている。


辻地蔵 (40番)

妻戀稲荷神社の道のすぐ東の三叉路の角に地蔵菩薩像がある。江戸時代、ここは辻と称されていたので、この地蔵は 「辻地蔵」 と呼ばれていた。1741年 (寛保元年) に沼袋村新橋念仏講中により造立された角柱に右手に錫杖、左手に宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。この地蔵の両脇に石柱と台座らしきものが置かれている。この石柱については言い伝えがある。

その昔、かどにまんじゅう屋があり、等身大の地蔵が安置されていたが、じゃまになったので移動させ、小さいものに取り替えてしまったところ、まもなく、まんじゅう屋に不幸が起ったり、夢枕に地蔵があらわれ、よくも自分の体をこんなに小さくしたなと呪ったので、また元の位置にもどし、供養したとのことである。

右側の石 (写真右下) は当初の大きい方の地蔵菩薩の台石だという。等身大の地蔵の所在は不明だそうだ。台座には四面に東西南北の文字が一字ずつ彫ってある。石柱の方 (写真中下) は古い道しるべになっており、「中野宝仙寺、高田、鷺宮」 と刻まれている。

この地蔵の前では大きな交通事故が起らず、地元商店会や近隣の人たちは、その感謝と子供達の健やかな成長を願って、子育地蔵として、毎年10月24日に供養が行なわれている。


和田寺

妻戀稲荷神社の奥、住宅街の中に、和田寺という浄土宗の寺がある。伝統的な寺院の建物ではなく、普通の民家が寺になっている。この寺院は非常にユニークな布教活動を行なっている。東京タオサンガ道場も兼ねており、島根県にある和田寺の東京出張修行道場がで、京都や世界各地にも道場があるそうだ。音楽やダンス、ゲームなどで日常生活に密着した活動を修業に取り入れて仏教の教えを伝えている。またタオ指圧といい、気の修練で患者の潜在意識の領域を治療するという指圧の研修も行なっている。

一見、新興宗教と混同される様だが、実際は純粋に仏教の教えを伝えており、その修業の方法が伝統的な寺とは異なっているだけの様に思える。



次は、下沼袋村の東部の小字を南から北に向かって見ていく。


小字 新橋

小字 原大久保の東隣が小字 新橋で、江戸時代の始め頃には既に新橋と呼ばれていた地域で、元禄年間の頃に下沼袋村の枝郷新橋村として独立し、民家は19軒ほどだった。明治初年に下沼袋村と合併し、1889年 (明治22年) に町村制が施行され、下沼袋村他6村が合併し野方村となった際に東京府東多摩郡野方村大字下沼袋小字新橋となっている。新橋の名の由来は確かではないが、1477年 (文明9年) の豊島氏と太田道灌の江古田原沼袋合戦の後、新しい領主のために橋をかけた事に由来するという言い伝えが残っている。1932年 (昭和7年) に杉並区が誕生した際に小字の原大久保、三谷と共に沼袋一丁目となっている。1965年 (昭和40年) の町名改正の際は、旧小字 新橋に相当する地域は野方一丁目、野方二丁目、新井二丁目、新井三丁目にまたがっている。


平和の森公園

小字 新橋に入り北に進む。小字 新橋の北の端、字境となっている妙正寺川の手前に約70,441平方メートルの敷地の平和の森公園が整備されている。多目的運動広場、総合体育館が建てられている。

この平和の森公園の場所には戦前まで中野刑務所が置かれていた。1983年 (昭和58年) に刑務所が廃止となり、1985年 (昭和60年) に跡地に平和の森公園として部分開園、1995年 (平成7年) に下水道処理施設を設置して防災公園となる。2020年 (令和2年 ) には中野区立総合体育館が完成し再オープンしている。


旧中野刑務所跡 [移転工事中]

跡地が平和の森公園となった中野刑務所は1910年 (明治43年) に市谷にあった豊多摩刑務所がこの地に移って来ている。中野刑務所では主に治安維持法に抵触した政治犯や思想犯の収容所として使用されていた。1983年 (昭和58年) に中野刑務所が廃止となり、建造物は取り壊され、表門のみが、かつての法務省矯正研修所東京支所の敷地内に残された。矯正研修所が2017年 (平成29年) に昭島市へと移転し、跡地に小学校の新校舎が建てられている。

中野刑務所正門は現在は敷地の西側へと移設工事中で見学はできない。工事完了後、2027年 (令和9年) 以降に一般公開を予定している。



下沼袋村にはまだ小字 本村と大下が残っているが、そこには多くに寺院があり、見学には時間が足りないので、今日はここで打ち止めとして、残りは次回東京訪問じに巡る事にする。今回の東京滞在は9月4日までで、9月3日にも旧新井村を巡ったが、半分も見れなかったので、次回の東京訪問時に見終わってから訪問記に合わせて記すこととする。


参考文献

  • 中野区史 上巻 (1943 中野区)
  • 中野区史下巻 1 (1944 中野区)
  • 中野区史下巻 2 (1954 中野区)
  • 中野区史 昭和編 1 (1971 中野区)
  • 中野区史 昭和編 2 (1972 中野区)
  • 中野区史 昭和編 3 (1973 中野区)
  • 中野区民生活史 第1巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第2巻 (1982 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野区民生活史 第3巻 (1985 中野区民生活史編集委員会)
  • 中野の歴史 (1978 中野区・区政資料室)
  • 武蔵野方町史 (1927 中島仁)
  • たずねてみませんか 中野の名所・旧跡 (1996 中野区立歴史民俗資料館)
  • 中野の神社をたずねて 南部編 (2010 中野区立中央図書館)
  • 中野のお寺散歩 (2005 中野区立中央図書館)
  • 中野区の仏教美術 中野の文化財 No. 22 (1996 中野区教育委員会)
  • 中野区の石造物 (神社) 中野の文化財 No. 23 (1997 中野区教育委員会・山﨑記念中野区立歴史民俗資料館)
  • 路傍の石仏をたずねて 中野の文化財 No.1 (1995 中野区教育委員会)
  • なかのの地名とその伝承 中野の文化財 No. 5 (1981 中野区立中野文化センター郷土資料室)
  • なかのの碑文 中野の文化財 No. 4 (1980 中野区立中野文化センター郷土資料室)

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