杉並区 28 (15/05/25) 旧和田堀町 (和田堀内村) 旧和田村 (3) 小名 本村原 / 谷中
旧和田村 小名 本村原
- 小沢川跡
- 石雲山常仙寺 (曹洞宗)
- 山門
- 寅堂 (虎堂)
- 六地蔵 (188番)、庚申塔 (186番)、子育地蔵菩薩像
- 本堂
- 万昌山長延寺 (曹洞宗)
- 本堂
- ぼたもち地蔵 (179番)
- 大倉稲荷大明神、和光不動尊
- 和田帝釈天 (日蓮宗)
- 立正佼成会
- 法輪閣、一乗宝塔
- 大聖堂
- 医王山東円寺 (真言宗)
- 山門
- 鐘楼
- 観音堂
- 稲荷神社、弁財天
- 六地蔵 (190番)、馬頭観音、宝篋印塔
- 本堂
- 十三塚之碑、地蔵菩薩立像 (189番)
- 板碑
- 梅田家墓所
- 長廣山立法寺 (日蓮宗)
- 山門 (仁王門、鳳凰門)
- 本堂
- 浄行堂、浄行菩薩石像
- 感應稲荷
- 葵岡老人北渓君之墓
- 救世軍ブース記念病院
- 大山不動堂
- 御嶽神社、榛名神社、稲荷神社
- 本妙山昭倫寺 (日蓮正宗)
- 稲荷神社
小名 谷中 小字 砂利田
- 杉並能楽堂
- 十貫坂
- 十貫坂地蔵堂、庚申塔 (182番、181番)、地蔵菩薩像 (180番、184番、185番)
小名 谷中 小字 堰山
- 善福寺川、神田川合流点
- 庭野日敬像・長沼妙佼像
旧和田村の史跡巡りは、西側の松ノ木と大宮は終えて、今日からは東側の地域を巡る。旧和田村の中心地だった本村村から南へ向かって巡る。今晩は予定があり、いったん自宅に帰るのであまり時間がない。どれだけ見れるかわからないが、時間いっぱいまで使う予定。
旧和田村 小名 本村原
江戸時代の和田村は旗本内田領で、領内は本村原、谷中、峰、峰村、方南、萩久保、大宮、松ノ木の八つの小名があった。小名 本村原の本村は、和田村開村当時の中心地で、その周りが原野で後に開かれた地域の 「原」 だった。まとめて本村原と呼んだと思われる。和田村は1889年 (明治22年) に堀之内村、和泉村、永福寺村と合併し、和田堀内村となり、旧小名 本村原は和田堀内村 大字 和田 小字 本村となった。1926年 (大正15年) に町制施行により和田堀内村は和田堀町と改名。1932年 (昭和7年) には東京市域が拡大し、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が東京市に編入され、東京市杉並区が発足した。この時に小字 本村は砂利田と堰山の二つの小字と合併して和田本町となる。1963~1965年 (昭和38~40年) に町名改正がおこなわれ、旧小字 和田 (旧小名 和田原) は和田一丁目、和田二丁目、和田三丁目に分割されている。この時に新しい行政区域は道路や河川などを境界線として再編され、昔の小名、小字の領域とは一致しない。
江戸時代から明治時代にかけて、小名 本村原は東部に幾つかの集落がある程度で、域内の大半は原野や水田、畑だった。昭和初期までは少し集落が増えた程度で、ほぼ昔と変わっていない。集落が町として拡大していったのは戦前から戦後で、本村原の各地に住宅地が開発されている。1960年代にはほぼ全域が住宅街となっており、現在の形に近い。
今日訪問予定の史跡等
小沢川跡
先日訪れた真盛寺の参道から環状七号線を渡ったところからかつての小沢川跡があり、昭和40年 (1965年) 代までに暗渠化され遊歩道として整備されている。この小沢川の源流は真盛寺の中にある新鏡ヶ池で、真盛寺が移転してくる前からあり、現在の池のおよそ倍の広さで、中島に弁天堂を祀る弁天池だった。江戸時代には、この小沢側を境に北側が高円寺村で南側が和田村だった。
石雲山常仙寺 (曹洞宗)
小沢川跡の遊歩道を東に進むと、大きく南に川筋が変わる。
小沢川跡の東側には曹洞宗の石雲山常仙寺がある。常仙寺は1602年 (慶長7年) に開山を祥岩存吉禅師として麴町で創建された。寺域が狭く、1908年 (明治41年) にこの地へ移ってきている。
三門
寺への門には 「寅薬師」 と刻まれている。この寅薬師の由来は後述。
寅堂 (虎堂)
境内には入ると、左側に薬師堂がある。木造漆塗りの大虎が祀っている。「虎は一日に千里往って、千里還る」という諺にあやかり、強い運を授ける、災難からのがれるという御利益があるという。この事から、この薬師堂は寅堂 (虎堂) と呼ばれている。元々の虎像は左甚五郎作とも云われていたが、関東大震災の際に、本堂が倒壊し、その下敷きとなり失われ、1938年 (昭和13年) の寅年に薬師堂と新しい虎像が再建され、背後に十二神将が配しされている。この虎は夜間外を歩いて人々を驚かせたといわれており、夕方には檻に見立てた扉を閉めている。
常仙寺には虎にまつわる縁起の言い伝えがある。
当寺の開山の祥岩存吉禅師が出家前に安田某と名乗っていた頃、愛知県新城に住んでいたが、ある夜、風来寺山麓を通りかかった時、狼の大群に襲われ、命からがら薬師堂に逃げこみ、この薬師如来像に一心に祈ったところ、薬師如来が大虎に化身し、狼を追い散し、そのお陰で命が助かった。存吉禅師は、その後、報恩のため出家して江戸で修業をつみ、慶長九年に常仙寺を創建し、鳳来寺山麓の薬師如来を本尊に迎えた。この話が江戸中に広がり、お詣りすれば災難が避けられる「災難除けの虎薬師」として有名になり、毎月八日、十二日のご縁日には境内が参詣人で埋まり、常仙寺のある横小路は「薬師横丁」と呼ばれたという。
ということで、本尊の薬師如来とは別に、この薬師堂では虎に化身した薬師如来を祀っている。また山号の石雲山は「斑石が雲が湧き立つように大きくなって虎に化した」という言伝えにより、石雲山と号しているという。
六地蔵 (188番)、庚申塔 (186番)、子育地蔵菩薩像
薬師堂への通路入口には石塔が置かれている。六面塔で、それぞれの面に地蔵菩薩像が浮き彫りされ六地蔵となっている。これは常仙寺が麹町にあった時代のもので、寺と共に移って来ている。
通路両脇には幾つもの石塔石仏が並べられており、その一つに庚申塔 (左下) があった。1680年 (延宝8年) に造立され、1802年 (享和2年) に再建された角柱型石塔に日月、邪鬼を踏みつけた六臂の青面金剛立像、三猿、二鶏が浮き彫りされている。これも常仙寺が麹町にあった時代のもので、寺と共に移って来ている。
通路の奥には四体の幼児がまとわりついた子育地蔵菩薩立像がある。造立年は不明だが、関東大震災で四人の子を失くされた方が、子供の冥幅を祈って建立された供養塔といわれている。
本堂
境内奥正面に奈良時代の名僧行基の作と伝えられる本尊の薬師如来坐像を安置している本堂が建てられている。この地に移ってきた後、1923年 (大正12年) の関東大震災で伽藍は倒壊し、1930年 (昭和5年) に本堂が再建され現在に至っている。2018年 (平成30年) に屋根の瓦葺き替え工事の際に寅の姿の瓦が施されている。
万昌山長延寺 (曹洞宗)
常仙寺の南隣には曹洞宗の万昌山長延寺がある。1594年 (文禄3年) に尾張犬山城主の成瀬隼人正正成が開基となり、釈迦如来坐像を本尊として市ヶ谷長延寺町に創立され、「ボタ餅地蔵の長延寺」と、江戸中にその名が知られていた。成瀬家は後に日蓮宗に改宗、離檀しため、1661年 (寛文元年) からは、上井草、下井草、鷺ノ宮、中村の五ヶ村の領主だった幕府高家の今川範英 (今川義元の曽孫) が中興開基となっている。
本堂
長延寺 は1908年 (明治42年) に区画整理で、市ヶ谷から、この地に移ってきている。山門を入ると、正面には庫裏があり、その隣に本堂が建っている。
ぼたもち地蔵 (179番)
山門を入った左側に地蔵堂があり、二体の地蔵菩薩が祀られている。向かって左は1947年 (昭和22年) 造立の丸彫り地蔵菩薩立像。右の丸彫の地蔵菩薩像 (179番) は ぼたもち地蔵 (179番) と呼ばれている。造立年は不詳だが、江戸時代からぼたもち地蔵として有名だった。
ぼたもち地蔵と言われる様になった話が残っている。
昔、市ヶ谷にあった頃、長延寺の門前に住んでいた桶屋の長七夫婦が、このお地蔵様に願をかけて男の児が生まれたが、産後の肥立ちが悪く乳が出ず、赤児は日に日にやせ衰え、このままでは餓死するばかりだった。長七はお地蔵様に「妻の身体がよくなり、お乳が出ますように」と、一生懸命にお願いしたところ、その夜、小僧さんが「これを、おかみさんに上げてください」と、竹の皮で包んだボタ餅を持ってきました。長七はお寺の和尚からのお見舞いと思い、早速妻に食べさせると、青白い妻の顔に赤味がさし、乳房が急に張ってお乳がポトポト出てきました。次の夜も、その次の夜も小僧さんがボタ餅を届けにきました。ポタ餅を食べたお陰で妻は元気になり、赤児もスクスク育ちました。四日目の夜、長七は和尚さんにお礼を言おうと、小僧さんの後をついてゆくと、門前で小僧さんの姿がパッと消え、そこにはいつも拝んでいたお地蔵様が立っていました。そこで長七は、お地蔵様が小僧さんに姿を変えてポタ餅を届けられ、母子の命を救って下さったことを知りました。この話が江戸中に知れ渡り、以後、お乳の出ない母親は、このお地蔵様にボタ餅を供えて祈願し、それをお下げして食べればお乳が出るといわれ、それ以降、「ボタ餅地蔵」と呼ばれて、江戸名所の一つになっていた。
「まんが日本昔ばなし」 では 「おけ屋とお地蔵さま」 のタイトルでテレビで放映されている。 (Youtube で見る事ができる) 内容は少し追加されているのと、舞台が杉並区の長延寺となっているが、市ヶ谷にあった頃の話しだろう。
大倉稲荷大明神、和光不動尊
山門を入った右側にも二つの堂宇が置かれている。向かって左側には和光不動尊の祠が置かれて、中には不動明王像、その脇侍 (わきじ) の矜羯羅童子 (こんがらどうじ) と制多迦童子 (せいたかどうじ) の像が置かれている。右側の祠は大倉稲荷大明神を祀っている。
境内には石仏が並べられていた。
墓地
本堂の裏側は墓地になっており、開山塔、萬霊塔などが見られた。
和田帝釈天 (日蓮宗)
常仙寺から妙法寺へ向かう参詣道となっていた堀之内道が西に伸びている。その道の途中は和田帝釈天通りで、日蓮宗の帝釈天教会がある。創建年は不明だが江戸時代末期には存在していた。和田帝釈天と呼ばれ、日蓮宗の寺で境内には南無妙法蓮華経と刻まれた題目塔が置かれている。
立正佼成会
小名 本村の南、本郷通りの北側には、広大な敷地を持つ立正佼成会の本部がある。日蓮系・法華系在家仏教の新宗教教団の立正佼成会は、1938年 (昭和13年) に、庭野日敬氏と長沼妙佼女史が、霊友会を離脱し、中野区神明町の自宅を本部にして大日本立正交成会 (後に立正交成会、更に立正佼成会に名称変更) を創立、1942年 (昭和17年) に、この地に本部を移している。
法輪閣、一乗宝塔
本郷通りの環七通り側には法輪閣 (1978年昭和53年 建立) という巨大な建物が建てられ、中には十一面千手千眼観世音菩薩像が安置され、立正佼成会開祖記念館が開設されている。見学は自由にできる。今まで、幾つかの新宗教教団を訪問したが、多くは信者以外の立ち入りを禁止したり制約が多く閉鎖的だったが、この立正佼成会は比較的オープンな感じで、係員も親切に対応してくれた。法輪閣の庭を上がると2000年 (平成12年) に建立された一乗宝塔あり、開祖の庭野日敬の舎利と法具が安置されている。
大聖堂
法輪閣の東には1964年 (昭和39年) に完成した円型七階建の大聖堂が聳え立っている。大聖堂玄関を入ると文殊菩薩、弥勒菩薩、普賢菩薩の三菩薩の漆画が現れる、玄関の窓は釈尊前世の修行をモチーフにしたブロンズ・レリーフになっている。
大聖堂内の大ホール正面の聖壇には高さ3mの久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊が本尊として祀られている。聖壇上部には彫金の菩提樹と立正佼成会の紋章が飾られている。
中野区弥生町にかけての本郷通り沿いには、佼成出版社、佼成病院、佼成学園、看護専門学校、団参会館、事務庁舎、各種研修所、佼成図書館などの立正佼成会関連施設が立ち並んでいる。
医王山東円寺 (真言宗豊山派 )
立正佼成会大聖堂の東には真言宗豊山派 の医王山東円寺がある。東円寺は1573年 (天正元年) に開基を村民半六、開山として備後国の僧の祐海和尚 (一説には秀海和尚) により、善福寺川を南に臨む高台のこの場所に創建されている。
山門
耐火造り四脚門の山門があるが、通常は閉まっている。今日は境内の裁定で半開きになっていた。
鐘楼
境内への入り口は山門の右側の坂道になる。坂道の両側は綺麗に整備された庭園で、そこには鐘楼が置かれている。
観音堂
境内に入ると、左手に観音堂が置かれている。現在の建物は1966年 (昭和41年) にコンクリート造りで再建されたもの。堂内には、江戸時代造立の聖観音坐像が黒塗りの厨子に納められ、明治時代造立の千手観音像二体も祀られており、江戸三十三観音の第十九番札所になっている。
稲荷神社、弁財天
観音堂の横には赤鳥居の稲荷神社が置かれ、更にその下側、山門を入った所にある池の畔には弁財天を祀った祠が建てられている。
六地蔵 (190番)、馬頭観音、宝篋印塔
境内右手には六地蔵 (190番) が安置されている。中央に地蔵菩薩坐像が置かれ、その両脇に其々三体の六地蔵となっている。この六地蔵は、1796年 (寛政8年)に梅田家が施主となり和田村講中が建てたものだが、破損がはなはだしく、近年新たに造立したもの。六地蔵の右側には宝篋印塔が立っている。中央の台座は昔のもののようで、寛政8年と刻まれている。左側には造立年不詳の丸彫り地蔵菩薩立像、そのとなりには1889年 (明治22年) に梅田氏により造立された駒型石塔に 「馬頭観世音菩薩」 と刻まれている。これらが何れも墓地にあったものを境内に移している。
本堂
本堂は徳川家康の江戸城築城の際に、九州から来た三谷氏によって改築されたという。中興開山は泰海で、本堂などを改築して寺運興隆の基礎を作った。1932年(昭和7年)にも改修されている。本堂内には江戸時代に造立された薬師如来立像を本尊として祀っている。
十三塚之碑、地蔵菩薩立像 (189番)
本堂裏手の墓地の入口に無縁塔があり、その中に十三塚之碑と地蔵菩薩像 (189番 1721年 享保6年 造率) が安置してある。この二つは元々はかつての妙法寺道の北側 (和田1丁目41-6) に置かれていた。昔、その付近には高塚が五、六個あり、十三塚、または、和田塚と呼ばれていた。十三塚跡地近くに本陣山と呼ばれていた場所があり、和田義盛が宿営した地と伝わっている事からと1213年の和田合戦の戦死者の墓とか、1477年 (文明9年) の豊嶋合戦に関係のある墓だとかとの憶測がある。また、道祖神信仰や十三仏信仰の宗教遺跡だという説もあるが、いずれも推定の域を出ない。
1921年 (大正10年) 頃にここにあった高塚を取り崩し整地した際に人骨が多数出土した。明治維新の際、上野の彰義隊の敗走者が和田村で数名が処刑され、遺体はここに埋めたこととの目撃証言があり、梅田氏が、その骨を十三塚に埋葬し、供養のために石地蔵と十三塚之碑を建てた。この土地は東円寺所有だったが、1935年 (昭和10年) 頃にこの土地を救世軍へ売却した際に、石地蔵と十三塚之碑を東円寺に移設している。
板碑
個人墓域に、1344年 (康永3年)と1386年 (至徳3年) の南北朝時代の板碑が安置されている。刻まれている年号はいずれも北朝年号で、この地域は北朝 (足利) 方に属していたことが判かる。
梅田家墓所
墓地には、梅田氏一族の墓域が多くある。この中には総本家の徳田屋墓域もあり、宝篋印塔や五輪塔など、農民には建てられないような格式のある墓石も置かれている。東円寺が1573年 (天正元年) に開創した際に開基となったのが村民半六で徳田屋の先祖と考えられている。梅田一族は浜松にあったが、松平氏に攻め亡ぼされ、当地に流れついたと伝わっている。その松平氏への恨みから、梅田家ではお正月には門松を立ててはいけない、屋敷内に松を植えてはいけないという習慣が戦前まで厳重に行われていたそうだ。
長廣山立法寺 (日蓮宗)
東円寺の東隣は日蓮宗に長廣山立法寺が建っている。立法寺は1506年 (永正3年) に元赤坂に秋里氏の開基、長廣院日立上人の開山で創建され、1631年 (寛永8年) に立法院日了によって青山権田原甲賀町に草庵を結び再興された。1633年 (寛永8年) に青山権田原に移っている。更に、1732年 (元文2年) に千駄ヶ谷村名主太十郎の先祖彌次右衛門より土地を寄進され 、1737年 (元文11年) に千駄ヶ谷 (現在の国立競技場) に移り、1920年 (大正9年) に明治神宮外苑造成で寺地が接収された為、現在の地へ移っている。
山門 (仁王門、鳳凰門)
立派な重厚な山門は2003年 (平成15年) に立教開宗七百五十年開創五百年の記念事業として建立されたもの。正面には仁王像、裏側には二天像が置かれ、寺を守っている。山門の天井には鳳凰が描かれており、この山門は鳳凰門とも呼ばれている。
本堂
正面にある本堂は1981年 (昭和56年) から1986年 (昭和61年) 掛けて宗祖七百遠忌の一環で客殿、庫裏と共に再建工事を行い竣工したもの。千駄ヶ谷時代、1855年 (安政2年) の火災により堂宇を焼失したが、1868年 (明治元年) に再建された。本堂には一塔両尊四士が本尊として祀られている。(一塔=題目宝塔、両尊=釈迦如来と多宝如来、四士=上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩) 本尊の隣に安置されている日蓮上人像 (写真 右下) は、1274年 (文永11年) に日蓮上人が佐渡流刑を赦され島から離れる際、佐渡の信者のために自作した木坐像で、千駄ヶ谷時代には「感応の高祖日蓮大菩薩」と呼ばれていた。
浄行堂、浄行菩薩石像
境内の中に浄行堂があり、1859年 (安政6年) 造立の浄行菩薩石像 を祀ってあり、その前には1733年 (享保18年) に奉納された手水鉢が置かれている。手水鉢には、タワシが置かれている。参詣者が身体の痛いところと同じ場所を祈りながらタワシで浄行菩薩を洗うのだそうだ。
感應稲荷
境内には「感應」の扁額の堂宇がある。感應は仏と人が通じ合う感応道交を意味している。堂宇内には装飾が施された祠が置かれている。
葵岡老人北渓君之墓
また、境内には幾つかの題目塔があり、本堂の左手前には 「葵岡老人北渓君之墓」 と刻まれた自然板石型石碑がある。葛飾北斎の門人の浮世絵師 魚屋北渓 (1780 ~ 1850) の墓碑となっている。北渓は四谷鮫ヶ橋で魚屋をしながら浮世絵を描いた幕末期の有名な絵師。石碑には辞世が彫られている。
あつくなく さむくな九また うえもせす うきこときかぬ身こそやすけれの
救世軍ブース記念病院
救世軍ブース記念病院
立法寺の北には救世軍ブース記念病院がある。救世軍 (The Salvation Army) は1865年にメソジスト教会の牧師、ウィリアム・ブースと妻キャサリンによって、ロンドン東部の貧しい労働者階級の救済社会事業とキリスト教伝道を目的としてキリスト教伝道会 (Christian Mission) を設立。活動が広まるにつれて、キリスト教伝道会の組織の必要性から軍隊組織を取り入れ、伝道所を小隊、主任を小隊長と呼び、制服、階級、記章、軍旗を作り、1878年に救世軍と改称した。
日本での救世軍活動は1895年 (明治28年) に英国のライト大佐 (Edward Wright、1862年 - 1932年) が来日した事から始まる。山室軍平 (1872年 - 1940年) らが中心となり、伝道と社会福祉事業に従事し、1900年 (明治33年) に、吉原の遊女の解放という廃娼運動を行った。 後に、東洋人で最初の救世軍将官となり、1926年 (大正15年/昭和元年) から日本軍国司令官を務めた。「平民之福音」 をはじめ、わかりやすい言葉による著書や説教が親しまれた。1940年 (昭和15年) に死去したのち、「平民之福音」 は反国体の書であるとして発禁処分を受け、救世軍幹部4名が外諜容疑で検挙され、本営事務所も家宅捜索を受けた。その結果、日本の救世軍は救世団と改称して英国の万国本営から離脱せざるを得なくなった。1941年 (昭和16年) に日本基督教団に加入したが、戦後1946年 (昭和21年)に日本基督教団から離脱し、救世軍を再建して現在に至る。
1912年 (明治45年) に、下谷区中御徒町で救世軍病院 (写真 左) を開いて、貧民の診療を行い、下町のスラム街に多くの結核患者が放置されていた事を目の当たりにし、この惨状を救うために募金運動を行い、1916年 (大正5年) に和田堀村の現在地を東円寺から買い、日本最初の庶民を対象とした結核サナトリウムの救世軍療養所 (写真 右) を開設した。当初は50床だったが、その後、皇室や財界などからの援助で、新病棟が次々と建てられ、260床までになっている。
戦後、結核治療法の進歩で結核患者は減少し、一般患者が増加してきた。この為、1968年 (昭和43年) に病院の全面的改築を行ない、従来の結核専門病院から一般総合病院へと変わって行った。現在の建物は2001年 (平成13年) に全面的に建て替えられたもの。
病院駐車場脇には、山室軍平の妻の名をつけた山室機恵子記念チャペルが建てられている。山室軍平が進めていた廃娼運動の一環で廃業した女性を収容する「婦人救済所」が設置され、機恵子は主任となって、収容された女性たちと共に住み、世話をしていた。凶作の年には、冷害地の少女を人買いから保護して、就職まで面倒を見ていた。明治末期から大正初期に猛威を振った結核になったが貧しさのために医療を受けられない人々のための結核療養所の設立を目指し、機恵子は建設費を得るために、身重の体で一軒一軒訪問し、支援の依頼を行なった。そして、臨月直前の1916 (大正5年) 6月に機恵子は入院が必要な状態に陥り、7月4日に男児を出産。その後容態は悪化し、7月12日、絶筆「神第一」、「幸福は唯ただ十字架のかたわらにあります」を遺して、41歳7カ月で亡くなった。機恵子の死から1カ月後の8月22日に念願だった療養所の上棟式がおこなわれた。この病院の前身の療養所設立に奔走し、身を捧げた機恵子を記憶に留めるチャペルが建てられてた。その後、建物は失われていたが2003年 (平成15年) に新しいチャペルが建てられている。
残念ながら、この救世軍ブース記念病院は来月6月に閉院となり、109年の歴史に終止符が置かれる。近年の医療制度改革や新型コロナウイルスの影響などにより経営状況が悪化し、デジタル化への対応や、竣工から20年以上がたつ現在の病院施設に対する設備投資の継続が困難だと判断したためとされている。確かに、民家病院でさえ経営が苦しく、設立当初の貧困者の救済と布教の目的が、高度医療の要求に対応に苦慮し、そのためには利益追求が必要だが、貧困者の治療を通し、心も救う布教という大前提とのギャップが広がっていたのだろう。救世軍内部では様々な意見が出ただろうが、撤退という勇気ある決断は尊重できる。患者へのインパクトを最小限に抑える為、医療法人社団城東桐和会 (タムスグループ) に事業譲渡し、病院は空白期間なく続けられる。これにも救世軍は治療継続のため、大きな譲歩を行ったのだろう。
病院を中心に士官学校、士官住宅、ホステルなど数え切れないほどの施設が建てられている。どんなものがあるかと歩いてみると、救世軍の制服を着た人達と何度となくすれ違った。写真は左上から右下にかけて、オリーブハウス、救世軍婦人寮、病院医師士官住宅、老人保健施設グレイス、救世軍杉並小隊別館 (アネックス)、救世軍世光寮、シャロームハウス、山室軍平記念救世軍資料館があったが、これらはほんの一部。
大山不動堂
救世軍ブース記念病院の前の道を少し東に進んだ所に、先に訪れた東円寺の境外仏堂の不動堂がある。入口の石柱には「奉 相州大山」 と刻まれている。堂内には1804年(文化元年) 造立の舟型石塔に火炎光背の不動明王坐像が刻まれている。江戸時代の未頃、八王子の博打打ちが、ヤクザ渡世の意地から人を殺め、役人に追われて逃げる途中、道端にあった大山阿夫利神社への道標を兼ねた不動明王の石仏の前で一休みしたとき、疲れが出て眠ってしまった。夢の中で老人から「新宿追分へ行け」と教えられ、それに従って逃げおおせた。その後、博打打ちは新宿追分で暮らし、明治維新で旧来の罪はご破算になり、いつしか親分になった。親分は「命を助けて貰ったお礼に」と、雨ざらしのお不動様に立派な不動堂の建物を寄進し、亡くなるまで毎年多額の維持費を寄付していたという実話が残っているそうだ。
不動明王像の両脇には、不動堂建立後、暫く経った1916年 (大正5年) に和田村の梅田氏により脇士が造立され置かれている。向かって右が制吒迦童子(せいたかどうじ)で、左が矜羯羅童子(こんがらどうじ)になる。
また、堂の脇に板の歌碑が置かれている。
不動尊の みちひきたまふ 御光りに 古ゝろ能(こころの) 久裳も(くもも) はるゝ大山
昭和九年甲戌 四月吉辰 行簡
御嶽神社、榛名神社、稲荷神社
大山不動堂の前の道を挟んで神社がある。同じ形の三つの祠が建てられている。
向かって左は御嶽神社で、祠内には青梅市御岳山大口真神社の護符が置かれ、宛先が東円寺、御嶽講中となっている。どうもこの三つの神社は東円寺が管理している様だ。祠前の鳥居の根元に石柱があり講中と刻まれていたので、御嶽講中により建立されたのだろう。
真ん中の祠は榛名神社で和田榛名講中により建立されている。
右側の祠が稲荷神社で、和田稲荷講中によるもの。
本妙山昭倫寺 (日蓮正宗)
御嶽神社、榛名神社、稲荷神社の三社の前の道を東に進む。ちょうど、今日最初に訪れた常仙寺と長延寺の西側の小沢川が南に流れ、現在の和田中央公園内を流れ、公園を過ぎた付近に出る。
ここに日蓮正宗の本妙山昭倫寺がある。この寺は比較的新しく、1931年 (昭和6年) に信徒の家を利用して、日淳が開山し、日蓮正宗中野教会として創建された。1962年 (昭和37年) に倫理道徳を昭らかにする寺という意味で本妙山 昭倫寺と改名。本尊として十界曼荼羅板を祀っている。
稲荷神社
昭倫寺のすぐ南の住宅街内に朱塗りの堂宇の中に稲荷神社の祠があった。この稲荷神社の詳細は見つからなかったが、かなり整備されており、草や木も手入れされ、祠内には新しい榊が備えられている。ここにあった屋敷神が地域の鎮守として地域住民に信仰されている様な気がする。
小名 谷中 小字 砂利田
昭倫寺と稲荷神社の北側を流れていた小沢川跡暗渠化された遊歩道を東に進むと、先程訪れた大山不動堂の道に合流する。この道のほぼ東側と南側は江戸時代から明治時代は小名の谷中だった。谷中の地名は、善福寺川の谷が広がった地形上から生まれたという。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となり、小名 谷中は二つに分割され、北側が小字 砂利田となっている。小字 砂利田は、この地の水田は少し掘ると砂利が出てきたので、その名がついたという。大正初年に旧市内の道路へ敷く砂利が大々的に採取されたが、水の溜った堀穴で何人かの水死者が出たので、中止となったそうだ。1926年 (大正15年) に町制施行により和田堀内村は和田堀町と改名。1932年 (昭和7年) には東京市域が拡大し、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が東京市に編入され、東京市杉並区が発足した。この時に小字 本村は砂利田と堰山の二つの小字と合併して和田本町となる。1963~1965年 (昭和38~40年) に町名改正がおこなわれ、旧小字 砂利田 (旧小名 谷中) は和田一丁目の一部になっている。この時に新しい行政区域は道路や河川などを境界線として再編され、昔の小名、小字の領域とは一致しない。
杉並能楽堂
ここで旧小沢川は大山不動堂から道沿いを北に流れを変えていた。そこには杉並能楽堂がある。
この能楽堂は、元々は、能楽師で大蔵流狂言方二世山本東次郎則忠が、1910年 (明治43年) に、本郷弓町 (現 文京区本郷二丁目) に江戸城三の丸の図面をもとに忠実に再現し、見所付能舞台として創建された。関東大震災の後、1929年 (昭和4年) にこの場所に移築再建されている。都内にある能楽堂の中で靖国神社の芝能楽堂に次いで二番目に古いものだそうだ。
道路から見ると普通の民家の様に見えるのだが、この中奥に立派な能楽堂がある。内部の見学はしていないので、杉並区の案内サイトの写真を載せておく。そのようなものかのイメージが湧く。またここでは、不定期に公演があり一般の人も鑑賞できる。
十貫坂
杉並能楽堂から道を北に進むと登り坂になる。十貫坂と呼ばれていた。江戸時代から続く古道だ。この坂を登り切った所から中野区になる。江戸時代には本郷村と和田村の村境だった。十貫坂の由来は付近から十貫文の入った壺が出てきたという説と、中野長者が坂の上から見渡す限りの土地を十貫文で買ったためと記録にあるそうだ。
十貫坂地蔵堂、庚申塔 (182番、181番)、地蔵菩薩像 (180番、184番、185番)
十貫坂の坂下に十貫坂地蔵堂が置かれている。現在の堂は1988年 (昭和63年)興教大師八百五十年御遠忌記念として、地元の有志の方々が新築したもの。興教大師 (1095-1144年) は真言宗中興の祖、新義真言宗の始祖。
堂宇内には、周辺にあった9基の石塔、石仏を合祀している。説明板が置かれており、それによるとこれらの石仏は、本郷村との村境の塞ノ神として祀られていたという。
- 庚申塔 (182番 左中): 左側後列には1692年 (元禄5年) に和田村同行23人により造立された笠付角柱型石塔が置かれている。石塔の上から日月、合掌六臂の青面金剛像、三猿が浮き彫りされている。
- 墓石: 前列左に1698年 (元禄11年)と刻まれた板碑型の墓石。
- 地蔵菩薩立像 (184番 右中の右): 前例右は造立年不詳の駒形石塔で合掌地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像 (180番 中中): 中央には1717年 (享保2年) に和田村女念佛講中により造立された丸彫の錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像がある。台座側面には造立年月日と乃至浄界 平等利益と刻まれている。
- 庚申塔 (181番 左下): 右側に5基の石塔石仏が2列に置かれ、後列左側は1712年 (正徳2年) に19名の講中により造立された駒形角柱文字塔の庚申塔で、上部には種字の梵字 हं (ウーン)、その下に「奉供養庚申待」 と刻まれている。
- 地蔵菩薩像 (185番 左下): 文字型庚申塔の隣には円柱石塔があり、その下部が長方形に掘り込まれ、中に地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。この様な地蔵菩薩像を見るのは初めてで、珍しい形になっている。造立年等は不明。
- 前列には2基の地蔵菩薩と1基の石塔が置かれているが、詳細は見つからず。
小名 谷中 小字 堰山
神田川に沿って南、上流方面に進むと、かつての小名 谷中の小字 堰山に入る。神田川の先には新宿の高層ビル群が見えている。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、和田、堀之内、永福、和泉の四ヶ村が合併して、和田堀内村となり、和田村は大字 和田となり、小名 谷中は二つに分割され、南側が小字 堰山となっている。小字 堰山は、善福寺川の水を用水路 (あげ堀) へ流すための堰があったので、その名がついた。1926年 (大正15年) に町制施行により和田堀内村は和田堀町と改名。1932年 (昭和7年) には東京市域が拡大し、杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町が東京市に編入され、東京市杉並区が発足した。この時に小字 本村は砂利田と堰山の二つの小字と合併して和田本町となる。1963~1965年 (昭和38~40年) に町名改正がおこなわれ、旧小字 堰山 (旧小名 谷中) は和田一丁目、和田二丁目に分割されている。この時に新しい行政区域は道路や河川などを境界線として再編され、昔の小名、小字の領域とは一致しない。
善福寺川、神田川合流点
旧小字 堰山に入り、更に神田川を川沿いに上流に向かって走ると、川の合流点に出る。ここで善福寺公園内にある善福寺池を水源として流れてきた善福寺川が神田川に合流する。つまり、ここが善福寺川の終点というわけだ。
庭野日敬像・長沼妙佼像
旧小字 堰山内、本村原に近い場所に立正佼成会発祥の地の修養道場庭園の中に霊友会を脱会し、先に訪れた立正佼成会の前身の法華経をよりどころとする大日本立正交成会を設立した開祖とされる庭野鹿蔵 (庭野日敬と改名)と脇祖とされる長沼政 (長沼妙佼と改名) の銅像が大きな屋敷内に設置されていた。発祥の地の修養道場 (右中) は1949年 (昭和24年) に建てられ、大聖堂が完成する1964年 (昭和39年) まで本部が置かれていた場所で、この庭園の銅像は1987年 (昭和62年) に教団創立50周年を記念して建立されたもの。また、修養道場の前には佼成育子園 (右下) という保育園もある。この一帯は立正佼成会の施設でいっぱいだ。
今日は、今夕に千駄ヶ谷で大学時代の同級生との集まりがあるので、一度帰宅してと思っていたが、もう少しで切りのいいところまで来たので、予定変更して自宅に戻らず、史跡巡りを続け、本村原と谷中地域の史跡巡りを終えた。自宅に戻ってからの時間はなくなったので、このまま自転車で待ち合わせ場所まで頑張って向かう。
参考文献
- すぎなみの地域史 1 和田堀 平成29年度企画展 (2017 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 下巻 (1989 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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