Okinawa 沖縄 #2 Day 286 (09/04/25) 嘉手納町 (5) Nozato Hamlet 野里集落

嘉手納町 野里集落 (ヌジャトゥ、のざと)

  • 嘉手納町野里共進会
  • 野里合祀所


字嘉手納の散策で、野里合祀所を訪れたが、字野里は嘉手納飛行場となり、かつての集落は消滅してしまった。旧野里住民が嘉手納町野里共進会を設立して、土地管理、文化継承、旧野里住民の交流を行っている。共進会が2004年に発行した字野里誌に野里の歴史等が詳しく記されている。


嘉手納町 野里集落 (ヌジャトゥ、のざと)

野里集落は戦前まで存在していたが、沖縄戦後、全域が米軍嘉手納基地として接収されたままで、旧野里住民の多くは字嘉手納に住んでいる。戦前の野里は西は県道を隔てて野国に隣接し、北は耕地で屋良に接し、東は昔は野里に属していた国直、上原集落があり、南は野里馬場を経て北谷村下勢頭に接していた。野里の大部分の住民は野国川の南の方に住み、戦前の野里集落は戸数約300余で、北谷村の中では最大の戸数を擁する大集落だったが、沖縄戦で集落は破壊され、戦後、米軍の占領により住民は離散し、全域が米軍の嘉手納飛行場となっている。

野里集落の始まりについては時期などは不明だが、野国の中の野里と呼ばれた原に人が移り住み、次第に集落の形となっていき、1671年に野国村から分離独立して野里邑が成立したと考えられている。

文献では、野里脇地頭の中真 (野里)親雲上安宣(毛氏七世池城家 1674 ~ 75年)、続いて野里親雲上安奇 )毛氏八世池城家 1675 ~ 83年) が野里の名が表されている最初で、1671年に宜野湾間切が創設された際に、邑の編成が行われた際に、野里邑ができ、脇地頭が任命されたと解釈されている。

琉球国由来記 (1713年) には「野里村 ヨシノ嶽 (野里巫)」「カデカスノ獄 (野里巫)」「野里巫火神 (野里巫)」とあり、琉球国旧記 (1731年) には北谷郡 (領邑十二座) として野里邑が記載され、野里殿、西殿、東殿 (共三殿在野里呂) とある。初期の野里集落はヨシノ嶽をクサティー (腰当て、聖域) としてしてその南側に集落があったとされる。

戦前の野里集落は碁盤目状に区画されており、この様な集落は、蔡温が三司官を勤めていた1737年 (第13代尚敬王) に導入されたとされる地割土地制度以降に成立、再整備された事から、これ以降に、元の集落地から現在地に移り村を碁盤目状に再整備したと考えられる。

野里にはその東に離れた地に国直 屋取集落があった。最初の居住者は野里邑の知念家の人で、それ以降に、首里などからの帰農土族が移り住み集落が形成されたと思われる。1915年 (大正4年) には野里から国直屋取集落が分離独立し字国直となっている。

戦前の野里の主要産物はサトウキビとサツマイモで、それについで大豆が生産され、これら産物が生産の殆どを占めていた。野里には当初6組(当間組、仲組、リンドウ組、東組、新組、新東組)、6ヶ所のサーターヤー(製糖場)があった。後になって4組(新屋組、幸地組、島袋組馬場組)が新たに組織され、戦前にはサーターヤーも合計12ヶ所を使っていた。

沖縄戦が予想される中、旧日本軍は制空権の奪還の目的で沖縄諸島に飛行機場の建設に乗り出していた。1944年 (昭和19年) 嘉手納村では中飛行場 (嘉手納飛行場) の建設が始められ、土地は旧日本軍に接収され、野里など近隣の集落始め、全国から勤労動員された人達が、野国、野里、屋良、兼久にの民家を宿舎として工事に携わっていた。日本兵もこの地に送り込まれ、野里の民家、村屋、サーターヤーが兵隊の宿舎となっていた。1944年 (昭和19年) 10月10日には中飛行場、野里共同精糖場、軽便鉄道などが空襲で大きな損害を受けたが、野里集落民家の被害はなかった。1945年 (昭和20年) 3月26日に米軍が慶良間諸島に上陸し、いよいよ沖縄本島への侵攻が迫り、27日には水釜で米軍の一部の上陸が確認されている。28日には集落住民の17才から47才までの男性は戦闘員として招集され、それ以外の住民は羽地村への避難が開始され、日本兵は村から撤退していった。避難出来ずに村に残った住民は野国川下流の古墓などに隠れていたが、米軍に見つかり保護されている。沖縄戦での野里住民の戦没者は221人で嘉手納村では最も多い。当時に野里の人口データが見つからず、戦没者率はわからないが、1200~1300人程と仮定すると、17~18%程と思われる。沖縄南部の島尻では40%以上の戦没者率の集落も多く、比較すると戦没者率は低い。(とは言っても17%も異常な率で悲劇ではある) 日本兵が撤退していた事で、大きな悲劇的な戦闘が少なかった事や捕虜としての保護が日本兵に阻止されなかった事、上陸前に山原への疎開者が多かった事など諸要因が考えられる。

戦後、捕虜収容所にいた旧野里住民に1947年 (昭和22年) に帰還許可がおり、そのの大部分が嘉手納地域 (現在の字嘉手納中央区) に帰村している。野里集落は米軍用置として開放されず、旧野里住民の多くは嘉手納の旧六区で生活している。


琉球国由来記等に記載された野里集落の拝所

  • 御嶽: ユーシヌ御嶽 (吉嶽 [ヨシノ嶽] 神名 コバツカサノ御イベ)、嘉手渣嶽 (カデカスノ嶽 神名 マネツカサノ御イベ)
  • 殿: 野里殿、西殿 (西御嶽)、東殿 (東御嶽)
  • 拝所: 野里巫火神、地頭火ヌ神、かみさぎもー、ビジル、遊び庭、村火ヌ神
  • 拝井: 天願井、後ヌ井、前ヌ井、シリーガー、マミクガー、祝女井、西ヌ井、産井、元産井、御嶽井、本願寺ガー

主要な祭祀行事は野里巫 (ノロ) によって執り行われていた。この野里ノロの管轄中には野里、屋良、後に野国ノロが絶家し、野国祭祀も司っていた。屋良は嘉手納では最も古い村だったので、ノロが存在していた筈だが、後発の村の野里ノロが管轄していた事から推測されているのは、野里邑ができた際、邑となった地域には屋良の一部も含まれ、そこに屋良の祭祀を司っていたノロが住んでいた。それ以降、屋良のノロが野里ノロと称され、野里と屋良を管轄していたと推測されている。




嘉手納町野里共進会

字 嘉手納内、嘉手納火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー) のすぐ東側に嘉手納町野里共進会が建っている。字 野里は地域全土が嘉手納飛行場基地に接収されたままで、旧野里住民は他の地域での生活を強いられ、旧野里の多くの住民は戦後六区だったこの地に住んでいる。野里の伝統、文化、地域の繋がりを継承する為と軍用地となった土地に管理を目的として旧野里住民の郷友会として活動が行われている。

嘉手納町野里共進会のサイトには継承している踊りが紹介されている。

  • 野里の道イリク: 鼓と太鼓を用いた伝統芸能の舞踊で、凱旋の引き際に催された。昔は旧暦8月の村芝居で演じられたが、戦後途絶えていたが昭和48年頃復活されている。
  • 野里棒: 野里の棒術は一名道棒ともいわれ、二人が真剣勝負さながら演じられる。野里棒術には組棒もあり、戦前まで49組あったが現在は11組で継承されている。
  • 野里のサマカラワー: 首里方より野里に伝わった踊りだが、他の集落では見られず、野里独特の舞踊。戦争中は中断していたが、平成元年に復活している。
  • 野里の松竹梅: 松竹梅は揚作田節 (松の踊り)、東里 (竹の踊り)、赤田花風 (梅の踊り)の三曲からなる祝儀舞踊で、松は長寿と子孫繁栄を表し、竹は実直、義理堅さを表し、梅は美しさを表すものだとされている。明治40年に創作され、現在でも、創作当初の型をそのまま継承されている。
  • 野里の金細工: 美里間切波村の加那という放蕩者の鍛冶屋 (昔は金細工といった) が真牛 (モーサー)という遊女を一月もひっぱり回して遊んだ末に、そのルシル (身請けする金)も工面できず、橋から身投げしようとするが、真牛の貯えた金で遊郭の主人にルシルを払って男の面目を保つという滑稽な物語を舞踊化したもので、明治20年頃、商業劇団で上演されたものが、いつの時期かに野里の村芝でも演じられるようになり、野里の伝統芸能として今日まで引き継がれている。
  • 野里の高平良万才: 野里の高平良万才は、普通の高平良万才とに少し工夫を施したものが継承されている。


野里合祀所

野里は戦後、全域が米軍に軍用地と接収され、現在でも嘉手納飛行場として返還が叶っていない。昔から戦前までは、旧野里集落には18カ所もの村拝所が存在し、村で拝んでいた。これら野里集落の拝所は嘉手納基地が整地された際にコンクリートの下に埋没している。

消滅した全ての拝所を現在の嘉手納小学校の北側の丘の一区画に集積して、旧野里住民により祭祀行事が続けられている。資料に以下のように其々の配所の説明とかつての所在地が紹介されていた。合祀所には合計で19の拝所が置かれ、琉球王国時代には野里ノロによって祭祀が行われていた。

左から見ていくと

  • 遊び庭 (アシビナー): 野里集落で最初にできたアシビナーは、屋号桃原小 (トーバルグワー) の東隣りにあったところから桃原小毛 (トーバルグワーモー) と呼ばれていた。
  • びじる (ビヂル・ビジュル): クミントーと呼ばれていたビジル (霊石) で本願寺の北側にあり、クミントー御嶽とも呼ばれていた。琉球国由来記にある野里殿にあたる。虚弱体質の子どもやナチブサー (泣き虫) の子どもを丈夫にすると信じられていた。戦前までは、このような子どもは十三歳までヤシネーウヤ (養い親) にあずけるという風習があり、クミントーで回復祈願していたという。
  • 東御嶽 (アガリヌウタキ): チナヒチナー (綱引き庭) から北東の方角、イリワテージの東側に東御嶽 (アガリヌウタキ) があった。琉球国由来記にある東殿にあたる。 東御嶽の西側には石嶺久得へ向かってウトゥーシ (遥拝) の場所のウトゥーシバンがあり、綱引き行事で、ミーンナ (雌綱) とウーンナ (雄綱) を東西で引き合う前にわら束二束をウトゥーシバンに東西に分けて供え、石嶺久得へウトゥーシして集落の繁栄を祈願していた。
  • 御嶽: 合祀所にはこの御嶽が祀られているのだが、字野里誌には説明がなかった。野里には嘉手渣嶽 (カデカスノ嶽 神名 マネツカサノ御イベ) があったとされているが、この御嶽のことだろうか? このカデカスノ嶽は、野里の西の作山にあったとされ、そこには古代人の住居跡と思われるガマ (洞穴) があった。カデカスノ嶽は、いつの間にか仰の対象からはずれた様で、拝む人の姿もほとんどいない。
  • 西御嶽 (イリヌウタキ): 一本松から東向けに行くと、道の北側にサーターヤー (製糖小屋) が2ヶ所り、その東隣りにあった。琉球国由来記にある西殿にあたる。
  • カミサギモー: 中道の西南の方角にあった村有地の森 (モー) で、カンカー (シマクサラシー、疫病祓い) の行事が行なわれる場所だった。
  • ユーシヌ御嶽 (ユーシヌウタキ): 野国前原には、ユーシヌ御嶽があった。旅立ちのときのフナウクイ(船送り) に利用されたこともあって、フナウクイモー (船送り森) ともいわれた。野国橋の南側、字内を流れる川と野国川が合流するマルグムヤーのすぐ上にあった。琉球国由来記ではヨシノ嶽 (神名 コバツカサノ御イベ) と記されている。野里では最も古い御嶽の一つと考えられ、野里集落の始まりはこのユーシヌウタキをクサティ森(腰当森) として、この南側に集落を形成していった。御嶽の東方には、シリーガー、マミクガー、ウブガーなどが点在し、さらには根屋だった幸地屋敷 (絶家となっている)、ヌンドゥンチ、火の神などが東に向かって置かれていた。
  • 地頭火ヌ神 (ジトウヒヌカン): 本願寺の東側にあった字の拝所で、ヌンドウンチ (祝女殿内) が管理していた。
  • 御嶽井 (ウタキガー): 東御嶽(アガリヌウタキ) にあった井戸で、飲料水として利用されていた。
  • 元産井 (ムトゥウブガー): 一本松 (イツポンマーチュー) のすぐ西北に元産井 (ムトゥウブガー) があった。石造りのきれいな井戸だったが、大雨のときなどは水びたしになり不便だったせいもあってか、いつの間にか利用されなくなってしまった。
  • 産井 (ウブガー): ウブミジ (産水) に使われた産井 (ウブガー) で、野里集落のタチグチ (世立屋=ユーダチヤー) とも称される幸地屋敷の西側を流れる野国川の側にあった。
  • 西ヌ井 (イリヌカー、村井 ムラガー): 村井 (ムラガー) と書かれているが、野里集落共同の飲み水に利用された村井 (ムラガー) は三つあり、後ヌ井 (クシヌカー)、前ヌ井 (メーヌカー) とこの西ヌ井 (イリヌカー) だった。
  • 祝女井 (ヌールガー): ヌンドゥンチ (祝女殿内) の西側の畑道には祝女井 (ヌールガー) があった。
  • マミクガー: ウブガーから南へ行くと、昔、クージ (坊さん) が造ったといわれるマミクガーがあった。水量が豊富で間口も広く、主に西村渠 (イリンダカリ) の人びとが利用した。
  • シリーガー: マルグムヤーのすぐ東隣りにシリーガーがあり、死者を弔うときのアミチュージ (湯灌) は、普通の水で済ませたが、シラカーミと言って残った人の清め (チョーミ) はこのシリーガーの流れを使い手足を洗っていた。
  • 前ヌ井 (メーヌカー): 野里集落の共同の村井 (ムラガー) で、前ヌ井 (メーヌカー) と呼ばれ、集落内の飲み水として利用されていた。
  • 後ヌ井 (クシヌカー): 野里集落から北側を流れる小川をイリワテージで越え、畑道を東へ行くと、村の共同使用の村井 (ムラガー) の後ヌ井 (クシヌカー) があった。後村渠 (クシンダカリ) の人達が飲料水として利用していた。
  • 天願井: 東御嶽 (アガリヌウタキ) の東側にあった自然の湧水 (ワクガー) の井戸で、天願屋敷の下方に位置したことで、天願井と呼称され、地域の人びとの飲み水として利用されていた。
  • 石獅子: 旧暦1月20日にシーサー祈願が行われている。字嘉手納のヌール神を拝んだ後、戦前には野里馬場にあったシーサーを拝み、集落の発展と無事な一年を祈願して石マーイを上げている (イシマーイアギ エー)。野里馬場の周辺は、老松林立して木陰を造り、村の原山勝負等での競馬や、昭和初期ごろまで行われていた小学校の運動会の観覧席でもあった。また、馬場の北端の小高い森には、1932年 (昭和7年) 頃に忠魂碑が建立され、日清、日露両戦争の戦没者及びその他の事変における戦没者の霊を祀り、村主催による招魂祭が行われていたが、忠魂碑は沖縄戦で破壊されてしまった。


合祀所には祀られていない拝所は

  • 村火ヌ神 (ムラヒヌカン): ヌンドウンチの屋敷内の東側にあった。琉球国由来記に記された野里巫火神と考えられている。
  • 本願寺ガー: 二間に三間ぐらいの瓦葺き (カーラヤー) だった本願寺にあった井戸で本願寺ガーと呼ばれていた。




参考資料

  • 字野里誌 (2004 嘉手納町野里共進会)
  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 嘉手納町史 資料編2 民俗資料 (1990 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編5 戦時資料 (2000 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編6 戦時資料 (2003 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編8 戦後資料 (2020 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町分村35周年記念誌 (1983 嘉手納町役場)

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