Okinawa 沖縄 #2 Day 286 (09/04/25) 嘉手納町 (4) Kadena Hamlet 嘉手納集落

嘉手納町 嘉手納集落 (カディーナ、かでな)

  • 嘉手納貝塚跡、嘉手納貝塚東遺跡

字 嘉前

  • 南区コミュニティーセンター
  • 嘉手納ロータリー
  • 野國いもっち像
  • 千原郷友会
  • 軽便鉄道嘉手納駅跡

小字西原 (イリバル) 

  • 北区コミュニティーセンター
  • 沖縄県立農林学校跡、嘉手納中学校
  • 野國總管公園、野國總管宮
  • 招魂之塔
  • 農林健児之塔
  • 国直合祀所
  • 野里合祀所

字 嘉手納本通 (後に大通と改称)

  • 天川坂 (アマカービラ)
  • 商工会議所、野國總管立像
  • 渋谷曲い (シブヤマガイ)
  • 樋川井 (ヒージャーガー)
  • 真先毛 (マシチモー)、龕屋 (ガンヤー)、ウシナー (牛庭、闘牛場)

屋那上原 (ヤナイーバル)

  • 嘉手納グスク跡
  • 天川の池碑等碑群
  • 天川の池の碑
  • 喜屋武朝徳 顕彰碑、幸地亀千代師匠 胸像
  • 産井 (ンブガー、東井 アガリガー)、天川井(アマカーガー)
  • 比謝橋 (比謝矼)
  • 比謝橋碑文、比謝矼モニュメント (読谷村側)
  • 吉屋思鶴 (ヨシヤチルー) の琉歌碑
  • 屋那上 (ヤナイー) 拝所 (カシタ山拝所)
  • 火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー)
  • 嘉手納町野里共進会

御嶽前原 (ウタキメーバル) 

  • 殿待毛 (トゥヌマーチーモー)
  • 嘉手納御願 (カディナーウガン) 、後井 (シリーガー)
  • あしびなぁ
  • 屋良城跡公園
  • 嘉手納ヌールガー

嘉手納中通り

  • 芋市小 (ンムマチグワー)
  • 當銘 (トーミ) の拝所
  • 中央区コミュニティーセンター (村屋跡、アシビナー)
  • 字嘉手納共栄会
  • 字嘉手納拝所 (中森 ナカムイ) / 中軸碑
  • サーターヤー跡

嘉手納町巡り3日目。予定では4日間を予定していたが、明日は終日雨予報で、降雨量も多いとなっていた。強い雨の中では、なかなか集中できず、写真を撮るのも煩わしい。明日は見たいと思っていた北谷町と嘉手納町の歴史博物館と図書館で過ごす事も考えたが、少し距離もあり、やはり雨の中での移動も大変だ。考えた挙句、明日に予定していた屋良集落巡りも前倒しする事にした。予定しているスポット全部回れるかは分からないが、日没まで頑張ってみる。


嘉手納町 嘉手納集落 (カディーナ、かでな)

戦前の嘉手納集落は、国頭街道 (県道、国道58号線) の東側にあり、北側は比謝橋を境として読谷山村へ連なり、南側は国頭街道を経て嘉前、野国へと続き、西側は嘉手納大通りを境に水釜に、東側は屋良村に隣接している。国頭街道を中心に民家が建ち並び、東側は農耕地として開けていた。

嘉手納村の起源は、ムルチ川の水を頼って、その流域に住みついた人々が次第に南へ移動して村立がなされたといわれている。16世紀に編集された「おもろさうし」 には嘉手納は「さす」 と記述されている。この「さす」にはさすノロがおり屋良村の祭祀を司っていた。その後、屋良村の祭祀は野里ノロが行う様になり、この時に屋良村にあった「さす」が嘉手納村に編入され、当時は既に嘉手納ノロがいた事から、さすノロが廃止になったとされる。

嘉手納村の後方には小高い丘が連なり、村のクサティー (腰当て、聖域) で、丘陵西側にはフンシヌウカミ (風水の神) を祀ったヤナビ (カシタ山) の拝所、中ほどの嘉手納御願 (カディナウガン) には、東の御嶽 (アガリヌウタキ)、西の御嶽 (イリヌウタキ)、石嶺久得 (イシソミクドック) へのお通し (ウトゥーシ 遥拝所)があり、毎年村の拝みが行われている。

明治時代には中頭郡一円を管轄する嘉手納警察署、沖縄製糖嘉手納工場、第二中学校 (後の那覇高校) などが置かれ、大正時代には県営鉄道嘉手納線が開通し、その終点の嘉手納駅が置かれて交通の要所となっていった。比謝川は中頭郡と那覇を結ぶ物流の陸上げ地で、多くに商店、娯楽施設、旅館などが大通り沿いで営み、中頭郡の随一の都会で行制、商業の中心地だった。物価も那覇並みだったという。

字嘉手納は1940年 (昭和15年) 頃に、嘉手納集落があった地域を字本通 (後に大通に改称)、1943年 (昭和18年) に嘉手納ヌ前屋取集落があった地域を字嘉前に分離し、残りの地域が字嘉手納と残った。戦後、1976年 (昭和51年) に嘉手納町となった際に字大通と字嘉前は字嘉手納に吸収され、現在に至っている。

琉球王国時代から戦前までは宿道だった国頭方西海道沿いの東側に比較的大きな集落があり、本村として民家が密集していた。南側に野国との境辺りには野国ヌ後屋取集落 (嘉手納ヌ前屋取集落) と呼ばれた屋取集落が見られる。

戦後、嘉手納村全域が米軍に接収されていたが、1946年 (昭和21年) には、いち早く、元々集落があった字本村が解放されて、その地域全域に民家が立ち並び、密集状態となっていた。その後、現在の国道58号線の南側の米軍嘉手納基地以外が返還され、帰還が叶わなかった他字の住民の多くが、解放された字嘉手納に住み始め、住宅地が開発され、1970年代には既に住宅地は飽和状態となっている。

字ベースでの人口データは嘉手納町の統計でも1997年以前は記載しておらず、この期間の人口動向は分からない。1883年 (明治16年 ) に465人、1903年 (明治36年) に785人、1925年 (大正14年) には1,818人となっており、この字嘉手納は中頭郡の行政、産業、商業の中心地で都会として栄えたというので、戦前迄は順調に人口は増加したと思われる。人口データがある1998年以降は世帯数はほぼ横ばいになっている。おそらく、住宅地は飽和状態で、新しく住宅地開発ができなかったのではないだろうか?人口はコンスタントに減少している。近年では世帯数、人口共に減少傾向にある。

琉球国由来記等に記載された拝所 (現在でも祭祀が行われている拝所)

  • 御嶽: 佐次森 (サスムイ 神名 真根司威部 マネヅカサノ御イベ)、中森 (ナカムイ 神名 石之威部 イシノ御イベ [嘉手納拝所])
  • 殿: 殿 (トゥン 村内 [殿毛])、北殿 [殿待毛]
  • 拝所: 嘉手納巫火神 (火ヌ神屋)、野國總管宮、當銘拝所、屋那上、嘉手納御願所、遊び庭 (アシビナー)、金壇子 (キンダンニー)
  • 拝井: 樋川井、産井、天川井、神女井 (ヌールガー)、後井
  • その他: 龕屋

金壇子 (キンダンニー) は嘉手納基地内で嘉手納軽便鉄道駅の南にあった小高い丘で墓地になっていた。戦前にはこの金壇子から出稼ぎ、移民、出征兵士にの船遠見送ったそうだ。字嘉手納では旧8月8日のカンカーでは、この金壇子に向かって拝み、豚の血を左縄 (ヒジャインナー) 浸して疫病、悪霊払いをしていた。

嘉手納集落で行われていた祭祀行事は以下の通り

嘉手納集落の拝所、スポット


嘉手納貝塚跡、嘉手納貝塚東遺跡

比謝川大橋の東、河岸では1956年 (昭和31年) に荻堂式土器、壺型土器、石器、骨・貝製品が出土し、沖縄新石器時代前IVの貝塚である事がわかり、嘉手納貝塚と命名している。この嘉手納貝塚の東、嘉手納公園整備工事の際にグスク時代の嘉手納貝塚東遺跡 (下の写真) が発見され、土器、須恵器、沖縄産陶器、中国製青磁・白磁が出土している。


字 嘉前

1943年 (昭和18年) に字嘉手納より分離独立した字嘉前の行政区域が明確に分かる資料は見つからなかったが、大まかには現在の嘉手納ロータリーにあった軽便鉄道の嘉手納駅付近から宇嘉手納の南西部、昔の嘉手納ヌ前屋取集落までで、小字の仲原 (ナカバル) にあたる。嘉手納ヌ前屋取集落は1750年頃に帰農士族によって開墾されたと伝えられている。字嘉手納での屋取集落はここだけで、1903年 (明治36年) では31世帯で字嘉手納の21%だった。

戦前の人口は約270人で、農業を主体とした集落で、小規模ながらサーターヤー(精糖所)が二か所あった。戦後は全域が米軍用地として接収されていたが、1948年 (昭和23年) に嘉手納村が誕生した際には、字嘉前は字嘉手納に吸収されている。1952年 (昭和27年) に土地が返還され、その後急速に民家が増えて人口は増加している。


南区コミュニティーセンター

昨日訪れた水釜集落から水釜通りを嘉手納ロータリーに向かって進むと、小字仲原の中心部に南区コミュニティーセンターが置かれている。この場所には昭和53年)に町当局と防衛施設局の援助で南区公民館が建てられた。

南区は水釜の東側の一部と嘉手納の仲原にほぼ匹敵する行政区で、戦後土地返還後に急速に人口が増加して、1957年 (昭和32年) に行政区域管理は字制から11区制に変更されている。1970年 (昭和45年) に六区制となり、各区を人口2000~250人を目安に旧9区と10区の東半分が南区となっている。2009年 (平成21年) には中央区から嘉手納ロータリー地区を南区に移管して現在に至っている。

南区の人口は六区制になった頃は2,500人程だったが、既にこの時期に住宅地は飽和状態となっており、新しく住宅地を造成する余地がなく、その後、世帯数はそれ程の変化はみられないが、少子化の影響で2024年には六区制導入の1970年に比べ半分と大きく減少している。


嘉手納ロータリー

水釜通りを東に進むと嘉手納ロータリー跡にぶつかる。ここには戦後、1945年 (昭和20年) に米軍により西洋交通方式の道路が建設された。当時は直径約120mの日本一のロータリーだった。返還後にはロータリーの中にも民家や商店などが建てられていた。

その後、交通量が増加し、交通渋滞、交通事故が多発していたことから、2007年に「嘉手納タウンセンター開発事業」により道路を整備して、嘉手納ロータリーが廃止撤去された。

ロータリー跡地にはここを中心として行政機関や複合施設が建っている。

ロータリー跡地の中心はイベント等で利用されているロータリー広場となり、その周りには嘉手納中央公民館や町立図書館が入るロータリープラザ (左上)、コミュニティーホールや歴史民俗資料室を備えるかでな未来館 (右中)、防衛省沖縄防衛局 (右上)、町営の新町1号館住宅とロータリー2号館住宅 (中左)、嘉手納町役場 (下)、嘉手納警察署等が建てられて、嘉手納町の行政中心地となっている。


野國いもっち像

新町通りと嘉手納ロータリーの合流点に嘉手納のゆるキャラの野國いもっち像がチンマーサ風のベンチに腰掛けていた。


千原郷友会

野國いもっち像からロータリー広場への入口には千原郷友会の事務所が置かれている。嘉手納基地に土地が接収され、元の集落に帰還が叶っていない千原、野国、野里などは、土地管理や伝統文化継承、集落住民の交流などを目的として郷友会を字嘉手納に事務所を置き活動をしている。ここは旧千原集落の郷友会で、先日千原の合祀所を訪れたレポートで触れている。


軽便鉄道嘉手納駅跡

嘉手納ロータリーと水釜通りの合流地点に嘉手納駅跡地の碑が置かれている。碑文には

沖縄県営鉄道嘉手納線は1922 (大正11)年3月28日に営業を開始し、那覇駅から鼻手納駅までの総延長約23.6Km沖縄県営鉄道の3路線で最も長い路線でした。嘉手納地域は嘉手納駅を利用して、沖縄本島中北部地域の農産物等を那覇へ輸送する中継地として栄え、手納駅を中心として比謝橋近くまで続く手納大通りでは、本屋・文具店・理髪店・食堂・医院などが軒を連ね賑わいました。また嘉手納駅には、サトウキビを越来・美里・具志川などからはトロッコで、読谷山の比謝・伊良皆などからは荷馬車で運び入れ、そこから側線を使用し沖縄県内最大の製糖工場である沖縄製糖株式会社手納工場へと搬入していました。嘉手納駅の開業により、それまで船による海上輸送であった砂糖製品の運搬が鉄道による陸上輸送に変わるなど、沖縄本島中部地域の産業の発展に大きく寄与しました。しかし、1945 (昭和20) 年の沖縄戦により鉄道設備が破壊され、戦後は多くの土地が米軍施設として接収されたため、沖縄県営鉄道は廃線となりました。
2011年2月吉日沖縄県嘉手納町

とある。



小字西原 (イリバル) 

小字仲原の北は新町通りを境として小字西原 (イリバル) で現在の行政区では北区の東地域になる。


北区コミュニティーセンター

小字西原には北区コミュニティーセンターが置かれている。この場所には1957年 (昭和32年) にできた鉄筋コンクリートの二階建ての村民会館が建てられ、その後、1965年 (昭和40年) に琉米親善ホールとして利用され、一時は二階部分を嘉手納中学 校の教室として使われていた。1970年 (昭和45年) に誕生した際に北区自治会が結成され、1975年 (昭和50年)に北区自治会事務所が建てられている。その後、事務所が改修されて現在の北区コミュニティーセンターとなっている。

嘉手納西原と水釜の宇地原は戦後1950年 (昭和25年) 返還され、1957年 (昭和32年) の11区制が施行された際には西原の東部は7区、西部は8区、南部は水釜の宇地原を含めて10区となった。1970年 (昭和45年) に六区制となり、旧7区、8区、10区の一部は合わせて北区となり、現在に至っている。

1970年 (昭和54年) に六区制になった際は、他の区とバランスをとって2300人程の人口だったが、それ以降は世帯は増加していたが、少子化の影響もあり、人口は減少している。近年では世帯数は横ばいとなっているが人口減少は継続しており、2024年 (令和6年) の人口は1723人で、1972年 (昭和56年) に比べ26%減少している。


沖縄県立農林学校跡、嘉手納中学校

北区コミュニティーセンターの北側には嘉手納小学校と嘉手納中学校になっている。嘉手納中学校がある場所には戦前までは沖縄県立農林学校が置かれていた。1902年 (明治35年)、国頭郡名護村に国頭郡各商・島組合立国頭農学校が開校し、1911年 (明治44年) には県に移管され沖縄県立農学校と改称している。1916年 (大正5年) に県内中学校の統廃合により中頭と島尻の農学校を統合して北谷村嘉手納のこの地に移転し第二中学校 (1919年に那覇に移転 [現在の那覇高校]) に併設された。1923年 (大正12年) に林科を設置して沖縄県立農林学校と改称している。沖縄戦の3月末に農林学校は焼失し、戦後、廃校となっている。

農林学校跡地には1948年 (昭和23年) 開校の屋良中学校が、翌年に嘉手納中学校と改称し、1953年 (昭和28年) に屋良からこの地に移転して来ている。

嘉手納中学校の正門を入った所には農林学校の校門が残され、その片隅には農林健児之像、沿革碑等が置かれている。


野國總管公園、野國總管宮

嘉手納中学校のグラウンドの北側には、野國總官宮は蕃薯 (甘藷) 伝来350周年記念事業の一環として野國總管公園内に、1955年 (昭和30年) に建立された。その後、防衛施設庁補助事業により1991年 (平成3年) に公園が整備されている。野國總官宮への階段下には野國總管甘藷伝来400年祭で農林学校同窓会が2005年 (平成17年) に建立した燈籠があり、階段の両側には嘉手納町の各郷友会や地場企業が寄進した燈籠も並んでいる。野國總官を祀った祠の前には1993年 (平成5年) に中華人民共和国福建省泉州市恵安県人民政府から友好親善の証として寄贈された石獅子も置かれている。


招魂之塔

1957年 (昭和32年)、野國總管宮に隣接する北東の小高い丘に招魂之塔を建立され、日露戦争から第二次世界大戦まで町出身の軍人、軍属、学徒の英戦没者649柱を祀っている。慰霊碑の前には顕彰碑と戦没者刻銘板も置かれている。

鎮 魂
太平洋戦争終結五十周年にあたり
招魂の塔に祀られた戦没者の御霊を末永く慰霊顕彰すると共に恒久平和希求の切なる願いをこめ、ここに戦没者刻銘版の改修を行い、嘉手納町遺族会の総意により慰霊顕彰碑を建立する。
今日の我が国の平和と繁栄はひとえに諸霊の尊い犠牲によってもたらされていることを決して忘れてはならない。
わたしたちは、命の貴さ、平和の尊さを常に肝に銘じ二度と戦争の悲劇を繰り返してはならないことを後世に伝え、我が国唯一の地上戦が展開された激戦地沖縄が、恒久平和の発信地となるよう強く希望し、世界の恒久平和の確立に邁進することを固く誓うものである。
御霊よとこしえに 安らかなれと祈る
平成七年八月十五日 嘉手納町遺族会 嘉手納町

ここでは毎年8月15日 (終戦記念日) に平和祈願祭を行っている。

沖縄戦では字嘉手納住民の181人が犠牲になっている。(嘉手納町としての各字、嘉手納町全体の戦没者率は発表されていないようだが、1945年沖縄戦当時の人口を6500人と推定すると、嘉手納町の戦没者率は17.8%ぐらいだったのではと思う)


農林健児之塔

招魂之塔の奥には農林学校同窓会により農林健児之塔が建立されている。この慰霊碑には当時の農林学校在学生及び卒業生の戦没者502柱が祀られている。

1945年 (昭和20年) の沖縄戦で、当時は500名の農林学校生徒の内、空襲での混乱もあり、170名が鉄血勤皇隊農林隊と農林隊本隊に配属され、23名が犠牲となった。農林学校同窓会が毎年6月23日に慰霊祭を行っていたが、同窓会が解散した平成22年以後は、嘉手納町により8月15日に慰霊祭が執り行われている。農林学校は高等小学校卒業後に入学した生徒 (15才 ~ 17才) が学んでいた。下の写真でも分かる様に、まだあどけない顔をした少年が、二等兵として戦争にかりだされ、青春を奪われ、更に犠牲となった事は痛ましい。


国直合祀所

野國總管宮に戻り、そこから比謝川に沿った丘陵地の西への道がある。その道を進むと墓地になっている。

その中に現在でも全域が嘉手納基地として土地を奪われた字国直の合祀所が置かれている。国直は屋取集落なので、御嶽、殿、村火ヌ神などはなく、三つの祠に水神、ビジュル、あしびなーの神が祀られている。


野里合祀所

更に道を進むと、もう一つ合祀所がある。こちらも全域の土地土地が接収されている字野里の拝所になる。

合祀所には合計で19の拝所が置かれ、琉球王国時代には野里ノロによって祭祀が行われていた。

左から見ていくと、遊び庭、ビジル、東御嶽、御嶽、西御嶽、かみさぎ毛、ユーシヌ御嶽、地頭火ヌ神、御嶽井、元産井、産井、村井

祝女井、マミクガー、シリーガー、前ヌ井、後ヌ井、天願井、石獅子が祀られている。

それぞれの拝所の詳細については野里集落の別レポートに記載する。



字 嘉手納本通 (後に大通と改称)

西原の東には、嘉手納大通り (国道58号線) を境として小字前原 (メーバル) がある。この前原は琉球王国から明治時代には嘉手納村の中心地で民家はこの地域に集中していた。1879年 (明治12年) の廃藩置県前後に首里、那覇その他の間切の士族がこの地に移住する者が増え、街道(嘉手納大通り、県道、国道58号線)を挟んで商店街が形成され、大いに賑わっていた。また、この地域には警察署、嘉手納村役場、郵便局や登記所、銀行、農業協同組合などの公共施設が置かれ、嘉手納村行政の中心地でもあった。水釜の比謝港や比謝川対岸の渡具知港は海上の交通の要所で、国頭からは薪や木炭が、大島からは牛などほとんどの商品産物は比謝川から陸上げされ、その帰りには嘉手納大通りの商店で酒、ソーメン、種油、日用雑貨品などを仕入れていた。この様に嘉手納には多くの商人や馬喰、人夫が集まり、それを目当てに旅館、料亭、飲食店も建ち並び繁盛し、中頭郡で最も賑やかな町となり、1940年 (昭和15年) に行政上独立して字嘉手納大通りとなった。


天川坂 (アマカービラ)

嘉手納大通りの北端には天川坂 (アマカービラ)という急坂があり、石畳道が比謝橋の方に続いていた。嘉手納から比謝橋を渡り読谷に通じる国道58号線 (旧軍道1号線) はかつては国頭と中頭を結ぶ国頭方西海道の要地で石畳道だった。

戦前は嘉手納大通りとも呼ばれていた。この道の比謝橋の南側は斜度30度程の激坂で、天川坂 (アマカービラ) と呼ばれていた。1609年 (慶長14年) 薩摩の軍勢が攻めてきた時、嘉手納の婦人がウケーメー(おかゆ)を炊いて坂の上から流し、薩摩軍の侵入を防ごうとしたとの言い伝えもあるので、それ以前から存在していた。


商工会議所、野國總管立像

天川坂 (アマカービラ) の坂上には商工会議所があり、駐車場隅に沖縄産業発展に貢献した偉人という事もあるのだろう、野國總管の立像が置かれていた。嘉手納村 (町) 商工会は1973年 (昭和48年) に説立され、1987年 (昭和62年) に旧琉映館跡地 (1953 ~ 1966年) に商工業研修施設 (商工会館) が建設された。


渋谷曲い (シブヤマガイ)

1909年 (明治42年) に県道が新設された際、比謝橋に続く天川坂が急すぎたため、現在の商工会議所の場所から西側に大きく迂回し、樋川井 (ヒージャーガー) を過ぎた所で県道に戻っている。設計者にちなんでシブヤマガイ (渋谷曲い) とよばれていた。道が迂回した事で天川坂は消滅を免れたが、戦後、軍道1号線 (国道58号線) の開通で天川坂は跡形もなくなっている。


樋川井 (ヒージャーガー)

渋谷曲い (シブヤマガイ)が県道に合流する場所は、琉球王国時代には天川坂の西側の石段を下りた所になる。そこには樋川井 (ヒージャーガー) があり、樋口からは湧水が年中勢いよく流れ落ちて比謝川に注いでいた。1912年 (大正元年) 頃までは近隣住民の飲料水として使用され、嘉手納の娘達も水を汲んだ大きな桶を頭にのせて、天川坂を上り下りしていた。大正中期頃からは、各家に井戸が掘られるようになり、樋川井は洗濯場として使用されていた。1853年にはペリー提督一行もこの井泉で喉を潤したとも伝わっている。現在では樋川井は埋め立てられ、当時の姿は失われてしまったが、その跡には、井戸を形式保存している。


真先毛 (マシチモー)、龕屋 (ガンヤー)、ウシナー (牛庭、闘牛場)

天川坂の西側に、かつては、小高い丘があり、丘上には真先毛 (マシチモー)と呼ばれた広場になっていた。嘉手納の若者達の毛遊び (モーアシビー) の場所だった。また、真先毛の広場の後方には、龕を保管していた龕屋 (ガンヤー)、前方の低い所にはウシナー (牛庭、闘牛場) があったそうだ。龕屋には嘉手納と屋良で共有していた龕が保管されていた。同日に両字に死亡者がでることがあり、不便をきたしたため、1942年 (昭和17年) に嘉手納は新しく龕を建造した。落成祝いは、住民総出でミチズネー (道行列) などして盛大に行われたという。

また、この地には1888年 (明治11年) に中頭一円を管轄する首里警察署嘉手納分署が置かれ、1900年 (明治33年)にはこの場所には嘉手納警察署に昇格している。1943年 (昭和18年) に現在の嘉手納ロータリーの南側に移転し、1945年 (昭和20年) に沖縄戦で焼失した。



屋那上原 (ヤナイーバル)

嘉手納大通りを境に東側は小字の屋那上原 (ヤナイーバル) になる。次はこの屋那上原にある史跡やスポットを見ていく。


嘉手納グスク跡

国道58号線を東側に渡った一帯はカシタ山と呼ばれていた場所になる。

このカシタ山には嘉手納グスクが築かれていたという。比謝川には比謝橋が架かり、交通の要所だったと思われ、その場所に四代目屋良大川按司の二男の嘉手納子が屋良グスクの出城として築き、見張り役を果たしていたと伝わっている。比謝川の北対岸には北にウフグスク、メーダグスクも存在していた。旧中央公民館 (下の写真 現在は移転) の建設や住宅開発でカシタ山は削られ、嘉手納グスクも消滅している。


天川の池碑等碑群

旧嘉手納中央公民館の駐車場の周りには幾つかの石碑や銅像が置かれている。


天川の池の碑

駐車場の一番奥にある天川の池の碑が置かれている。天川井の水が比謝川に注ぐ途中には天川の池があったという。このあたりは、樹木がうっそうと繁茂し、その側を流れる比謝川で遊浴する雌雄のおしどりを見て、比謝川と天川井戸を結びつけて、約450年前に、三線音楽の始祖の赤犬子 (アカインコ) が歌を詠んだと考えられている。

天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ (天川の池で遊ぶおしどりのように、二人で交わした深い契りを他人は誰も知らない)


喜屋武朝徳 顕彰碑、幸地亀千代師匠 胸像

挙聖 喜屋武朝徳先生の顕彰碑が立っている。碑には喜屋武朝徳の生い立ちが記されている。

喜屋武朝徳先生(明治3年~昭和20年)は、近代沖縄が生んだ傑出した空手道の名人である。通称「チャンミーグヮー」として知らぬ者なき武名を天下に轟かした。先生は、明治3年首里の名家に生まれ、多感な幼少時代を東京で過ごし、在京中(現二松舎学院大学)で漢学を学んだ。幼少の頃、父から空手道の手ほどきを受けた先生は、東京から帰郷後は、いわゆる首里手や泊手の達人たちに師事を受け、さらに修練を積み空手道の大家となった。五尺たらずの小兵ながら、先生の技は鍛え抜かれた力強さと飛鳥の如き早技であったという明治43年頃からは比謝川の河畔に居を構えて、嘉手納在の県立農林学校生や青年師範学校生、警察署署員、そして近隣の青少年などに清貧に甘んじながらも無報酬で、空手道の「技」と「心」を伝授した。厳しい稽古の中にも深い学識と温かい人柄は、すべての教え子から敬慕された。文武両道に優れたまさに挙聖と呼ぶにふさわしく、我々門弟・孫弟子たちは、ここに碑を建立して、先生の遺徳を偲ぶものである。
平成11年(1999年)7月吉日

松村宗棍門下の喜屋武朝徳は、授けられた八つの型をそのまま保存継承するという無修正主義を尊重し、弟子たちに伝承した。型が次々と変化していく現代の空手界の風潮に対する反動としての型の無修正主義で、源流にたちかえるという理念のもとに、中国拳法の始源といわれ、さらに沖縄の「手」の発達に大きな影響を与えたと考えられる中国の少林寺拳法に因み「少林寺流」と流派の命名を行った。この場所に喜屋武朝徳の弟子の仲里常延が少林寺流道場を開いている。

喜屋武朝徳顕彰碑の隣には幸地亀千代の胸像と歌碑が置かれている。元々は水釜にあったものをこの地に移設している。碑文には

先生は、琉球音楽の普及並びに門弟の指導育成に献身され、特に地謡音楽譜の編纂を野村流音楽の閑静に盡された功績は偉大であります。ここに門弟一同相図り胸像を建立し先生の足跡を永久に遺したいと思ひます。1964年10月建立 門弟一同

とある。隣には幸地亀千代の歌碑が置かれている。

幾としになても 歌の長道や 歩みわん奥の 果やしらぬ


産井 (ンブガー、東井 アガリガー)、天川井(アマカーガー)

カシタ山の山裾には東井 (アガリガー) と呼ばれた井泉があり、早魃が続いても渇れることがなかったと伝えられている。東井は嘉手納の産井 (ンブガー) でもあり、村の人は、子供が生まれるとサン (魔物よけ) を結えたカニビンを持って行き、東の方に向かって産水 (ンブミジ) を汲んで、それを産湯に足し、赤ちゃんを浴びせて健康を願った。また、イリガサー (はしか) やミジガサー (水疱瘡) がでた時は、 朝早く水を汲んできて、子供の額になでて「ノーリヨ ―」と言い治癒を願った。人が死んだ場合には、西に向かって死水 (シニミジ) を汲み、チュー ジ (清め水) に加えてグソーグクラク (後生極楽) を祈ったという。井戸は埋め立てられて、旧嘉手納中央公民館の駐車場になり、比謝橋際の道路沿いに形式保存して拝所となっている。

産井 (ンブガー) の西隣には円筒形に積みあげられた天川井(アマカーガー) があったのだが、この井戸も埋め立てられて、産井 (ンブガー) と共に形式保存されている。


比謝橋 (比謝矼)

国道58号線の北には嘉手納町と読谷村の境を流れている比謝川に比謝橋が架けられている。読谷村への入り口になる。戦前、この橋の近くまで山原船が出入りして、橋の附近は商業地として繁昌していた。

比謝橋は、木造であったためにたびたび破損し、1667年 (寛文7年)、1689年 (元禄2年) の両年に大修理を加え、1716年 (享保元年) に改築。1729年 (享保14年) に大破し、1730年 (享保15年) に石橋に改築している。この工事には、前後1年9ヶ月を費し、工事延べ人員4127人という大工事だった。その後、1852年 (嘉永5年) に修理を施すが、1866年 (慶応2年) に大雨で破損、1867年 (慶応3年)に修理した。この工事により、五座になった石橋も、豪雨などの時には橋の上から水が越えることがあった。1908年 (明治41年)から1909年 (明治42年) にかけて北谷村野国から恩納村の境までの県道工事が行われて、この時に比謝橋も嵩上げ工事が行われ、橋から水が越えるということがなくなった。このようにしてできた4つのアーチと1つの予備アーチをもった五連続アーチ式の石橋は、真玉橋とともに沖縄の名橋の一つだった。五つのアーチには、それそれ名称があって南側から順にフェーヌハシ、ユーハイハシ、ナカヌハシ、エバンハシ、ニシヌハシと呼ばれていた。北の石橋二座は比謝北橋とよばれていた。1953年 (昭和28年) に一号線拡張のため基礎まで壊され、今日の鉄筋コンクリート橋にかわった。

1945年 (昭和20年) 4月1日 に楚辺、渡具知に上陸した米軍はこの比謝橋を渡って南進してきた。旧日本軍は敵の進撃を阻止するため、この橋に爆雷を仕掛けて破壊しようとしたが、橋の路面上に穴が開いたが、橋本体には損傷が無く生き残った。この地を占領した米軍は道幅の狭い石橋では物資の輸送に支障があり、石橋と並行してベイリーブリッジとよぶ簡易な鉄橋を3本架けている。戦後、道路拡張工事が行われ、1953年 (昭和28年) に遂に石橋は壊され、現在の鉄桁コンクリートの橋が米軍によって造られている。

産井と天川井の側に比謝矼モニュメントが置かれていた。


比謝橋碑文、比謝矼モニュメント (読谷村側)

比謝橋を渡り読谷村に入ったところにも比謝矼モニュメントが置かれている。この橋は琉球王国時代には国頭と首里を結ぶ宿道に架かっていた。

その傍には比謝橋が1716年から1717年にかけて木橋から石橋へ改良し架け直された際の記念碑が残っており、その経緯等が漢文で記されている。碑文は沖縄戦で倒れていたが、1964年 (昭和39年) に現在地に建て直している。


吉屋思鶴 (ヨシヤチルー) の琉歌

比謝矼モニュメントの場所の奥は広場になっており、吉屋思鶴 (ヨシヤチルー) の琉歌碑が置かれている。吉屋思鶴 (1650 ~ 1668) は琉球王朝時代の代表的な女流歌人で、八才の時に那覇の仲島遊郭 に身売りされた。伝承では、思鶴は遊郭の客だった仲里の按司と恋に落ちたが、黒雲殿と呼ばれる金持ちに身請けされたために添い遂げられず (または仲里の按司とは身分が違うために一緒になれなかったとも)、悲嘆にくれた思鶴は食を絶ち、18歳で亡くなっ たという。歌碑には身売りされ、仲島遊郭に向かう心境を詠んだ「恨む比謝橋や 情け無いぬ人の わぬ渡さともて かけておきやら (恨めしい比謝橋は 情けのない人が 私を渡そうと思って かけたのでしょうか)」と刻まれている。

身売りという不条理を背負ったチルーのやり場のない気持ちが、比謝橋や橋をかけた人に向けられ、絶望的な悲しみを表している。

その隣には比謝矼友竹亭顕彰碑も置かれている。碑文には

比謝矼友竹亭とは、廃藩置県後、首里から旧王府所領の牧原、久得、御殿敷あたりに移住してきた旧士族同好者たちの琉歌創作サークルで、その活動は、越来村在住の山内盛熹を点者に迎え、比謝川河畔のこの地に店舗を構えていた黒糖仲買商「全通店」の広間で行われた。
活動成果は明治40年から大正5年にかけて、再々琉球新報や沖縄毎日新聞等の文芸欄に発表されその数実に700余首にも及び、県琉歌界隆盛の一翼を担ってきた。またこのサークル活動は実に本村記録文学の嚆矢で、その影響は木村の琉歌ならびに三線音楽の発展に大いに寄与し今日に及んでいる。
ここに本協会は先人の遺徳をしのび、その功績を称えて顕彰碑を建立する。平成17年7月2日 読谷村文化協会

とある。


屋那上 (ヤナイー) 拝所 (カシタ山拝所)

天川坂から、旧嘉手納中央公民館跡地の横の道を登って行った所にコンクリート造りの祠が置かれている。祠の中には嘉手納喜納 (カディナーチナー) が持ってきたという丸い石がおかれている。この場所は屋那上 (ヤナイー) 又はカシタ山と呼ばれた小高い所で、この祠は嘉手納の村の拝所で、屋那上拝所 (カシタ山拝所) と呼ばれている。シジダカサルトゥクマ (霊力が強い所) といわれ、屋那上の神は、風水 (フンシ) の神と伝わっており、夜になると黄金の花が舞い上がったとの伝承があり、黄金森 (クガニムイ)、カニマン御嶽とも呼ばれていた。現在では、ウマチー (二月・三月・五月・六月のウマチー) には村の拝みが行われている。また、この屋那上は嘉手納喜納 (カディナーチナー) が最期をとげた所との言い伝えもある。


火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー)

屋那上から西に進んだ南に火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー) がある。元々はここより北の嘉手納御願 (カディナーウガン) の前の傾斜地に石を積んで組みたてられたカーラヤー (瓦屋)で、その中に石を三個並べて火ヌ神が祀られていた。琉球国由来記にある「嘉手納巫火神」と考えられている。現在は、野里共進会館の東の方に祠を造り、地頭火ヌ神と村火ヌ神を祀っている。この火ヌ神も嘉手納集落の村拝所で、嘉手納では御願が行われている。


嘉手納町野里共進会

火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー) のすぐ東側に嘉手納町野里共進会が建っている。字 野里は地域全土が嘉手納飛行場基地に接収されたままで、旧野里住民は他の地域での生活を強いられていた、字嘉手納の北地域、天川坂から屋良との境までは、戦後の行政区の六区で、この地域には旧野里の住民が多く住んでいる。野里共進会は野里の伝統、文化、地域の繋がりを継承する為と軍用地となった土地に管理を目的として旧野里住民の郷友会として活動が行われている。

嘉手納町野里共進会のサイトには、野里共進会が継承している野里の踊りが紹介されている。



御嶽前原 (ウタキメーバル) 

小字屋那上原 (ヤナイーウィーバル) から、東に隣接する小字御嶽前原 (ウタキメーバル) に入る。ここは文字通り、嘉手納の御嶽があった場所で、北側の丘陵地は嘉手納集落のクサティー (腰当、聖域) だった。


殿待毛 (トゥヌマーチーモー)

火ヌ神屋 (ヒヌカンヤー) の前の道を更に東に進み、突き当たりを北へ1ブロック行った角に花壇が作られている。ここは殿待毛  (トゥヌマーチーモー)と呼ばれる場所 (水撫毛小 ミジナリーモーグリーともいう) で、以前は宇嘉手納の殿 (トゥン) が置かれていたが、現在は花壇として整備され、拝所としての面影は残っていない。

旧暦9月8日にはこの場所でヌールガーミジナリーが行われていた。各家がここに重箱におにぎりかカティムン (豆腐、テンプラなど) を詰めて持ち寄った。ヌール (祝女) が供を二人ぐらいを連れてヌールガーで水御恩 (ミジグウン)を終え、この場所に来て、石嶺久得 (イシンミクドゥク) のトゥールーガマにお通し (ウトゥーシ) をイシンミクドゥクへお通し (ウトゥーシ) をし、皆の頭にハナグミ (花米 = 洗ってもいないそのままの米) を三粒ぐらいずつをのせて各人の健康を祈っていた。各家が持ち寄ったごちそうをは、ヌールここに来た時のサカンケー (お迎え) のためで、皆で一緒にごちそうになり、夕方まで楽しく過していたという。参加できなかった家族の分も紙に包んで持ち帰っていた。


嘉手納御願 (カディナーウガン) 、後井 (シリーガー)

殿待毛の隣には西ヌ御嶽 (イリヌウタキ)、東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) が合祀された祠が置かれ、村の年中行事としての拝みが行われている。元々は北の小高い丘 (現在は屋良城跡公園) に其々が少し離れた場所にあり、更にイシンミクドックのトゥールーガマへのお通し (ウトゥーシ) もあり、合わせて遥拝所嘉手納御願 (カディナーウガン) と呼ばれていた。琉球国由来記にある佐次森 (サスムイ 神名 真根司威部 マネヅカサノ御イベ) にあたる。この丘の上は見晴らしが良く、那覇港方面や東シナ海が一望され、出港する船はっきりと見えていた。昭和の初めごろまで海外へ出稼ぎに行く人や出征兵土を見送るフナウクイバ(船送り場) で、見送りには、多くの村人がチヂングワー (つづみ・鼓) を持って集り、ダンジュカリュシなどンジフニ (出船) の唄を歌って船が見えなくなるまで航海の安全を祈った。青い松葉をたき、白い煙をたてて見送りをしていた。

東ヌ御嶽は嘉手納御願の東方にあったが、1969年頃に宅地開発で、この一帯で住宅建設が行われ、町道72号道沿いに移された (写真右上)。西ヌ御嶽は嘉手納御願の西方、野里共進会館の玄関入口北方に位置していた。この西ヌ御嶽から石嶺久得へお通しをしていた。戦後、その辺りに嘉手納米軍基地の燃料タンクが設置され、更に宅地開発により東方向にある崖下へ下る山道の傍らに移されていた。 (写真左上)

2004年 (平成16年) に、西ヌ御嶽と東ヌ御嶽ともに現在の「トゥヌマーチーモー」の一角に移されている。祠の横には井戸が形式保存され、香炉が置かれている。これは嘉手納御願から比謝川に下る途中にあった後井 (シリーガー) を祀っている。


あしびなぁ

トゥヌマーチーモーの前には公園が整備されている。この公園は、昔はアシビナーでモーアシビやエイサーの練習を行っていたそうだ。


屋良城跡公園

字嘉手納の北側、比謝川に沿って、東隣の字屋良の屋良グスク跡まで屋良城跡公園が昭和54年に整備されている。14世紀半ば頃まで大川按司の居住であった跡地を、比謝川水辺と一体となって機能する公園を緑地として整備し、町民の憩いの安らぎの場、レクレーションの場として広く利用されている。屋良グスクについては屋良集落の訪問レポートに記載。


嘉手納ヌールガー

屋良城跡公園の西の交流広場の中、丘の南麓にヌールガーがある。サシガーとも呼ばれていた。昔、ウマチーやカーウガミの際にヌールが手足や髪を洗って身を清めたところと伝えられ、嘉手納村の拝所として年中行事 (年6回) の御願が行われている。旧9月18日には、ヌールガーミジナリーの拝みがある。終戦後は水源地として、湯屋や公民家の一部にも給水されていた。現在では井泉の水は園内の池に注がれている。



嘉手納中通り

嘉手納大通りに戻り、再び字大通りの史跡を見る。大通りを南に進むと、嘉手納北交差点から屋良に向けて嘉手納中通りが走っている。この道は、戦前は村内中道 (ムラウチナカミチ) と呼ばれ、この道を境に前組 (メーグミ)、後組 (クシグミ) に分けていた。この道付近のスポットを見ていく。


芋市小 (ンムマチグワー)

明治時代から戦前には、この嘉手納北交差点辺り、嘉手納大通りの中心街に隣接している200坪ぐらいの字有地に芋市小 (ンムマチグワー)と呼ばれた市場があったそうだ。ここでは嘉手納周辺の農家から芋や野菜を運んできて、市場使用料を払い売っていたという。

このンムマチグワーでの商いが夜にも行われていた事から「嘉手納の夜町」として知られていた。明治に入り廃藩置県になった当時は、職を失った首里の士族が比謝橋北の牧原や久得山の地を開墾して帰農し糊口をしのいでいた。その帰農士族の娘や息子等がこの芋市小に芋や野菜類を売りに来ていたが、以前は立派な士族の家で暮らしていたが、急に没落した事を恥じて、夜に売りに来ていたのが、いつの間にか、それが習慣となって嘉手納夜町が出来たそうだ。


當銘 (トーミ) の拝所

嘉手納北交差点から中通りを入ってすぐ北側には嘉手納村の根屋 (ニーヤ) で村祭祀を司っていた當銘 (トーミ) の屋敷跡がある。明治の中頃に後継者がなく廃家になってしまった。昨日、水釜集落を巡った際にこの當銘 (トーミ) の墓を見ている。廃家となった後、村祭祀は祝女 (ヌール) の又吉小 (マテーシグゥー)、仲村 (ナカンダ) 継いでいた。當銘 (トーミ) の屋敷跡には拝所が設けられ、現在でも正月の初拝み (ハチウガミ)、2月、3月、5月、6月のウマチー、12月の御願解き (ウグヮン ブトゥチー) には村拝みが行われている。


殿毛 (トゥヌモー、神祝毛 カミハギナー)

當銘 (トーミ) の屋敷に南に隣接した場所は70坪ぐらいの広さの殿毛 (トゥヌモー)で、中央には一坪ぐらいの築山があり、竹や雑木が植えられ、セジ(霊力のこと)の強い所で、その周囲の草や木を刈るとたたりがあるといわれて、村民も近寄らなかった。昔は殿 (トゥン) があったという。琉球国由来記には嘉手納村には二つの殿 (トゥン) が見られ、一つは村内、もう一つは村の北の北殿で、「麦稻四祭之時、五水六台宛 嘉手納地頭、神酒一宛 芋 同村百姓中 村北殿、神酒二宛 芋 同村百姓、供之。嘉手納巫ニテ祭祀也。」とある。ここは村内の殿 (トゥン) ではないだろうか?

殿毛 (トゥヌモー)の近くには、嘉手納喜納 (カディナーチナー) が高下駄をはいて泡瀬から両脇に抱えてきたと伝えられているマーイサー (力石) が2個置かれており、青年たちがそこに集まり、力くらべをしていたという。この内、一つは戦後、行方不明になっていたが、嘉手納小学校校門付近で見つかり、二つの力石は字嘉手納共有会の神屋に保管されている。

現在はその一角に當銘 (トーミ) の拝所を建てて、字の拝みが行われている。


中央区コミュニティーセンター (村屋跡、アシビナー)

當銘 (トーミ) の拝所の東には中央区コミュニティーセンターが置かれている。正面にはエイサーを舞う青年、町花のハイビスカス、屋良ムルチの龍のレリーフがデザインされている。今日は何かの会合があるのか、次から次へとご婦人達が参集している。どの方も親しく声をかけてくれる。沖縄の人は皆フレンドリーだ。この場所は嘉手納の中央にあたり、昔はこの敷地はアシビナーで字嘉手納の村屋 (ムラヤー) や御神屋 (ウカミヤー) が置かれていた。戦後に、嘉手納村役場が建てられていたが、現在では嘉手納ロータリーの南側に移っている。

現在の中央区は戦後、嘉手納村全域が米軍に接収されていたが、最も早く1946年 (昭和21年) に帰還が許可された地域だった。その後、土地が少しずつ返還され、人口が増加し、1957年 (昭和32年) に従来の字制から、11区制に移行している。現在の中央区にあたる地域は三 ~ 六区となり、1970年 (昭和45年) には六区制に改変され、旧三区と六区は上区、旧四区と五区は中区となった。1996年 (平成8年) に上区と中区が合併して中央区となっている。

中央区にあたる地域の人口については1971年以前のデータは1952年しか見つからなかったが、大体の傾向は見えてくる。1952年にはまだ、ほぼ現在の東区と中央区にあたる地域しか土地開放がされておらず、8,214人 (1,718戸) だった。この内、中央区相当地域の人口と戸数はいずれも47%を占めていた。この限られた地域は、ほぼ全域が住宅地となり、既に飽和状態となっている。その後、他の地域が解放されるにつれて、その地域の人口が増えていくが、中央区相当地域の人口、戸数は一貫して現在まで減少が続いている。2024年末の人口は1,513人で、1953年に比べて62%も減少し、戦後、嘉手納町人口の半分を占めていたが現在では12%程度に減少している。


字嘉手納共栄会

中央区コミュニティーセンターの隣には字嘉手納共栄会事務所が置かれている。字嘉手納共栄会の前身は明治時代からの自治組織だったが、1969年 (昭和44年) に字嘉手納共栄会となり、当初は事務所はなく、民家などで会合を行っていた。2010年 (平成22年) に現在地に事務所を構え、2016年 (平成28年) に法人になっている。敷地内にはアシビナーにあった御神屋 (ウカミヤー) が移設され、神屋内には村火ヌ神 (ヒヌカン) が置かれ、中央には四つの香炉が置かれ、ムラグサイ (村の神)、クニグサイ (国の神)、ヌール (ノロ)、カデナチナー (世の主 嘉手納喜納) が祀られている。右端には二つの力石 (マーイサー) も置かれている。この力石は殿毛 (トゥヌモー、カミハギナー) にあったもの。


字嘉手納拝所 (中森 ナカムイ) / 中軸碑

中通りの南側には字嘉手納拝所があり、敷地内に祠が建っている。祠の奥には嘉手納町天然記念物に指定保護されている推定樹齢250年のガジュマルの大木がある。この付近はかつて琉球松や雑木が生い茂る山で、戦前、1938年 (昭和13年) 頃に、この一帯に神が住むといわれるようになり、このガジュマルは信仰の対象となった。戦後、ガジュマルの周囲を字嘉手納が買取り、信仰対象のガジュマルを保護、その一角に拝所が設けられた。

この地は琉球王国時代に存在した中森 (ナカムイ) と推測されている。琉球国由来記には「中森 (神名 石之威部 イシノ御イベ) 嘉手納巫崇所、三、八月、四度御物参之時、有祈願也 」と記されている。祠の中には火ヌ神と天降り神 (アマクダリ) が祀られている。

祠の後方、カジュマルの大木の前には北東向きと北西向きの二カ所の拝所、敷地広場隅には1994年 (平成6年) 建立の中軸があるが、これらについての記事は見つからず。


サーターヤー跡

中通りに戻り、屋良方面に向かい少し東に進んだ所に、戦前まで350坪精糖所 (サーターヤー) が置かれていた。嘉手納集落内は、中道を境に前組 (メークミ) と後組 (クシクミ) に分けられ、其々が60世帯くらいの小集落で住民のほとんどが農業で生計をたてていた。このサーターヤーには西組、東組の2基が置かれていた。


嘉手納集落散策を終えて、屋良集落に移動する。


参考資料

  • 嘉手納町史 資料編 2 (1990 嘉手納町役場)
  • 嘉手納町史 資料編5 戦時資料 (2000 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編6 戦時資料 (2003 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編8 戦後資料 (2020 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町の先人たち (1993 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町分村35周年記念誌 (1983 嘉手納町役場)
  • さす森字嘉手納郷土史 (2019 字嘉手納共栄会)

0コメント

  • 1000 / 1000