杉並区 17 (20/02/25) 旧杉並町 (杉並村) 旧阿佐ヶ谷村 (3) 小名 向
旧杉並町 (杉並村) 旧阿佐ヶ谷村 小名 向
小字 谷戸山
- 福徳稲荷神社
小字 西向
- なし
小字 東向
- 阿佐ヶ谷駅
- 西蓮寺
- 阿佐谷田圃 (寿々木園辺り)
- パールセンター通り
- 庚申塔 (42番)、地蔵菩薩 (43番)
- 中杉通りのけやき並木
- 阿佐谷南共同墓地と板碑
小字 清水
- なし
小字 杉並
- 杉並区役所
- 皂莢 (さいかち) の木
前回、東京を訪れて散策が終わった所から再開する。前回の東京訪問の後、既に巡った地域で見落としたものや、資料で新たに見つけたスポットがあったので、それも合わせて訪問する。
旧杉並町 (杉並村) 旧阿佐ヶ谷村 小名 向
小名向は、阿佐ヶ谷本村の南側で、湿地帯の水田の向かい側にある土地だったことから、向と呼ばれる様になった。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、阿佐ヶ谷、天沼村、高円寺、馬橋、田端、成宗村と合併して、杉並村になり、阿佐ヶ谷村は杉並村大字阿佐ヶ谷となっている。この時に旧阿佐ヶ谷村の小名向は清水、東向、西向、谷戸山、杉並の5つの小字に分割されている。1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字の谷戸山と西向は阿佐ヶ谷六丁目に、清水、東向、西向、谷戸山、杉並は阿佐ヶ谷一丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、旧小字の東向、西向、谷戸山は阿佐谷南三丁目に、旧小字の杉並の一部は阿佐谷南一丁目に、旧小字の杉並の残りと清水は阿佐谷南二丁目となっている。
旧小名向の民家の分布を明治時代から見ていくと、1896年 (明治29年) ~ 1909年 (明治42年) には、江戸時代からの集落が散在している。1923年 (大正12年) 9月1日に関東大震災が発生し、その後、住居が失われた東京から多くの住民がこの地に移住したこと、1922年 (大正11年) 7月に開業した阿佐ヶ谷駅付近に商店が開業し始めたこと、1925年 (大正14年) に前年に誕生した杉並町の町役場が小字 杉並に置かれ行政の中心地となった事から、急速に発展している。1927年 (昭和2年) ~ 1937年 (昭和12年) の地図を見ると既に旧小名 向全域に民家が広がっている。
この旧小名向、旧阿佐ヶ谷村個別の人口推移は、何回も行政区が変わっており、把握するのが困難だが、杉並区 (旧杉並町) 全体の人口推移は以下の通り。1926年から現在まで100年間で人口は13倍に増加している。
旧小名 向の民俗地図を作ったのだが、この地域には史跡は非常に少ない。これは杉並区全体についてもいえることだが、先に散策した練馬区に比べて庚申塔、馬頭観音、石仏の数が極端に少ない。この地域では少ししか造立されなかったとは考えられず、土地利用開発で多くが失われたと思われる。また、当時は行政区として文化財保存に対しての関心が低かったこともあるのではと思う。
小字 谷戸山
小字 谷戸山は、小名 向の西の端に位置しており、昔は天沼の中谷戸の続きの山林であったので、谷戸山と呼ばれていた。
1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字 谷戸山は小字 西向と合併し、阿佐ヶ谷二丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) の町名変更では、阿佐ヶ谷二丁目は阿佐ヶ谷一丁目の一部と共に、阿佐ヶ谷南三丁目となっている。
福徳稲荷神社
JR阿佐ヶ谷駅から線路沿いに荻窪駅方面に向かった所の狭い敷地に五穀豊穣の神の保食神を祀る福徳稲荷神社がある。社殿の横の石碑には「明治三年十一月 村社」「日枝神社旧社地」「天祖神社攝社」と刻まれているので、1870年に村社として社格が与えられたのだろう。江戸時代には、阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、堀ノ内の四ヶ村は、麹町の日枝神社の領地だった。その関わりで、元々は赤坂の日枝神社 (山王社) の領地内に日枝神社の分霊が祀られていたが、明治維新後に政府の合祀令により、天祖神社に合祀され、その跡地に福徳稲荷神社が建てられた。1964年 (昭和39年) の中央線高架化工事で、福徳稲荷神社はも共位置近くの現在地に遷座している。
小字 西向
小字 西向は小字 谷戸山の東にある。 1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字 西向は西隣の小字 谷戸山と合併し、阿佐ヶ谷二丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) の町名変更では、阿佐ヶ谷二丁目は阿佐ヶ谷一丁目の一部と共に、阿佐ヶ谷南三丁目となっている。
この小字では見るべき史跡などはなかった。
小字 東向
小字 東向は小字 西向の東隣に位置していた。1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字 東向は小字 清水、小字 杉並と合併し、阿佐ヶ谷一丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) の町名変更では、阿佐ヶ谷一丁目の旧東向は阿佐ヶ谷南三丁目に編入されている。阿佐ヶ谷一丁目の残りの地域は馬橋一丁目の一部と共に、阿佐ヶ谷南二丁目となっている。
阿佐ヶ谷駅
旧阿佐ヶ谷村の小名 向と小名 本村との境界線は中央本線に一致している。大正時代は中央線の中野駅と荻窪駅との距離が4kmもあり不便なため、1919年 (大正8年) 頃に鉄道省に対し両駅間に新駅を誘致する陳情が行われ、駅の用地を確保を条件で前に進むことになった。当時は電車利用は裕福な人しか利用せず、一般人にとって恩恵は感じられておらず、新駅設置に反対する人も多く、駅用地の入手が難航した。ようやく用地確保に目処がついたが、その新駅申請地は中野駅から2.5km、荻窪駅から1.5kmの地点で、西へ片寄りすぎているために申請は却下された。そこで、申請している阿佐ヶ谷駅と中野駅との間に、もう一つ駅 (高円寺駅) を作る申請を提出し、鉄道省と政治折衝を行い、1922年 (大正11年) 7月に阿佐ヶ谷駅が開業した。(左上:昭和初期、残りは昭和30年代)
以前は阿佐ヶ谷駅の南口に繁華街があり中央地だったが、現在では北口周辺も商店が連なり賑やかな街になっている。
西蓮寺
阿佐ヶ谷駅南側には浄土真宗本願寺派寺院の法寿山西蓮寺がある。1927年 (昭和2年) に木造阿弥陀如来立像を本尊とし、開創している。詳細は見つからず。
阿佐谷田圃 (寿々木園)
西蓮寺に東に寿々木園という釣り堀がある。この辺りは昭和初期迄は阿佐谷田圃と呼ばれ、湿地田が広がっていた。
権現道、パールセンター通り
阿佐ヶ谷駅南側には賑やかな商店街がある。商店街は江戸時代の権現道に沿って南北に商いを営んでいる。この権現道は、北へは子の権現、南は堀之内妙法寺への参拝道で大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に合流する鎌倉古道と云われている。北の練馬区貫井の円光院には子聖(ねのひじり)大権現が鎮座し、昔から足腰の痛風にご利益があると言われ、大正時代までは大勢の人がお詣りしていた。当時は子の権現への道と呼ばれ、それが権現道になった。大正時代迄、この権現道は青梅街道から線路までは家が一軒あるだけで、雑木林が多く、牛馬の死体を葬るヶ馬捨て場が置かれていた様に辺鄙な場所だった。1922年 (大正11年) 7月に当時は民家が数件ある程度だった地に阿佐ヶ谷駅が開業した際に、阿佐ヶ谷駅から青梅街道までの権現道が、その謝礼として沿道地主が協力して幅三間に拡張整備された。翌年の1923年 (大正12年) には関東大地震が起こり、市内から郊外へ移住する人で、杉並は新興住宅地になり、権現道にも商店が連なり、阿佐谷南大通り商店街となった。下の図は昭和10年頃の商店街。
1945年 (昭和20年) には太平洋戦争が数しくなり、空襲での火災延焼を避ける為、通りの西側の建物は強制疎開で取り壊された。戦後間もなく疎開地に中杉通りを整備し、商店街は日本で初めての歩行者専用道路として再建が始まり復興していった。
1954年 (昭和29年) に七夕祭りを始め、これが大人気となり、日本三大七夕祭りの一つにもなって、商店街は発展していった。七夕祭りは現在でも続いており、パールセンター商店街では毎年8月の第一土曜日・日曜日を中心にして五日間、その年どしの話題性を盛り込んだ華やかな七夕飾りが行われ、春から準備を始め、各商店がそれぞれ嗜好を凝らし競い合っている。
1959年 (昭和35年) に商店街の名称を公募してパールセンターと名付けられている。名前には「各店舗が真珠(パール)のように輝き、首飾りのように商店同士が協力し、結び合い、繁栄する」と願いが込められているそうだ。
パールセンター通りを阿佐ヶ谷駅から入った直ぐの所から妙法寺道が分岐している。堀ノ内にある妙法寺への参詣道だった。
パールセンター通りを南に進むと次第に客数は減って、すずらん通りが分岐して、二つの商店街は青梅街道迄続いている。
庚申塔 (42番)、地蔵菩薩 (43番)
パールセンター通り商店街の中程の四辻に地蔵と庚申塔が祀っている。
- 庚申塔 (42番 写真右): 1691年 (元禄4 年)造立の笠付角柱型の石塔には、上部に日月が刻まれ、その下に戟、輪宝、弓、矢を携えた青面金剛一面六臂青面金剛立像が、浮き彫りされ、その脇に二鶏、下に三猿が見られ、二世にわたって安楽であることを願い「供養庚申講二世安楽」 と刻まれている。
- 地蔵菩薩 (43番 写真左): この地蔵菩薩像も隣の庚申塔と同じ1691年 (元禄4 年)に造立されている。舟形石塔に地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、「奉造立念佛講石燈一基二世安楽所 元禄四年 阿佐ヶ谷村 吉祥祈願 本願榎本忠兵衛、ひめ、ちょう、むめ」と刻まれている。地元では子育地蔵と呼ばれているそうだ。
中杉通りのけやき並木
阿佐ヶ谷駅南口から青梅街道までの中杉通りはけやき並木となっている。この道路は戦前、補助第133号線として計画されていたが、太平洋戦争が激しくなり、帝都が空襲必至となったため、計画道路を防火帯とし、1945年 (昭和20年) に計画地域内の建物を全べて強制疎開で取り壊した。戦後、空地のまま放置されていたが、1952年 (昭和27年) に整備され、都道として開通した。当時は未舗装で、砂ほこりがもうもうと立って殺風景な状態だった。そこで、地元有志が杉並区に陳情し、欅は杉並区より提供され、工事費用は道路に面した地主達の募金で工面し、1954年 (昭和29年) に欅苗を延長5kmの中杉通りの歩道に119本植えられた。今では、「緑豊かな福祉文化都市」を目指す杉並区の名所の 一つになっている。
阿佐谷南共同墓地
国電阿佐ヶ谷駅から2ブロック程南に進むと共同墓地がある。旧阿佐ヶ谷村小名向に散在していた家墓を一カ所に集めたもので、30戸ばかりの墓域がある。この墓地内には幾つもの板碑があるそうだ。
墓地は施錠されており、中には入れず、板碑を見る事は出来なかった。(板碑写真は資料に掲載されていたもの) 板碑は、死者の追善供養、生前中に死後供養のために建てる板石型の塔婆 (緑泥片岩が多く青石塔婆と呼ばれた) で、梵字に蓮台、願文、願主名、年紀などが彫ってあり、主に鎌倉中期~室町時代(1250 ~1500) に造立されている。杉並では平仏 (へらほとけ)、または石板 (せきばん) と呼んでいた。昔は珍しくも、大事な物とも思わず、至る所に無造作に転がっていたのだが、戦後、それが貴重な文化財と見直され、この地の家では家の回りに置いてあった石板を墓地へ持って行くよ うになったそうだ。この共同墓地には、1316年 (正和5年) から、1479年 (文明11年) までの板碑が、37枚あった。阿佐ヶ谷地域には43枚あり、杉並区内総数203枚の21%を占めている。このように多くの板碑があることから、この地域には鎌倉時代から室町時代にかけて、有力な土豪 (阿佐谷氏?) か大寺院があったと推定される。
小字 清水
小字 清水は小名 向の東端で、良い清水の湧く泉があったことから、この様に呼ばれていた。
1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字 清水は小字 東向、小字 杉並と合併し、阿佐ヶ谷一丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) の町名変更では、阿佐ヶ谷一丁目の旧小字 清水は旧小字 杉並と共に阿佐ヶ谷南二丁目に編入されている。
この小字では見るべき史跡などはなかった。
小字 杉並
小字 杉並は他の四つの小字と北で接し小名 向の南端に位置している。江戸時代の始めに田端成宗の領主であった岡部氏が青梅街道に植えた杉並木から杉並の地名が生まれたという。
1932年 (昭和7年) の町名変更の施行で、小字 杉並は小字 東向、小字 清水と合併し、阿佐ヶ谷一丁目となっている。更に1962年 (昭和37年) の町名変更では、阿佐ヶ谷一丁目の旧小字 杉並は旧小字 清水と共に阿佐ヶ谷南二丁目に編入されている。
杉並区役所
中杉通りを南に進むと、南阿佐ヶ谷駅のすぐ杉並区役所がある。江戸時代には、この区役所の機能は名主が自宅で行っていた。明治維新後、1878年 (明治11年) に町村制が施行され、阿佐ヶ谷、天沼村、高円寺、馬橋、田端、成宗村と合併して、杉並村になり、村長にあたる戸長が任命され、自宅を戸長役場として事務を行っていた。1889年 (明治22年) に町村制が施行され、杉並村では阿佐谷の世尊院本堂に間借りし、村役場を設置した。1922年 (大正11年) に現在の阿佐谷児童遊園の場所に村役場が竣工した。1923年 (大正12年) の関東大震災で、旧市内から移住者が怒濤のように押し寄せ、人口が増え、役場は手狭になり、1926年 (大正15年) に、現在地に町役場を新築移転した。1932年 (昭和7年) に杉並、井荻、和田堀、高井戸の四町が合併して杉並区なった際に、旧杉並町役場を区庁舎 (写真上) として使用していた。1939年 (昭和14年) に、木造二階建の庁舎 (左下) に建て替えられた。戦後、住民の増加と、都の委託業務の増加に伴い、1963年 (昭和38年) に、鉄筋コンクリート造り地下一階地上五階の新庁舎 (右下) が建築された。
間もなく手狭となり、屋上に六、七階を増設改築し、現在の姿になっている。
皂莢 (さいかち) の木
杉並区役所の玄関前に、さいかちの木が植えてあり、標示板に、
もと区役所前にあったさいかちの巨木は、旧幕時代、青梅街道の里程指標として、植栽したものと伝えられていたが、1934年 (昭和9年) の大暴風雨で(幹が真ん中から折損した。その後、青梅街道の拡張で移植し、いろいろ手をつくしたが、1939年 (昭和14年) ついに枯死した。現在繁茂しているさいかちの木は、この由緒ある名木を記念して植えられたものである。
と、記されている。
ここでは青梅街道の里程指標だったとあるが、資料ではさいかちの木は和田三丁目の一里塚と四面道の一里塚のほぼ中間地点にあり、通行人が半里(はんみち)の目印としたのを、後に里程指標として植えられたと誤って伝えられたとしている。
さいかちの木の下に石があり、説明板では
初代雄摩藩主島津家久公が、三代将軍家光の命により御茶の水付近の石垣工事の際に使用したもので、土に埋まった部分に島津家の家紋がある。お茶の水駅付近の道路拡張工事で、廃棄予定だった石を貰い受け、杉並区へ寄贈された。
とある。
今日は東京滞在初日なので、あまり多くは巡らず、軽めのメニューとした。今晩は前職の仕事仲間と夕食。
参考文献
- すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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