杉並区 16 (05/11/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧阿佐ヶ谷村 (1) 小名 本村
旧杉並町 旧阿佐ヶ谷村
小名 本村 小字 本村/東本村 (阿佐谷北1丁目)
- 中杉通り
- 世尊院
- 観音堂、六地蔵 (33番)
- 世尊院墓地 (27-35番)
- 阿佐ヶ谷明神宮 (天祖神社)
- 大鳥居、手水舎
- 明治治二十七-八年明治三十七-八年戦役記念碑、天祖社碑、歌碑
- 力石
- 神明殿(参集殿)
- 北野神社
- 能楽殿 (神楽殿)
- 瑞祥門 (神門)
- 猿田彦神社
- 夫婦欅
- 元宮
- 拝殿
- 本殿、摂社
- 降臨殿(祈祷殿)
- 西参道、西大鳥居
- 田縁
- けやき屋敷
- 阿佐ヶ谷弁天社、妙相稲荷社
小名 本村 小字 西本村 (阿佐谷北2丁目)
- 松山通り
- 法仙庵
- 板碑 (不明)
- 地蔵菩薩立像 (36番)、観世音菩薩立像、地蔵菩薩坐像
- 馬頭観音 4体
- 卵塔下
小名 本村 小字 松山 (阿佐谷北3丁目)
- 茅山 (かやま)
- 櫟山 (くぬぎやま)
- 慈恩寺
- 桃園川 (ももぞのがわ) 遊歩道
- 伏見稲荷神社
今日は東京滞在最終日。今日からは旧阿佐ヶ谷村の史跡を巡る。まずは阿佐ヶ谷村の中心地だった小名本村を巡る。
旧杉並町 旧阿佐ヶ谷村
江戸時代の阿佐ヶ谷村には本村、小山、原、向の小名があった。この小名の切り口で史跡やスポットを巡る。
阿佐ヶ谷村の名の由来は幾つかの説がある。阿佐ヶ谷の地勢が、桃園川の浅い谷地で浅ヶ谷と呼ばれ、麻ヶ谷、阿左ヶ谷とも書かれ、江戸時代から阿佐ヶ谷と表記される様になっている。別の説では、阿佐ヶ谷の田圃は、善福寺川沿いの田圃と違って、泥深くなく田植えが楽な浅い田があ る谷地から、浅ヶ谷と呼ばれ、阿佐ヶ谷の地名が生まれたという。更に、桃園川の湿地に葦が生え、葦の生えた谷地から葦ヶ谷と呼ばれ、それが阿佐ヶ谷になったという説もある。
1889年 (明治22年) に町村制が施行され、阿佐ヶ谷、天沼村は、高円寺、馬橋、田端、成宗村と合併して杉並村となり、阿佐ヶ谷村は杉並村大字阿佐ヶ谷になっている。この時に旧村の小名は廃止され、大字阿佐ヶ谷には、旧小名原は東原、西原、日向に、旧小名小山はそのまま小山、旧本村は本村、東本村、西本村、松山に、旧小名向は清水、東向、西向、谷戸山、杉並に13の小字ができている。
小名 本村 小字 本村/東本村 (阿佐ヶ谷北1丁目)
小名本村は、阿佐ヶ谷村が成立した頃の中心地だった。1889年 (明治22年)に町村制が施行され、阿佐ヶ谷村は、天沼村、高円寺村、馬橋村、田端村、成宗村と合併して杉並村となった。この時に旧本村は四つの小字 (本村、東本村、西本村、松山) に分割されている。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、小字本村と東本村は合併して阿佐ヶ谷四町目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、阿佐ヶ谷四町目は阿佐ヶ谷北一丁目となり現在に至る。
江戸時代から明治大正時代の小名本村の民家は臂臑に少なく、小字本村の南側、その西側の西本村に集落があっただけで、小字東本村、松山は全域は田圃で民家は見あたらない。関東大震災以降、昭和に入り、住宅地が造成され、都市部からの移住者が急速に増加している。戦後1960年代には全域に住宅地となっている。
下の図は本村の民俗地図になるが、小名、小字の境界線は資料によって異なっており、図にプロットした境界線は正確ではない。江戸時代から明治にかけての小名小字の境界は、その後の町村制、町名変更で、大きく変わり、正確な小名小字の地域の把握が困難になっている。
中杉通り
環七通りと環八通りとの間に中杉通りが南北に走っている。杉並区の青梅街道の杉並区役所前交差点から練馬区の目白通りに至る延長5kmの都道427号瀬田貫井線になる。この道路は戦前、補助第133号線として計画されていたが、太平洋戦争の影響で計画道路を防火帯にし、1945年 (昭和20年) に計画地域内の建物を全部強制疎開で取り壊した。戦後、空地のまま放置されていたが、1952年 (昭和27年) に道路が整備され、都道として開通している。
青梅街道との交点からJR阿佐ヶ谷駅前を越えて早稲田通りとの交点までの1.5kmはケヤキ並木になっている。これは、都道開通時はまだ舗装されておらず、街路樹もなく、殺風景な状態だったが、地元有志が区へ陳情し、民間の募金も募り、1954年 (昭和29年) に、中杉通りの東側歩道に60本、西側歩道に59本、合計119本の欅が植樹された。現在では見事な欅並木に成長している。
世尊院
中杉通りの世尊院前交差点の東側に室町期の様式の木造不動明王立像を本尊とする真言宗豊山派の阿谷山正覚寺世尊院正覚寺がある。一般的には世尊院と呼ばれている。世尊院は1429年 (永享元年) に中野区にある宝仙寺が阿佐谷から移転した際に宝仙寺の子寺で地元住民の菩提寺として残された。それ以降、一時期は無住の時代があったが、1889年 (明治22年) に再興されている。1952年 (昭和27年) の中杉通りの建設で、境内は当時の敷地の内630坪を東京都に提供して、東西に二分されてしまった。
世尊院前交差点の場所には1975年 (昭和50年) に建てられた山門がある。境内にはこの山門からではなく通用門から入る。
山門、鐘楼
本来は山門を入った所が境内で、境内には鐘楼が置かれている。
本堂
現在の本堂は、1935年 (昭和10年) に再建されたものが、中杉通りの整備に伴い、1973年 (昭和48年) に現在地に移築されている。そのせいか、本堂境内は非常に狭い。以前の本堂には1889年 (明治22年) から1922年 (大正11年) まで、旧杉並村の村役場が置かれていた。
本堂の二階には護摩壇があり、その奥の須弥壇に矜羯羅童子と制多迦童子の脇侍を従えた本尊の不動明王が安置されている。
本堂移転、山門客殿新築、観音堂修復の記念碑、戦没者慰霊碑
その他、境内には石塔が幾つか置かれている。その中には、1973~5年 (昭和48~50年) に行われた本堂移転、山門客殿新築、観音堂修復の記念碑 (1975年建立)、戦後50年の1995年 (平成7年) に太平洋戦争で阿佐ヶ谷地区から出征した戦没者360余柱を祀った慰霊碑も置かれている。
観音堂、六地蔵 (33番)
中杉通りの西側には分断された観音堂があり、堂内には南北朝時代(1336~92年) 作の聖観音像が祀られており、杉並区指定文化財にもなっている。聖観音像の両脇には閻魔大王像と奪衣婆像が鎮座している。
観音堂の境内には1796年 (寛政8年) に地蔵尊講中、念佛講中本村により造立された塔型丸彫の地蔵菩薩立像六体 (33番) が置かれている。向って右より、讃龍地蔵菩薩、法性地蔵菩薩、延命地蔵菩薩、護讃地蔵菩薩、金剛願地蔵菩薩、宝性地蔵菩薩になる。44人の阿佐ヶ谷村民名を始め淀橋村 (新宿区) から下練馬村 (練馬区) の村民までの名が刻まれている。
世尊院墓地 (27-32、34-35番)
西側の観音堂の北側は墓地にになっている。
墓地の入り口には幾つもの石仏や石塔が並べられている。右からそれぞれを見ていく。
- 変死者追善供養塔 (写真右上): 1928年 (昭和3年) に杉並村の有志により造立され角柱に変死者追善供養塔と刻まれている。
- 六地蔵 (左中): 無縁墓地の上部に1714年 (正徳4年)に造立された6躰の塔型丸彫り地蔵菩薩立像が置かれている。側面には奉供養庚申講中爲二世安楽也講中十八人と刻まれている。
- 庚申塔 (29番 右): 1722年 (享保7年) 造立の駒型石塔に上から梵字のウンが刻まれ、その下に日月、一鶏、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、三猿が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像 (28番 下中): 1718年 (享保3年) 造立の塔型 丸彫の地蔵菩薩立像
- 地蔵菩薩立像 (32番 左): 1721年 (享保6年) 造立の塔型丸彫の錫杖を携えた地蔵菩薩立像。台石に経文が刻まれているが摩耗して判読不能。
- 地蔵菩薩立像 (34番 右中): 1782年 (天明2年) に造立された錫杖と宝珠を携えた塔型 丸彫の地蔵菩薩立像がこの地に移設されている。 1851年 (嘉永4年)に再建されたと刻まれている。
- 地蔵菩薩立像/如意輪観音坐像 (右下・中下): 1921年 (大正10年) に阿佐ヶ谷の念仏講により再建された丸彫り合掌姿の地蔵菩薩と如意輪観音坐像で台座が共有されている。
- 地蔵菩薩立像 (30番 左下): 1794年 (寛政6年) に阿佐ヶ谷村向根の念仏講により造立された
- 塔型舟型の丸彫り地蔵菩薩立像で上部に梵字のカが刻まれている。
- 馬頭観音 (35番 上中): 1840年 (天保11年) に造立された塔型山状角柱に月輪三面 合掌八臂の觀世音菩薩座像が浮き彫りされている。この馬頭観音は杉森中学校の北、早稲田通りを渡った所にあった捨て場と呼ばれた家畜の死骸の捨場にあったものを世尊院墓地に移設している。
- 光明真言三千萬遍供養塔 (右下): 1778年 (安永7年) に造立された隅丸角柱の供養塔で、1779年 (安永8年) と 1910年 (明治43年) の年号が刻まれている。石塔正面には梵字(サ) 光明真言三千萬遍、梵字 (キリーク)奉唱満供粮道光智運法師、梵字 (サク) 普門品六萬八千卷施主と刻まれている。
- 石橋供養塔 (27番 下中): 1759年 (宝暦9年) に阿佐ヶ谷村惣講中により造立された山状角柱の上部に宝珠念珠を持った薬師如来坐像が浮き彫りされている。その下には奉掛石橋廿三ヶ處供養成就所と刻まれているので、石橋供養塔になる。
更にその隣には地蔵尊立像が4体置かれている。
阿佐ヶ谷明神宮 (天祖神社)
世尊院の東隣りの森の中にあるのが旧阿佐ヶ谷村の鎮守の天祖神社で、祭神として大日靈命 (オオヒルメムチノミコト 天照大神)を祀っている。昔は阿佐ヶ谷神明宮といい、景行天皇44年(四世紀末?)に、日本武尊が蝦夷征伐の凱旋の際にこの地で休息を取ったという。後に村人が日本武尊の武功を慕って、休息を取った現在の阿佐谷北53-5辺りに神明社を建立したと伝わる。 別の伝承では、建久年間 (1190 ~ 99) 頃に、この地の土豪の横川兵部が伊勢神宮に参拝した折のお告げにより、伊勢五十鈴川から持ち帰った霊石を神体として社を建立したとも伝わっている。この神体は男根状の石棒で、江戸時代には庶民の信仰が篤く、内藤新宿の花柳界の関係者が多かったという。時期は不明だが、後に僧祇海という僧が江戸中期頃 (元禄時代 [1688年 – 1704年] 初期と推定) に村主菜の屋敷 (現在地) に移し、世尊院が別堂職を勤めていた。もとの場所 (元伊勢) は、現在でも「お伊勢の森」とよばれている。(この後に訪れる。)
神明宮は1867年 (明治元年) の政府通達で当時の社格では神社名に「宮」に使用できなくなり、天祖神社と改名している。1872年 (明治5年) に村社となり、当時は氏子は90戸だった。1874年 (明治7年) に神明社、日枝社、北野社を合祀している。1990年(平成2年)より社号を江戸時代からの名称である神明宮に復称して現在に至っている。
境内神社として相殿の日枝神社、天祖神社、北野神社が合祀され、境内末社は五殿七社あり、祓戸神社、白山神社、稲荷神社、猿田彦神社、須賀神社、三峯神社、御嶽神社となっているのだが、猿田彦神社は独立した祠に祀られている。残りの4殿は境内には見当たらず、神明宮のサイトでも紹介されていない。以前の神明宮の写真が資料に掲載されていたのが下の白黒写真だが、現在の姿と大きく異なっている。写真右下を見ると、現在見当たらない境内末社の祠、前拝殿の左側に神饌殿、合殿 (日枝、北野、神明) が並び、神饌殿の前方に、痘瘡神 (祓戸神)、白山、稲荷、猿田彦、須賀、三峰、御嶽社などの末社の小祠 (写真右下) が並んでいた。
大鳥居、手水舎
1913年 (大正2年) 建立の大鳥居を入った所には手水舎があり、ここで手と口を清め、表参道を進み社殿に向かう事になる。
明治治二十七-八年明治三十七-八年戦役記念碑、天祖社碑、歌碑
手水舎の裏側は小さな広場になっており、石碑が三つ置かれている。向かって左から1908年 (明治41年) に大砲の砲身と砲弾で作った日清・日露戦役における従軍者/戦没者の慰霊顕彰の明治二十七八年明治三十七八年戦役記念碑で11名の出征軍人と3名の戦没者の氏名が彫ってある。元々は前拝殿の左にあったのをここに移している。その隣には、1894年 (明治27年) に建てられた天祖社と刻まれた石碑があり、漢字で天祖社の由緒や変遷の説明文、裏面には「老松や 青く茂りて 御伊勢山 ときの巣造る 神徳の松」の和歌が刻まれ、元の地の元伊勢が偲ばれている。この碑も社殿裏から移設されている。右端は歌碑の様だが、詳細は見つからず。
力石
表参道に戻る途中、能楽殿 (神楽殿) の手前には幾つもの奉納された力石が置かれている。重いものは48貫 (180kg) もある。
神明殿(参集殿)
表参道に戻ると社務所があり、第六十回伊勢神宮式年遷宮記念事業で1973年 (昭和48年) に建設されている。この社務所は神明殿(参集殿) と呼ばれ、受付以外にも一階の神路の間、桜の間、二階大広間の金の間などは各種祭典後の会場としても使われている。神明殿に併設された儀式殿では、春分・秋分の日に祖先の霊を慰める合同祖霊祭を執り行っている。
北野神社
神明殿の前には学問の神の菅原道真を祀った境内神社の北野神社が鎮座している。五角形の合格鳥居をくぐり参拝する様になっている。
能楽殿 (神楽殿)
神明殿の向かいには2009年 (平成21年) の平成の大改修で新築された能楽殿 (神楽殿) があり、この建物では能・狂言の上演、阿佐ヶ谷囃子や神楽など様々な伝統芸能の奉納が行われている。阿佐谷囃子は秋の例大祭 (9月15/16日) に奉納され、当日は大いに賑わっている。阿佐谷囃子は江戸時代からの伝統ある囃子で、豊年万作を祝い、神に感謝するための奉納囃子で、杉並区内の囃子はこの阿佐谷囃子が流布したものという。能楽殿の脇には日本神話にある天神である饒速日命 (にぎはやひのみこと) が高天原から中津国に降りる際に使用したとされる船天の岩舟をかたちどった岩が置かれている。
瑞祥門 (神門)
社殿へは2009年 (平成21年) の平成の大改修で新築された瑞祥門 (神門) から入る。
猿田彦神社
瑞祥門の手前には境内末社の猿田彦神社が鎮座している。猿田彦は道開き・道案内の神に当たり、表参道から西参道への分岐点に置かれている。猿田彦神社は元々は小字小山 (現在の阿佐谷5丁目五叉路の 地) にあったが、1874年 (明治7年) に境内末社として移されている。この時に合祀を記念する石碑 (右下) も移設され、その裏面には「水鶏鳴く 葦生う里のしるべ石 行く来を守る道祖大神」と刻まれている。
夫婦欅
瑞祥門の手前には夫婦欅が聳えている。もともとは別だった二本の若木が長い年月の間に寄り添い一つに結ばれている。この事から良縁成就、夫婦円満のご利益があるといわれている。
元宮
瑞祥門を入ると境内があり、その隅に元宮の祠が置かれている。伊弉諾尊 (イザナギ)、伊弉冉尊 (イザナミ)、日本武尊 (ヤマトタケル) が合祀されている。
拝殿
瑞祥門を入ると社殿がある。1701年 (元禄14年) に新築され、1858年 (安政5年)、1894年 (明治27年)、1930年 (昭和5年) に改築されて現在に至る。拝殿は、かつては、本殿と繋がっていたが、それを切り離して参拝者が本殿と摂社をここから見て参拝ができる様になっている。
本殿、摂社
拝殿の奥の垣内には八百万の神の中で特に貴い神として崇められている三貴神が祀られている。中央に太陽を表す装飾の神明造本殿が置かれ、最高位の神の天照大御神を祀っている。本殿の左右には、かつての天祖神社の木材を使用した摂社があり、右には摂社にあたるの東御殿は月の装飾を施した月読命、左にはもう一つの摂社にあたる西御殿は海の装飾をあしらった須佐之男命を祀っている。
降臨殿(祈祷殿)
拝殿の前の境内には2009年 (平成21年) の平成の大改修で旧社殿の木材を使って新しく建てられた木造平屋神明造りの降臨殿(祈祷殿)がある。ここでは祈祷の受付授与が行われる。降臨殿の奥には天照大御神の荒ぶる神の荒魂と豊受大神が祀られている。豊受大神は食物・穀物を司る女神で、後に、他の食物神の大気都比売神(おほげつひめ)、保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(宇迦之御魂神 うかのみたま)と習合し、同一視されている。境内末社は七社の一つの明治期に合祀されたと思われる稲荷神社は祠が見当たらないので、ここで稲荷神社を祀っているのだろう。
西参道、西大鳥居
降臨殿の横の長久門から西参道に出て先に進むと西大鳥居が建っている。ここが裏参道に当たる。
田縁 (たぶち)
世尊院に戻り、中杉通りを阿佐ヶ谷駅に向けて南に進むと、現在の西友付近は昭和初年までは田縁 (たぶち) と呼ばれていた。ここに横川家があり水田の縁に位置していたので、たぶちの横川さんと呼ばれ、付近一帯もたぶちといわれていた。
欅 (けやき) 屋敷
田縁の東側に進むと欅屋敷の門前の欅の並木路に入る。この地は、かつて鬱蒼とした木立の一画で、欅屋敷と呼ばれていた。欅屋敷は、旧阿佐ヶ谷村の世襲名主の相沢家の屋敷で、上段の間を備えた母屋と書院、馬房などをもつ典型的な名主屋敷の建物が建っており、屋敷林である欅の巨木群が広がっていたそうだ。以前に 「半兵衛・相澤堀」 を訪れたが、この用水は下井草村名主の井口半兵衛とこの屋敷に住んでいた阿佐ヶ谷村名主の相澤喜兵衛が中心になって江戸幕府に申請し設置されている。
1919年 (大正8年) に建物と欅林が東京府史蹟に指定されたが、太平洋戦争の戦災で焼失している。その際に、50本以上あった欅の巨木も大半は焼けてしまい、南側の門付近に十数本を残すだけだった。戦後、近代的にな建物に新築され、残った欅林は1964年 (昭和39年) に都の保存林に指定、保護されていたが、公害などで年々緑が少なくなっている。今日訪れると、欅屋敷敷地にはビルが建設中だった。
これは駅前再開発プロジェクトの一環で、河北総合病院がこの欅屋敷敷地に移転、その後、河北総合病院跡地に杉並第一小学校が移転、杉並第一小学校跡地には高層ビル建設が予定されている。このプロジェクトには様々な疑問や問題が指摘されて区民の反対運動もあった。現在の杉並区市長は再開発プロジェクトの見直しを公約を掲げて当選したが、その後、プロジェクト継続を表明し、プロジェクトが進められている。
阿佐ヶ谷弁天社、妙相稲荷社
欅屋敷のすぐ東には阿佐ヶ谷弁天社と妙相稲荷社がある。
敷地奥の方には妙相稲荷社がある。この妙相稲荷社は昔からあったものでは無く、2021年(令和3年)に建てられている。
道路側、樹令300年の欅の大木の脇に阿佐ヶ谷弁天社の祠が置かれている。昔から1983年 (昭和58年) までは、桃園川の源泉の一つの弁天池があり、大正末年までは 天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺、中野の五ヵ村の水田を潤していた。この水を守るために弁天池の畔に阿佐ヶ谷弁天社が置かれたのだが、現在では池は埋め立てられて消滅している。
阿佐ヶ谷弁天社の祠の前にももう一つ祠があり、弁天の化身の蛇が祀られている。
小名 本村 小字 西本村 (阿佐ヶ谷北2丁目)
1889年 (明治22年)に町村制が施行された際に、旧本村は四つの小字 (本村、東本村、西本村、松山) に分割されている。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、小字西本村、松山は合併して阿佐ヶ谷三町目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、阿佐ヶ谷三町目の旧小字西本村は阿佐ヶ谷北ニ丁目、旧小字松山は阿佐ヶ谷北三丁目となっている。
松山通り
中杉通りの観音堂に戻り、その西側を北に伸びる道を進む。この道は鎌倉古道で、権現道と呼ばれ、北は練馬区貫井の円光寺子の権現へ通じる参詣道で、南は阿佐ヶ谷駅からのパールセンター通りにあたっている。大正の初めごろ迄は、雑木林や畑の中の道だった。権現道の北への道は現在は松山通り (旧中杉通り)と呼ばれ、商店街になっている。
法仙庵
松山通りを北に進んだ所に法仙庵がある。この法仙庵は文久年間 (1861 ~ 63年) に阿佐ヶ谷村名主第10代の相沢弥五郎と玉野惣七が中心となり、土地を提供し、近隣の農民各家の墓を集めて地割を平等にして共同墓地を造り、慶応年間 (1865年 - 1868年) に、墓地の供養管理のために江戸浅草の海運寺末寺の観音院 (現新宿区) より実山見道尼を初代庵主として招き建立している。釈迦如来坐像を本尊とする曹洞宗の尼寺だった。本堂は第二次世界大戦の空襲による戦災で焼失し、1956年 (昭和31年) に再建されたもの。
板碑
墓地には幾つかの文化財が残っている。周辺から集められた1318年 (文保2年)、1331年 (元徳3年)、1449年(宝徳元年)及び年代不明の板碑5基が置かれているそうだが、探しても見つからなかった。下の写真は資料に掲載されていたもの。
地蔵菩薩立像 (36番)、観世音菩薩立像、地蔵菩薩坐像
墓地の入り口付近には2体の仏像が置かれている。
- 写真右上の石仏は1868年 (明治元年) に造立されており、塔型舟型の石塔に地蔵菩薩立像 (36番) が浮き彫りされ、横には三界萬霊供養塔と刻まれている。施主の場所は白金と刻まれている。
- 写真中上には水子供養の為の丸彫りの二幼児を抱いた観世音菩薩立像で、1984年 (昭和59年) に造立されたもの。
- 写真下は阿佐ヶ谷村の本村構中 により1859年 (安政6年) に造立され石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像で錫杖を携え、幼児を抱いている。塔の正面には子育地藏大菩薩と刻まれている。
馬頭観音 4体
墓地内には幾つかの馬頭観音の石塔があった。
- 写真上は1913年 (大正2年) に造立された板石に馬頭観世音と文字が刻まれている。
- 写真中は1846年 (弘化3年) に造立された角柱に三面の合掌八臂の馬頭観音坐像が浮き彫りされている。
- 写真下は山伏角柱に「生馬頭観世音菩薩」 と刻まれている。造立年月日や施主は摩耗して判読出来なかった。
- この他にもう一つ1912年 (大正2年) 造立の自然石文字型馬頭観音があると資料にはあったが見つからず。
卵塔下
法仙庵墓地の北側は茅が生い茂った山 (林) で、狐がすんでいたそうで、卵塔下と呼ばれていた。墓地 (卵塔場) の下側の土地という意味。
小名 本村 小字 松山 (阿佐谷北3丁目)
小字松山は、松の木が多く生えていた事が名の由来という。1889年 (明治22年)に町村制が施行された際に、旧本村は四つの小字 (本村、東本村、西本村、松山) に分割されている。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、小字西本村、松山は合併して阿佐ヶ谷三町目となっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、阿佐ヶ谷三町目の旧小字西本村は阿佐ヶ谷北ニ丁目、旧小字松山は阿佐ヶ谷北三丁目となっている。
茅山 (かやま)
法仙庵から松山通りを少し北に進んだ所、東側は昭和初年頃迄は茅山 (かやま) と呼ばれていた。当時は茅が生えた小山 (林) で屋根材料などを採るための茅地として保護されていた 。現在は当時の面影は無く、住宅街になっている。
櫟山 (くぬぎやま)
松山通りを更に北に進み、通りの東側は昭和初年までは櫟が生えた林で櫟山 (くぬぎやま) と呼ばれていた。現在は林は消滅して住宅街になっている。
桃園川 (ももぞのがわ) 遊歩道
茅山 (かやま)、櫟山 (くぬぎやま) から西へは遊歩道が2本ある。この遊歩道はかつて天沼弁天池を水源とする桃園川だった。1961年(昭和36年)に東京の都市部の河川の下水道化方針が出され、桃園川は1965年 (昭和40年) 代までにすべて暗渠化となり、その上は整備され遊歩道になっている。この場所には2本の遊歩道が東西に伸びているが、南の遊歩道が桃園川の本流の様だ。水源の天沼弁天池から南に流れ出て東西に分岐している。東へは天沼八幡神社の南を通り六ヶ村分水路 (半兵衛・相澤堀) の天沼口で通水されていた。西へは法仙庵の北を通り、中杉通りを越えて南に流れが変わり、欅屋敷東を通り、中央線を越えて、現在の桃園川緑道に入り、東南東へ転じ、環状七号線を越えたところからは大久保通りと併走する形で中野区を東へ横断する。東中野駅南側にある末広橋付近で神田川に合流している。
慈恩寺
桃園川遊歩道を西に進むと、この2本の遊歩道に挟まれた場所に六字山慈恩寺がある。1935年 (昭和10年) に創建されている。本尊を木造阿弥陀如来立像とする真宗大谷派の寺院になる。
伏見稲荷神社
阿佐谷北の住宅街の中には伏見稲荷神社の小祠が置かれている。創建年代や御由緒等、詳細は見つからなかった。
旧小名本村の史跡巡りは終了。今日は最終日なので、日没ぎりぎりまで史跡巡りを続けることにし、旧小名の原と小山に移動する。
参考文献
- すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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