杉並区 13 (31/10/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧田端村 (1) 本村

杉並区 旧杉並町 (杉並村) 旧田端村

小名 田端 (本村)

  • 杉並中央図書館、読書の森公園
  • マハトマ・ガンジー像
  • 杉並区立公民館跡、オーロラの碑
  • 馬頭観音 (121番)
  • 角川庭園
  • 田端田圃、田端団地
  • 天神橋公園、善福寺川緑地カリン広場
  • 田端神社 (2024年4月8日 訪問)
    • 一の鳥居、参道
    • 地蔵尊立像 (123番)、延命地蔵菩薩立像塔 (124番)、庚申塔 (125番)
    • 忠魂碑
    • 遺跡跡
    • 手水舎、稲荷神社
    • 庚申塔 (119番、120番)
    • 力石
    • 社殿 (拝殿、幣殿、本殿)
    • 神輿庫、神楽殿
    • 御嶽神社
  • 矢倉遺跡跡


今日は旧井荻町の旧田端村を訪れる。ここにある田端神社は今年の4月に訪れているので、残りの史跡を巡る。


旧杉並村、旧田端村

田端村は、善福寺川流域の田圃の傍ら (端) に位置した村だった事から、田端村と呼ばれたと伝わっている。田端村には飛地の小字関口があり、室町時代には、関所の入口にあたる土地で、関口と呼ばれたという。室町時代には、このあたりは江戸氏と豊島氏の領地境で、 阿佐谷には、阿佐谷氏という武将が住んでいた。1698年 (元禄11年) に田端村は成宗村と共に岡部領から幕府直轄の天領になっている。1889年 (明治22年) の町村制施行で成宗、田端、天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺の六ヵ村が合併して、杉並村が成立し、田端村は東多摩郡杉並村大字田端になっている。江戸時代の田端村の五つの小名は関口が小字中通と小字関口に分割され、小名田端が名を小字本村に変わったが、そのまま小名が小字に変わっただけで区割りには変化はなかった。


小名 田端 (本村)

江戸時代には幕府直轄の天領だった小名田端は田端村の本村で、田端で最初にひらかれた地域で、杉並区内では珍しく広い水田があり、その田圃の端の土地に民家があったので、田端の地名が起こったという。

田端村の小名田端は1889年 (明治22年) に田端村が他の村と合併し井荻村になった際に大字田端小字本村となっている。その後、井荻村は他の村と合併し杉並町となり、1932年 (昭和7年) の町名変更で、旧小名田端 (小字本村) と旧小名高野ヶ谷戸 (小字高野ヶ谷戸) は合併して西田町一丁目になり、更に1969年 (昭和44年) の住所変更で西田町一丁目と西田町二丁目の一部が荻窪一丁目~三丁目となっている。

江戸時代から明治大正時代までは民家の分布はほとんど変化がなかった。民家は田端田圃の北側に散在している。戦前までは民家の拡張はあまり見られず、住宅地が拡大を始めたのは戦後になる1990年代にはほぼ全域に民家が建設され、現在は住宅密集地となっている。



杉並中央図書館、読書の森公園

青梅街道の天沼陸橋の南に杉並中央図書館がある。この図書館は1952年 (昭和27年) に建設され開館している。翌年には図書館の前に公民館が建てられ、杉並区に中心地となっていた。図書館には読書の森公園が併設されており、花壇、竹林、広いテラスがあり、昼休みにはここで多くの人が訪れてランチをとっていた。


マハトマ・ガンジー像

図書館の杉並区立読書の森公園にマハトマ・ガンジー像が立っている。杉並区日印交流協会の有志会員が、杉並区とインドの友好のためガンジー修養所再建トラストへの寄付を行った事に対して、2008年にトラストから、友好のシンボルとしての贈呈されたもの。


杉並区立公民館跡、オーロラの碑

図書館と道を挟んで区立荻窪体育館がある。この場所には1953年 (昭和28年) に杉並区立公民館が建てられ、1989年 (平成元年) に老朽化により廃館になるまで、区民の教養向上や文化振興を図るため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主的活動が行われてきた。これらの活動のなかでも、1954年 (昭和29年) のビキニ環礁水爆実験に対し、杉並区議会で水爆禁止の決議がなされ、公民館を拠点として広範な原水爆禁止署名運動が行われ世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われている。この公民館館閉館の際に区民が記念碑建立請願を行い、1991年 (平成3年) にオーロラの碑が建立されている。この様な、公民館の活動の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いの永遠の平和を希求した記念碑になる。


大田黒公園

中央図書館から南に進んだ所に大田黒公園がある。ここは普通の公園では無く、音楽評論家の大田黒元雄氏の屋敷跡地の回遊式日本庭園を公園として公開している。正門は総檜、切妻造りで、屋根は棧瓦ぶきになっており、敷地は築地塀で囲まれている。門から大イチョウの並木道が伸びて回遊式日本庭園に導いている。

庭園は緩やかな起伏があり、川や池も造られ、歩いていて気持ちが良い。是非とも訪れて欲しいスポットだ。茶室や東屋も置かれている。

芝生の広場の先には、大田黒氏の仕事場として昭和8年に建てられたレンガ色の西洋風の建物が記念館として保存されている。室内には大田黒氏愛用のピアノや蓄音機などが展示されている。


馬頭観音 (121番)

大田黒公園の南の住宅街に辻の角に堂宇があり、その中に馬頭観音が祀られている。ここの東西の道は江戸時代から存在し、道沿南側には集落があった。この集落の人によって造られたのではと思う。1756年 (寶曆六丙子年八月彼岸日) に願主光圓により造立された舟型石塔正面には合掌二臂の馬頭観音が浮き彫りされ、その横には「念佛供養爲法界萬靈 谷戸」とある。

角川庭園

馬頭観音堂宇から南に進むと角川庭園がある。俳人で角川書店の創設者である角川源義 (1917-1975) の旧邸宅を、2005年 (平成17年) に遺族からの寄贈を受け、整備した庭園になる。庭園の他に展示室や近代数寄屋造りの幻戯山房が整備されている。

石畳の小道の先には幻戯山房に併設された茶室があり、その前の庭には水琴窟が置かれ、近づくと清らかな音が聞こえていた。


田端田圃、田端団地

角川庭園から善福寺川に向けて南に進むと荻窪団地が見えてくる。この場所は江戸時代から昭和時代初期までは善福寺川流域では最も広い水田地帯で昭和初期までは田端田圃と呼ばれていた。荻窪団地は1958年 (昭和33年) に建てられ、中層4~5階建ての建物 (875戸) が並び、当時は最先端の高級賃貸住宅として人気を集めたのだが、2000年を過ぎた頃から、老朽化が目立ち、古い間取りや狭い床面積で時代遅れの団地となっていた。

以上の理由から荻窪団地は2011年に建替えられシャレール荻窪 (411戸) が誕生し、現在に至っている。

中層を維持して床面積を以前よりも広く取り、設備も最新のものを導入、団地内に幾つかの公園の造り、生活環境が向上している。


天神橋公園、善福寺川緑地カリン広場

田端田圃跡から南に進むと途中に南北に全長150メートルの細長い伸びる天神橋公園がある。元々は水路だった。善福寺川から北の田端田圃へ給水していたのだろうか?この水路を暗渠化し、その上を公園として整備されており、子供向けの遊器具も置かれている。天神橋公園を抜けると善福寺川緑地の中にあるカリン広場に着く。善福寺川緑地整備事業で2007年 (平成19年) に雨水貯留浸透機能にある公園を造園し、公募でカリン広場と名付けられている。公園には何本もかりんの木があり、たくさんの実が付いていた。実は毒性があり、加工しないと食べれないが、かりんの香りが楽しめるかりん風呂は聞いた事があるので、落ちている実を拾って持って帰ることにした。


田端神社 (2024年4月8日 訪問)

善福寺川緑地カリン広場の東側に田端神社がある。ここには今年の4月8日二訪れている。ここ二載せた写真はその時のもので、桜が咲いていた時期だった。田端神社の由来については応永年間(1394~1427)に、足利氏と上杉氏が戦った時、品川左京の家臣の良影がこの地に土着して京都の北野神社の分霊を祀って天満宮を創建したとされる。当初は菅原道真を祀り、北野神社 (天満宮) と呼ばれ、産土神と崇められるようになったという。この北野神社は1834年 (天保5年) まで田端村の天桂寺が別当職を、以後明治維新まで下荻窪村の中道寺が別当職を勤めていた。1909年 (明治42年) に村内の各小字の鎮守であった天祖神社 (大日雲命 [天照大神] 成田東3丁目24番地 [小字 関口])、子ノ権現神社 (大国主命 荻窪3丁目19番地 [小字 本村])、稲荷神社 (受持神 成田西2丁目21番地 [小字 大ヶ谷戸])、山神社 (大山津見神 荻窪2丁目4番地 [小字 高野ヶ谷戸]) の四社を合祀した。子ノ権現神社は良影の子良枝が創建したといわれている。かつて甚しく足痛に苦しめられ、ある夜、信仰せる出雲大神が夢の神託に「汝わが槌をもって痛む足を撫れば速かに癒ゆべし」といわれ、直ちに使を出雲大社に向けて槌を持ち帰らしめ、痛む足を槌で撫でたところ全癒した。よって庭内に小祠を建て、大国主命を祭神としたのが子の権現社であるという。以来、近郷で腰痛・足痛の神として崇められ、神社には小槌が数多く納められている。

合祀後、1911年 (明治44年) に社号を田端神社と変更している。一説には神社が田の端にあることから田端神社と呼ばれる様になったというが、この地は江戸時代にも田端と呼ばれているので、ずっと昔の北野神社時代から、俗称で田端神社と呼ばれており、この俗称が村の名称となったとも考えられるだろう。明治時代には64戸の氏子をかかえていた。


一の鳥居、参道

参道入口には1910年 (明治43年) に建てられた石造りの一の鳥居が置かれ、ここから長い参道が社殿へと伸びている。参道は桜並木で桜の時期は終盤になっているが、まだまだ散っておらず見応えがある。戦前は八重桜が30本あったのだが、現在は一重桜に植替えられているそうだ。参道を進むと、その半ばに二の鳥居がある。明治以前に造られた木造の鳥居で旧稲荷社から移築されている。


地蔵尊立像 (123番)、延命地蔵菩薩立像塔 (124番)、庚申塔 (125番)

二の鳥居をくぐると参道脇に石仏群が置かれている。かつての田端本村の十字路西北の角地 (荻窪3-44-19) に南向きに造立されていたものを1972年 (平成9年) に移設している。向かって右から見ていくと

  • 地蔵菩薩立像 (123番): 正確な造立年は文字が摩耗しており不明だが、文化年間 (1804~1818年) に念仏供養のために女講中により造立された舟型石塔に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、右には「念佛供養」左には「女講中16人」と刻まれている。
  • 庚申塔 (125番): 1721年 (享保6年) に造立された駒型石塔に上部に日月が刻まれ、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。
  • 延命地蔵菩薩立像塔 (124番): 1798年 (寛政10年) に女講中15人と櫓講中4人により造立された舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。


忠魂碑

参道を進むと日露戦争の忠魂碑が置かれている。乃木大将の自筆を刻んでいる。


遺跡跡

忠魂碑の向かい側にひき臼石や少し変わった形の燈籠が置かれている。文化財では無く、参道のデザインの一部になっている。その中に埴輪も置かれている。違和感があり調べると、田端神社の東側を旧鎌倉街道が通り、境内は古墳であったといわれ、境内北側の畑から西暦300 ~ 1000年に作られた多くの土師器が出土している。この遺跡を表した埴輪なのだろう。この地域では他にも幾つもの縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が見つかっており、5-6世紀の古墳時代から人が住み着いていたと推測されている。


手水舎、稲荷神社

参道の先に手水舎が置かれ、その先に赤鳥居の稲荷神社がある。この稲荷神社は元々は小字 大ヶ谷戸の鎮守で現在の成田西2丁目21番地にあった受持神を祭神とした稲荷社を1909年 (明治42年) に北野神社 (田端神社) に合祀されたもの。戦後に、この近くの近衛邸にあった稲荷神社も、ここの稲荷神社に移し合祀されている。


庚申塔 (119番、120番)

稲荷社の脇には二基の庚申塔が置かれている。二基とも、境内の隣 接した住宅地、当時は田端田圃と神社の間の境目にあったものが移設されている。庚申塔 (119番): 向かって左には1677年 (延宝5年) に造立された唐破風笠付角柱型石塔で、その上部に日月が刻まれ、その下に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。また、「たはた村」とあり、11人の願主名がある。庚申塔 (120番): 右にも庚申塔があり、これも1718年 (享保3年) に造立された駒型石塔で、日天月天、瑞雲、戟、矢、宝輪、弓、二鶏が刻まれ、邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛立像、その下に三猿が浮き彫りされている。下部には「講中拾六人 田端村 成宗村 願主武井某 / 奉供養庚申」とある。


力石

稲荷社の参道側には江戸時代の末期から明治・大正にかけての奉納された力石が並べられている。神社では11個を所蔵しているそうだ。一番軽いものは28貫(105kg)、重いもには55貫 (206kg) もある。

当時の力比べの様子の絵馬が拝殿に掛けられている。


社殿 (拝殿、幣殿、本殿)

神明造の現社殿は1908年 (明治41年) に改築され、幣殿と本殿 (左下) は鉄骨造りで1966年 (昭和40年) に改築されている。本殿には菅原道真と明治時代に合祀された4つの神社の祭神が祀っている他に一体の石の神体も祀っている。


神輿庫、神楽殿

社殿の前の境内には神輿庫と神楽殿が置かれている。


御嶽神社

田端神社の境内末社二社の一つの御嶽神社が社殿に向かって左横にある。これは地元の御嶽講中が建立したもの。


矢倉遺跡

田端神社の東側では矢倉遺跡が発見されている。現在は杉並区 児童青少年センターとなっている。この場所では縄文時代中期 (約4500年前) の竪穴住居跡群を発見、古墳時代の住居跡の環溝、住居跡の北壁に竈跡が発掘されている。善福寺川沿いでは、白幡遺跡、谷戸遺跡など多くの縄文時代から古墳時代の遺跡が発見されている。善福寺川沿いは水に恵まれていたものから早くから人が定住していた事がわかる。この矢倉遺跡の近く北東に中世の物見櫓があった場所があり、これが矢倉の名の由縁という。


本村の史跡は以上の通りだが、この日は旧田端村の他の小名も訪れている。それらの訪問記は別レポートにする。




参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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