Ride in Kyushu Day 22 (6/1/19) Part 1 Hinoe Castle Ruins 日野江城跡 Hara Castle Ruins 原城跡

Hinoe Castle Ruins 日野江城跡
Hara Castle Ruins 原城跡
今日はこの島原を拠点に勢力を誇った有馬晴信の居城の日野江城跡に行き、その後、日野江城の支城であった原城に行く。

日野江城 Hinoe Castle Ruins

有馬晴信は先の訪れた大村城 城主の大村純忠の甥にあたる。晴信も熱心なキリシタンであった。家督を継いだ頃はキリスト教を毛嫌いしていたが、のちに洗礼を受けキリシタンとなる。キリシタンになった経緯は、通説ではポルトガルとの通商と軍事支援と言われている。領地の島原は佐賀の龍造寺氏の攻撃で領土が侵食されていた。これをポルトガルの支援で対抗しようとした。結果的には薩摩の島津氏と共闘で龍造寺氏を破り島原の領土を確保した。打算でキリシタンとなったとされるが、その後は熱心なキリシタンとなり、死ぬまでキリシタンとして生きた。大村純忠と同じ様に、寺院や神社を破壊して、代わりに教会を建てる程だった。領内には多くの宣教師を保護し、多くのキリシタンがいた。家臣の多くもキリシタンとなっていた。
日野江城の始まりは鎌倉時代まで遡る。建保年間(1213年 – 1219年)に高来郡を領する藤原経澄が築城。この時に藤原経澄は有馬と名乗りを変える。これ以降、日野江城は有馬氏の居城になる。有馬氏は島原半島の南部を支配していたが、13代城主の有馬晴信の時に半島全土に勢力を拡大し21万石迄になった。この時期に原城を支城として築城。しかし、佐賀からの龍造寺氏の攻勢に領土は南部に追い込まれてしまう。
キリシタン大名となった後は、城下にセミナリヨを建設し(当時はセミナリヨは安土有馬のふたつのみ)、逆に寺社を破壊し城の築材とした。日野江城跡からは、墓石などが石垣や石段に使われていたのが遺構として発掘されている。
晴信は常に勝者側についていた。島津、秀吉、家康と服属の立場を変えて生き残った。江戸時代では日野江藩の初代藩主となった。秀吉がキリシタン禁教令を出した後も、多くの宣教師や信徒を保護していた。しかし岡本大八事件で失脚、切腹を命じられた。キリシタンとして自害は禁止されているので家臣に斬首させたと言われている。最後までキリシタンであった。
晴信が処刑されたが、嫡男の直純が後嗣となった。直純は徳川家康の小姓として家康に可愛がられ、キリシタンであった妻・マルタ(小西行長の姪)を離縁してまで、家康の養女・国姫(桑名藩藩主・本多忠政の娘)を正室として娶った。更に国姫の強い要望でキリシタンを棄教した。この事で、父 晴信が処刑されたにも関わらず、本領安堵となった。しかし、キリシタン弾圧には家臣や領民からの批判の的になり、居づらくなったのか、転封を願い出て、慶長19年(1614年)に日向国延岡城に移封となり、有馬氏は約400年間にわたる日野江城に別れを告げた。
この後に松倉重政が入城するのだが、日野江城に不便を感じ、新たに島原城を建設し、日野江城は廃城となった。明後日には島原城に行く予定。
城跡は綺麗に整備されていて、城の構造がよくわかる様になっていた。支城の原城は世界遺産になったのだが、日野江城は世界遺産から除外された。そのせいか、この城に来ていたのは自分のみだった。広大な城の縄張りに何段にも曲輪が築かれ、本丸天守台迄は65mも登る程だった。少し安土城に似ている。ミニ安土城と言った感じだった。建物もない単なる城跡だが、見ていて飽きない城だ。

原城 Hara Castle Ruins

有馬晴信の時代に居城の日野江城の支城として築城された。日野江城からは5kmほどで、お互いの城は見通せて、連絡はタイムリーに行える場所にある。原城は海岸沿いにあり満潮時には城の周りは海水につかり、大手門からしか城にアクセスできない様になっていた。最近の城ガイドはVRが多くなってきており、そのアプリとデータをダウンロードして、データの該当する場所に来ると復元された城が見えるようになっている。島原の乱の時には、日野江城と共に廃城になっており、VRで復元された城はそれ以前のものだ。城は周囲四キロにもなる広大な城。
(to be continued)

1コメント

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  • sumito dohi

    2019.01.07 13:50

    う〜ん、全く知らないお話ばかりです。そもそもこのような城跡や史跡があること自体知りませんでした。。。 これだけ立派なお城があったということは、そこにそれだけの人がいたという事実がある訳ですが、現在の状況からはそんな当時の盛況ぶりを偲ぶことは難しいでしょう。だからなおさら時間の重みを感じられるとも言えます。 同じ九州人としてとても感じるものがありました。