Okinawa 沖縄 #2 Day 266 (11/09/24) 旧中城間切 北中城村 (01) Atta Hamlet 熱田集落
旧中城間切 北中城村 熱田集落 (あった、アッタ)
- 熱田シー
- 熱田公民館
- 島根殿 (シマニドゥン)
- 産井 (ンブガー)
- 東世ヌ御通所 (アガリユーヌウトゥシドゥクル)
- 山石敢當
- 中道 (ナカミチ)
- シマナーカの通りの井戸
- 前ヌ井 (メーヌカ-)
- 墓、井戸
- 根屋 (ニーヤー)、根所 (ニードゥクル)
- 根屋井 (ニーヤーガー)
- 和仁屋御嶽 (ワナウタキ、カンサギ)
- 東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ)
- イチバルガー
- 藍川 (エーガー)
- 梵字碑
- 松島ヌ井 (マツシマヌガー)
- 上ヌ井 (イーヌガー)
- 御待ち毛 (ウマチーモー)
- 龕屋跡
- 井戸跡
- ナカニシガー
- 井戸跡
- 熱田マーシリー
- 宮城御願 (ナーグスクウガン 未訪問)
- 米須嶽 (クミシダキ) (9/15 訪問)
- 和仁屋間のテラ (9/15 訪問)
旧中城間切 北中城村 熱田集落 (あった、アッタ)
近年の人口の減少が目立つが、これは県営北中城団地の世帯当たりの人数が減ってきていることが主要因だ。137戸3LDKで家族向けの集合団地でオープンしている。2004年には136世帯495人 (世帯当たり3.6人) が暮らしていたが、2023年末では122世帯295人 (世帯当たり2.4人) と大きく変化している。これは特に公営団地が抱える共通の傾向だ。4人家族で住み始めたが、30年も経つと子供は独立し、夫婦のみが残される。公営団地は家賃が安いので流動性はあまりなく人口が減少していく。これは行政にとっては課題なのだろうが、老夫婦団地で各家庭が幸せであれば問題にすることでもないだろう。
- 御嶽: 和仁屋御嶽 (カンザキ 和仁屋集落拝所)、米須嶽 (在 渡口)、下立御嶽 (三御前 神名、森ヅカサノ御イベ、神名、コバヅカサノ御イベ、神名、クモコズイノ御イベ 所在地及び比定地の記載なし)
- 殿: 浜川ヌ殿 (所在地及び比定地の記載なし)
- 拝所: 熱田シー、島根殿、東世ヌ御通所、根屋、根所、和仁屋間のテラ (在 和仁屋)、宮城御願 (在 渡口)
- 井泉: 産井、根屋井、藍川 (和仁屋集落拝井)、イチバル (和仁屋集落拝井)ガー、松島ヌ井、上ヌ井、前ヌ井
ケンドー (県道、現在の国道329号線)
熱田シー
熱田公民館
島根殿 (シマニドゥン)
熱田集落の重要な拝所は、公民館近辺に集中している。熱田公民館の敷地内には祈願の対象の波で浸食された大きな岩を背に建てられた島根殿がある。島根殿は元々は熱田御嶽 (アッタウタキ) と称し、別の場所にあった。熱田に来住した人のものと伝えられる遺骨があったが、倶楽部の神屋小 (カミヤーグワー) に移し、島根殿 (シマニドゥン) が建てられた。
東世ヌ御通所 (アガリユーヌウトゥシドゥクル)
熱田公民館の敷地内には西向きに建てられた東世ヌ御通所 (アガリユーヌウトゥシドゥクル) の拝所もある。単に、東世 (アガリユー) とも呼ばれている。ここは東世 (アガリユー) への遥拝所で、東のニライカナイ (琉球神話の理想郷、日本神話の根の国に相当) に向かっ豊穣を祈願していた。祠の横には手水鉢が置かれている。昭和15年に鳥居が設置された際に、この手水鉢が置かれたのだろう。これも戦前の国家神道政策の名残りだ。現在では各ウマチー、旧暦6月14日の綱引き、6月25日のウハチ、7月16日のエイサーで拝まれている。
産川 (ンブガー)
熱田公民館の北東側に産井 (ンブガー) がある。名の通り、集落で子供が産まれると、この井泉から水を汲み産湯 (ウブミジ) に使用していた。また、正月の若水 (ワカミジ)、死者の体を清める死水 (シニミジ) として湯灌の水や、産まれたばかりの赤ちゃんの額に水をつけるミジムイやウビナディ (水撫で) の儀式にもこの井戸の水を利用していた。現在では旧暦6月14日の綱引き、6月25日のウハチ、7月16日のエイサーで拝まれている。公民館の玄関にかつての産井の様子を描いた絵が掲げられていた。公民館の人が説明してくれたのだが、昔は産井の手前までは海が迫っていたそうだ。確かに絵ではその様になっている。
山石敢當
熱田公民館の南東側、民家の西側塀の外に西向きに泰山石敢當が立っている。石敢當は中国起源の除災招福の石柱で、魔除けの役割があるとして沖縄に伝わったもの。この石敢當は元々は「泰山石敢當」と刻まれていたのだが、琉球王国最後の第19代尚泰王 (在位1848〜1879年) の時代に、国王の名の字を使用するのは憚られるという風習に従い「泰」の字を削ったという。削った跡が残っている。この様な経緯で、「山石敢当」と呼ばれている。
中道 (ナカミチ)
シマナーカの通りの井戸
前ヌ井 (メーヌカー)
墓、井戸
根屋 (ニーヤー)、根所 (ニードゥクル)
更に中道を北に進んだ所に根屋 (ニーヤー) がある。根屋は熱田集落の創始者の屋敷で、その屋敷跡には石造りの根所 (ニードゥクル) と呼ばれる祠が建てられ、祠内には四つの香炉 (ウコール) と火の神の三つの霊石が供えられている。
根屋井 (ニーヤーガー)
根屋 (ニーヤー) の北、道を挟んだ北側には根屋井 (ニーヤーガー) があり、集落の創始者の根屋が利用していたと伝わっている。根所 (ニードゥクル) と共に、ウマチーに拝まれている。
和仁屋御嶽 (ワナウタキ、カンサギ)
中道を更に北に進み、集落の北部分に和仁屋御嶽 (ワナウタキ) がある。カンザキまたは根殿ともいい、広い敷地にクバの木が茂り、広場のゲートボール場北側にコンクリート製の祠がある。この地は熱田地内だが、熱田の拝所ではなく、和仁屋の拝所になる。昔は熱田集落でも拝んでいたが、現在では拝んでいない。 このあたりは、和仁屋集落発祥の古島といわれている。詳しくは和仁屋集落訪問記で触れる事にする。
東世ヌ御通し (アガリユヌウトゥーシ)
イチバルガー
藍川 (エーガー)
イチバルガーから北に進み、字和仁屋との境界線になっているクシガーラ (後川、和仁屋集落では和仁屋前川という) を渡る。今は細い水路になっている。
梵字碑
熱田公民館の北西にニービヌフニ(細粒砂岩)で造られた梵字碑が残っている。久しぶりに梵字碑を見る。資料によれば、北中城村には幾つかの梵字碑が見つかっているそうだ。大日如来の真言が刻まれており、石敢當と同じように魔除けの為に置かれたと考えられている。石敢當と同じだが、拝所とは扱われておらず、拝まれてはいない。
松島ヌ井 (マツシマヌガー)
上ヌ井 (イーヌガー)
集落のはずれ西側は高台になっている。坂道を登って行くと井戸があった。
御待ち毛 (ウマチーモー)
集落北西に端に熱田児童公園が整備されている。この場所は御待ち毛 (ウマチーモー) と呼ばれた所だった。熱田を管轄していた大城ノロが熱田の祭祀のために来るのを迎えるため字役員が待った所と伝えられている。ウマチモー (御待ち毛) は上ヌ毛 (イーヌモー) とか種取毛 (タントゥイモー) とも呼ばれ、かつてタントゥイ (種取) では、立冬の季節に入ってから良い日を選び、籾を水に浸け発芽させ苗代に蒔いていた。当日は子供たちは、煎り豆をゲームヤー (ススキの穂の茎で編んだ小さい籠) に入れて食べながらタントゥイモーに集まり、角力を取って遊んでいたそうだ。
龕屋跡
井戸跡
ナカニシガー
井戸跡
熱田マーシリー
ある日、白川桃原樽金は商人から「勝連浜の村に琉球一番の美女が住んでいる」と聞き、わざわざ具志頭から遠く離れた勝連南風原の浜原という村に出掛けた。樽金は村で真鍋樽見つけ一目惚れしてしまい結婚を申し込んだ。真鍋樽も樽金に一目惚れをしたが、申し出には悩んでいた。そこで真鍋樽は樽金の人物か知るために謎掛けを出した。「二頭の馬に鞍を一つ載せて、一人で乗ってきて下さい」と言う。樽金は謎掛けが分からず、具志頭に戻り村の老婆に助けを求めた。老婆は「妊娠している分娩前の馬に鞍を載せて、今すぐ乗って行きなさい」という。その通りにすると、鍋樽は感心して樽金を一層気に入ったが、更に謎掛けを出した。「上のすだれと下のすだれが仲良くなった時に来てください」という。答えが分からず、樽金は老婆を再度訪ねた。老婆は「上のまぶたと下のまぶたが一緒になって眠った時分、つまり夜中に忍び込んで来なさい」と答えた。樽金は言われた通りに夜中に真鍋樽を訪ねると、謎掛けを解いた樽金に小刀、ご飯が入ったお椀、竹で作った箸がのったお盆を差し出し、そのまま自分の布団の床に就いてしまった。樽金は晩飯を出されたと思い、出された物を食べたのだが、すると真鍋樽は突然怒り出して樽金に「帰れ」と言って家から追い出してしまった。意味も分からず失恋した樽金は、老婆に全ての経緯を話すと「これは、直ぐに私を抱いてくれという意味だ」と謎解きをしてくれた。小刀は沖縄の言葉で「シーグ」で「直ぐに」という意味、お椀は沖縄の言葉で「わん」は「私」、竹は「ダキ」で「抱き」という意味、米は「込め」で、「直ぐに私を抱き込め」という意味だと言う。樽金は自分の浅はかさに後悔し、恋に焦がれた挙げ句、恋の病で死んでしまった。真鍋樽も、樽金を気に入っていながら素直になれず謎掛けを繰り返した事に後悔しつつ、同じように恋に焦がれて死んでしまった。二人の遺言で男は女の見える場所、女は男に見える場所に遺骨を納めるようにとあり、具志頭と勝連南風原から両方の村の人々が遺骨を運んで来て、丁度、この熱田マーシリーの拝所で二人の遺骨が出会い、この地に樽金と真鍋樽を合葬し墓が造られた。
宮城御願 (ナーグスクウガン)
米須嶽 (クミシダキ) (9/15 訪問)
和仁屋間のテラ (9/15 訪問)
泊大屋子 (トマリウフヤシー) が海にいると波に黒い石が浮いていた。よく見ると妊婦の様な不思議な形をしており、この石を渡口の浜に引き揚げて祀り、浜崎の寺としたところ渡口村は栄えたという。
昔、渡口村に住んでいた高時という人が一つの変わった形の霊石を得てこれを尊んで宮を建てて安置したとされており、祭祀は竈与儀 (かまどぅよぎ) という人物が代々の責任者だった。
本日の熱田集落散策ログ
参考資料
- 北中城村史 (1970 安里 永太郎)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第2巻 民俗編 付録 (1996 北中城村史編纂委員会)
- 北中城村史 第4巻 戦争・論述編 (2010 北中城村史編纂委員会)
0コメント