Ride in Kyushu Day 18 (2/1/19) Part 1 Nagasaki Peace Park 長崎平和公園

Nagasaki Peace Park 長崎平和公園
Nagasaki Atomic Bomb Museum 長崎原爆資料館
Urakami Cathedreal 浦上天主堂

see Part 2
Site of Former Nagasaki Naval Training Institute 長崎海軍伝習所跡
Megane Bashi (Spectacles) Bridge 眼鏡橋
Historical Town House 町家
Teramachi-Dori (Temple Street) 寺町通り
Kameyama Shachu 亀山社中
長崎訪問の大きなテーマは原子力爆弾を投下された街を見る事だ。60年もたって完全に復興しており、過去を振り返る場所が平和公園だ。今は多くの観光客が訪れる場所となっている。長崎市民の憩いの場所にもなっている。公園の名のごとく、平和な街になった。
観光地とは言え、公園の至る所で慰霊碑がたっている。それぞれが原爆の悲劇にあった団体が建てている。公園を歩く際に、その慰霊碑が目に入り、当時の悲劇を考える機会となる。
Nagasaki Peace Park 長崎平和公園
公園の内にはいくつかの博物館、美術館、資料館があるのだが、年始ということで、原爆資料館以外は休館。駐車場の管理人さんが休館だからそこに自転車停めて良いよと言ってくれたので、堂々と博物館入口に立てかけた。早速公園に向かうと原爆投下場所に祈念碑があった。ここを中心に平和公園が作られている。半分は過去と未来を考える祈念公園で、道路を挟み、現在の平和を楽しむスポーツ施設がある。
様々な団体が慰霊碑を建てている。会社関連、地域団体、韓国/朝鮮、中国など実際に仲間が被災した事の追悼と忘れずに語り伝えるためであろう。ひとつひとつが戦争の悲惨さ、それを起こした人間の愚かさ、原爆を使うという暴挙について語りかける。
日本だけで無く、海外の国からも慰霊碑が送られ、この公園で見ることができる。[写真の左上から右へ] イタリア (人生への賛歌)、ポーランド (生命と平和との花)、オランダ (未来の世代を守る像)、ソビエト (平和)、ブルガリア (Aコール)、中国 (乙女の像)、オーストラリア (生命の木)、ドイツ (諸国民友好の像)、チェコスロバキア (人生の喜び)。そのほかにもポルトガル、キューバ、ブラジル、トルコ、アメリカなどの慰霊碑もあった。各国の思いの程度には差があるだろうが、日本だけで無く海外からの訪問者がこれらの慰霊碑を見ることにより、この戦争や原爆投下の事実を日本の一都市の問題で無く、世界の問題と捉える人も少なからずいるのではないだろうか。
公園の最も奥に、平和祈念像がある。「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」としじもとの彫刻家が作ったものだ。この前の広場で式典が行われていて、テレビ放送では必ず出てくる。知らない人はほとんどいないだろう。この像はから個人的に感じるのは、人間のたくましさだ。原爆は歴史の一通過点でこれに屈服するのではなく、そこから得た知恵で進んで行くのが人間だと言っているようにも思える。
長崎原爆資料館 Nagasaki Atomic Bomb Museum 
公園を明るいうちに一通りにてまわった後、資料館に入る。1時間もあれば見れるだろうと思い、閉館5:30で4:30に入った。中身は非常に充実しており、じっくり見るには少なくとも半日から1日費やすぐらいの内容だった。もっと早く入れば良かったと思う。入るとまずは原爆投下の時間で止まった壊れた時計。更に破壊された遺構を展示している大きな部屋。そこではモニターに原爆の残酷さがこれでもかと言うぐらい流れている。焼け焦げた死体。かろうじて生き延びた人達の痛ましさ。かなりショッキングなスタートだ。原爆投下は戦争を早期に終わらせる為と言ってはいるが、日本が降伏するのは時間の問題だった事は米国は予測していたはず。数ヶ月前から原爆投下は計画しており、どこに投下するかが何度も検討されて絞り込まれた。米国軍司令部には一大プロジェクトだった筈。日本が降伏してはこのプロジェクトがなくなってしまうので、その前に遂行してしまったのではないか? それにこれは通常の空襲で無く無差別殺戮である事は確かだ。空襲の場合は米国は事前に予告通知のビラを投下して、一般市民には避難を勧告していた。原爆のケースは未通知でやることになっていた。ビラの投下しようがないだろう。これが戦争の醜さだ。人間の理性を麻痺させてしまう。日本軍もそうであったが、米軍も同じだ。麻痺した戦争のプロ達に作られた悲劇、いや、犯罪だろう。
資料館では、淡々と事実のみを展示して、その評価は見る人に委ねている。それで良いと思うし、そうすべきだ。その奥には、人間の良心を信じるというメッセージがあるように感じた。今度来るときは、1日かけて見てみたい。
破壊された街に残されたものを展示している。焼けただれた石、溶けて固まったガラスや金属、それに今でも残る後遺症など。
敢えて、モニターで流されていたショッキングな写真を載せておく。いつまでもこの悲劇を忘れない為に.....
この悲劇を表現した作品も展示されていた。どの様な思いで、これに取り組んだのだろう。憤り、哀悼、挑戦、記憶.... 色々な思いだったのだろう。
絵巻物の一部
浦上天主堂 Urakami Cathedreal
浦上天主堂は1873年、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達が祈りの場を作ろうと言うことが発端で計画されたが、資金難で、約20年後の1895年にようやく教会の建設が開始され、1914年にレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として完成した。1945年の原爆により建物は破壊されてしまった。原爆投下場所からわずか500mしか離れていない。資料館では1km地点では生存率0%と言ってはいたので、この付近の信徒は皆亡くなってしまった。
 現在の建物は1959年に鉄筋コンクリートで再建されたもの。当時の姿に似せて復元されている。
被爆遺構の石像などが残っていた。長崎はキリシタン迫害、それに原爆という2度にわたる試練をくぐり抜けて今日がある。
原爆で破壊された後の状態の写真が残っている。教会の周りはことごとく破壊されて、建物など残っていない。ただ浦上天主堂のみ破壊はされてはいるが、残っている。痛々しい姿だ。
長崎原爆に触れた事は良かった。思った以上に悲惨だった。来なければ真剣に考える機会もなく、日常の平和を当たり前と思っていたのだろう。東日本大震災の被災と同じく、無理矢理に命を奪われた人達や家族の事を思うと今の自分は恵まれていると思う。生かされている者はその生に対して謙虚で真剣であるべきと思った。

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