Ride in Kyushu Day 7 (22/12/18) Kanzeon Temple / Iwaya Castle Ruin / Mizuki 観世音寺/岩屋城/水城
Kanzeon Temple
Kaidan-in Temple
Iwaya Castle Ruin
Ono Castle Ruin
Mizuki Fort
観世音寺 Kanzeon Temple
観世音寺は7世紀後半、天智天皇の発願で母・斉明天皇の供養のために創建。完成には80年あまりの歳月が流れ、746年に完成の供養が行われた。最盛時には、49もの子院を擁していた。晩年、ここ太宰府に流され、寂しい終焉となった菅原道真が詠んだ漢詩の「都府楼はわずかに瓦色を看 観音寺はただ鐘声を聴く」この観世音寺の鐘のことだ。太宰府政庁には立入りを禁止されて屋根の瓦だけしか見えない、観世音寺の鐘はその音が聞こえるだけ という晩年の切ない心情を表している。訪れた時はほとんど人もおらず、静かで、落ち着くところだが、同時に全盛期があっただけに寂しさも出ている様に思えた。
玄昉僧正墓
遣唐使に学問僧として随行、在唐は18年に及び、その間当時の皇帝であった玄宗から紫の袈裟の下賜を受けた程。帰国後、聖武天皇の信頼も篤く、吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世した。数々の功績があったが、人格に問題があり敵も多かった。藤原仲麻呂が勢力を持つようになると、天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷、封物も没収。翌天平18年(746年)観世音寺造立供養の最中に殺されたと言われている。確かに頭はきれただろうが、その性格で敵が多すぎた。この時期に唐に留学し、帰国後大いに貢献した人物が3人いる。玄昉僧正、吉備真備、菅原道真。3人とも左遷されている。吉備真備は復活し成功。菅原道真は都への想いを持ちつずけ寂しい最期、そして玄昉は暗殺という対照的な晩年だ。
戒壇院 Kaidan-in Temple
観世音寺の重要な一部であった。今は宗派も違い、別の寺となっている。出家僧の授戒の場所を戒壇という。当時の三戒壇の西戒壇としての西日本で僧侶を目指す若者がここで学び修行をしていた。唐から帰った鑑真が創設。境内には唐から持ち帰ったと伝わる菩提樹がある。金堂の中には三体の仏像が安置されていた。中央は12世紀の作とされる毘廬舎那仏、左は弥勒菩薩 (未来に人々を救済する)、右は文殊菩薩 (学業成就のご利益)。
岩屋城 Iwaya Castle
今度は戦国時代真っ只中の中世の山城に登る。大友宗麟の家臣 高橋鑑種が16世紀半ばに、四王寺山(先に訪れた大野城がある)の中腹(標高291メートル)に築城。立花城と共に大友家の筑前支配の拠点であった。高橋鑑種は大友宗麟の奇行のせいか離反し、城から追われた。大友家の宿老 吉弘鑑理の子で吉弘鎮種が高橋氏の名跡を継いで高橋鎮種(後の高橋紹運)と名乗り宝満・岩屋の両城主となる。その後、大友宗麟は豊臣秀吉に従うが、天正14年(1586年)7月13日、島津氏が総勢2万で攻め寄せ、(今日訪れた)観世音寺に陣を設け、岩屋城に700余名と共に篭城する紹運を攻めた。2週間の間、頑強に抵抗したものの、各出城や砦が次々と陥落、城主紹運も自ら薙刀を取り敵中に入ったが、力尽き、高櫓の上に登り自害。残された将兵もあとを追い玉砕、天正14年7月27日に落城となった。城の少し下ったところに紹運とその家臣の墓が立っている。
太宰府政庁に自転車を止めて登ってきたのだが、かなり急斜面だった。写真で分かるように、山の頂上に城があり、太宰府天満宮や観世音寺の島津勢の動きが一望できる。
疲れてる!
岩屋城は大野城とは位置関係が重なっている。2日前には大野城の半分をまわった。せっかくここまで来ているので残り半分も行くことにする。今日歩いた所は2日前の旅日記に一緒に記載している。周り終わり山道を下り麓に近くなった時に歩いている人がいたので声を掛けた。地元の人の様だ。それから太宰府政庁近くまで15分ほど、話しながら一緒に下りてきた。平岡浩さんという。ここ太宰府に住んで、画家をやっておられる。田舎の田圃風景が好きでここに住んでいるそうだ。色々なところ、特に田圃などが残っている田舎を訪れて絵を描いているそうだ。いつもは描いた絵葉書を持ち歩いて会った人に渡すのだが、今日は生憎持って来なかったと謝られた。優しく話す方で、自然と向き合い、共に生きている様な感じがした。短い間だったが楽しいひとときであった。今日は良い日だ。平岡さんがどんな絵を描いているのか気になったのでインターネットで検索すると、ヒットした。それもいっぱい。個展も何度も開いている。そこそこ知る人ぞ知る画家の様だ。
水城 Mizuki Fort
天智2年8月(663年10月)に白村江 (Battle of Baekgang、백강 전투) で唐・百済連合軍に敗れた事が、朝廷に今すぐにでも唐・新羅軍が攻めてくるのではとの脅威があり、防衛体制の整備を行なった。主要な政務機関を太宰府に移し、鴻臚館から太宰府へのへの公道に巨大土塁を築き、太宰府の博多方面の守りを固めた。大野城も博多からの攻撃の対策の一つであった。有明海からの侵攻には基肄城を築いた。結局、その後新羅とは和解にいたり太宰府が脅かされる事は無かった。668年に高句麗が唐により滅ぼされ、新羅は唐からの侵攻を恐れ、倭国も敵にする状況では無かった事が背景にある。
この土塁は巨大で、大野城のある四大寺山と西側の牛頸(うしくび)の間を塞ぐ形で造られ、全長約1.2km、高さ9mもある。東西の端部の東門と西門が設置されていた。多くの土塁を見たが、これ程大規模のものは無かった。
この後、約20キロ走り佐賀県に入り、鳥栖で泊まる。
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