Okinawa 沖縄 #2 Day 261 (18/03/24) 旧北谷間切 北谷町 (02) 字大村 (玉代勢本村・伝道本村)

北谷町 北谷集落 (チャタン)

字大村 玉代勢 (タメーシ、たまよせ)

  • 長老山 (チョーローヤマ)、北谷三箇合祀所
  • チブガー
  • 樹昌院 (ジュショーイン) 

字大村 伝道 (ディンドー、でんどう)

  • 塩川 (スーガー)
  • 北谷御先龍宮神
  • 北谷グスク
    • 東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) 
    • 殿 (トゥン) 
    • カガンガー
    • グスク火ヌ神
    • 西ヌ御嶽 (イリヌウタキ)、十三御香盧 (ジューサンウコール)
    • 金満按司墓?


前回、北谷集落、北谷ヌ前集落を訪問したが、まだ脚の調子は良くなく少し痛みがあり、遠出は我慢していた。痛みが引いたので今日は伝道と玉代勢本村を訪れる。


字大村 (おおむら)

北谷三箇は北谷、伝道、玉代勢を示し、この三つの村は北谷城の南側に隣接して形成生され、所謂、城下町だった。かつての伝道は現在の大村と吉原及び桃原、玉代勢は現在の大村と玉上に当たっていた。
伝道内には謝苅屋取集落と西桃原屋取集落があり、この二つの屋取集落は1940年 (昭和15年) に字謝苅として独立行政区となり、1949 年 (昭和24年) に字桃原の一部を吸収して字吉原となっている。玉代勢内には仲山屋取集落と屋宜屋取集落があり、1938年 (昭和13年) に字玉上として独立行政区となっている。玉代勢本村と伝道本村は1949年 (昭和24年) に合併して字大村となっている。
伝道本村と玉代勢本村の字大村のほぼ全土は戦後米軍基地として接収され、米軍軍人関係以外は殆ど人は住んでいない。2020年 (令和2年) に米軍倉庫地域となっていた北谷城周辺が返還されている。この地域が今後どの様に活用されるのかは、計画書も見当たらず不明。
字大村内の米軍基地のキャンプ端慶覧の返還については全く未定で少なくともこの先四半世紀は現状のままだろう。
伝道と玉代勢の拝所は米軍基地内にあるので、御願の為の立ち入りには事前に米軍の許可がいる。幸い北谷城が返還され見ることができるので、今日は北谷城中心に巡る。


字大村 玉代勢 (タメーシ)

玉代勢は北谷グスクの南東側に位置していた北谷三箇の集落で、北西側は伝道 (リンドー)、西側は北谷 (チャタン) に隣接していた。戦前には戸数76軒 (内 カーラヤーは16軒) が居住していた。玉代勢北部の山間部には板原屋取 (イチャバルヤードゥイ)、屋宜屋取 (ヤギヤードゥイ)、 仲山屋取 (ナケーマヤードゥイ) の屋取集落も存在していた。

玉代勢集落の真ん中を走る道で上村渠 (イーンダカリ) と下村渠 (シチャンダカリ) にワラビジナの組に分けられていた。また、砂糖組 (サーターグミ) も血縁関係で上組 (イーグミ) と下組 (シチャグミ) に分かれていた。主業は農業で、芋やサトウキビ、米などを作っていた。共同の砂糖小屋 (サーターヤー) が、村屋 (ムラヤー) の北側に2か所あり、東側が

上組 (イーグミ)、西側が下組 (シチャグミ) のものだった。


玉代勢集落の拝所

  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: 長老山、前城島御風水神、土帝君
  • 井泉: チブガー、ヒージャガー、スミムンガ一、根神井 (ニーガンガー)、女井 (イナグガー)

玉代勢集落で行なわれた祭祀行事

集落は沖縄戦で米軍に接収され、未だ返還されておらず、住民は他集落へ分散し生活しているが、玉代勢は団結の強い集落で旧集落住民は郷友会を組織し、この郷友会中心に、諸行事を行なっている。
  • ニングワチャー (クシユクワーシ 旧暦2月2~3日): 上組と下組の2つに分かれて行なわれる。初日は集落の入口5か所に、しめ縄と肉を吊り下げて、フーチゲーシを行ない、アランモーの土帝君 (トゥーティークー) を拝んでいた。
  • ワラビジナ (旧暦6月25日): 13~14歳以下の子どもたちが参加する綱引きで、毎年行なわれていた。
  • ウーンナ: 寅年にはチャタンサンカ合同で大綱引き (ウーンナ) が行なわれる。
  • エイサー (盆 旧暦7月15~16日): 北谷 (チャタン)、伝道 (リンドー)、玉代勢 (タメーシ) の北谷三箇住民が樹昌院 (ジュショーイン) に集まり奉納舞踊を行い、下村渠 (シチャンダカリ) から上村渠 (イーンダカリ) へと各家をまわり、酒を2合ずつもらっていた。 


長老山 (チョーローヤマ)、北谷三箇合祀所

キャンプ瑞慶覧の敷地内に長老山という小山がある。キャンプフォスターのフェンス越しに見えるのだが、米軍キャンプ内なので自由には入れない。長老山付近には沖縄にはじめて臨済宗妙心寺を伝えた樹昌院 (ジュショーイン) と呼ばれる寺があった。
樹昌院の南東側の長老山には北谷長老 (南陽紹弘禅師) をはじめ、樹昌院歴代の住職を葬った墓所になっている。初代住職の南陽紹弘禅師は死期が近い事を感知し、人を一切近づけず自ら食を取らず、薬を断り一人寺を出て、この長老山の大木の上で禅定の末に亡くったと伝えられている。
この長老山には米軍用地として集落を接収された旧字北谷のカー神をはじめ、旧字伝道や玉代勢の拝所が各字毎に合間されている。米軍基地内ではあるものの、毎年旧暦9月15日には、この地で長老祭が行なわれている。
この直ぐ東が前城島 (メーグスクジマ) と呼ばれた場所で、龕屋 (ガンヤー) があり、北谷三箇で利用していた。

ここで祀られている拝所は以下の通りだが、インターネットに写真があったので掲載しておく。

  • ウスクガー: ハツドーキヤー (発動機屋) の近くにあった湧水でウスクヌイジニングゥーとも呼ばれた。
  • カンタヌカー: カンタヌカーグァーとも呼ばれ、ナカイサーラバルの中のユナフィバルとナカイサーラの山がぶつかるところにあった。雨が降らないと枯れるぐらい水量は少なかったそうだ。北谷村の始祖 (ハダカ世) が使用したカーと伝えられる。
  • スミムンガ一: 屋号川ヌ端小 (カーヌハタグワー) の屋敷内にあった井戸で泥水が溜まっていたため、普段の飲み水や生活用水としては使われていなかったが、造りは立派な井戸だった。泥染めに使う井戸だとい う言い伝えがあった。
  • 根神井 (ニーガンガー): 戦前の北谷集落、屋号大城安里と前城津嘉山の屋敷境界付近、西側に所在した。この井戸は、北谷ノロをはじめ、ムラの女性神役たちの斎戒沐浴に使用され たと伝えられている。
  • 女井 (イナグガー): ヌルシンガー (ノロ神のカー) とも呼ばれる。かつては伝道集落の西側に所在した。
  • クゥーディーサービジュル (竜宮神): 字北谷と北谷ヌ前屋取) の境のクゥーディーサーグムイのクヮーデイーサーの樹の下にあった拝所でビジュルが置かれていた。
  • 前城島御風水神: その性格などについては不明。

チブガー 

戦前の玉代勢集落は米軍に接収され、現在でもキャンプ端慶覧内で返還されずにいる。戦前の集落では井戸は各家にあったが、かつての集落に東端に玉代勢集落の村井 (ムラガー) の樋川のチブガーがあった。産井 (ンブガー) でもあり、元旦の若水 (ワカミジ) はこのチブガーから汲んでいた。戦後の一時期にはチブガーに置かれていた香炉 (ウコール) を長老山の合祀所に移し祀られていた (写真左上)。井戸は県道130号線の工事の際に発生した崩落によって埋没してしまったのだが、2004年 (平成16年) に米軍の文化財保護政策の一環としてかつての形のまま復元されている。また、このチブガーの一帯は苗代田 (ナーシルダー) だった。

樹昌院 (ジュショーイン) 

長老山にあった臨済宗妙心寺派の瑞雲山樹昌院は、現在は大村字の北側に再建されている。米軍基地の間の道を白比川と新川に合流地点のタマタに向かって進んだ所にある。樹昌院は17世紀前半に本尊を千手観音菩薩として南陽紹弘禅師 (北谷長老) の開山とされる。南陽紹弘禅師は1580年にこの北谷で生まれ、13才で仏門に入り、19歳で修行のため日本に渡り、各地の霊所や寺院を渡り歩いた後、奥州松島瑞巌寺で学び、法嗣となって沖縄に帰国し首里の建善寺の住職となった。当時、沖縄での仏教は国を守護するものとされ、一般庶民を救うものとは考えられていなかった。この世俗を嫌った紹弘禅師は故郷の北谷玉代勢に帰り樹昌院を創建し、妙心寺派宗統を初めて琉球に伝えた。南陽禅師は、弟子の育成に努め、村民に仏法を説いて清僧を貫いた。病気の治癒、水田の害虫駆除にも寄与し、北谷長老は人々の為に仏教の教えを説き、自らも田畑をたがやし農業の指導をし等人々の福祉を図ることに努め、村民に崇敬された。明治23年に当時法灯も絶えていて、無住の寺であったのを岱嶺 (たいれい) 和尚が再建した。沖縄戦後、再度無住の状態が続いていたが、1976年 (昭和51年) に字吉原の西桃原に仮寺院 (写真右下) が再建され、喜瀬守禅師が正住職となり、1978年 (昭和53年) に瑞雲守禅和尚により中興されている。現樹昌院の本尊は釈迦座像、右脇士が達磨大師、左脇士が地蔵菩薩となっている。その後、2011年 (平成23年) に大村の現在地に本堂、山門、鐘楼、庫裏などが落慶されている。
南陽禅師 (北谷長老) は、この北谷では現在でも崇敬されており、毎年長老山の歴代住職の墓で長老祭が行われている。地元吉原には北谷長老酒造工場があり、その名酒「北谷長老」は人気の銘柄だ。またエイサーでは真っ先にこの樹昌院に奉納されているほどだ。仏教が広まらない沖縄では、檀家もある特異な寺院の様に思える。また、開祖の北谷長老には幾つもの逸話が伝わっている。首里から北谷まで、蟻や小動物を踏みつけないように気を付けて歩いたという逸話もある。


字大村 伝道 (リンドー、ディンドゥー)

北谷グスク南側の麓には戸数25軒 (内 カーラヤー 5軒) の伝道 (リンドー) 集落があった。
北谷 (チャタン) と玉代勢 (タメーシ) とともに北谷三箇 (チャタンサンカ) と称されていた。村の成立については、北谷村・玉代勢村とともに一村を形成していたが、1609年 (慶長14年) の島津氏の琉球侵攻前後に独立したとする説と前城村から分離独立したとする説の二説がある。北谷三箇では、ほとんどの行事を、この三集落合同で行なっていた。 伝道の屋取集落として謝苅屋取 (ジャーガルヤードゥイ)、桃原屋取 (トーバルヤードゥイ)、崎門屋取 (サチジョーヤードゥイ) があり、字伝道を形成していた。伝道集落の主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。サーターヤーは1か所で、ここを村共同として使用していた。処理できなかったサトウキビは荷馬車に乗せ、ケンドーを通り、嘉手納の製糖工場へ持って行った。北谷に発動機屋 (ハツドーキヤー) があったが伝道の人たちが使うことはなかった。 フィリピンやペルーなどへの出稼ぎ人も多かった。マチヤなどはなく、日用雑貨などは北谷 (チャタン) へ買いに行っていた。 個人宅の井戸は1軒だけで、住民はチンガー、リンドーガー、ヤマガーなどを利用していた。
集落のほぼ真ん中にヤマガマーと呼ばれる拝所があり、ニングワチャーのときに拝んでいた。この辺り伝道集落発祥地と言われている。
沖縄戦後、伝道集落域は米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧内となり人々は他集落へ分較して暮らしている。

伝道集落の拝所

  • 御嶽: 東ヌ御嶽、西ヌ御嶽
  • 殿: グスクヌ殿
  • 拝所: ヤマガモー、グスク火ヌ神、按司墓のお通し (ウトゥーシ)、ミフーダ (御穂田)、北谷御先龍宮神
  • 井泉: 塩川 (スーガー)、カガンガー、ヤマガー (未訪問)、ウージガー (ホースガー 未訪問)、チンガー (イーバシガー 基地内)、リンドーガー (未訪問)、ヰナグガー (合祀)

伝道集落で行なわれた祭祀行事

  • ニングワチャー (クスックィー 旧暦2月2~3日く): ヤマガマーを拝んだあと、ごちそうを食べ、三味線を弾いたり、踊ったりして遊んだ。
  • ワラビジナ (旧暦6月25日): 豊年祝いで、この日の夜には子どもだけの綱引きを開催していた。ワラビジナの際には伝道集落内の南北に走る道の東側を上村渠 (イーンダカリ) と西側を下村渠 (シチャンダカリ) に組分けして綱引きが行われた。
  • ウーンナン: 寅の年に北谷三箇合同で昼に大綱引きウーンナが行なわれる。
  • エイサー (旧暦7月): この日には忌中の家以外は全部の家を回り、集落外では北谷のノロ殿内と樹昌院の2か所には必ず行って、奉納舞踊をしていた。 
  • シマクサラシ (旧暦8月): 病気や災害が入ってくるの を防ぐための魔よけの行事で、集落の入口6か所に、竹を2本立て、そこにしめ縄を張り、真ん中に豚肉をつるした。 豚の血はナカミチに置いておき、各自でギキチャーで豚の血を家の四隅につけていた。


白比川 (シルヒージャー)

北谷グスクの北を流れるのが白比川 (シルヒージャー) でケンドーからの下流部分は北谷川 (チャタンガーラ) とも呼ばれている。また新川 (アラカー) と合流する地点をタマタと呼びそこから上流はシガイガーラと呼んでいた。

塩川 (スーガー)

集落の西、北谷グスクの麓に塩川 (スーガー)がある。グスクグサイニーガとも呼ばれていた。現在ではコンクリート造の建物のなかに半円形の井戸が残っている。昔は1mぐらいのつるべがあったそうだ。塩川 (スーガー) は水質が良かったそうで、戦前までは、字北谷の人々が、生活用水や正月の若水 (ワカミジ)、産水 (ウブミジ)、また、お茶用や豆腐作りにも使用されていた。戦前にはニングゥチャーでも拝まれていたが、現在では、正月3日の (初拝み) ハチウビーと、8月11日の (井拝み) カーウビーの際に北谷ノロ殿内によって拝まれている。
塩川の隣には按司墓のお通し (ウトゥーシ) が置かれている。多分、北谷グスクの北側の崖にあった金満按司か大川按司の墓への遥拝所だろう。更にその隣には(遥拝所)、ミフーダ (御穂田) の拝所もある。この塩川の前にはナシールダ (苗代田) があったので、そこの拝所と思う。
塩川の奥は急峻な崖になっており、そこには幾つもの掘り込み墓 (フィンチャーバカ) が並んでいる。どれも今では使われておらず、墓口は開いており、中には骨壷の破片屋や骨の一部が散乱している。

北谷御先龍宮神

更に塩川拝所の後方の崖壁には、北谷御先龍宮神と書かれた拝所がある。北谷には龍宮神を祀った拝所が多くある。その一つかと思っていたが、この地を管理している北谷郷友会から撤去を求められているので昔からあった龍宮神の拝所ではない様だ。沖縄ではシャーマニズムが根強い地域でシャーマンとしてのユタが多くおり、ユタが啓示を受けたとかユタに相談して拝所を設置している事が多い。拝所を巡ると、その傍らに不明の拝所が新しく造られているのを目にする。昔から村の聖域として拝んでいる人達にとってはあまり快い事ではない様だ。また文化財となっている拝所でも同様で、管理者は困っているのだが、強制撤去はしない様だ。
更に奥の崖に中腹に古墓が残っている。これ崖葬墓といって沖縄では最も古い墓の種類で崖の空間を石積みで塞いでいる形になっている。

北谷グスク

白比川 (北谷川) の南に標高約44mの丘陵地に東西約500m、南北約150mの北谷グスク跡がある。かつては丘陵麓まで海が迫り、洋上に突き出た地形は天然の要害をなし、丘陵の南北に良港となる河口を持ち、防衛と交易に適した地形であったと予測される。13世紀後半に造られ、14世紀ごろに本格的な築城がなされ、15世紀に繁栄を迎え、16世紀前半にかけては中山の拠点として琉球王国成立後まで存続した。大川グスクまたは  池グスクとも呼ばれている。首里城、今帰仁城、糸数城、南山城に次ぐ大きなグスクとみられており、有力な金満 (カネマン) 按司の城だったと考えられている。東西に延びる琉球石灰岩からなる丘陵を取り囲んで築かれ、東側から、一の郭、二の郭、三の郭、四の郭で構成されていた。
城主の金満按司は大川按司に滅ぼされ、その後、大川按司は谷茶大主に滅ぼされたと伝わっている。久手堅親雲上作の演目の大川敵討の舞台にもなっている。
北谷城門の南側には、北谷三箇といわれた北谷、玉代勢、伝道の三箇の集落ができ北谷グスクの城下町を形成していた。
その後16世紀には廃城になっていたが、尚寧王時代、1609年 (慶長14年) に薩摩が進攻した際、雍肇豊佐敷筑登之興道 (佐敷興道) が琉球王府から派遣され、薩摩軍との激戦を繰り広げたとか戦闘は無かったとかよく分かっていない。興道は首里城が陥落したとの報を受け、悲憤し自害したとも伝えられている。
廃城後は聖域として尊崇されていたが、1945年の沖縄戦では、日本軍の秘匿壕が城郭北側の斜面に構築されていた。戦後、米軍基地キャンプ瑞慶覧の敷地として接収され、立ち入りは禁止となっていたが、2013年に返還合意され、2018年に北谷グスク発掘調査が行われ、堅牢な石垣や殿舎跡の他、グスク土器・青磁・白磁・掲和陶器・カムィ焼・ 瓦質土器・鉄製品・鋼製品・古銭などの人工遺物や貝殻などが発掘されている。青磁は中国産のものと韓国の高麗産のものが出土し、日常の食器として使用されていたと考えられる。茶器として天目茶碗も数多く出土しており、 北谷城の按司たちがお茶会を頻繁に催していたのではないかとも考えられる。そして、ようやく、戦後75年目の2020年に返還されている。
一の郭の面積は約800m2。一の郭グスクでは御内原といい、王とその家族を世話をする女官達の住居であったと考えられているが、北谷城ではいまだ建物跡などは発見されていない。
二の郭は1,500m2で、殿合跡の礎石をもつ建物跡が発見されている。
三の郭の面積は約3,200m2で、その前面広場の南東には、殿とよばれる拝所がある。
四の郭の面積は約9,600m2で、出入口付近には城門跡が発見されている。この地域はまだほとんど調査はおこなわれていない。
米軍基地のフェンス沿いに進むと北谷グスクへの登り口がある。かなりの急斜面になっている。手摺ににつかまって登って行く。所々石畳になっている。ここが昔からの登城口だったのだろうか?

東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) 

坂道を登り切ると広い空間の平地に出る。
北谷グスクの三の曲輪には三つの拝所が置かれている。その中の一つが東ヌ御嶽 (アガリヌウタキ) になる。もともとはグスクの一の曲輪から東に進み以前にあった中央部タンクの右側にあり、稲の収穫を感謝する5月ウマチーと6月ウマチーなどが北谷ノロと北谷三箇によって拝まれていた。沖縄戦後、米軍に接収され、キャンプ瑞慶覧内の長老山に移設されたが、1993年に北谷グスク三の郭南側に移設されている。この東ヌ御嶽は琉球國由来記のヨシノ御嶽 (神名テンゴノ御イビ) と推測されている。この東ヌ御嶽には戦前まで、山原クボー御嶽 (今帰仁のクバ御嶽) へのお通し所があったという。現在の東ヌ御嶽には二つの香炉 (ウコール) が置かれており、右側の香炉がクボウの御嶽へのお通しだそうだ。

殿 (トゥン) 

東ヌ御嶽の隣には殿 (トゥン) の石祠が置かれている。戦前には現在の位置より北北東15mほどの位置にあったが、戦後、北谷グスクは米軍に接収され立ち入り禁止となったので、東リ御嶽や西御嶽と共にキャンプ瑞慶覧内の長老山に遷座した。1993年に現在の場所に再建されている。この殿は琉球國由来記に記載されている「北谷城内之殿」と推測されている。北谷城内之殿では稲穂祭・稲収穫祭の二祭に北谷ノロが祭祀を行い、地方役人の地頭や大屋子からの供物の提供があった。
現在は5月・6月ウマチーで北谷ノロ殿内の家人や旧字北谷郷友会による拝みが行われる。

カガンガー

東ヌ御嶽の向こう側にはカガンガーの拝所も置かれている。東ヌ御嶽のグサイガー (鎖、一体の意味) に当たる。
三の曲輪からは道が二本出ている。まずは西への道を行く。北谷グスク内にはもう一つ御嶽があり、西ヌ御嶽というので、この道に先にあると期待して進む。道を少し進んだ一帯は二の曲輪だった様だが、今では樹々に覆われてその形は分からない。

グスク火ヌ神

道の先に拝所が見えてきた。この拝所は火ヌ神を祀っている。この奥に西ヌ御嶽があり、そこに入る前には、先ずここを拝んだそうだ。

西ヌ御嶽 (イリヌウタキ)、十三御香盧 (ジューサンウコール)

火ヌ神の奥は一段高くなり広場となっている。この場所が西ヌ御嶽 (イリヌウタキ) が置かれている聖域になる。戦後はキャンプ瑞慶覧内の長老山に合祀されていたが、1993年にこの場所に再建されている。この西ヌ御嶽は琉球國由来記に記載される城内安室崎ヌ御嶽 (神名イシラゴノ御イベ) と考えられている。
西ヌ御嶽には、13個の香炉が安置されている。13個の香炉は十二支とそれを一つに結ぶ火ヌ神だそうだ。これら香炉に因み、この御嶽のことを「十三神」とか「十三御香盧」とも呼ばれている。他の御嶽と同じ様に戦前までは御嶽への出入りはノロだけが許され、一般の女性や男性の立入は固く禁じられており、一般人は殿の場所で御願をしていた。現在では5月ウマチー (稲穂祭)、6月ウマチー (稲収穫祭)、北谷三箇(北谷・伝道・玉代勢)が合同で行う北谷大綱引き(13年マールの寅年6月25日)、メーウガミ(6月23日の綱引き安全祈願) で拝まれている。
西ヌ御嶽の西側、北谷グスクの西端の崖の上にも拝所が置かれている。この拝所の情報は見つからず。
来た道を戻る途中で、二の曲輪があった場所に入って行った。樹々で覆われて縄張りなどは分からないのだが、所々に石垣が残っている。かつて存在していた石垣は軍道1号線の建設時に使われたそうだ。グスクの北の崖からは眼下に白比川が臨める。北の崖には金満按司の墓があり、戦前にはそこへ降りる階段があったそうなので、探してみたが見つからなかった。戦後は崖下からよじ登ったとあるので、階段は消滅したのかも知れない。
三の曲輪に戻り東への道を進む。この道の北側が一の曲輪なのだが、樹々で覆われて中に入る事は断念した。道を進むと石垣が残っている。一の曲輪は二の曲輪から一段高い場所にあり、その一の曲輪の東端に虎口 (写真下) らしき場所があった。
一の曲輪を抜けると道が東へと続いている。一度下り、次に登り道になっている。道を抜けると舗装道路に出る。この舗装道路はキャンプ端慶覧のタンクへの道だった様だ。現在ではタンクは撤去され広場 (右下) になっている。この直ぐ東には元々東ヌ御嶽が置かれていた。
舗装道路を降りるとキャンプ端慶覧のフェンスに出る。キャンプないから石造りの水路が白比川方面に伸びている。水路沿いの道を通り白比川に向かう。
道を降りると広い河原になっている。工事をしている様だ。河原を進み国道58号線に向かったのだが、フェンスは施錠されていた。フェンスの隙間からなんとか国道に出ることが出来た。出口には工事では無く、遺跡発掘調査をしていると表示板が置かれていた。平日はここからは立ち入りができないのだろうが、今日は土曜日で工事は休みだったので、注意されることなく遺跡跡を見ることが出来た。

金満按司墓?

北谷グスクの北の崖面には無数の掘込墓 (フィンチャーバカ) が残っている。樹々の隙間から微かに幾つもの古墓が見える。また、崖の中腹にも洞窟が見られる。多分、これらも古墓なのだろう。この中に三山時代の城主だった金満按司の墓があった。資料には崖の中腹に縦6m横3mの洞窟入口とあるので、多分ここから見える洞窟の中に金満按司の墓があったのだろう。


この後、那覇に戻り、県立図書館で北谷町の情報集めを行う。

参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の綱引き (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)

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